HOME 文責・作成・佐藤敏宏 | 佐藤敏宏の京都ことば悦覧録 2017年1月27日から2月2日 |
ことば悦覧録 |
川井操さんに聞く 2017年1月29日 彦根あたりにて その1 その2 その3 その4 その5 その6 |
その4 川井:20万で、中国へ行ったらなんとかなるなーと思っていたんで。とりあえず交通費とちょっと生活できるお金があればいい。 だけどさー神楽坂建築のツアーで慣れてたから「現地で合流しますよ」みたいなこと言って、湖南省の集落だったんですけど合流したんですよ、そのツアー費用で10万とられちゃったんですよ かいじょう はははははは やばくねー ははは ちょっと待てよと、最初の1週間で10万使っちゃった。はははは。残り10万しか無いっていう状況で1年間過ごさなくちゃいけないっていう。 向こうに着いたら先生が凄いよくしてくれて。月1万円ぐらいの生活費を中国元でくれて。それで中国の学生と過ごしてたらお釣りくるんですよ。学食とか喰ってタバコも買ってそれでも、お釣り来るぐらいだったんで 佐藤:たくましいね〜外人の財布まで俺の財布にして〜生きてきたんだ かいじょう ふふうふふふ 川井:それで、研究室の仕事を手伝いながら半年ぐらい、その10万を切り崩しながら、中国の学生仲間と古建築を観に行ったり、集落を回ってたんですよ。半年後から本格的に自分の研究のフィールド調査を始めて。 佐藤:中国でも饂飩こねたり、パンこねてほしかったねー 川井:ははははは そのデータ、それだけは絶対持って帰ってやろうと思って。そのために来ているから。布野さんに20万借りてるから、ただでは帰れないと思ったんで、半年は本気で 佐藤:ここでも貧乏は豊さの源だね 知らず知らずに底力がわいてきちゃうよ 川井:ふふふ 布野さんと連絡とりながら、西安の市内に在るイスラム地区っていう、古い時代から中国人なんだけどイスラムを信仰している連中が居て。そのエリアが凄い面白くって。千年ぐらい経っているようなエリアで。そこに賑わいとか生業とか集まって彼らは血縁で住んでいる感じとかも凄い面白くって。フィールド調査、ぜんぜん古い建物残ってないんですけど、集まって住んでガヤガヤやっている、そんな所を半年間調査して。 地図も何も無かったけど、無理やり強引に都市地図つくってふふふふ 時間だけはあったんで。グーグルアースから超解像度粗いマップ拾って。それで宅地割とか土地割とか、1キロ四方ぐらい拾いました 佐藤:森田さんの調査時代にはグーグル・アースなんか無かったんでどうして町の図面を書いてたんですか 森田:スパイですよ 市役所へ行って、市役所には地図が壁に飾ってあったんですよ、チベットのラサのときは。役人がその部屋出て行った瞬間に写真を撮って。それを全部トレースしてベースマップ作る 川井:森田さんも一緒ですよね。絶対くれない。先生にもお願いしたんですけどずーっと。「それだけは無理だ」って言われて。仕方ないから自力で作ってやろうと思ってふふふふ 佐藤:見て歩いてるだけじゃ集落図できないんで どうした 川井:中に入っていって、めちゃくちゃ怒鳴られながら、不信がられながら、日本人だからって追い出されながら、ガンガン侵入して、何とか半年間データ集めて。 で帰って、残り半年の状態で。 どうしようかっていうのはずーっと悩んでて。って言うのは『住宅建築』の人と古い建築の改修とかは凄い好きだったから、そういうので就職しようかなーと、いわゆる土着的な感じでやっている所に就職しようかなーとも思ったんですけど。でも俺は布野さんと全然コミュニケーションとってねーなーと思ったんです。半年で金借りて中国へ行って、また半年で卒業して、布野先生と何の話もしてないなーと思って。 自分の中で初めて秤にかけたんです。布野先生のところでこのままドクターのテーマとして研究やるのか、住宅作家の所に行って修行を積んで自分が独立するのか、って考えた時に。 なんか布野先生の所が輝いて見えて。帰った瞬間に決断しないと間に合わない時間だったんで。中国から船で帰って来て、そのまま家も帰らずに研究室にばーっと行って。布野さんは「よく帰ってきたなー、呑もう呑もう」って呑んで。その時に「僕はドクターに行きますのでよろしくお願いします」と言って「おお〜そうか」みたいな 佐藤:そこが建築家になりそこねた分かれ道だったんだと 川井:建築家になりそこねたタイミングでしたね。でも、自分の中ではターニングポイント。あの時ですよね。 佐藤:住宅作家になる道は具体的にあったんですか 川井:岡山の古民家再生工房をやっている人たちへオープンデスクに行ったりとか。東京の人とか、 佐藤:古民家系住宅作家の所へ出入りしてたんだ 川井:古民家系か左官系、いわゆる住宅作家 途絶え寸前の所に行きたいなーと 佐藤:内井先生の世界とは違う世界だね 川井:違う世界だけど、いわゆる地域アーキテクトみたいな所に行こうとしてた。分かれ道はあの瞬間でしたね 佐藤:布野先生に借金して恩義あるから、そうしたんじゃなくってね、自分が選んだんだと 川井:布野さんの所で勉強すると腹をくくって。お金を借りたまま出ていくのも嫌だったってのもありましたね。何か貢献して。借りたってことがある種いい足枷にもなったのかも知れないですね。はい。それの義理があったんで。 佐藤:義理堅い人だなー、銭 踏み倒さず! 川井:はははは 佐藤:パン屋さんに滋賀県大入学したと報告に行っちゃう人、川井さんらしいねー 川井:ははは 佐藤:そういうことで研究者の路へと。ドクターすんなり入学できたんですか。浪人もせず 川井:浪人もせずに、学科の先生が3月に受験もう一回してくれて、4月からドクター生活でしたねー 佐藤:ドクターでテーマは中国の集落調査一本ですか、論文は何を書かれたですか 川井:これがドクター論文です、回族っていのがイスラムの居住区の D論 西安旧城・回族居住区の空間構成とその変容に関する研究 佐藤:D論は 川井:西安のど真ん中なんですよ 城壁のど真ん中に在るエリアです。ショッキングというか、初めて僕の中でこのへんで挫折がありましたね。 佐藤:2010に書き上げられたんだから新しいじゃないですか 川井:新しいですよ、 佐藤:躓き無しで ドクター論文手にしたんですから挫折なしじゃないの 川井:3年半でとりましたね 佐藤:4年かかっても仕上がらない人もいるなかで3年半でね 川井:3年半でとらしてもらって 森田:最後の方は川井君は大学の中に住んでましたね、家も引き払って研究室に住んでいた 川井:ははははは、住所を布野先生の家にして 佐藤:そうなんだ、 わいわいがやがや 川井:しんどくって、暗い時代の話をするわけじゃないんでけども、文章を書くとか、本をまとめるとか、文字的リテラシーを全く持ってなくって。勢いだけで書いてて、初めて布野先生に頭押さえつけられたっていうか。「お前本当に日本語へたくそだなー」って、ふふふふ。 京大の流れもあったから、京大生に対する妙なコンプレックスも自分の中で勝手に大きくなったりとかしてて。ドクター時代は歯を食いしばりながら書いてましたね。全然楽しくなかったですね〜。 佐藤:面白くなくって3年半で仕上げちゃうんだから 川井:意地でしたね本当に しんみりしているかいじょう 佐藤:そうなんだ。 川井:そこで初めて地に足をつけさしてもらった。ずーっとふわふわした事を・・ 佐藤:それが2010年ですよね 川井:2010年でしたね 佐藤:現在まで6年の期間がありますけど、何をなされてたんですか 川井:ドクターをとる前後で森田さんも非常勤で来てくださるようになって。そこで相談してたりとか、自分もこのまま大学の先生になるのは、嫌だなーっていうか。ずーっと滋賀県大にいて、社会の事も何にも知らないなって思ったんだけど。一端 外に出たいなーと思ったんです。 例えば東京の建築設計事務所とか、そういう世界にいまさら行ってもしょうがねーなーって思って。中国で研究もやっていたし、もう一回中国へ行ってやろうと意を決してふふふふ 卒業して北京の設計事務所をいくつか回って。自分がやってきたとを受け入れてくれる都市計画系の中国人がやっている設計事務所が在って。何が起きているのか知りたくて。設計っていうか、働くっていうことをとりあえず。 やっておかないと、なんも教えられないなーと思ったんですよ。論文書くだけの技術しか持ってなくって。 佐藤:日本語論文は苦しみ抜いたようだけど、中国語はできたんですか 川井:あんまりできなかった、割と日本人がいる設計事務所だったし。東京の大学の方から来てる連中とか。学んできた環境を相対化しながら、彼らの話とか聞いたり実務をやったりして。2年間ぐらい過ごしましたね。 佐藤:そこまで、まだ2012年じゃないですか 川井:2012年で、僕が勤めてた設計事務所がオルドスっていう中国の内モンゴルにある石炭バブルのエリアで、都市計画とかやっていたんですけども。そこが破綻して事務所も傾き ふふふふ潰れ掛け寸前みたいなので、これは居てもしょうがないから辞めて。 友達と中国でインテリアの設計とかで、食いつないでやってみようかなーとも思っている時に国広ジョージさんが北京の精華大で、教えてて。 「プロジェクトがいくつかあるから手伝ってくれないか」と言われて。それで北京へ、その時サバーティカルで日本の大学を休んで精華大にずーっと来てたんで。時間をあましているし、いいかなーと思って。国広さんの仕事の手伝いをしてたんですよ 今の奥さんが東京でずーっと働いてて、俺は2年間、北京で遊んだし、そろそろ結婚もしなくちゃーいけないし。「東京に戻ろうかー」と思って。奥さんと過ごそうと思って。そろそろ大学に戻ってみようかなーという気が起きてきたから。 そのタイミングで縁あって、で理科大の助教を受けたんですよ、それが2013年の3月ぐらいです その5へ |
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