桜井勝延氏 言葉記録  01 02  03 2018年 作成 佐藤敏宏
2018年9月1日動画
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 みなさんこんにちは。ただいまご紹介を頂きました、(2018年)一月まで南相馬市で市長を務めておりました、桜井勝延と申します。

 震災直後、私の顔をテレビを、通じてご覧になった方も数多くいらっしゃるかと思います。私が震災前の2010年1月に市長に就任しました。その際に、過酷事故が、世界的な災害としての東日本大震災と、東京電力福島第一原子力発電所事故が同時に起こるとは想定も、していませんでした。

浜通り 合併しない方が得

 南相馬市は平成18年1月1日に、一市二町が合併して出来た、福島県の浜通りで、唯一合併した市町村でありました。なぜ浜通りで合併が進まなったか。双葉郡は隣の浪江町も含めて、大熊町双葉町も含めて、8町村在るわけですけれども、その最大の原因は東電福島第一原子力発電所、第二原発が双葉郡に位置しているからでございます。裕福な財源が国と東電から保証されているわけで、合併しない方が得だった訳でね。

津波で636人犠牲 福島県で最大

 先ほど小川さんからご紹介ありました、南相馬市は被害地元として、全国に、ある意味で、こんな事で有名になる必要は全くなかったわけですけれども。7万1500人の住民が東日本大震災で一時2500人行方不明になりました。結果として、あの津波で636人が犠牲になりました。福島県では最大に犠牲者です。まだ、111名が見つかっておりません。にも関わらず家族にとっては居たたまれない現実から死亡届を出している訳であります。

爆発しても、東電から連絡がない

3月12日に福島第一原子力発電所が、一号機が爆発事故を起こします。震災で行方不明者だらけの中で、捜索、救助活動の中で、突然起こった爆発事故。しかしながら、双葉郡には、もう残念ながらと我々は言いたいところですけれども、3月11日のあの発災時点で、大熊町には100台もの避難のバスが用意されていた訳でありますが。3月12日の3時過ぎに爆発事故起きた時には、何が起きたかさえ南相馬市には連絡が無いわけでありまして。東電と協定を結んでいた浪江町にさえ連絡が来なかった。南相馬市に東電から連絡が来たのは3月22日です。

独断で市民を避難させる

 私は、その時にはすでに、3月15日から独断で、市民を避難させ始まって、3月16日には私が、NHKのおはよう日本で電話取材を受けた関係で、当時に新潟県泉田裕彦知事から、7時10分過ぎに電話が入って「南相馬市民全員を新潟県が受け入れるから、避難させてけっこうです」と、いう神からの声のような、嬉しい声を頂いて。即・避難計画を作って、新潟方面に避難させることを決断いたしました。以来3月20日まで、17日から新潟方面へおおよそ5500人を避難させます。

自主避難者6万3000人 

 けれども、3月11日の夜半から自主避難的に避難をしてしまった、そして南相馬市を一時期離れざるを得なかった人たちは6万3000人もいるわけですので。南相馬市に残ったのはわずか8500人程度しか居なくなったわけですよ。

■ 死の町 とマスコミの力

 後ほど経産大臣になった鉢呂さん、ご存知でしょうか。双葉町に入りました、大熊町に入りました。彼は観た光景を「死の町だ」と表現をしました。結果的に更迭をされます。
 当時の避難をした双葉郡の自治体の首長と話した時に、完全に死の町になっているにも関わらず、報道機関がなぜ「死の町」と言っただけで、更迭をさせられなければ成らないのか。現実をそのまま、発言しただけで、更迭させられる。これはマスコミの力です。

 マスコミを操って来たのは電事連。経団連じゃないですか、42年間い渡って2兆4000億円もの、スポンサー料をもらい続けた。

(日本の)マスコミは3月12日立ち去った

 マスコミは、3月12日から私の所から挨拶もせずに立ち去って、6月まで南相馬市には足を踏み入れませんでした。結果としてみなさん、南相馬市を含めて、福島県の津波被災の現実が報道されたのを、画像で見た方どれほど、いらっしゃいます。宮城県と岩手県しか報道機関は入っておらず、3月24日に私がYouTubeで世界に向けて、南相馬市の現実を発信したときに、3月末には、もうすでにヨーロッパを始めとして、世界中のマスコミがタイベック・スーツを着て私の所に取材に来ている訳ですよ。

 南相馬市にようやく、役所に新聞が届くようになったのは5月に入ってからです。したがって我々の所には全く日本のマスコミからの情報っていうのは入って来ない。原発事故起きると震災のさ中で、636人もの犠牲の中で。残念ながら、体育館が遺体だらけになっております。

3月15日30kmバリケード設置
  2万人以上が棄民状態いおかれた

 30km圏内で設定された、3月15日には警察がバリケードを設置をして、30km圏内、物も人も入らないようにしている訳です。 

 結果として何が起こったか、ガソリンが無い、灯油が無い、重油が無い、酸素が無いいうことが次々に起こって、住民は棄民化状態にされたわけであります。棄てられた民。
 南相馬市民は3月25日に当時の経産省副大臣、原子力現地対策本部長の松下忠洋さんが私の所に来て土下座をしました。「申し訳ない」南相馬市民はまだ2万人以上ここに居ると。ただ双葉郡では一桁しか居ない。
 その現実が南相馬市には報道されていなかったし、情報としてもも、たらされていない。結果として国が起した原子力発電所事故によって、南相馬市が最大の犠牲を負っているという事を松下忠弘当時の副大臣は私に告げに来ました

腐乱し続ける遺体 家畜の共食い

 物が入らない状況の時に、体育館に遺体だらけになった方々を焼却埋葬することさえ出来ませんでした。遺体が腐乱状態になって来る時に、家族から叱られ懇願され、「家のお父さんを、家の家族を一刻も早く焼却して欲しい」と。「お父さんが腐って来ているじゃないか」いう事を言われました。

 20km圏避難指示区域の酪農家の皆さんは、茨城県も酪農家が多い訳けになりますけども、20km避難指示が決定をして4月22日に警戒区域を設定された時には、自分の家に入る事が犯罪になる訳ですよ。動物たちに餌も与える事が出来なくって、牛たちは乳房が腫れ続けて叫んで死んでいきました。残念ながら牛たちは自分がつながれている柱を、餌の代わりにかじって死んでいきました。養豚農家は離れ家畜とした豚もいれば、舎内で飼っていた豚たちもいました。今ふらふらになったばかりの牛たちを、豚が餌として食っている状況を目にしました。
国会議員たちにこの現実を知らせなければならないと思いました。豚が舎内で餌が無くなて共食いをする。豚が豚の子を食う。こういう現実の中で養豚農家は自殺をせざるを得ないような状況に追い込まれて来ました。

総理大臣の言葉が被災民を苦しめた

 原発はエネルギーを作るから必要だ。クリーンで安全で安いエネルギーだと、言いまくって来た。この現実は原発は人の命を危うくし環境を汚染し、最も高いエネルギーである事はこの原発事故によって明らかになったじゃないですか。その現実を何とかしようと、現場で苦しんでいるさなかに、国は、12月16日に当時の野田総理大臣は「原発事故は終息した」と言ったんですよ。私はその時、応急仮設住宅で住民懇談会をしておりました。住民から言った瞬間に「市長我々は棄てられた民だ」と言われました。

 おおよそ4年前ちかくになると思いますけれども、10月に東京オリンピック誘致が決まりました。その時にアンダーコントロールと言った。「250km離れているから東京は安全だ」と言いました。私は敬老会で老ご婦人に「250km離れているから安全だ」と言うのは、250km離れている、「250kmの所に居る我々は、危険な所に住まされているのか」と詰問されました。総理大臣の発言がどれほど現場の住民に、心に痛みをもたらすことでしょう。

若い人が戻らない 働く人が足りない

今、南相馬市から残念ながら住所を移してしまった人たちは1万人を超えています。その大半は60代以下です。子育て世代です。震災から必死な思いで南相馬市を立て直そうとして来た、その現実の中にあって一番足りない人たちは婦人です。女性です。子供です。今働き手が足りないくって困っています

看護士が足りません。保育士が足りません。介護ヘルパーも足りません。でも結果として、あの震災までには高齢化率は26%であったのが、居住人口5万4000人まで回復したとは言え、今の高齢化率は34%になりましたから。団塊の世代が全て高齢者になりましたので、高齢化人口はほぼおなじ訳です。

結果として働く人が足りない現実が、この原発事故から明らかのように「原発事故周辺は除染をしても、危なくって住めない」と感じている人たちが多いわけです。

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