編集者と建築家について語る 記録 01   文責と作成2021年8月佐藤敏宏
2021年8月4日 13:30より ZOOM開催 タイム・キーパー岸祐さん
布野修司さんの講話     布野修司編集活動録 

佐藤:つぎは布野修司さんです。布野さんと私はまるで学歴と業績でみると対極、東大と土方なので比べものにならない、人生の形式というのが違います。何で?一緒にこのようにZOOM関係になっているんだろう、と思います。

1991年、私が渡辺豊和さんの自宅に2週間泊まり込こんで「渡辺さんはどんな建築造ってきて、どういう生活しているの」というのを体験させていただきました。当時は「安藤・毛綱・渡辺は関西の三奇人」と言われていました。その奇人の生活、暮らしぶりを知らないので泊めてもらい、渡辺さんの朝から晩までの行動と家庭での暮らしぶりを見せてもらいました。

同時に、関西周辺と対馬の公共建築など、主に渡辺さんの初期建築を見ては感想を渡辺さんに告げました。渡辺さんの大きな建築は、玄武建築という秋田には親子の亀の形をした体育館を造りましたね。青龍建築は龍神村の体育館で、学会賞を受賞しまして、あの体育館建築をきっかけに、日本の木造建築の大型化の道を拓きました。渡辺さんは建築基準法を変た日本で唯一の建築家だと思います。建築士ではアネハとう人がいます。白虎建築は対馬に大きな建築があります。朱雀建築は無いんですね。現在、息子さんが高知県におりまして、赤いシャツを着ています。とても面白い変わった人です。私の15才年上のおじさんなんですが、私が東北人だからだと思います、渡辺さんんはとても質素な暮らをされてるように見えました。アルミの弁当に飯を詰め込んで「日の丸弁当」を持参して寝押しのズボンを履いて大学へ行くんですね。子煩悩というか親ばかで、私が会った日本三大よい夫婦の一組です。

奈良の自宅に泊めていただいたのは、渡辺さんの『芸能としての建築』という本に共感・同意したからでもあります。渡辺建築を見学して関西をうろちょろ過ごしていたら、ある日渡辺さんが「布野って言う東大出の凄い優秀な奴が京大に来るから、お祝い会に連れていくぞー」って言われました。「はい分りました」と応じて付いて新大阪の駅前のホテルに行きました。その時、初めて布野さんに会いましたし2次会にも行って、関西圏の若い建築家との交流が始まりました。
布野さんとは震災後の交流の方が濃いんです、今日までの付き合いが続くことになり30年経ちました。布野さんと、がちで喋ったことが少ないかったですけど、最近、新コロナのおかげでzoom時代が到来。このところ、頻繁にZOOM交流してておりまして、文字起こし支援で腱鞘炎になりそうです。今日は対極にあることが分り絶交になる機会かもしれません。

ロールモデルが無いけど一時、建築雑誌によって建築家に仕立てられた私と、日本国家の建築家モデルを生産維持しつづけ優秀な弟子もたくさん育てて来た布野さん。研究書籍も雑誌もたくさん刊行されています。比べる必要がない建築専門人との付き合いは、とても楽ですね。弟子でも無いんで、遠慮する必要が何もないんです、言いたい放題です。

濃い接点の始まりは、滋賀県立大学に「DANWASHITSU」という学生が運営している勉強会があります。あれは私が設計した福島市内の住宅で育った息子が始めました。依頼された住宅の建築現場で、ちょろろ付いてきたので、「大きくなたらお前も、建築の設計やれ」と模型をあげたことがあったんです。我が家から自転車で15分ぐらいの渡利地区にあります。あの時の子供が「DANWASHITSU」、を起動させたんです。始まりは僕の家にその子が大学生になり夏休みでした。友達と一緒に「滋賀県大面白くない」と相談に来た。で、お前たち寝ぼけたこと言ってないで、餓鬼じゃないんだから自分で面白くしろー。俺が一人で我が家で開いている「建築あそび」のような感じで、web記録も公開し実践すれば簡単だよ、と。彼の尻を叩きました。
それを忘れていたんですが大震災後、滋賀県大に呼ばれて、川井操さんが引き継いでいたと知りました。川井先生に現在までの「DANWASHITSU」の経緯を教えられました。滋賀県立大において、時を経て僕の飛ばした激が活動となり、布野先生の研究者の軌道が交差することになりました。

それから少し布野さんとは話をするようになりました。そんなことで布野先生よろしくお願いいたします


2012年11月02日佐藤敏宏とDANWASHITSU集合写真 熱気がすごかったよ!
他の講師のときは知らないけど、学生は俺の挑発に乗って乗って、異様に盛り上がった。佐藤は旅費を学生から前借した。宿代もなかたので、その晩は30人ぐらい引き連れて学生の借家にみんなで泊まった。雑魚寝というよりは誰も寝ていなかった。翌日は京都に車で送ってもらい、学生とO邸に遊びに行った。写真前列左から2人目布野さん 3人目佐藤。




布野修司さん編集活動歴





























動画:当日の会場の様子





布野:はい喋ります。昨日と一昨日佐藤さんが渡辺さんのレジメの後だったかな、佐藤さんから自分のライフヒストリーみたいものを送っていただいたんです。これは皆さんには行ってない。
佐藤:配信しています。
井口:読んでますよ。

布野:あれを見て、今ご説明があったように佐藤さんとは1991年に会いました。私は京都大学に行くんです。その時に、渡辺豊和さん、安藤忠雄さん、高松伸なんていうのが「東京から布野が来た」と言って大歓迎会やってくれたんです。そこにたまたま豊和さんの「餓鬼舎」という渡辺豊和邸に泊まっていた佐藤さんが居て、いま仰ったように、参加したようです。
それは後になって「ああ、あの時に居たの」っていう感じです。あの会は京都大学で問題になりました。たかが助教授が赴任したことで何をやっているだ、と。怪文書は回るは、敵が一杯、あの瞬間にできたことがあります。

それはそれとして、その後、佐藤さんから滋賀県立大の話が出ましたけれど。
そしたら布野の編集経歴みたいなのは皆さんに行ってると思っていいですかね?

佐藤:配信してます。

布野:その話をすると長くなるので、後で出します。今日の会はあんまり理解していなくって。今いきなり佐藤さんと、この間、やりとりしてて、関係も後ほど話します。けれど、今日については全く打ち合わせしてなくって。何となく、佐藤さんとの出会いとか。佐藤さんの追悼座談会みたいな雰囲気ですので、まずそれをやっつけます。

最初の出会いはそういうことです。お話に出た滋賀県大におりました。滋賀県大から東京に戻って来て7年目ですね。
10年ほど滋賀県大に居た時に、今、初めて知りました。佐藤さんが仕掛けて「DANWASHITSU」ができていて。私が赴任したときに「これは凄いいい会を学生たちがやっている」と。ただ、凄いみみっちくって旅費が払えなくって、迎えられる先生ばっかり呼んでやっている。で、教師が「旅費ぐらいは出してあげるから、どこからでも呼びなさい」と。さすがに海外からは呼べない。今みたいにzoomが無いですから。海外から呼べないけど。日本じゅうから、話を聞きたいなら、呼びなさい!と。その代わり、呼んで話を聞いたことは記録に残しなさい!と。メディアを始めた。そのバックは布野なんです。『雑口罵乱』(ざっくばらん)にまとめ7号か8号ぐらい出ています。けれど、案の定、私が居なくなったら先ほど名前が出ていた、撲の研究室の後継者、と言っていもいいですけど、川井先生もいろいろ続けてくれない。メディアというのは、あるドライビング・フォースがいて、それなりの一種の思いが無いとサスティナブルではないなー、と思ったりします。

佐藤さんの紹介の二つ目です。後はですね佐藤さんが経歴によると、「建築あそび」とういうか。

佐藤:聞き取り活動ですね。独立系無名で若い人を対象にした聞き取りで、彼らの家などに泊めてもらって聞き取りですね。「ことば悦覧」と名付けてます。

布野:若手の聞き取りをして、文章にならない活字に起こすみたいなF注1。仕事を一杯。井口先生の豊中の自邸、「八賢邸」所に泊られた時もそれを聞き取りやって。インタビューされている、布野スクールというか私の研究室を卒業した若者の聞き取りもしてたのが、二番目のインパクトです。(F注2
それで、滋賀県大には3・11大震災後に学生たちが呼んで二人できましたよ。

佐藤:
私は二回呼ばれたんですよ。一回目が一人で、二回目は山形芸工大の竹内先生と原発の話でした。どちらも、学生に旅費を前借して出かけていきました。

布野:布野としては10年以上前から福島の佐藤さんという変な人が居て、何か僕の意識から言うと「布野の周辺を聞きまわ回っているぞ」と。いうのがあります。
正式にインタビュイーを受けたのは仙台メディアテークの日本一決定戦の最近の総括で「一体お前どう思っているだ」ということです。佐藤さんは五十嵐太郎に頼まれたのか分りませんけど。

佐藤:誰にも頼まれていないです。2018年3月仙台の「建築の終焉」を見に行って記録しただけです。

布野:頼まれてないの?!「SDL2018卒業設計日本一決定戦」の結果を見せられて「こういうのが一等賞なんですよ、一体どう思いますか」ということで、新宿の懐かしの「ちりんぼう」という騒々しい居酒屋で凄いロングインタビュー。それはたぶん訳の分からない佐藤流に活字になってます。その佐藤流・記録を見る







F注1単に記録に対する想いの相違。印刷媒体で育っちそれを信じている布野さん。
 未来のメディアはネット媒体を捨てて、フォログラフを使った立体動画として今の出来事が、あたかも演劇や映画でもあるかのように目の前に建ち現れて展開する。そんな記録形式になるだろうと佐藤は信じている。
未来の記録は今現在をそのまま、自在に切り取り記録保存継承、そして再現できる記録媒体に変わる。

布野さんは編集し文字・論文形式にする。一方佐藤はシナリオ形式の記録にする。

どちらが多くの若者に読まれているだろうか。記録は紙かネットかではなく、それを越えどのような媒体に記録されるべきなのか、議論してもいいテーマの一つだ。
この20年間に、私のネット記録は実に多くの若者が読んでいる、という実感。「壁に当たると何度も繰り返読んでいる」とも聞かされてももいる。独立前の若者たちから聞かせられことが多い。オジサンたちだってそっと聞かせてくれる。が公には言わない。

布野さんの論文は若者に読まれているのだろうか。若者の口から、私が野者だからであるが、布野さんの論文について語られるのを聞いた経験がない。



F注2独立系で無名の若者を対象にした佐藤の聞き取りは、若者の家に泊まり込んで聞き取る「ことば悦覧」と称している。
取材対象である若者を探しだすのは困難極まるので、取材先に行く、例えば京都に行き、建築系イベントに参加し、私の隣、あるいは周辺に居る最も若い人を見つけて,彼に推薦してもらう。当たり外れが極端なのだ。たまたま京都ではその若者が魚谷繁礼さんだった。魚谷さんは布野スクールの卒業生だったから、彼が推薦したのは尊敬する身近な布野スクールの先輩。若者ばかりを推薦したのだった。その事は後に分かった事である。

日本の若者の交遊関係は実に閉じていて、大学の先輩後輩でのみ固まっている。日本各地で「ことば悦覧」活動を続けていて痛感する事の一つである。
実社会に出ても、大学の人間関係は継続され、先輩が威張り散らすように見る。「村根性」の生産基地の一つは大学制度だろう。そのような人間関係の底流から継続的iに村人が生まれるのを生まれると知る。






2018年4月8日新宿の居酒屋でインタビュー

そういったような経緯です。何も喋っていませんけど。それで、もうだいぶ喋っていますけれど。この間、今日何人か若い人が参加ししてくれてますけれど。先に言っておきますと、最初に話した渡辺さんから、井口先生それから、今の中村さんと。出て来る名前は僕の歴史の中で、物凄い近い人ばっかりなんです。

渡辺さんの場合は朝日で松葉一清先生とか大西さん、今も現役で書きまくってます。最近、美術とかなんとかですけど。渡辺さんが名古屋におられたときの北原さんとか、瀬口先生とか、名前出てくる皆よく存知あげている。もちろん建築界というのが狭い、ということかもしれません。渡辺さんとはお会いしたことは無いと思います。名古屋を振り返れば「C&D」とか、東京へ来て西川さんが頑張っている『建築ジャーナル』ですね。

それから、中村さんが話された、大島哲蔵がんがおられた、ということを思い出しています。私はごく近くにいた記憶があります。それで、さっきの話じゃないですけれど、京都に移った時には、『建築ジャーナル』の、ちょっと名前失念しましたが当時の編集長とか、けっこう取材を受けた。大島さんとも「C&D」も入ったりしたことがあります。

それから井口先生とはお会いしたことが無かったですかね?たぶん環境デザイン会議、それで土田さんが先でしたでしょうか、後でしたでしようか。

井口:土田さんに紹介されて一度、京都で会いました

布野:造形大は京大の近くに在って、渡辺豊和さんとは一週間に一ぺん授業をやっては呑んでました。凄い近いです。「都住創」というのは我々の時代では、凄い先進的なムーブメントで、コープ推進協議会みたいになっていったんです。あれが日本にもう少し根付いていたら、ちょっと違う日本の集合住宅、共同住宅の展開があったんじゃないか、と思ったりします。物凄い近しい感じがします。

それで、もうそろそろ最初の発言やめますけど、最後の中村さんの話で、実は佐藤さんに、この間、去年の暮あたりから、参加している岸さんなど若い人たちも含めて建築メディアの活動しようとしていまして、凄く示唆的なことを中村さんから発言いただいたんです。建築とメディアと、建築ジャーナリズムの「もう一つの前線」というか「戦線」というか。それに絡んでです。実は平良敬一さんが亡くなって、新コロナがあるというので、お別れの会とか、追悼の会とか、今度、長谷川暁さんの本が出るんですか?どこでやるか、書かれてました。

中村:去年の4月号かなにかに。

布野:長谷川堯さんが亡くなられてその後に追悼号と、お別れの会がないかなーという話が。小泉淳子さんに、まだ何にも連絡していないですけど。もう一つは平良さんが出されましたよね『機能主義をこえるもの』あれは2017年ですか。
中村:これはですね、2017年ですね。
布野:2017年ですよね。連休開けだったと思う。平良さんの出版記念会ですけども。あの時は相当な大物、壇上には並んでました。たぶん中村さんは事務方やられたと思います。

中村:平良のお付きでした。
布野:あそこにいらっしゃった。壇上には、びっくりしたけど、パネリストは全部80才以上。磯崎さん、原さん、長谷尭さん、それから芸大の。
中村:益子さん。
布野:益子先生、一番若いのが安藤邦弘。壇上にいなかったかな?。
中村:居たかもしんないです。

布野:たいへんな出版記念会でした。その時に全員が呼ばれた訳じゃないですよ、僕も呼ばれまして。さっき仰った「一人でもメディアになる、一人でも、お前は一人になってもやれ!」と言われた。そのことが頭に残ってまして、何か「新しいメディアみたいなものを、そんなものが考えられないか、ということで若い人にも声かけたりしてます。戦後建築ジャーナリズム再興なんですが、その人たちも、今日も何人か参加しています。その時、佐藤さんの名前と顔というか思い浮かんだ。その前後にやりとりが有ったかで、声かけたんです。
それが僕に方からの経緯であって、今日の「編集者と建築家について語る」その仕掛けについては全く知らずに「参加します」って言ったら「最初に15分しゃべってください」と言われて。今たぶん20分ぐらい喋っていると思います。ということです。最初の発言はそういうことにさしてください。


佐藤:今日のZOOMでワイワイ、ですが何かをまとめる、そのような目的は設定してません。長時間、互いに自由な話しを交通させますと、課題は自然に浮かんでしまうと思っているからです。それらを意識し、各自のテーマにできるのか、それは参加している、それぞれの方の問題なので、主催者からはなも語りません。が、語り合いをそのまま文字にし、間違いなどたくさんあるweb記録をつくりアップします。参加者は、web記録を眺め今後の活動の参考にしていただければと思います。布野さん、ありがとうございました。 1:22:09


 花田達朗さん講話へ