現代イワクラを体験し呑みながら語り合う  その2 
  01 02 03 世界の巨石
作成・文責 佐藤敏宏

2021年11月20日
現代イワクラにて渡辺菊眞さんと2ショット
 千万家・体験話 続く

佐藤:人生にこういう組み合わせの妙、贅沢な時間があるのはいいよ〜。
渡辺:そうですね(笑)写真がどうのみたいな話で言うと、今日の千万家もまさに写真を撮ってもしかたがないですよね。写真を撮ることが全くできない建物だなと思いました。千万家はいいです。

藤:笑いで止まってしまうのは少し残念なんだけど、千万家については建築としてあまり説明してこなかったと思う。
渡辺:笑いみたいな話どこじゃないですよね。

佐藤:大きな三本の筒建築が建っていて、それぞれ離れている。洗面回りが共有されて外壁は廊下の壁南側はすべて溶融している。外壁が無い、そういう形の家に住むって今も必要な課題だと思うんだけど。設計依頼が来たのは1997年頃だった、2000年に完成したが、建築語りは言わない事にしてたので、笑いで止まってしまう。20数年経って、ようやく新コロナ来たので離れる意味についても言ってもいいかなーという感じです。家族同士で暮していても、離れ離れに部屋があって暮すのは見た目より快適です。今、コロナ下で離れることが分かり易くなった。

渡辺:本当にそうですよね。

佐藤:もう一つは周りの景観というか自然が家の中まで入り込んでいる。壁の一部が無いことで野鳥が入ってきたり、飛び交うとか。梟じゃなくってなんだっけ。

渡辺:あおみづく、梟みたいな鳥が入り込んできている。家の中でそんなことは起きないですよ。






2021年 
千万家現況WEB航空写真より

佐藤:雉、スズメや、あおみづくたちも、千万家の廊下を飛び交っている、そんなことって、現代社会の21世紀初頭に完成した住宅では起こることはないように思います。それが起きています。意図して壁を造らない、壁が無い豊かさを知らせる建築なんだけど。自然を観察しながら、四季を通じて野生と共に暮らしている建築。20数年経って、「あと20年たって俺たち年取って来たら便所に行くのも大変になるなー」などと夫婦で語り合い考えたり、野生的な生命の営みと共にダイナミックな感じが面白い。年老いても「トイレは這ってでも行きなさい」という突き放した感じもいいので。
設計してて言うのもなんだけど、あのような形式の集合住宅の在り方っていいと思うんだけどね。

渡辺:思いますね。 あれは家族みたいな話の時に、そうだなーと思いましたね。

佐藤:提案していたのは、家族と言うと血縁関係に縛られてしまいがちなんだけど、血縁は関係なんだけど共に暮す。そのありかたを建築でしめす。血縁が無いのは夫婦の始りがそうだけど、生殖と子育てが終ると血縁とは関係ない者同士で暮らせばいい。
まったく他者同士で暮らすことも可能だ・・・と伝えてはいた。千万家のように少しだけ離れた場で集住すると、お互いが疲れないと思う。過干渉が問題になっていた時期でもあったので、ゆるく繋がっていて、気配があればいい。常に居住者が入れ替わり続けても暮せるのが、いい。
一個の家だって60年経てば血縁はあるとはいえ、暮らしている人が全て変わってしまう。100年経てば誰が建てたかなんて、気にしなくなる。人が入れ替わり住んで暮す、家族の暮らし方と質が変わり続ける、その豊かな体験を得る方がいいと思うんです。我が家を解放してときどき「建築あそび」を開催してたのもその思いの延長でした。見知らぬ他者と集合して暮らす面白さは壁の一部が溶融して、融けてしまい無い方がいい様を発揮すると思う。壁を無くした活動や建築を溶かしたイベントを路上で30代初めにやっていた経験もあって、どうやって壁をつくらないで暮すのか、それが建築を造るテーマにもなっていました。
野蛮と言われたけど。千万家は予算も部屋数も、ぎりぎりの形で建っているんで、私の意図のようには解釈されなくって。仕方のないことです、いろいろな見方がある世は面白いです。


絵:あおみづく雉ネットより
渡辺:そんなんじゃ、まるでないですね。

佐藤:なんで壁を溶融させたのか?そこを聴いてくる人が居ないんだよね。壁を溶かしたのは壁を家族制度と捉えたりすると分かり易いんだけど、壁によって無意識に守られているものが実に多いんだ。家に対する知識とか、思い込みとか、人間が機械みたいになったり、誰かが作った価値をなぞり生きる人間機械になっていく。目的合理人間だらけになっていて、現代のように若者を派遣社会に追い込んで、そこから搾り取る構造になってしまったのも壁の存在だとすれば、その壁は自然人にとって不快で人を守る壁とは言えない。いま社会にある壁と違う壁が、いいのじゃないかと。そう思って、壁を溶かすと雀が、雉が、舞い込み、蛇も舞い込み生き物たちも入って来ている。自然との関係が生まれる。壁を一部無くしてしまうと、自然の余計な出来事や情報が舞い込んで来て、人が野生で暮らしていることを知らせてくれる。
住に対する思い込みを一部溶融させると自然との交流・出会いの、再確認を強いられる場になる。教育されてきた、マスメディアによって作られてしまった思い込みを捨ててしまうと、今日の現代イワクラは千万家の自然との直接な体験のような事がたくさん生まれるから、いいわけですよ。

渡辺:そうですね。

建築文化掲載 千万家へ

佐藤
:機能的に展開していくっていうのは高度成長期のように成長機械人間時代ならよかったのだろうけど、人間の暮らしを機能的に考えてしまうと目的合理に辿り着いてしまい、豊かになった社会で機械から抜け出せず、何も出来なくなる穴に堕ちてしまうからね。
21世紀は過度の情報があるように見える。人類が体験したことがない、現代でしか体験できない活動をするのが今を生きていることだと。ある人からは壁が無いと、気持ち悪いとか怖いとか、いろいろ他者に対して閉じていくことをしてしまいがちだ。少しは目的合理以外のことを住居でも内包している方がいいように思うんですよ。

渡辺:そうですね、しかもそういうような話が、千万家はすでに21年住んでいるからかも知れませんが、そういう説明が前面に出て来ないのもいいと思いました(笑)

佐藤:あの二人の発注者は今日も話に出ていたけど、俺以外の設計者ともいろいろ付き合っているみたいだ。でも俺を選ぶ、その選びかたがいいと思う。

渡辺:設計者選びがいいと思います、本当に。凄いなーと思いました。

福島民友新聞 掲載 2002年11月5日 社会面トップ

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佐藤:でも千万家のような概念は広がらなかった。新聞もたくさん載ったんだけど。一人で止まるんだね。マスコミの広告建築を選んでいる人もいるだろうけど、なんだか俺に頼む動機は聞いたこと無い。自分に合った既製品での暮らし方をしたいと思っている人が多いのかもしれない。俺がコンクリートむき出しの家造って住み始めたので、それでお仕舞だったんだ。暮らし始めてから、注文がじゃんじゃん来ない?その理由はわからない。
その後10数軒頼まれ、建築を造った。コンクリート住宅は寒いんだけど薪ストーブ焚いて暮せば快適に暮せる、放射能が沈着するのは想定外だった。

遠いとおい四国から福島県のmy建築も見てくれる旅に来ていただきありがとうございました。

渡辺:いえいえ。こちらそありがとうございます。

佐藤:こういう話し合いが持てるとは思っておりませんでした。今日のために脚本を用意していたわけじゃないけど、いろいろ楽しい体験ができました。

誤配的で偶然の配置の妙を楽しむ旅

渡辺:私は他力本願で佐藤さんの所に行けばなんとかなると(笑)
佐藤:困った時に佐藤のところに行けば何か起こるぞと。今夜は月食だとか (共に笑)
渡辺:月食は強烈でしたね(笑)
佐藤:栄螺堂に先に行って、1日遅れてたら、福島市内で共に月食を体験できなかったよ(笑)そうして現代イワクラへと導かれてるわけですよ。順序、アプローチの仕方を間違えちゃうと体験の意味は半減されてしまうんだね(笑)栄螺堂に先に行かなかったのが正しかった。

渡辺:会津への旅の最後のオマケっぽく行くのがいい(笑

佐藤:明日、行くと明らかになるよ。オマケ観、強そうだけど。

渡辺:この順番で行くからこそ何か感じることがあるかも知れません。
佐藤:明日になってみないと分からいことだけど。きっと導かれていて、いろいろ教えられちゃうと思う。
渡辺:特に何もない、そうだよね、という感じだ。もともとそう思っていることもあって。

佐藤:江戸時代の会津の城下町が都市化するとか、観光的なオマケ建築が出来ちゃうんだ。パンとサーカスではないけれど、閑を持て余してる人が多いのでしょう。見せ物小屋的なからくり建築ですよ。手短に観音参りを済ませてしまう、トリック、そういう大衆化する娯楽建築文化の一つだね。

渡辺:トリッキーで、あれが聖地にどれぐらいなっているか知りませんけれど、なんで会津若松なんですかね。

佐藤:日本の各地に在ったというじゃない。何で会津若松に最初に造られたわけじゃないと思う。トリック小屋なんで、好きじゃなかったから研究したことが無い。

渡辺:あれですね、羅漢堂みたいなものを三階まで積んだのが一杯在るみたいです。六角のは、無いみたいですよ。

佐藤:雪深い会津若松、観音参りも容易にいけないから会津盆地の東のはずれに簡便なお堂・娯楽を造ったんだのかな?そう邪推しますけれど。どこかの建築見てアレンジしたんじゃないかな。
渡辺:アレンジするには高度すぎるんですよ。
佐藤:会津藩は大きいいから財も文化も意識も高かったはずですよ、そこは研究して教えてくださいよ。
渡辺:笑)はい。

佐藤:日本には木骨ナマコ壁の多宝塔建築もあったんだから、塗り回すのもありだったろうに、縦板で本実貼りみたいに見えるからね。やっぱり興味が湧かないんだよね。

渡辺:あれなのかと思っていたんですよ。たくさん在ったのは3階建系統の羅漢堂という講堂みたいなやつをぐるぐる回る。単に積んだ建築みたいなのがたくさん在ったみたいです。あのタイプの建築は会津若松には無いみたいです。

佐藤:壁で囲ってぐるぐる回すより、もっとシンプルなポストモダン、壁も屋根も無い現代イワクラの方が分かりやすい。
渡辺:わかりますね。

佐藤:栄螺堂に行くと、建築の質は認める気はあまり起きない。六角で造り難そうだし、面白いのは分るんだけど。昔も今も消費されるだけなんじゃないのかな。見世物的だからね。
渡辺:元々そんなにも言われますけどね。それで片付けていたんですけど、まず観ようかと。
佐藤:会津の名物建築の一つなので観て体験すべきだけど。
渡辺:しかも福島ですけれど、佐藤さんの所に寄せてない場所に在って。ふふふ。




福島駅前東北電力のタワーと月食の様子
2021年11月19日







2021年11月21日撮影 栄螺堂に
佐藤:中通りは文化圏が会津圏とは異るんですよ。面白くて興味深い建築は福島県内にもたくさんあるんだろうけど、俺に縁が生まれない。会津文化は地酒以外に多くは知らない。さらに放射能が降り積もってから、この11年弱は誰も遊びに来なくなったし。放射能沈着したばかりの頃はラウンドアバウトジャーナルの人たちが支援物資を持って俺の家にきてくれた、それからは、誰かを呼ぶ気も起きないままだった。
数年前からは竹内泰先生が遊びにきたり、柳澤究先生と生徒が会津から福島そして大熊町視察には来た。そのぐらいだ。
被災地観光というのは起きるはずなんだけど、放射能の災害時には、放射能の知識も無いし、放射能で破壊している建築が目の前に在るわけでもない、見た目は何も変わらない、津波被災地観光のような、被災地観光が大きくならなかった。
被災地に来る人々も、どうしても行動が目的合理に沿ってしまって、将来何かの業績にカウントされる、そこにカウントされるため、被災地で活動していても心が被災地の人々と共に無いわけです。それを要求してもしょうがないので、何かに所属して活動してて、どうしても土着的な支援者は居ないからね。大学の先生になるためにはこの被災地でこのような活動をしていれば、有名人になり業績にカウントされ、行き着く先は有名大学や組織のお偉いさんになる、という目的合理が蔓延中だ。ある程度被災地状況が落ち着くと観に来なくなる。政府から派遣されている環境省の職員たちは、駅の傍にビルを借りて活動しているぐらいだね。

菊眞さんは、何の役に立たない俺を訪ね来て、月食や現代イワクラに歓迎されるという偶然の出来事はいいね。



柳沢究先生とゼミ生来福 2019年9月9日
記録を見る
再び 千万家について

佐藤:千万家は放射能沈着した時には井戸ポンプがあったので、周りの家は水道が止まってしまったから水を求めて集まってきたんだ。20年の間にはいろいろあって、高級木材でないから木材はやせてきて、木目が露わになってきたりして、儚さんは増し、時間の経過は建築の姿を変えてしまうし、それもいいんだよね。

渡辺:いいですよ、外部とかの仕上げ、これやっているんだ、(笑)強烈ですよね。思った以上に強烈でしたよ。構造体もありますけれども周りの囲っている時の案外効果を出せる素材を選定している。ポリカ波板とかも貼ってますしステンレス鏡面も貼ってますし。

佐藤:廊下の照明代わりにポリカ波を貼って採光の窓に代えているから廊下が凄く明るいんだよね、でその下部はRベニヤ下地に鏡面ステンレスを貼ってあって、見ている人とその背後の景色が写るんですよ。内側の櫛型を本棚代わりに活用しているし、余計なことは何もしてないんだけど、内外とも使い勝手がいいわけだよ、さらにヒヨドリやあおみづくが迷い込んだりして、野鳥たちも外だと騙されて入り込んでしまう。雉は鍋にして喰われちゃうし、俺は、天然の生き物を混乱させる設計したんだなーと。悪いおじさんだ、雀の冬のお宿にもなっているとのことだし。野鳥が迷い込んで出られなくなる話もあって面白いですね。安い材料しか使ってない。超ローコスト建築だ。

渡辺:分かります、凄いなーと思います。別な意味で古窯陶芸館を思い出しましした、(笑)
千万家 北側廊下まわりの素材
ポリカ波板 エキスパンドメタル
透明開いた硝子
曲面ステンレス鏡面仕上げ
平板鏡面仕上げ を使い分けて写る画像を分けている。
南の風景が突き抜ける
北の風景画歪んでいる、
北の風景画鏡状に写るなど

佐藤
:千万家と古窯陶芸館は結び付けて思ったことはないけど。基礎は円形だけど、屋根は。ドーム 半円球が載ってるしオマケとして、1/4半円球がついているのが古窯陶芸館だ。渡辺豊和さんがローコストでつくるために壁を飛ばして、基礎と屋根だけで造った。簡潔極まっている建築が西脇市古窯陶芸館。

千万家はセルフビルトでつくれるように、基礎から胴差、軒桁まで全部同じ部材になるようにした。そしてこれ以上単純に出来ない形態と骨組みになっている。で、セルフビルトなら千万円で出来ると思っていたんだよ。まったく資金が無いので銀行から借り入れるしかないことが判明し、銀行に相談しに行ったら、3年も4年も掛かるならお金は貸せないとなった。「しょうがないな、大工に頼むしかない」となり。それで経費とか割増しになりまってしまいましたね。

渡辺:工務店の経費はかかりますからね、割増しになりますよね。
佐藤:大工さんの人件費も要るしね。
渡辺:特に日本の人件費も高いですからね。
佐藤:人件費高くて大工さん、仕合せな職業にもなってないけど、自分で造るのがもっとも安価に出来ると言い続けてたんだけど。植木仕事の合間に木材を加工し続けていると完成するよ。全体の構成とか要点を押さえる、安い汎用品を使って安価で建築を造るのも面白いと思いました。 野鳥も迷い込んで好い建築になった。注文するとすれば、今度、雉鍋喰う時は俺に呼んでくれよ(笑)。雉は激突して廊下の硝子を割ったけれど、東日本大震災と今年の2月13日の巨大余震に遭っても硝子は割れなかった。部材がバラバラに動かず、1000の形を保ったまま、一体となって動くだけなんだね。基礎をがっちり繋いで造ってあるんで、バラバラに動かない。

渡辺:全体の形で地震に合わせてぐにゃぐしゃ動いているんでしようね。

佐藤:最も安い木材を構造部材にしていっぱい配置して、色付けして周りの木々が成長すると木材も風化して黒くなってしまうので、見分けがつかなくなってしまう。で、派手な色を付けた(笑)そうしないと内外の木との区別が付かなくなるからね。今は色が飛んでしまって白っぽくなっている。色付けておかないと「設計者何したの?」って言われるのは嫌だったね。色ぐらい塗っておこうと。柱と樹木の境が分かりにくくなってきてる。

千万家の工事経過を伝えたアサヒファイン 1999年12月26日が初回
記事は第二回目基礎ができたとき

渡辺
:面白いですね。プラン見るときの話もあるけれど、ほぼそれが分からない状態に今は、よりなっている。
佐藤:いろいろ技巧を凝らさず、単純明快なプランであっても建築の豊かさは現れる。

渡辺:ほんまにそう思いました。家族論みたいな話もやたら小難しくかき回して、山本理顕さんが言っている。けれど、そんなのはたいした話じゃなくって、しかも本人がやった建築がそうなっているとも思えない。千万家を見ると「ああ、なるほどなー」というのを豊かに実感できますからね。

佐藤:山本さんの建築は塀を造って他者を断絶し完成だ。そういう建築を目指している。その事態と千万家は違う。塀は現在の何を表しているのか?それを想うと分かるけど、地方では外壁はまだ要らないと思ってる。他者を排除する建築にするのか、外壁をつくらなくっても豊かに暮せる社会をつくるのか、考えどころだし、議論のあるところだと思います。

渡辺:千万家の前の森の辺りに近所の人が散歩しに来るんですね。林みたいな中を通って出入りしてた(笑)

佐藤:前の畑で野菜採っていたね。ローカルで密集して家があるわけじゃないので、近隣の家の人は皆が知り合いだからね。どこが敷地境界だかも分からなくなって暮らしていて、出入り自由だけど。野菜を盗む人もいない、緩い関係があるんだよね。

渡辺:そうですよね、林みたいになっていて分かりませんよね。面白いなーと思って。

佐藤:自邸から続けている計画を分かり易く単純にした建築だから。完全な外部と少し囲った内部と完全な内部で組み合わされていて、一気に外部と内部を区切らないと千万家の形式になる。建築に入る前に中間の設えがあり、そこには誰でもが自由に出入りできる。田舎でいえば大自然とちょっと囲った外部と完全に囲われた内部という単純な組み合わせでも、想像以上に豊かさを生み出すことができる。
コンクリートで造るか木造で造るかだけど、コンクリートで造る方が長持ちするような気がする。木造も檜のよい材を使えば長持ちするだろうけど、ローコストだとそうもいかない。

渡辺:木造は融通ききますからね。RCはいざぽろぽろしだすと、どうしようもないので。

佐藤:木造だと色々な人が手を加えて壁の存在を不明にしてしまう、そこがどうも好きになれない一つだ。
渡辺:プランは壊されちいますよね。どうとでもなりますからね。

佐藤:千万家の人たちは木造でも、どこにでも加工できるんだけど、どこにも手を入れてない、物が増えて、物だらけになってきて、生活感が溢れてた。

渡辺:あれもいい感じですよ。
佐藤:最後のゼロの棟は部屋がむき出しなんだ。けど、物で囲って簡単に入れないよにしていた。猫とか犬とか入ってこないようにしているんだろうけど。通り抜け出来なくしていた。それを両親がおおらかに眺めていて、ほほえましい。現代の若い人が排他的になっていて、おおらかさが消えてきている。というのは、冷たい社会を感じて閉鎖的になっているようで、あの囲い方を観ただけで分かったような気になる。

渡辺:そういうことを含めていいなーと思いました。

佐藤:社会の様子も千万家には投影されちゃうのでいい計画だと思うけど、自慢話になるので(笑)やめましょう。

渡辺:いいですよ びっくりしました。結局そうやっているけど余地があるから大根は干されるわけですよね。排他はするけど、南側に大根を干されてしまって、大根ルーバーみたいになっている(笑)



佐藤
:目の前の畑から大根を抜いてきて干してしまう、そういう暮らしぶりも地方ならできる。大根干しているのを見るといわゆる建築家という方々は怒りだすのかもしれない。ああやって生活している、暮らしそのままだからそれでいい。

渡辺:春秋塾で佐藤さんが紹介されて、それを見ていて面白いなーと思っていたけど、20年経った建築を見るといいです。

佐藤:20年の時を経ているので一過性の熱ではなくなっていて、同じ人たちが暮した時間が、ものを言い出している。
渡辺:仮に人が入れ替わっていたとしても、人が変わるから違うことになるだろうけど、それを許容する建築になってますね。

佐藤:建築の面白さは住んでいる人が変わっても継続していく面白さも一つだしね。
渡辺:それはそうですよね。

佐藤:いろいろな人に使われ続ける許容力があるのが建築だ。20年前に冗談でパートナーが亡くなったら、たくさんパートナーを増やして暮せる家だよと言っていた。

渡辺:増えたら丸を増やしていけばいい(笑)

佐藤:老人になってもいろいろな老人たちと集住すれば、いいだけだ。20年経つと壮年だった住手も老人や青年弱者へ目が向くようになっているのも、今は面白い。ワーキングプアが地方にも蔓延しているので、若い人たち同士でも集住できる。人の暮らし方が変わっても建築が対応できる力を内包している、その良さが続いています。時間のフィルターを掛けても面白い建築の楽しみを分かってくれる人は少ないので、話し合う機会が無いんだよね。

渡辺:そういう意識で家を造っている人が居ないんだと思います。


佐藤:千万家は住宅じゃなくっても使える建築だし。
渡辺:それもあります。
佐藤:建築が多くの機能受けとめる力を内包しているのは、千万家のような単純な建築でも作り出せるからね。シンプルな計画でもいいじゃないかと。その後に注文が来ないのが凄いでしょう

渡辺:大笑)そうですね。
佐藤:なんでこんなに分かりやすい建築なのに注文が来なかったんだろうか、と不思議に思うことがありました。現代に合った人間らしさをもって生きていないのかも知れないと思ったりしたこともある
渡辺:そうじゃないですかね。結局は来い、嫌な人はハウスメーカーの家を買うんでしょうし、そうじゃない建築家に設計をお願いしようと思う人も、それはその文脈で見ているだけですからね。
佐藤:時間が経つほどにメーカーハウスとの対比が分かり易くなっている。放射能が沈着したり、新型コロナに遭ったりしながら、ハウスメーカーの家に囲まれ尽くしていくんだけど、千万家のような家は造られない、できないだろうから。

渡辺:全くできないでしょうね。


佐藤:現代イワクラを訪ねた足で、千万家を訪ねる旅もなって、いろいろ確認することが出来て、今日はよい旅をすることができました。フォーマルな現代イワクラの解釈もいいけど、資本主義下のフォーマルであって、千万家のような、生きている人のためのフォーマルじゃない、その二つが立ち上がって見えるのも良かったです。
資本主義下でも人の暮らしはハウスメーカのようなカタログの中には無いことが分かる。それが千万家が建っている意味だ。建売住宅の家の中には野鳥や梟が入ってこないし、こっちの方が豊なんじゃないか、ヒヨドリも雀もお宿にし、もてなしてもいる。

渡辺:ははははは。鷹は何回か来ているみたですね。ご主人も奥さんも、そういう野鳥が来たりするのが楽しそうに暮らしているのが、訪ねたことで凄いわかりましたね。

佐藤:資本主義下、住宅カタログの中のフォーマルな豊かさではない、暮らしの良さを手にするための建築だから。あの土地でしかそれを実現し体験することができない、建築と土地が分離していない土着的な豊かさが続いている。カタログ住宅には普遍的であろう豊かさが詰め込まれていて、どこにでも作り出せる、システム・工場が作り出す豊かさの幻想を手に入れているだけで、建築と土地と家が切り離れてあって無関係になっている点に気が向いていかない、それが貧しさを生む源なんだけど。20世紀的モダンの限界を知って建築を造ることが肝心なんだ。そう思うよ。

渡辺:そうですよね。

佐藤:モダン的価値で埋めつくられた都会で、あの豊かさを求めても造ることはできない。ダイナミックに自然の生き物たちとの交流は生まれない。町でもないし森の中でもない、開発が抑制された地域にある、中途半端自然環境の中で生まれる豊かさだから。

渡辺:そうそう。中途半端な環境ですよね。今後周りがさらに中途半端になるという話でしたからね。
佐藤:山が近いから、周りが住宅地として開発され人が住みだしても千万家の周りの林は残るので、野鳥が飛来して賑やかな気がします。家の機能を目的合理を突き詰め過ぎて、設計者がこねくり回し過ぎているような気もする。

渡辺:それはそうだと思います。本当にそう思います。


佐藤:この二日間の建築体験を経て、明日江戸時代の娯楽建築へ、手っ取り早い観音巡り建築と批評的になってて、組み合わせとしてはいいんじゃないか。

渡辺:それはそうなるでしょう。
佐藤:現代人が栄螺堂を語る時に当時のお手軽感応巡礼の観光の意味を語らないからね。古い建築を敬う語りばかりだ。江戸庶民の消費の対象としての観音巡りだったはずだ。

渡辺:栄螺堂はあるときまではいかもの、とされていたんですが、最近はへんに見直されてしまって。そういうやつですよね。今、研究している学生は考えすぎじゃないのかなーと思って「ちょっと見て来るよ」と。

佐藤:夏休みに青春18切符を使い、電車を乗り継いで見に来るしかないんじゃないかな。
渡辺:勝手な理念化をしているけど違うじゃなかと思って見に来た。
佐藤:自転車で往復すると1月掛からないじゃないかなー。

渡辺:撲が見たところで私の経験でしかないので。

佐藤:四国から会津若松の栄螺堂に至経路の時空を体験することはいずれ貴重な財産になるから。
渡辺:そこですよね。道中を体験することは大切ですよね。
佐藤:2022年の日本の現況を観ながら時間を掛けて来るという方が、飛行機で福島空港に降り立ちレンタカーで会津に入るよりは、よほと豊かな体験を得ることができる。栄螺堂体験より豊かだよきっと。

渡辺:そうですよね。

栄螺堂をたずね 喜多方市の長床にもいった、観光客でごった返していた。
2021年11月21日 長床 

呑み語り合う その3へ 続く