1995年 1996年 1997年 1998年 2000年 2001年 大島哲蔵さんと佐藤敏宏の私信交換 home 1月 2月 3月 4月 5月 8月 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 ● 2001年8月20日 17:47 浄土日記読みました。あの日のことが感動的によみがえります。筆力のせいで濃縮され幻想の中にももう一つの大伽藍が建ち上がっています。私は二度目か三度目だったのですが、同行した人物によって理解や感動の質が違うことに気が付きました。 浅い人と行くと本当の発見は望めないようです。考えてみると恐ろしいのですが、読書会でも学生レベルの者と読んでいると、一向に訳が出来上がって来ません。生活も周囲に鋭い人が居ないと平板化するのでしょう。 あの時は建築の秘密に思い当ったという意味で決定的でしたが、あれ以上のものに出会うチャンスがほとんどなくなってしまったつらさもあります。 なんせ夕陽と山並(田圃)、一分の隙もない架構、それに如来が加わったらなす術はありません。そこにそのことが理解できる他者が居るとすれば完璧ですよね。 ある意味であのような体験は10年に一度ぐらいじゃないとしちゃいけないような気がします。 50代の感動も共有できればと思っています。 大島哲蔵 対応してるmy日記は2001年6月13日のにつきでした中身はこれ 6月13日くもり 今頃の季節になると大島哲蔵さんに連れられて行った浄土寺浄土堂を思い出す。○が病苦で私・・超とまどい、毎日愚痴FAXをしてまして(/_;)大島哲蔵さに聞いてもらっていました。そのときの感謝と今日の感謝でm(_ _)mす。大島さんには沢山の場所につれていって頂きました。建築の子のことや、海外の建築情報を沢山知ってますよ。建築批評でおなじみ感あるでしょうかね。大阪周辺の今風な建築を沢山案内して頂ましたし。河合健二さんのドラム管建築にも案内いただきました。思い出すほどに超感謝ヤン家(*_*)。河合さんが亡くなる前年だったでしょか。国鉄東海道二川駅をウロウロしました。浪速当たりでは通天閣そばのお好み焼きの安さとうまさに、夜更けをわすれ語りまして、そばのそれぞれの間に赤々と電灯が点り大きな座布団の上に土人魚のように化粧をしたナンヤラ婦負・・飾られています所・・もそぞろ歩きしました。ソレその場はでしゅがね・・聞いていた話が現実に現れたように・・目眩を伴いますです・・(@_@)・・ずらりと並ぶ何を・商品化娘の婦負ちゃん・やオバハン達・・眺めながら夜風に吹かれ歩き続けること20分ぐらい・・外れの方にはいたいた「土手無しのおマンさん」の顔を眺めては商品化とは、このように残酷なモノよと想うのでした。都市句ぅかい歌人は土手無おマンでも大切に千ならんのですが・・男が男に商品とし提供するとは、このようなアカコウカアアとした光の中に、限定さえれ照ると、人の悲しさや豊かさを重います。目眩を漢字しながら・・公園前の入り口付近にには、ごろごろと男達が寝ています。大阪の川は夜綺麗です。キラキラと油面のような光の傍に人工的な青が転々と存在します。ブルーシート・ブルーシート。こんな床でも男は寝ています。泥の河の話のなかにある船は居ませんでしたが・・大阪の町は何故か気持ちがいいです。 大島さんは都会の人で、私は超田舎でそだちました。でも都会は好きです。都会のカッペは嫌いです。私の血は辺地もあるが変血もあります。祖祖負はイギリスから競争馬を輸入して繁殖をとたくらみました。交尾に失敗その馬「何とかドン」そうだそうだ「ギルドン」名前悪いな先祖は詩的感覚無いんじゃおませんか・・「キル丼」見たいなや・・その馬の後ろ足に蹴られ内蔵破裂で死にました。後に残されたのは200マンの借金と写真でした。my父が子状態でそのナナやらドンにまたがり写してる写真がありました。なんでこない立派な馬があるんやろと不思議でしたが、我が家の恥は皆語らずですから、40ぐらいになり私知りました。my父が死んだ時写真の話を父のオジサンに聞き知りました。毎父は百姓の癖して文学好きでしたから、年中祖父母と喧嘩してました。「文字よりも芋や」と言う祖父母との溝は死ぬまで埋まらず、晩年躁鬱病になり生き恥さらして死にました。働かない意味と意義は「血・地」を観て知りました。 大島さんは大阪で書店を開いています。建築洋書の注文は時間がかかっても06−6356−9940にFAXで注文してくださいませせ。 西宮の大島実家をでて2時間ほどの兵庫県西部に浄土寺浄土堂は建っています。田圃の真ん中に2メートルほどの盛り土でしょうかその上に建っています。浄土堂の格子から落ち日の光が、田圃の水面に当たりキンタキンラチットピカと多色に分解された日になり、格子を通過して内部の阿弥陀様・・現実のオネイチュウンより超綺麗で有り難きことこの上無し。と、聞き及んでいたので西に回り樹木を見・・(T_T)・・高欄無い素っ気ない外観座無念。ゲロゲロ(=_=)・・内部超うぅぇうぅ・・(>_<) (*_*) (@_@) !(^^)! でした。詳しくは実物を見てください。自分の感覚を使い感じるのが一番です。私の文章で知るより電車で出かけましょう。で、中は玄(くろ)円型の須弥山の上に・・これしか書きませんが内緒で知りたい人はメールください。 重源は鎌倉初期の勧進聖でしょうか、聖とは人々の骨を笈に背おい高野山などの聖地に埋葬する人のことだ想います。現代の葬式坊主・僧や完了達とは違う、修行・荒行・金集め・土木工事・説法にと・・行動力有る有るのでしゅ・・。重源はたぶん西行なんかとも知り合いで、北の藤原一族の金を東大寺に運んで藤原の「血から」を衰退させるのに難役もかったのでしょう。で重源は悪党と言わず高貴といわず法皇からも金だまし取り状態で・・ドンドコ金を集めて東大寺を再興させるのですね。教えの法が政治や経済より大切なものと人々は想い行動してた時代の話です。浄土堂は800年の間もですよ・・私が大島哲蔵賛に連れられ手来るのを待っていました。 妄夏を 玄円にもり 浄土堂 「もうなつを げんえんにもり じょうどどう」とよみます。帰り道に作った句です。重源の行動力と思考を建築化する能力と精神性に私超感激(@_@)してつくりました、勿論800年もの間・・建築がそこに在ることにもです。HPのmy文の中に書いてます。 その後閑谷学校を見学して「ひなり」(漢字忘れた)という小さな漁港で大島さんと二人霧・・漁港のおばさんが細々と営んでる飯屋に入り込み、今日の朝とれた穴子を焼いて作った、穴子丼・・ナンヤラんンツッキては食いつつきては悔いました。目の前の小さな漁港の空から青鷺が知らぬ間に舞い降りて来て、漁船の上を餌を求めてます。穴子をつつきます。そのトンチョントンチョボと舳先を行き来するのを眺めてると、風が来てキラキラピカポッカと海面が輝き、時々海面が玄(くろ)になります。身の舞の海が・・黒苦なります・・浄土寺の玄円を再現してくれます。小さな漁港にいた青鷺はもう死んだでしょうが、私の中に時々現れます 青鷺の 穴子つっく 玄喜海 「あおさぎの あなごつっく くろきうみ 」と読みます。先ほど・・同じような文書を書いてのに(>_<)間違いてPC幼年の私全部・・消してしもうて(>_<)・・二度と同じ文章カケマヘン。私は最初からPCし直しました。で超チット違うけどしょうがないいぇー。釣り人と同じ心境だなぁー。さっきの文書のほうが面白かったな(=_=)・・手書きでは味わえないデジタル日記の今日です 今日は終わります。明日からはP貼り付が手抜きできるんで・・下へ続けることにします m(_ _)m 2001年8月20日以降の 私信交換は 掲示板へと場を変え続き ましたがeメールにての交信は 8月20日 最後でのメールでした |