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 著者の高田昌幸さん


 まえがき

 数年前のある晩のことだ。

 遅くに自宅へ戻った私は、部屋の中央にぶら下がった紐を引いて蛍光灯のスイッチを入れ、いつものようにパソコンに電源を入れた。単身赴任中だったとはいえ、一人暮らしの部屋はいかにも寒々しい。ジジジッというパソコンの立ち上がる音を聞きながら、電気ストーブを引き寄せ、椅子に腰を下ろした。

 メール・ソフトを開くと、懐かしい名前が見えた。福島県に住む大学時代の友人である。実に久しぶりの、おそらくは10何年ぶりかの、彼の「肉声」だった。

 学生時代のある時期、私たちはほとんど毎日のように顔を合わせていた。彼は冗談好きで、明るく、穏やかで、私とウマが合った。卒業後は連絡を取る頻度も次第に減ったが、郷里で家業を継いだ彼からは、何度か、家族の写真入りの年賀状をもらっていたと思う。それから再び長い年月が過ぎ、世の中は郵便から電子メールの時代に移っていた。

 蛍光灯の下でメールを開くと、長年の無精を詫びる、ありきたりの挨拶に続き、長くはない、しかし
切々とした文章が続いていた。

 ……こちらはといえば、ひと言でいえば、家業の不振に喘ぎつつ、三人の子どもと妻、両親のために「死なない」で必死に戦っております。億の位の借金を抱え、体力の限りがんばってもがんばってもがんばっても、なかなか事態の打開には至らないのが現実です。この状況で精神的にも鍛えられ、学生時代の自分はすっかり影をひそめてしまいました……

 ……「生きるとは人生とは?」を毎日考えずにはいられません。「今までの人生、ほんとに甘かった。人に甘えて生きてきたんだな」と自分を責めたり、でも一方でそうは思えない自分もいます。

 この一年、身近なところで三人も自ら命を絶ちました。その度に、自身の命も削られる思いです。あまりに過酷だと思います。普通の人間が普通に努力してるだけでは普通に生きられない社会。この現状に憤りと虚しさを覚えます。そういう意味でも、決して負けるわけにはいかないのです。もがいて、はいあがって、必ず事態を変えてみせます。「逃げない」ことが、こどもたちへの自分ができる最大のメッセージだと思っています……。

 そして、メールの最後は「ありきたりですが、ばらばらにされた一人一人を結ぶ大きな仕事を君の力でぜひ実現してください。期待しています」と結ばれていた。

 ふつうの人がふつうに生きようとしても、ふつうに生きることが難しい。この5年間か、10年間か。気が付けば、この社会は、いつの間にかそんな雰囲気に包まれてしまったように思う。

 誤解を恐れずに言えば、個人レベルでの日々の暮らしは、単調で退屈で極まりない。ドラマなどそうそう起きるはずもない。自身のことを考えても、身辺で起きることはたいていが(その時は大きな出来事だと思えても)小さな、つまらぬ出来事である。

 でも、そんなありきたりの日々の積み重ねの中にこそ、「真実」があるのではないかと思うことがある。ふつうの人々が織り成す、ふつうの日々。時に見失いがちな「希望」も含め、社会と時代のすべてはそこにあるのではないか、と。

 たとえば、ずいぶん前に会った、路線バスの元運転手。

 彼は約20年間、北海道でバスに乗り、その前は長距離トラックを運転していた。文字通り、ハンドルこそが人生だった。その彼はこんなことを話してくれた。

 ……トラックにしてもバスにしても「事故を起こしたら」ってことが頭から離れなかった。私なんか2カ月に一回は夢を見てたね。バスに満員の乗客を乗せてね、あああ、ブレーキが利かない、あああ、ぶつかるぶつかる。その瞬間に目が覚める。そういう夢です。運転手なら同じような夢、みんな何度か見てますから。間違いなく見てるから。

 トラック時代は、とにかく眠くてね。日中は小樽近辺で荷物を運び、夜8時から芦別、帯広行きの運転席に座る。着くのは翌朝でしょ。して、すぐ帰り荷を積んで小樽へ戻る。残業は毎月150時間から200時間。今と違って労働基準法とか関係ない世界さね。

 体が丈夫だったから持ったけど、とにかく、すんごい睡魔なんだ。運転中は左手でハンドル持って、右手は髪の毛ひっつかんだり、足をつねったりで。あああ、と気が付いたら、反対側車線走ってたこともある。そういうことが二回あった。運がいかったんだ。紙一重だよ。あの時、対向車が来てたら、いまのおれはないもの。人生変わってたよ。

 辞めたくなったこと? あるあるある。何度も。トラックの時もバスの時も。人間関係だ何だって、いろいろあるっしょ。バス会社を辞める時も、嫌な思いをした。でもね、今では何とも思ってない。恨みとか嫌な思いだけを抱えて生きていけないよ。

 二女が生まれた時もね、なんも大変だとか思わなかった。7歳で亡くなったけど、あの子は生まれつき脳に障害があって、親の顔もわかんない、言葉も言えない。そういう子だったの。でも、とにかく、めんこい子でね。周囲からは「大変でしょう大変でしょう」と言われたけど、何が大変なものか。普通の子どもとおんなじですよ、私らにしたら。もう、めんこくて、めんこくて。

 二女が生まれたのは、ちょうどバスが嫌で嫌でしょうがなかった時期だけど、「仕事がどうのこうの言ってる場合じゃない。おれが踏ん張らなきゃ」って、腹もすわった。ね? 親は子どものためにがんばれるんだから。そうでしょ? 子どもはかわいいに決まってるっしょ。嘆き悲しみなんて、ほんの一時のものでしょ?

 運転手の彼には夢があった。定年の日は自分で回数券を買い込み、乗客に手渡しながら、「きょうで私のハンドル人生は終わります、ありがとうございました」とアナウンスするのだ。しかし、定年の数日前、脳出血のため車庫で倒れてしまう。「くやーしくて、悔しくて。あの悔しさ、一生忘れないよ

 彼は、過去に乗ったトラックとバスのナンバーを全部そらんじていた。小さいことかもしれないが、それが彼の誇りであり、人生そのものであり、その日々の格闘の中で彼は「希望」を見いだそうともがいていたのだと思う。

 本書には、じつに多様な人びとが登場する。著名な人も無名な人もいる(インタビューで四七名、写真で16名)。インタビュアーも若手から年配者まで多様である。一見ばらばらに映るかもしれないが、これらのインタビューは、つねに「あなたの希望は何ですか」を問うことを念頭に置いて行われた。 1990年代末以降の日本は、人と社会が限りなくばらばらになっていく過程だったように思う。だからこそ、インタビュアーたちは、人と人を「つなぐ」ことに、それぞれの人びとの「希望」を聞き取ることに、心血を注いだ。言い換えれば、インタビュアーたちは自らが希望を探す旅を続けた。

 本書は、そうした旅の成果である。

       *

 インタビュアーの取材は2010年夏から行われた。

 本文中の肩書き、年齢などは基本的に当時のものである。


                      高田昌幸 

   あとがき  


 2011年3月11日に東日本大震災が発生したとき、ちょうど、この本の校正作業は最終盤に差し掛かっていた。多くの人と同様、私もその後しばらくは、呆然とした日々を過ごしていた。日常と変わらぬ生活を送っているつもりでも、心ここにあらずだった。

 このあとがきを書いている5月20日の時点で、亡くなった方、行方不明の方は2万人を軽く超えている。実感することが難しい数字だが、言論人たちが指摘するように一つの地震で2万人超の方々が犠牲になったと考えるよりも、犠牲者が一人出た地震が2万件超に上ったというとらえ方が正しいのだと思う。

 たとえば、本書の遠藤明子さんの話にも出てくる、宮城県石巻市の大川小学校(47ページ)。この小学校では地震直後、教員の誘導で集団避難を試みたものの、全校児童108人のうち7割が津波の犠牲になった。教員にも多数の犠牲者が出ている。震災から40日余りがたった4月末、大川小学校は別の学校を借りて卒業式を開いた。当時の6年生21人のうち、無事が確認されているのは、5人だけ。卒業式では、死亡・行方不明児童の親族も大勢集まったという

 その様子を伝えるニュースを私は涙なしには読めなかった。

 式では、校長先生が「ご家族に何とか証書を渡すことができた。このような悲しいことが起きないように職員でがんばっていく」と話し、長女を失った父親は「おめでとうといってあげたい。区切りとして卒業式に参加した」と目を赤く腫らした。子ども二人を亡くした母親は、仕事の合間に不明者捜索を手伝っているという。「自分の中の時間はあの日で止まっている。自分たちがなんで子どもを迎えに行かなかったのか、今まで考えてきたし、この先もずっと考え続けると思う」(「朝日新聞」2011年4月24日付夕刊)

 同じような話は、それこそ枚挙に暇がないほど伝わってきた。歩みの遅い老人を横目に高台に逃げ、自分をずっと責め続ける人がいる。津波に翻弄されるなか、肉親の手を離してしまい、「もう立ち直れない」と悔いる人がいる。自分や親族は無事であったとしても、漁船を失い、家財道具を失い、家を失い、田畑を失い、大事な思い出を失い……。そうした大きな喪失感のなかで立ち竦むしかない大勢の人びとがいる。

 テレビや新聞を通じて、「がんばろう」という掛け声が溢れても、当事者はそんなに簡単に前を向けるはずもない。それもまた自明のことだろうと思う。「希望」に関する本をつくりたいと思ったのは、2010年の春ごろである。東日本大震災が起きる、ちょうど一年ほど前のことだ。私は自分の思いを数枚のペーパーにまとめ、知人に送り、知人はさらに知人に送り、それが繰り返される中でインタビュアーの顔ぶれがそろっていった。

 私自身は、新聞記者の仕事を20年以上も続けていた。相も変わらず日々のニュースを追いかけながら、しかし、ここ数年は「なにか違う」という思いを払拭できずにいた。

 当たり前の話だが、世の中は新聞やテレビのニュースが伝えるような、「日本政府は」「日本経済は」「○○事件は」といった大文字の世界で動いているわけではない。都会は都会で、地方は地方で、田舎は田舎で、つまりは自分たちの目がなかなか行き届かない場所で、地べたに足をつけて、踏ん張って、そして希望を持ちながら明日への道を切り開いている人びとが大勢いる。有名かどうか、成功者かどうか。そんなことにはかかわりなく、何かを信じて、信じようとして、どこかに展望を持って、日々格闘している。そういった人びとこそが、世界の中心であるはずだ

 そんな思いが消えなかったのである。

 スタッズ・ターケルという稀代のインタビュアーが米国にいた。2008年11月に96歳で死去するまで、『よい戦争』『仕事!』『アメリカの分裂』といった名著を数多く残している。ターケルは録音機を駆使し、テープを回しながら、いつも市井の人びとの声に耳を傾け、言葉を引き出した。数々の著作を読むと、彼の死去に際して英国のBBCが “Studs Terkel was the spokesman for millions of Americans”スタッズ・ターケルは無数のアメリカ人の代弁者だった)と報じたのも道理だと思えてくる。

 だから、この本をつくるにあたっては、そのターケルの手法により添って、人びとが語る言葉にひたすら耳を傾けたいと考えていた。同時に、本書の趣旨が人から人へと伝わるなかでインタビュアーが集まったように、ばらばらだったものを「つなぐ」ことを、何より大切にしたいとも考えていた。それらはおそらく、情報の多くが「東京から地方へ」「中央から末端へ」と流れる現代のなかで、どこか歪んでしまったこの情報化社会に抗う、数少ない有効な手段だろうと感じている。

 東日本大震災が発生した後、本書は締め切りを延ばし、震災関連で5人の方を追加した。それぞれの人びとの言葉を、それぞれが語る「希望」をどう読み取るかは、読者の方々にお任せするしかない。大川小学校児童の母親が言った「自分の中の時間はあの日で止まっている」という言葉の前では、「希望」もかすむかもしれない。

 でも、編者として本書に登場する人びとの言葉の記録を熟読した私には、ぼんやりと、でも確かに思うことがある。どんなにささやかであっても、どんなに泥にまみれていても、そして目の前から消え去ったように感じても、そう簡単に「希望」はなくならないのではないか、と。

 むろん、「希望」は、キャッチフレーズのように、漢字二文字だけで語られるべきものではない。この単語を繰り返したところで、何も伝わりはしない。なぜなら、「希望」は、それぞれの人が積み重ねてきた長い長い時間とそれを語る言葉のなかに、あるいは、今後積み重ねる未来の時間とそれを語る言葉のなかに、目立たないかたちで潜んでいるに違いないからだ。「まえがき」で記した福島の友人には、震災後、長期の無沙汰を詫びつつ、現地の様子をうかがうメールを送った。その返事がなかなか来ない。じれったくなって、5月のある月曜日の午前中、彼の会社に電話してみた。従業員の「はい、代わります」という声のあと、懐かしい、本物の「肉声」が受話器から聞こえてきた。「お、どうした? この前のメール? 読んでるよ。ちゃんと読んでるって。きちんと返事書こうと思っているうちに遅くなっただけださ。なんとかやってる。元気に決まってる。当たり前だろ、そんなの。それよりさ、週初めのこの時間帯、忙しいんだよな

 おまえの相手なんかしている暇はないんだよ、といわんばかりの早口。遠慮のないその声が、このうえなく、うれしかった。

         2011年初夏  

         高田昌幸