現代イワクラ 呑み語り合う 03     01 02 03 世界の巨石 作成:佐藤敏宏
千万家の廊下(通り庭)
本棚の上がポリカ波板なので外部と同じ明さになる。晴れた日と雨の日で廊下の表情が変わる。外光の使い方としてもよく使ってる設計手法の一つ
2013年7月20日撮影動画
千万家について、さらに語り合っている


渡辺:千万家は 結局、一本北側に半屋外みたい廊下をビューンと通して、あとはセパレートというだけなんですけど。それで出来ること多いですよね。
佐藤:南から外観を見ると、西の端の部屋は、内包されている部屋の骨組みがだんだんむき出しになっていって内部の構造が丸見えになる。

渡辺:そこらへんは表現として、構成としてすごく面白いなーと思うんです。今はお子さんが住んでいて、それと連動するような生活が起きているんですね。あれは面白いですね。丸いところを貫通しているから、バックの壁みたいな所が不透明な半円みたいなこんな処が、本棚になっているところとかとてもオモロイ。あれは面白いですね。あれはいいなーと思いました。
もう一点面白いのは町家を並列型に変えて距離を開けたみたい受け止めることができるので面白いですね。

佐藤:町家と違うのは閉じていない点と、通り庭のような廊下から左右の外部の風景が見えるようにしている点です。光も上部のポリカ壁から入る。
渡辺:そうですね。
佐藤:町家だったら通り庭は壁で閉じている単なる通路ですので、内庭も内向きの視線で閉じてしまう。いくらやっても天空の様子と応答するような光のダイナミックを活かすことはない、で天然の外部に比べると町家の通り庭は千万家の廊下より表情は詰まらない。
渡辺:実はつまらないんですよ。いろいろ細工してもなにしても詰まらない。
佐藤:閉じていると他者がつくる風景が目に入ることがない。他者に開いている廊下、あるいは通り庭で他者の行為が生活で同時に体験できるようにしたいわけだよ。
渡辺:本当にそうですね。




2013/07/20撮影動画
000 真ん中の丸の廊下の様子。本棚になっている。

佐藤:外壁を設けると、どうしても内向きに閉じて濃密な視線の重なりにしか生まれない。それは自閉的でもあるから家の外壁の一部壁を溶融し無くすことで視線だけでも交流が生まれる。閉じてない、勝手に他者の動きが千万家の廊下に飛び込んで来て、いつもある。

渡辺:あんなに面白い廊下って見たことないです。

佐藤:俺は研究者じゃないので、本で勉強したり他者の建築を見学したりすることが少ない。で、他の建築についても知らないんです。渡辺菊眞さんが見て珍しいなら、変わった廊下を造っていたことになるね。
渡辺:千万家のような廊下は見た事ない。

佐藤:他者の行為も、見えるけど風呂上りに裸で歩いてたら、裸が見えたらとうするんですか、という人もいそうだ。ところどこ湾曲した壁があるから隠れればいい。

渡辺:あとはスピードあげたらいいだけだ。(笑)物凄い面白かったです。

佐藤:廊下の体験を一枚の布にたとえれば、視覚上は他者がつくりだつ外部風景と自分がつくる内部の風景画、まるで織物の絵柄のように織り上がって重なり合う。そういう一枚の絵のような視覚的体験になる。絹糸だけの織物じゃなくって、いろいろな植物繊維などの糸でも織られている。現代的な織物を織りあげるような感じだと思います。生活の中で、そういう風合いをもった体験が出来る廊下で、それが千万家の廊下の意図なんすね。
さらに、廊下は南側に壁をつくらない、そこを北側にいる他者の視線が貫いて、南側の山の風景も見える。塀で囲わないと、あのような織物が姿を現す。建築のもう一つの力が現れていると思います。日々の景観は内外で自分と他者が育てている。千万家の中に暮らしていると、そういう関わりからの景観を体験できるようになっている。半強制的に洗面所に行くたびに、両サイドにある他者の育てた景観を見る、愛でることができるので、思たより豊かな景観体験ができる。

渡辺:そうそう、トイレなんか絶対行くしかないので。趣味みたいなことを見に行く場ではなくて、行かざるをえないんで。それは設計の腕力ですよね。オプショナルな話は力を持たないので。凄い廊下だなーと思いました。あの北側廊下はいいですね(微笑む)

佐藤:他者の生活や行為と共振している廊下は見たことも聞いたことも無いですか。
渡辺:見たことないですね。私はもともと、そういうテーマを掲げれないタイプですけれども掲げている人は一杯居るんだけど、みんな全然そういうのではないなーと思ってました。千万家のような20年の時間に耐えられない物を造っちゃっているでしょうね、たぶん。
佐藤:削ぎ落し方が中途半端なのかもしれない。
渡辺:下手で中途半端ですね。
000を少し高い所から見る
2013年撮影

佐藤:千万家も設計し終わったあと多くの人に受けると思ったんだけどね。
渡辺:普通に受けると思いますけれどね、予感としては当たっていると思うんですけど、何か分らないですね。

佐藤:福島市内で全く受けないという点も面白い社会現象だと思っていたんです。建築雑誌にも新聞にも何度も載ったけど受けない。千万円ぽっちの家造は情けないと思う人が多いのかもしれないよ。
渡辺:そうですか。仕方がない状況になっちゃっていることは有るとして。
佐藤:誰かに見せるために造ったわけではないので、評判はどうでもいいんだけど。

渡辺:佐藤さんが造られているものは、今のこの状況で、しかも彼らが何となく言っている話を素で突き抜けて、それをやっているように思うんですけどね。 私とかのやつは違うけど、一度は見に来ないといけないんじゃないかと。千万家は柳澤究さんはまだ見てないんですか。

佐藤:2019年9月に会津から被災地巡り外観だけちらっと見ただけですね。今日のように上がり込んでお茶を呑みながら話し合う千万家体験はしてない。

渡辺:そのタイミングで見たんですか。組み合わせがよくないですね。

佐藤:放射能は廊下に入ってきますよね、という話になりがち。学生さんたちは、ほとんど興味を示さなかった。設計の道を歩く人たちではないのかもしれない。
渡辺:学生は仕方ないですね〜。栄螺堂を見たいと言っている学生はちゃんと反応できると思いますね。
佐藤:縁が生まれる人と、縁が生まれない人がいるので、しょうがないです。

渡辺:いろいろ知りたいとか言いつつ、知りたい気持ちが無いような気がするんです。知るという枠組みにはこういうものを知るべきだというので、本気で未知なものを知りたいのは何も無くって、知るべきものはこういう物だろうというメニューが用意されているが好きですよ。
佐藤:誰かが作った楽しそうを楽しむのは、楽しさそうじゃないね。

渡辺:まったく楽しそうじゃないですよ。
0と0との間から見る北側の廊下と背景

佐藤:千万家を観ていると時間が経ち社会状況が変わったので、当初の設計意図が分かりやすくなったりする。
渡辺:そうですね。
佐藤:現実に造るときは世俗的にならざるを得ないので、社会と関わって造るから、分かりにくくなる。

渡辺:出来るってことはそういうことですからね。

佐藤:時間が経つと世俗的な造るための関係は蒸発してしまう、で概念的なことが浮かんで来てしまう。だから、その意味を設計した者として繰り返して問われる。
渡辺:そうですね。うん、うん。
佐藤:こういう考え方は良かったのか、間違っていたのか、いろいろ問いが生まれてくる。時間によって審級される、審判される。そういう意味でも建築が時間に晒さらされることはいいね。

渡辺:時間はいいですね。
佐藤:木造建築の命は短い、石で造れば数千年は持ってしまう。
渡辺:石自体の話ですからね、それを使うのは人間なんで。
佐藤:千万家のコンセプトで都市型千万家も石でも造ってみたかっただけど、都市型は模型だけ少しつくた、だけだったね。

渡辺:石はそうだとしても造るのは人間なので、石を使ったからと言って1億年というのは無理ですからね。ペラペラな材料大好きですけどね(笑)凄い組み合わせだなーと。

佐藤:一歩間違えると貧しく思われてしまう、ギリギリの木材や壁のあの軽さが現代における味だからな〜。

渡辺:石で千万家を造ってもだめですよ(笑)ふと見ると裏の壁はステンレスだし、鏡面みたいな感じになっていた(笑)
佐藤:裏が老人たちのゲートボール場だったので、凸面にステンレス鏡面を貼るとゲートボールしている姿が歪んで写るんですよ。
渡辺:分かります、分かります。












ステンレス凸面鏡に写るゲートボールする人々
2000年撮影(現在は木が茂っている)

佐藤:単板硝子の向こうは黒く塗っているので、まともな鏡像が見え、突き抜ける部分もあって、いろんな風景画一枚の壁に同置されているのを見る、そういう風景画にしている。
渡辺:わかります、わかります。北側の片廊下の部分はそういうのが全部こなされていて面白いですよ。

佐藤:完成当時は北側にあったゲートボールが大変賑わっていた。でお爺さんおばあさんの姿を写していたんだけど、今は地上げされたとかで、老人たちは誰も居なくなってしまった。周囲が地上げされて建売住宅がたくさん出来ると、千万家の意味は変わるだろう。コントラストが強くなって出てくる。

渡辺:周囲の農地が地上げされた話はどうかと思いますけれど、千万家の意味が変わりますよね。森みたいな木々も大きくなってくるんだろうし。ろくな事をやっていないことがむき出しになるんじゃないかと思います。そこに住んでいる連中は分らないでしょうけど。

佐藤:家をつくることに関してハードルが高すぎると思う。もっと簡単に安く造ることができて、彼らの借金で社会経済を動かして利益を上げるって事態、暴力的で野蛮だよ。

渡辺:そうですね。
佐藤:家を持つことが、一生の大事病・・・になり過ぎているよ。
渡辺:だから慎重になってしまいますし。
佐藤:地産地消で済ませておけば景観が乱雑にもならずに済んだだろうに、情報も含めて、いろいろ建築に関する材料もあり過ぎる。その弊害が景観に現れてしまってる。

渡辺:一生ものみたいになってしまうから。

佐藤:竪穴式住宅を造っていた人々の暮らしの方が楽そうも見えてしまうよ。





下が北面 1000の下にがゲートボール跡地
 ・・・・途中、家族話になったので省略・・・・

再び、渡辺豊和さんの建築について

渡辺:秋田の体育館が出来て、その後は上湧別町の建築でお仕舞でして。
佐藤:上から見ると烏賊、みたいな形してる建築。

渡辺:スルメイカみたいな(笑)余呉のアレンジみたいな建築ですかね、あれが最後です。公的な仕事は上湧別の建築で終わりですね。


佐藤:渡辺的歴史語りは眉唾気味でもあるけど、建築・創作の原点であるからいいわけで、建築をつくる実作者だから許される。出来上がった建築の経験は渡辺豊和さんの言葉より歴史的時間を持ち合わせていて、体験する者に迫ることが多い。

渡辺:本当にそうですね。

佐藤:言葉と実建築の違いは不思議な感じで観ている。頭で考えるんだけど出来た建築は建築家の言葉を離れて自立して建築になっている。これこそ才能のじゃないかと。無意識の才能だよね、さすがに夢通信を受信されてますな〜と言いたくなる。

渡辺:本当はそっちなんでしょうけど、本人はそれは現代人として嫌なんですね。
佐藤:現代は理論の世界だと思い込んでいる節がある。

渡辺:記号論とか持ち出したのもそれですよ。それらから開放された2作は凄いなーと(大笑)
佐藤:渡辺さんも残念ながら自分の発した言葉やバブル経済に絡まれてしまい、自分の才能の凄さに至り難かったバブル期もあった。建築家が自分自身で相対化して活動するって難しいことだから。

渡辺:本人がそこに関して、能力も高いということを言い続けている人間なので、より、そうなっちゃっていますね。

佐藤:そういう事例か・・・建築家といえども自分のやっていることが分からない。

渡辺:そうですよね、
佐藤:分からない方がいい建築になったりするだけど、公共建築になると分からないけど建てる・・・とかインスピレーション来ちゃったから建てるとは言えない。第六感の方が極めて明確に時代の病を捉えていて、建築を拓いたとしても、昨今は意味や説明を求められる。だから他者の体験を通して設計者が分かってくるってことも認めてもいいように思う。直感とか説明できない中にも豊かさもあるんだけど、目的合理で組み立てられて、人がつくった組織はそれを許さない。言葉に出来る豊かさは「情」が蒸発するから薄っぺらにならざるを得ない。

渡辺:どんだけ、語っても、宿命的な建築にならない。

佐藤:生身の人間だから現代社会の影響を受けてしまう。逃げて暮すとか、周縁に暮したり、地球の裏側の周縁に逃げて行ってしまったり、時間を経て(時間を使って逃避)よやく建築の力が分って来る。そのことも分かる。
豊和さんの青春時代は敗戦後の成長期だったし、若いときは生きるだけで精一杯だと思っいます。ゆとりがないから、生身の人間は目先に追われてしまうよ。







渡辺:いつだったか分からないけど、自身が好きな建築では、古窯陶芸館はだいぶ上のポジションにあったのは事実です。秋田市の体育館が出来た時期だったかな。秋田の体育館が出来たばかりのときは秋田体育館だった。誰が質問したのか忘れたけど、俺の中のベスト10(笑)
藤田邸(地球庵)とかいろいろありますけれど、古窯陶芸館は常に安定して上の方でした。現代イワクラが出来てからは知らないです。現代イワクラは建築の蚊帳の外にあるのが素敵なんで、今でも古窯陶芸館かもしれません。

佐藤:初期作品の病院 「1+1/2」あの建築が生まれた、渡辺豊和さんの乗り、お調子者的な勢いで造ったと思ってたんだけど。そこから古窯陶芸館に変容する過程は、これこそ渡辺豊和にしか出来ない技だ。個性そのものだと思って観ました。

渡辺:1+1/2は吉岡邸ですよね。



1/2吉岡邸 断面模型ともウエブより

佐藤:1970年末から、周りの若い変人建築家たちの熱風を受けて、負けず嫌いの渡辺豊和さんの一発芸だったかもしれない。見栄っ張りの気質が出てて、初々しい建築だ。
数年経つて完成した古窯陶芸館はまったく無駄のない、力が抜けていて、いいわけですよ。周りの建築家の熱なんて、かまってられない潔さが現れている古窯陶芸館。

渡辺:古窯陶芸館の場合は、まさにかまっていられない時期の建築です。

佐藤:オマケに地形が斜面であって、登り窯を平らに造り直せない。その環境条件と渡辺建築が誘導して美しく、渡辺建築の原形になっていて、観る者を打つわけですよ。 予算も無いし、無理やり回廊と基礎も融合し基礎の上に、単に屋根を載せただけで完成。土の中だから壁は無いので、パンテオンのような屋根に天窓が一つだけ開いている。シンプル極まっている。土が発する湿気も十分に満たされていて地底観が出ていて、いい。

渡辺:ほんとにかび臭いですからね、(笑)感動しましたけれどね。今となっては新興住宅街のトップに何かあって、それも含めて今日の千万家にように周りが新興住宅で包囲されていく(笑)何かあるんですよ(笑) 強烈にかび臭って。


佐藤:陶芸館は傑作だけど、なんで建築学会賞を受賞しなかったのか不思議ですね。あまり先進すぎたのかな、謎です。推薦する人がいないと受賞できないとも聴いているけど、学会の会員になったことないから分からない。

渡辺:そういう事を渡辺豊和自身も知らなったみたいです。布野先生が尽力したみたいですけど。



内部2枚共 mizmizさん撮影作品
佐藤:仲間の太田邦夫先生が推薦文を書くと学会賞を受賞し易いという話は聞いたことがある。龍神村の体育館は高橋先生が推してくれて受賞したとも聞いた。「佐藤すごいだろう」と胸を張っていた、建築センターに3年ぐらい通ったとも言っていたし、建築基準法が変わって、軒高13mの制限から木造建築が開放された、だから龍神村の体育館の価値は高いんだけど。「けど建築は古窯陶芸館には叶わないですよ」と言って笑っていた。

渡辺:古窯陶芸館はいいと思います。

佐藤:実用的な面と表現的な価値を分けて見るのがいいね。古窯陶芸館の場合は昔住んでいた人々の記憶や時間が内包されている、現代イワクラの場合は時間がまだ経っていない。表情の経年変化など変わらない。現代イワクラは屋根が蒼穹だから、石庭だと読み替え受け止められる可能性もある。古窯陶芸館の場合は時間との共同作業が加算されている。現代イワクラは天空(無い屋根)との共同作業があって乾いた感がいい。乾いた感じは渡辺建築には少なかったので新境地の建築ではある。地底の湿りか天空の乾きか、どちらが良いかは甲乙つけがたい、屋根が無い現代イワクラか乾いた感じがいい、何もつくってない、現代イワクラが渡辺豊和さんの傑作だ。

渡辺
:いいですね。

 mizmizさん撮影作品

佐藤:生身の人間が演じるための舞台、演劇の場所性は強い現代イワクラだ。演劇の場・舞台として、とても好感を持ちました。あまり無い舞台だ。生命を蘇らせる舞台だ。

渡辺:古窯陶芸館に2010年ごろ行ったんですよ。面白い事に展示室みたいなベタな機能が入っている二階にあるんですけど、あそこで、陶芸をやる人たちが手びねりをして、作陶しているんですよ。その姿が古陶芸家たちの亡霊でもあるかのように見えてしまい。すげーなーと思いました。

佐藤:なるほど 現代の陶芸愛好家たちと古代の陶工たちの時間が融合して同置されえる、そういう場は幻視であってもいいね。現代イワクラは素人芸だと拒絶されてしまう強さ厳しさがあるよね。どちらがどうという問題ではないけど。現代イワクラを語り尽くすためにはまだまだ時間が要るね。

渡辺:そうですね。
北面  mizmizさん撮影作品

佐藤
:多くの人が見たり聞いたり体験して、場がどうなって育っていくのかを見ないと分からない、若々しさがあるから判断できないよね。今日のところは呑みながらしゃべっていたお陰で関連性や語りの枝葉が見えてきたような気がして良かったです。
そういう意味では古窯陶芸館は素人芸でも包み込んでしまうような母性性が高い、豊な地底、体内だと言い換えてもいいと思うね。現代イワクラは地球の女性器と男根2本が立っていてる。
渡辺:そうそう。陶芸を熱心にしている人たちは僕が観ても才能ないだろうなーという人たちです、けど皆さん祈るかのように手びねりを一生懸命されていた、その風景がいい。平安京時代の陶工にあやかって手びねりして陶器をつくっていた。

佐藤:西脇市のみなさんが古窯陶芸館に集まって来て祈るかのよう姿で作陶に励むことで現代と中世が繋がっている。いいじゃないですか、作陶活動で繋がる場は。俺が訪ねた時も一般市民の方がろくろを回して作陶に励んでいたので良い時間でしたよ。

渡辺:しかもそういう方も人口的にも多いじゃないですか。乾いた意味で陶芸好きな人多いという話と、あの場のカビが生ええんばかりのあのゲニウスロキ(地霊)みたいな場に入って祈るように作陶している、どうしようもなく面白くって。
北面  mizmizさん撮影作品

佐藤:なるほど、渡辺豊和建築の魅力は遠く隔たっていた時間の中の人の活動を繋いで目の前に表すんだと、そこが一番の魅力だという結論にいたりました。渡辺建築がつくりだす場では時間が隔てた人々が通信するように同置している。

渡辺:現代イワクラも建ったばかりで、あそこで別種の何かが起きる、そういう期待感がありますね。

佐藤:床の平さ・固さが幻想、幻視を妨げるかのように乾いた場にしている、その点が古窯陶芸館の湿った地霊じゃない、日本的湿気を伴わない遠い場や遠い時との繋がりを生み出していくかもしれない。凹んでいれば音の乱反射が更に複雑になる。平らにしたい場合は水を蓄えるのがもっとも簡単で鏡効果は得られるけど乾いた感じが消えてしまう。

渡辺:あのGLとその設定みたいなものが彼らしいなーと思いもまたありますね。

佐藤:最晩年に行き着いた、建築の床が平らで、地底の入口も無かったという点は印象に残りましたね。面白い場がまた一つ生まれていました。


渡辺菊眞さんと佐藤は時を忘れて延々と語り合うのでした。2021年11月20日現代イワクラを呑みながら語る、この記録はお仕舞です、最後まで見ていただきありがとうございました。 
古窯陶芸館
西面 mizmizさん撮影作品
古窯陶芸館
web航空写真より

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 作成・文責:佐藤敏宏 2021年11月20日呑み語り合い最後まで目を通していただきありがとうございました。