日本の現場- 地方紙で読む はじめに 高田昌幸著  HOME  

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日本の現場
  
- 地方紙で読む


   

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   はじめに 

 本書「日本の現場 地方紙で読む」は、いくつかの小さな出来事が重なる中で生まれた。最初に、それを記しておこうと思う。ただし、いずれも些細な個人的な体験にすぎないことをお断りしておきたい。
                   
 もう十数年も前の、1998年の初夏のことである。サッカー・ワールドカップ(W杯)のフランス大会と記憶が重なっているから、七月だったかも知れない。

 私は当時、東京駐在の経済・金融担当記者になったばかりで、大蔵省(現財務省)や日本銀行、都市銀行などの取材に走り回っていた。前年には北海道拓殖銀行や山一証券が経営破綻し、金融不安は頂点に達していた。

 そのころの話だ。

 ある金融機関系のシンクタンクが主宰する小さな勉強会があった。全国紙の記者たちを中心に10人前後の記者が、聞き手として参加していたように思う。

 テーマは「自治体再編」である。

 昼食の弁当をつつきながら話を聞く記者たちに向かって、シンクタンクの研究員は、自らのリポートをたんたんと発表していた。クーラーの効いた高層ビルの会議室からは、皇居や都心の高層ビルがよく見渡せた。

 発表の詳細は、もう覚えていない。ただ、私と同年代だった、30代の彼が「5万人」を強
調したことは鮮明に記憶している。おおむね、こういう内容だった。

……これからは自治体も経営効率をもっとよくしていかなければなりません。国家財政も地方財政もこのままでは破綻します。そうしないためには、まず再編です。市町村を減らす。自治体の最低人口は5万人。行政サービスはそれを単位にすべきです。過疎の自治体こそ、再編統合を進め、総合病院や図書館や体育館は5万人に一つ……

 「ここにも北海道新聞の方がいらっしゃいますが、北海道はとくに再編を進めないと。北海道みたいな広大な地域では多少生活が不便になるのは仕方がありません。街が消えて商店街も消えて、そしたらもっと大きな街に移るしかないでしょう。そういった文化が田舎にないのは仕方ない」 

 そんな感じの説明だったと思う。

 質疑応答の段になって、研究員の彼と議論になった。

 北海道に行ったことありますか? あの広大な地域に病院は一つ? 図書館一つ? 北海道東部の町や村の中には、その面積が本州の小さい県と同等というところが珍しくないのですよ。単なる数合わせ、効率重視の数字の遊びじゃないですか。

 「北海道は行ったことがありません。でも訪問の経験がないから、議論ができない、将来図を描けないわけではない。それに行政サービスの低下が困るなら、都市部へ移住すればいいわけです。国民には移住の自由がありますから

 その答えは私をいたく刺激した。

 「まず、現地に行くべきでしょう。民間の一シンクタンクの研究結果にすぎないにしても、地域を歩いて、実情を見て、地元の人たちの声をしっかり聞いて、そしてリポートにすべきじゃないですか

 言葉通りではないが、そんな疑問を声高にぶつけた記憶がある。

 この研究員だけではない。中央の官僚や全国紙の記者も、地方で何が起きているか、現場はどうなっているかを把握しないまま、この日本のありようを論議し、決めようとしているのではないか。彼ら・彼女らはずっと、そうやってきたのではないか。

 質疑応答を続けながら、そんな思いが頭から離れなかった。

 勉強会の会場は、たぶん、大いにしらけていた。

 研究者の成果に対して、東京では発行されてもいない地方紙の記者が「まず現場を見てください」と、いかにも青臭い議論を吹っ掛けるのだから、当然だったかもしれない。全国紙の知人の記者たちは、その議論に対しては興味もないようで、私と彼の議論は最後まで「空中戦」だったと記憶している。
                
 その出来事から五年間ほど、私の東京勤務は続いた。

 勉強会で抱いた「北海道の実情も知らないくせに」という青臭い反発は、いつの間にか脳裏から消え、一方では、日々の行動範囲がおのずと固まってきた。

 昼間は官庁街から官庁街へ、永田町から霞が関へ、そして金融街へ。夜は官僚や政治家たちを酒席に誘ったり、自宅を訪ねたり。そして「○×省は」「政府は」といった語句が主語の記事を書き続けた。振り返れば大したことはないニュースだったが、いくつかの記事については「他紙を出し抜いた」「あの口の固い幹部に『さすがだね』と言わせた」といった、ささやかな満足感も得ていた。

 そんな日々が終わったのは、再び札幌勤務となった2003年9月である。

                   

 札幌へ戻ってすぐ、ある取材で日本海の寒村に出掛けた。札幌から車で一時間ほどの「厚田村」である。

 2005年に隣接の石狩市に編入されて厚田村は消えたが、行政区分上の違いはどうあれ、当時も今も人口3000人ほどの寒村であることに変わりはない。

 訪ねた先は、七〇代の老女が一人で住む家だった。長年風雪にさらされた平屋建ての家屋は、「ここに人が住んでいるのか」と思わせるような、たたずまいである。

 取材自体は大した内容ではなく、私はすぐにメモ帳を閉じた。それから、世間話が始まり、老女は問わず語りにこんなことを語り始めた。

 息子夫婦は札幌に住んでいるのに滅多に顔を出さないこと、札幌の病院へ行くのに路線バスがたいそう不便なこと、家の周りで野菜を育てているから八百屋には行かなくて済むこと、そもそも八百屋は近くにないこと、魚は同じ地域の漁師から時々分けてもらっていること、そしてこんなにも不便だけれど自分は厚田村を離れようとは全く思っていないこと……。

 中央省庁や政治家が取材相手だった、息もつかせぬ東京の日々。ほんのこの間までそこに身を置いていた自分は、老女の話に表現しようのない感覚を覚えていた。

 とりとめもない話を続ける老女に、自分はついこの間まで東京勤務だったと告げた。すると、こんな言葉が返ってきたのである。

 「わたしはね、新聞が大好き。お金はないけど、ずっと読んでます。道新(北海道新聞)をずっと読んでます。厚田のことも札幌のこともちゃんと出てる。難しいことは分からないけれど、ずっと読んでますよ。だから頑張ってください

 何週間か後、今度は札幌近郊の別の都市へ足を運んだ。母子家庭が取材先である。

 間近には、大規模な工業団地があった。アパート一階の一番奥の部屋。午前中の早い時間帯とあって、ドアは日陰になっていた。それを内側から開けてもらうと、子供と大人の靴が折り重なるように並んでいる。その横に、きれいにたたまれた新聞。主の女性は三〇代後半だった。小さな子供が二人いるという。生活は本当に苦しく、生活保護をもらうかどうか、ぎりぎりの日々が続いている。 その彼女は、新聞の山に目をやる私に向かって、こんなことを言ったのである。

 「新聞は大事だと思う。生活は苦しくても道新は止めませんよ

 ああ、と思った。

 彼女から日々の暮らしぶり、それも毎日が格闘であるかのような様子を聞きながら、私は何か突き動かされるような思いを感じていた。

 自分は、こういう人に向かって記事を書いているのだ、と。こういう「ふつうの人」たちのために、記者の仕事は存在しているのだ、と。

 高層ビルでの勉強会で、研究者の言動に強い違和感を抱いたにもかかわらず、自分自身が中央での取材を続けるうち、たぶん、大事なことを忘れてしまっていたのである。

                

 あの違和感の正体は「中央の目線だけで物事を考え、決めていく」ことへの疑義だったと思う。

 政治家や官僚、研究者、企業家たちだけではない。全国紙や民放のキー局などの記者も、もしかしたら「中央の目線」「東京の目線」に陥り、いわば高見から物事を取材しているだけではないのか。永田町や霞ヶ関、日銀のある日本橋、経済団体や大企業が集う大手町などの都心部。彼ら・彼女らは、そういう場所から「日本全体」を理解しようとしているのであり、地域・地方の「現場」を知らないのではないか。そういう違和感である。

 それは同時に、地域の足元で毎日懸命に暮らしている人々に向かって記事を書くのだという当たり前のことを忘れかけていた自分への違和感でもあったように思う。

                  

 札幌近郊の厚田村などに足を運んでいた当時は、ちょうど、インターネットが爆発的に普及を始めた時期と重なってもいた。全国紙だけでなく地方紙も競うように自社のホームページを立ち上げて拡充し、地域の実情をえぐりだすような記事や連載の掲載に取り組んでいた。

 一時期、それらの記事をむさぼるように読むことが私の日課になった。どの記事も実におもしろいのである。すでに単行本として出版されていたり、ジャーナリズム関係の専門雑誌などで紹介されていたりと、既知の記事もあった。でも、大半の記事は初めての遭遇だった。

 新聞やテレビ、それに出版も、日本の情報発信は「東京一極集中型」である。「地方から全国への情報発信」はもっとあってもいいはずだが、地方発のコンテンツは非常に優れた内容であっても、実際はなかなか全国に流通しない。

 だったら、一度、それをつくってみたらどうか。

 そんなことも、ぼんやり考え始めた。

                  

 それから、さらに数年が過ぎた昨年五月のことだ。

 東京の立教大学に、全国各地の新聞社で働く人たちが集まった。大半は入社5年以下の地方紙の記者で、参加者は文字通り、北海道から九州まで全国各地に及んだ。入社3年目の若い記者が「とにかく集まって新聞や報道のことを話そう」と呼び掛け、それを聞いた人がまた別の人に呼び掛け、そうやって参加者が増えたのだという。

 20人か30人か、参加人数は忘れた。記者職だけでなく、メディア部門や営業部門の人もいた。

 たまたま、その席に呼ばれた私は、彼ら・彼女らがそれぞれに持って来た新聞記事や取材話、現場での話に圧倒されてしまった。

 地域崩壊、高齢化社会、医療問題、農業の先行き、成り立たない林業、貧困格差、戦争と平和の問題、自治体合併の……。内容は多岐にわたり、午後早くに始まった集まりは夜の席へと流れ、一部の参加者は終電が終わっても話を続けていたように思う。

 地域には、これだけの問題と、これだけの取材テーマがある。そして、それぞれの地域から逃げ出すことができない地方紙は、それこそ、地べたにはいつくばって懸命に取材を続け、実際に地道な報道を続けている。

 その当たり前のことを、彼ら・彼女らが持ち寄った記事や取材の話によって改めて思い知らされた。

 そして、その会合の場に居た立教大学教員の清水真氏(現・昭和女子大教員)とも種々の話を交わした結果、「現場発」「地方発」「地方紙のネットワーク」などをキーワードとして、本書が生まれることになった。

             
 
 地方紙が良くて全国紙は良くないとか、そんな話ではない。

 本書を貫く考えは「地方紙の優れた記事を全国の人に読んでもらいたい」「東京発信の記事では見えてこない、地方の実情、すなわち『日本の現場』を知ってもらいたい」という、極めてシンプルなものである。言うまでもなく、「地域」「地方」は単なる地理的な概念のみを指しているのではない。東京にも大都市圏にも「地方」はある。

 そうした考えに立って各地の地方紙を読み込んでいくと、各地域に固有の問題が、実は日本のあちこちで起きていることが分かる。地域固有の出来事と思われがちな問題が、実は日本社会全体に問題の根を広げていることも分かる。

 2000年代前半と違い、各新聞社は昨今、無料で閲覧できる記事をホームページ上から次第に消すような方向で動き始めている。新聞社も営利企業である以上、独自コンテンツの無料開放を続けることには限界がある。記事への課金を模索する姿勢は当然のことかもしれない。

 ただ、地方紙の優れた記事がホームページ上から消えて行くに従い、残念な思いも募った。 「東京発」ではない、「地方発」の記事群が映し出す「日本の現場」。地方に根を張った、プロの記者がえぐり出した「日本の現場」。そうした記事群を市民が広く目にする機会が、次第に少なくなってきたことは間違いないからだ。

              
 こうした経緯を経て生まれた本書は、日本の地方紙30紙の連載や単発記事を収容している。 記事の選択は、私と清水氏が中心になり、旬報社の編集担当者も加わる形で進めた。選択に際しては、分野の重複をなるべく避けると同時に、日本社会の実相を射抜くような記事を選ぶよう心掛けたつもりである。

 日本の地方紙は、都道府県をカバーするような主要紙だけでも40紙以上ある。都道府県よりも小さなエリアをカバーする「地域紙(郷土紙)」も数多い。何をもって「地方紙」とするかは議論も分かれようが、本書では都道府県をカバーするような「県紙」、それよりも若干広い地域をカバーする「ブロック紙」(北海道新聞中日新聞東京新聞西日本新聞)を主な対象とした。

 選択の対象とした期間は、おおむね2008年末から2009年11月ごろまで、である。ネット時代においては、「やや古い」と感じる方がいるかもしれないが、各記事が提示している内容や問題点は、いささかも古びていない

 記事選択の実務は、地味な作業の連続だった。国会図書館に足を運んで過去の新聞をひもといたり、研究者に声をかけて印象に残った記事を教えてもらったり。地方紙の記者仲間からは自薦・他薦で多くの優れた記事を紹介してもらった。

 そうやってピックアップした数百本の記事を読み込み、選んだ結果が本書に収容されている。

 すでにお分かりのように、本書は「コンテスト」ではない。それぞれの記事は、編者の、一方的な判断で選ばれたにすぎない。当然のことながら、ここに収容されなかった記事の中にも、優れた内容のものは、それこそ無数にある。ピックアップした記事についても、最終的には種々の理由で本書への収容を断念したものが少なくない。

 従って、編者が別の人になっていたら、あるいは、各地方紙に自由に自社の記事を選んでもらっていたら、本書は、まったく違った内容になったはずである。

 私自身は今回、記者として地方紙に身を置きながら、一読者として各紙の記事を読み、書籍を編む立場になった。同じ地方紙で働く多くの方々に対しては、ある意味、非常に不遜な行為だったかもしれず、最後まで、居心地の悪さは消えなかった。その思いは、この先も消えることがないと思う。

 この「不遜さ」については、地方紙の記事を重層的に紹介し、地方紙の存在を改めて市民に知ってもらう本書を世に送り出したことをもって、ご容赦を願うしかない。

          2010年6月
                      高田昌幸