1995年 1996年 1997年 1998年 2000年 2001年 大島哲蔵さんと佐藤敏宏の私信交換 home 1月 2月 3月 4月 5月 8月 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 ●2001年3月25日 10:23 re感想ありがとうございました 佐藤敏宏様 その後いかがですか?建築も色々苦労が尽きないようで気の毒ですが、踏ん張る以外ありませんね。他のことをしてみても同様で、何かしようとすると困難が湧き出てきます。作業が一段落したらこちらに来てみませんか?実は一度会いたいのです。 ワタナベさんとニッタ君と春秋塾の資格と名前で、巨大開発に介入していろいろ提言しています。少しお金ももらってやっているのですが、その過程で、以前のペローのコンペじゃないですが、エコ関連のアイデアが浮かび、追求してみたいテーマなのです。まわりの若者やワタナベ(ニッタ)氏と この件を動かすと失敗に終わりそうで、貴君が組む相手としてベストだと思いました。なるべく早く会いたいのですが都合つきますか?何ならこちらが行っても良いです。また相談しましょう。 昨日、ワタナベさんを誘ってニッタさんの新作を見てきました。まあ良かったのですが、少し貴君の作品をシンプルにしたようなところがあって、バリバリに彼らしいものではありません。時節柄 皆さん手加減しているようです。 前の公園の桜がもう間もなく咲き始める気配になってきました。こうした自然の営みが妙に心に沁みるようになって、年を取ったことが実感されます。ではまた。 大島哲蔵 ●2001年3月26日 15:50 春になってきましたね 大島哲蔵様 昨日の深夜、鎌倉に住宅を見学しに行き帰りついて、東京の春を少しみたのですが大阪も春本番になりそうですね。 福島は桜はまだですね。日差しが明るいし住宅も杭打ちが遅れましたが動きだしてもあまり進みません。ほとんど出来れば儲けもんてな気分で、困難を気にしても仕方ないと…。大島さんには愚痴を何度も聞いていただいて感謝してます。 都合はいつでもいいですが、設計料が来月末又は再来月に入るまでは、金がないので、大阪には出かけることが出来ません。残念。大島さんにコチラに来て頂ければありがたいですね。資料など大変でしょかね。 3月3日T氏を招いて建築あそびを開きました。ミヤジマさんも彼女と来て、仙台のイトウ建築を見学して帰りました。 仙台のイトウさんは見学してもいいでしょうからね。 私の仕事は住宅の監理だけで暇です。他は雑誌 MEMOから BOXを載せる話があり、4月中に取材を行うようです。その予定は専門誌とは違い私はラクチンでしょから、調整しなくてもかまわないと思います 。記者の話ですと文化を読んで専門の人だけで終わらせるのはもったいないのだそうです。私をトンドン増殖させてくれる人の存在はありがたいです。 特集のようなのですが、写真家や全体構成がまだ決まらないようです。対談相手の●×さんという女性作家 との 予定など調整中のようです。 新田さんの新作できましたか。仕事をしぶとくしてますね大阪の桜が咲き始めいい感じですね。メール感謝 ● 2001年3月30日 10:52 佐藤敏宏様 昨日はどうも。今度「すまいろん」という雑誌に拙文を寄稿しますので、そのコピーをお送りします。暇があれば、御一読下さい。よろしく。 大島哲蔵 便所のブルジョア革命 モダニティは住空間を古くから律してきた基本的条件を一変させた。近代的生活様式が部屋の概念や相互のつながりだけではなく、台所や便所での慣習をねこそぎにしてしまった。衛生観念とかエネルギー供給源の変化、工業製品(設備機器)が家庭内に持ち込まれたのが決定的だったが、生活環境がダイナミックに変貌したことも見逃せない。食事と排泄という人間にとって基本的な営為が、都市化の進展(資本主義メカニズムの高度化)に伴って疎外度を深めたのである。 人間の糞尿は長い期間にわたって「労せずに得られる」天然の交換価値だった。今風に言えば、リサイクルして近郊農業の産品(蔬菜類)に姿を変じて日々の糧となった。臭くて汚いと忌み嫌われた汲取り式の便槽が、優秀な肥料となるための腐敗を促進させるタンクとして活用されていた。親は米粒を食べ散らかす子に「お百姓さんが一生懸命に作ったものを粗末にするな」と諭すのが常だったから、何となくリサイクルのメカニズムを子供たちはイメージすることができた。しかしモダニティと共に普及した水洗式ではそうはいかない。自らが生産した厄介な産品が一瞬のうちに運び去られることで、すべてが片づいた錯覚にとらわれるのである。また水洗式が清潔で進歩的と信じている向きが多いが、バクテリアが完全に浄化してくれるわけではない以上、薄めて川や海に流すだけのことで、これも結局は「リサイクル」されるのだから筆者の直感では土を介したそれよりダイレクトに水質にはね返ってくる。 便所とトイレは全く別の空間かも知れない また便所がトイレに変わることで、生活空間は抽象的で裏表のないのっぺりしたものとなる。子供にとって恐い場所や隠れるところがなくなり、物語が発生する余地も封じられる。蠅やウジなどの嫌われ者を駆逐することで、攻撃対象に倒錯を生じてしまう。身辺の不浄や臭気が許容できなくなり、老人や幼児が忌み嫌われるようになる。衛生化の名のもとに「便所革命」が遂行され、住居の均質化はその頂点に達した。水洗式(これこそ本物の垂れ流し)が当たり前になってから、トイレ空間は急速に画一化した。凝った意匠を採用した住宅でも、便所に工夫が認められるものはほとんどない。表面的に変わっていても、過剰な処理が目立つだけで満足すべき床や壁に出会った試しはない。ましてこの閉鎖空間での束の間の滞在を心豊かなものにする心遣いは感じられない。 エドワード・モースは『日本の住まいとその周辺』という著書の中で、便所について微妙な言い廻しで考察している。「便所に対するほのめかしがないのは偽装されたデリカシーで、日本の家屋にあっては、そこにしばしば芸術味豊かな職人の注意がはらわれる..... 」。日本人はいつからこうしたデリカシーを喪ったのだろうか。恐らくクソリアリズムが日本中を覆った高度成長期からそうなったはずで、それはモースが的確にも書き留めた七種類のニュアンス豊かな別称(雪隠とか後架など)が死語になった時期と重なっている。日本にはいくつかの異なる種類の排泄空間が競い合っていた。 またブルーノ・タウトは著書『日本の家屋と生活』で、自身の住んだ「洗心亭」を観察して興味深い事実を指摘している。つまりそこでは壁一枚を隔てただけで、上便所が床の間と接しているのである(丁度尻の位置が掛け物の裏側にくる)。これはタウトならずとも人々の想像力を刺激するのに十分である。こうしたブラック度の高いデリカシーが住居という記憶生成のサイト、決して尋常ではあり得ない場所に必須の要件である。便所と浴室が野合させられて便所空間の問題が衛生陶器の型番選びに終始する今日、こうした機微をわきまえた展開は望むべくもない。 便所革命の危険な本質 モダニティに煽動された便所革命は、今やその最終段階を迎えている。潔癖症という病理現象が現代住宅の隅々にまで浸透し、かえって抗菌力や身耐性を自失していることに気がつかない。このピューリタン革命は資本(住宅産業)や官僚層に後押しされた、まごうことなき反革命だというのに.....。ただこの趨勢に逆行する者が皆無なわけではない。大阪の舞州でゴミ焼却工場の壁面装飾を担当し、惜しくも昨年亡くなったフンデルトヴァッサーは筋金入りのエコロジストで、自分の住むウィーン市内のアパートメントのテラスで自身の排泄物を利用して「有機農法」を展開した。当然近隣から総スカンをくったが、彼はその原理を拡張して世界的な規模で「オーガニック・アーキテクチュア」を実現させた。現代美術はマルセル・デュシャンの便器やアンディ・ウォーホルの「小便絵画」に見られるようにスカトロジーを重要な戦略に組み入れていた。糞フン出るとヴァッサー(水の意)の手になるトイレは何の変哲も無いものだが、彼のイメージの中では糞尿がパイプを伝わって屋上に逆送されるのが面白い。 黄金色に輝くウンコを浅草の上空に出現させたフィリップ・スタルクの計画する手洗い(多くは店舗)も概して良い線をいっている。筆者の実体験によると官能をくすぐられ、何となくステージに上がるような趣がある。ゲイの連中がこうした感覚をもっているように思うが、彼らのアヌス感覚に耐えるトイレが今の日本にあるとは思えない。これは稲垣足穂の『A感覚とV感覚』に引用されていたのだが、道元の『正法眼蔵』には便所での作法が懇々と説かれている。曰く、「一つの手桶に水を盛って厠へはいるが、水は九分にする。厠の戸のまえで木履にはきかえるが、この場合、ぬいだ履物は爪先を揃えて、自分から見て先方へ向けておく。便所に夙くから行っているのは不可ない。といって、さあとなって駆けこむのも不可。厠に入って左手で門扉をおす。ついで手桶の水をほんの少し、下方のたんごの中へこぼすが、手桶を眼前ににおいて、立ったまま槽に向って、三度指をはじく。指先で音を立てるのは不浄除去のためである。」以下まだまだ続くが、口と尻を教化する(上品に抑圧する)ところから禅の修業は開始される。こうした作法に拮抗できる便所空間を用意できそ・u毆)うな建築家が一体何人居るのだろうか? 先日、知人の設計した老人施設を訪れる機会があったが、そこで目撃した4~5人が共用するトイレはまるで医療用矯正具もしくは電気椅子のように見えた。役人面をした技術者が必死になって開発したシステムを導入することを設計者は余儀なくされた。最近になって家庭内に持ち込まれ始めた、進化を遂げた「衛生便器マシン」もその類いである。住まいのテーラーシステム化の究極の姿をそこに見ることは容易い。この便所の「ブルジョア革命」は、やがて宇宙空間での排泄プログラムのような直接的吸引に行き着くだろう。消化管の末端は人工肛門と化して、今や排水管に直結されようとしている。「痴呆老人」たちの無意識下の反攻は高く評価されねばならない。その場所は(特に老人にとって)後ろめたいほどの魅惑に満ちた桃源郷であるはずだ。「インディヴィデュアル空間の排除」という便所革命の最終目標は粉砕されてしかるべきである。(大島哲蔵) ●2001年3月30日 14:59 久しぶりのウンコ話です 大島哲蔵様 昨日の午後降り出した雪は今日の暖かい日差しにドンドン溶けだして、道がグシャビジャです。工事中の住宅もようやく目に見えて動き出し、柱の鉄筋が春の青空を突き刺し、何となく心強い気分です。どんな仕上がりになるか、ドンドン変更して2001年の気分を定着出たらいいです。 さて久しぶりの「ウンコ」話。以前浄化槽や下水処理・下水道の調査をしたことがあり、その当時をなっかしくおもいだしました。ウンコが他者として扱われだしたのは公衆衛生という概念だと思いました。農家に生まれた私としては腑に落ちない話しでしたが、日本の場合下水処理は政治資金集めと一体になっているので、ウンコ話を本質的な部分から互いに語れないもどかしさを充分教えられました。 これだけ沢山の食料を輸入して、糞してるのですから、日本の土地の富栄養化が進むことは間違いないです。水に薄めて流しても蓄積しますよね。下水道の場合は工場排水と混じるので処理後の汚泥が危険な代物になるので、屎尿処理とは区別すべきなのですが、ガラガラポンと捨てるのでした。 結論は昔ながらの糞壺をこしらえ汲み取るのが一番負荷が小さいと言うことでした。都市農業を放棄した日本では、ますます食い物の自給が疎まれて とても省エネに反してると思います。野菜が地球の裏から運ばれるのはやはり変ですよね。 カイロは都市農業がうまく成立してるので、お金が出来たら住んでみたいですね。 念力を込める時「オシッコ」と言わず「クソ」と言うことや脱糞途中のウンコは自己か他者かなどと馬鹿な話しに花が咲いたのが懐かしですね。 人は自分自身の人体の自然をなかなか受け入れることが出来なくなっているのはなにか、魂胆があるとしか思えませんでした。 結論には同感です。 建築あそびをしてると、今まで知らなかった人や、人の心の裏表が見えるのが面白ですね。それに建築家が育たない理由や権威に引き寄せられる人人の弱さを見ることが出来ます。 私はほとんど邪道的な場所に居るので、そんな場所から眺めてると、建築家の単調さばかりが目に付いて いささかつまらないですが、若い面白い建築家が育つ事を願いながら、色んな人と交流するつもりですから、今後ともご指導よろしくお願いいたします。 2001年4月へ |