2022年4月4日 「私塾を語る」 web記録  作成:佐藤敏宏

ゲスト
京都大学布野研究室卒業生

森田一弥さん

渡辺菊眞さん

柳沢究さん

魚谷繁礼さん


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ZOOMに設定に問題があるようで佐藤のZOOMでは開催できず、柳沢究さんに設定していただき語り合いは30分程遅れ、ゲストの皆さんを待たせたままてこずっている佐藤。

魚谷:これは公開するんですか?
佐藤:この動画と音は公開しません。
魚谷:編集して公開するんですか?
佐藤:文字にし画像を付けたり加筆などし、いただいてからweb頁で公開します。芸人じゃないので今流行っている話芸トーク動画番組でのような公開はしません。それは文字にしてweb記録で見てもらう方が、見る方も飛ばし読み出来て時間も短縮できるので扱いが楽だし、10年後に、この記録動画を見直したくない。で、いままで作った記録は文字と画像とゲストの推し唄を埋め込んだweb記録にしています。

例えば菊眞さんのことですが、2019年末に個展に際しての話を記録するために集まっていた観客を聞き取り取材し、文字にしており、その後も昨年末「現代イワクラ」見学のため来福のおりのような記録を積み重ねることで「渡辺菊眞評伝」の資料にしようと思っています。



 渡辺菊眞建築展記録目次を見る 

柳沢究さんの聞き取り記録も何度か作ってまして、生い立ち編はまだ済んでいません。その後の活動は折々お聞きしています。

準備にてまどりましたが、ここから「私塾を語る」を始めたいと思います、渡辺菊眞さん豊和塾について、お願いします。











2021年11月20日現代イワクラを体験
 語り合い記録へ


豊和塾について

渡辺
:豊和塾についてまず、どうなったかという話からですか。

佐藤:そうですね。菊眞さんは学生時代から参加されていると思う、豊和塾はこんな感じだったというところからお願いします。

渡辺:私が参加したときは豊和塾という名前は無くなっていまして、なぜか二つありました。一つが大島哲蔵さんがやっておられた勉強会みたいなものがありまして、それは名前を何て言ったか、名前は無かったのかなと思うんです。その会は1995〜6年だったと思います。私が大学を卒業して院浪していたときにそこに参加していました。それは大島哲蔵さんと宮島照久さんが中心になってロシア構成主義に係わるある本を翻訳するんだという会がありまして、私も参加したというのが豊和塾関係で言うと、それが初めて参加させてもらった会ですね。そこには渡辺建築工房に居た加嶋章博さんも参加していましたね。それから大阪芸大出身の女の子が居ました。スクウォッターで働いていた女の子が参加していました。名前は忘れてしまいました、佐藤さんご存知じゃないかな。




大島哲蔵さん1948年生まれ。 批評家。 スクウォッター(建築アート洋書店)主宰 2002年6月6日亡くなる



『ABC:国際構成主義の建築 1922-1939』シーマ・イングバーマン著宮島照久+大島哲蔵訳 2000年12月25日刊行


佐藤:大阪芸大出の女性?誰かな。豊和塾のことは俺の方が少し早い時期から知っているのかな。
関西圏の渡辺豊和さんの家に泊めていただいて建築を見て回っていました。偶然なんだけどそのとき(1991年)布野修司さんが京都大学に就任された時でして新大阪で歓迎パーティーがあって参加しました。そこで新田正樹さんを介して関西圏の若手建築家とも知り合いになりました。大島さんの周りには竹中工務店に勤務していた宮島さや名古屋から参加の道家洋さんが中心になりが取り巻きしていましたね。そこが「豊和塾」でした。彼らや関西圏や名古屋圏の建築家などが集まって勉強会をしていましたね。活動の内容は読書会やオープンコンペがあると各自が案を出し合って、落選した案などを持ちよって批評し合う。建築家が参加者の案を罵倒もしてたようなこともあったそうです。福島市に暮らしていたので、遠いから案だけ送ってましたし、大阪に行って直に参加するのは少なかったです。

渡辺:その時は僕は学部生だったので知らないですね。情報は何となく聞いてましたね。具体的には見てませんでした。で、私自身が参加したのは1995年の大島さんの勉強会の時からですね。場所は淀屋橋に在ったスクウォッター(大島さん経営洋書店)でやっていました。

■大島哲蔵さんFAX抄
1996−12−10−11:23 
豊和塾ラスト                     

佐藤様 お元気ですか?新田さんから聞いていると思いますが、21日は豊和塾のラストでベルナール・チュミの「建築の断絶」の後半を読んで討論した後、飲み会を挙行します。ぜひお越しください。その日や次の日また遊びましょう・・・・。 

1977−4−24−23:01
春秋塾スタート

佐藤様 久しぶりですがお元気ですか。時々夜更けにTELしてみるのですが、最近はあまり遅く仕事場にはおられませんね。その方がよいですが。奥さんの様子はいかがですか?快方に向かっていれば良いのですが・・・。春秋塾はお陰様で無事スタートしました。人も集まり それなりに盛り上がりもみられたので、まずまず安心しております。問題はこれからですが、なんとなく行けるような予感がしております・・・ 

1997−8−31−23:34
塾に対する大島さん愚痴

佐藤様 高野山はうまくいきませんでした。4時間以上かけて龍神回りでアプローチして疲れが残っていたのかも知れません。危惧していたので2度ほど打ち合わせしたのですが、渡辺大将自身が武士道と腹切りに入ってしまって、例によって他の言い方を全く受け付けなくなってしまったので、どうすることもできませんでした。吉野の時と考え合わせてみると、ぶちこわすのはたやすいけれど、内容の有る会を成立させるのは難しいことです。でも良いこともありました。龍神で入った露天風呂はとても良かったです。また夏にどこへも行かなかったので、良い小旅行になりました。そんなわけで長い付き合いなのでやめられないのが大変ですが、豊和塾の段階で解散する気になったのはやはり正解だったようです。私達の時代はグループが形成され、維持されるような、中心になるイデオロギーや人物が不在なのですね。若い人がシラケに取り憑かれるのも、こうなると良くわかります。あらゆる集合の裏にメリットやしがらみがこびりついていて、本当に信頼するに足りる共同関係が・・成り立たないのですね。今はまだ狂いたくても狂えませんが、いつかきっと全ての抑圧を爆発させる時が来ると思います。今はその一点に向かってあらゆる知識や経験やネットワークを温存して備えることでしょう。

1999年3月12日 11:16 
 春秋塾に案と音源を送る

 世話役
 大島さんから新田さんへ

佐藤敏宏様 昨日はスライド映像とテープ音声による春秋塾への参加、誠に有難く見聞きさせていただきました。説得力ある助言と魅力ある語りに改めて感心し作品の独自のトーン、技巧や操作が前面に出てこないのですが入念な計画性に腕の冴えを実感しました。渡辺氏もいたく感心していました。おかげさまで佐藤さんのプロジェクトを最後に2年間に渡った春秋塾との付き合いも一段落することになりました。後は新田君が引き継いでそれなりにやってくれると思います。私はコーチのような立場から気楽に協力したいと考えています・・・・・小松のコンペ案は縫い合わせるというコンセプトがどんなことなのか今ひとつ分からないのですが模型を見てすぐ理解できました。新しいような古いような不思議な創作行為ですね。建物自身が変容して再生していく生物学的な退行ー進化のプロセスが感じられました。 スプリット住居で何となく感じられたイリュージョンが具体的な形をまとって顕れて来たのでしょう。将来重要な作品集が出来るのではないでしょうか

佐藤
:渡辺さんは大阪で開いてた「(建築)アーキ・フォーラム」には参加していませんでしたか?

渡辺:豊和塾の後で春秋塾という体制になって、塾生として参加していました。それが1997年ですね。塾生として参加して1年間の内3回ぐらい設計演習というようなものがあって、その他は適宜人を呼んで講演をしてもらい聞くという形でした。その時たしか佐藤さんが来られていたのを記憶しています。

佐藤:大阪に何度か呼ばれて行きましたね。

渡辺:あのときは塾生の時です。たぶん、その夜に大島さんの書店の床に雑魚寝したような話だと思うんです。
佐藤:あ!一緒に大島さんの書店(スクウォッター)の床に寝た、思い出しました。何度も淀屋橋の大島さんの書店には行ってました。講演の後だったかな?菊眞さんも本棚の間にごろ寝して泊ってたのは覚えていますよ(笑)
渡辺:時期が違うかも知れません。

佐藤:関西の若い人達とは同じような建築勉強会と交流しょっちゅうしていたね、記憶がごしゃ混ぜになっているね。HP開設する2000年前の紙記録はほとんど無いんです。

渡辺:私は博士課程の1年目の時に参加していて、森田さんも参加していたんです。彼は自分で設計事務所をやり始めた初年度ぐらいじゃないかと思うんです。共に塾生で参加していたので、設計演習みたいなものに課題を出すという感じでの参加でしたね。案を発表して、それに対して講評を受ける立場でやっていました。
森田さんは独立建築事務所として始めたばかりでも案を出していました。あそこに出すとけちょんけちょんにやられる。で、それを嫌がる方も多かったようです。どちらかというと、大学出た後直ぐの人、逆にまったく関係なく普段は設計していないんだけど「建築に興味があるから出してみよう」という関わり方の人もいましたね。
そこで作ったものと、それまでにコツコツ作ったものと含めて個展を開催したのが1998年です。
塾としては設計演習に参加しつつ講演も聞いていたという状態でした。その後どうなったんですかね。渡辺豊和自身というよりは、大島哲蔵さん新田正樹さん、時たまやってくる吉田保夫さん当たりが講師だったような気がます。渡辺豊和は塾長として、ギャーギャー言うよりは、呑みの場に居るような感じだったかなーという印象です。あんまりぴりっとした事は言えませんけれど、記憶を辿って言うとそんなような話でした。












渡辺菊眞さん略歴
1971年奈良県生まれ
1994年
都大学工学部建築学第二学科卒業
2001年京大博士課程満期退学
2001〜6年渡辺工房勤務
2007年D環境造形システム研究所代表
2009年〜現在まで高知工科大学
       環境建築研究室代表






神楽岡工作公司について

佐藤
:ありがとうございました。柳沢究先生が活動してらっした会合には参加したことは無いですけれど、もしスタート時点の様子から分かればお聞かせください。どんな事で始まったのか、今はホームページは無いですよね。
柳沢:ホームページは残っていますね。化石のように残っています。
佐藤:昔、時々見てたんですけど今は探し出せなかったです。あの塾を起動させたのは柳沢先生ですか。

柳沢:僕と森田一弥さんと、山田協太という布野研の私より1つ下の学生と三人で最初に始めた会です。始めたのは2001年なので、僕がD1・博士課程の1年生の時で森田さんが僕の4才上なのですが独立してしばらく経って左官の修行を辞めて事務所を作って、何年目か?それぐらいの時期だと思います。僕の1年下の山田君が始めた時は修士だったので、その3人で。主には森田さんが「こういう事をやろうぜ」と言ったと記憶しています。

神楽岡工作公司とは (HPより)
神楽岡工作公司(カグラオカ・コウサク・コウジ)は、設計者、研究者、職人など異なる職能の人々が集まり、協働することでより高いレベルの創作活動を行う場として2001年春に設立されました。



■ レポート
 「京都町家のブランド化」を読む
  神楽岡工作公司HPへ


柳沢:直接の切っ掛けは森田さんが事務所を作って独立して一つ目の仕事が、京町家再生「」です。 (「繭」2000についてHPで読む

御池油小路の辺りにある1軒のわりと大きめの、奥に長い町家を商業施設に改修するというのを、森田さんが仕事として受けて。その時に元請的に仕事を受けて、いろんな職種、左官屋さんとか大工さんとか分離発注で造るといことをしたんです。

僕も解体から塗装工事から参加していたんです。その時に集まったメンバーと継続して、やっていこうぜと。そのような事で始まった。今、話してて思い出しました。

名前は神楽岡工作公司で。その名前にしたのは設計事務所とか違う名前にしよう、したいねとか、いろいろ考えて、彷徨ってそういう名前になったんです。 (「繭」について森田さん博士論文p45〜48参照)

佐藤:そうすると職人さんも参加されたと、普通の人も参加されていて、お聞きしているといい感じだなーと。

柳沢:最初のコンセプトは建築を造るときに設計者が設計図描いてそれを渡して造るんじゃなくって、造り手と一緒に建築を考えようと。そういう場を作ろうというのが最初のテーマだったと思います。やっていたことは基本的には呑み会。立ち上げの時点ではとりあえず集まってあれこれ喋っているだけだったんです。
ある時期から勉強会でも誰かが話てくれる人を呼んできて、あるいはそこに来ている人の中で誰かテーマを決めて何かスライド会をやるという形式が、始めてから2年目ぐらいに確立して、そこから5年ぐらい平均して3ヶ月に1度ぐらいのペースでスライド会を開催して、人を集めてやっていましたね。それが軌道に乗って、いろんな人が出入りしていていました。菊眞さんにも来ていただいた事がありましたし、魚谷君にも何度か来てもらって。

魚谷:記憶に無いですが、行きましたよ。   会場 笑




2008年8月3日 
渡辺菊眞さんによるレクチャー
「土嚢と建築」

上記イベント内容を読む 


2008年9月7日
魚谷繁礼さんレクチャー
詳細を読む 




(俺クチャーしてた)
 告知詳細を見る 
 柳沢究さんによる8月9日報告を読む 



東本大震災の報告会の方が印象が強すぎて2009年8月7日の俺レクチャーしたことを、この記録を作るまで忘れていた。


  俺クチャー集合写真 2009年8月7日の日記には参加者の顔も載っている 柳沢さんのお嬢さん参加、1才ぐらいだった


柳沢
:そういう感じでやっていた。で何時頃まで続けたのか記憶が定かじゃないんです。


 
2011年10月7日 階段井戸:そのインド水利建築までの開催とHPには載っている

佐藤
:どのぐらいの人数が集まってましたか?
柳沢:最大であの会場でやったときは25人とかがマックスじゃないですかね。入り切るのがそのぐらいの人数だったでんす。
佐藤:会場は参加者の持ち物件ですか、借りていたんでしょうか?

柳沢:借りていたんです。最初は森田さんの事務所として一部屋。神楽岡工作公司の場所として半分みたいな感じでした。で家賃は共有折半して借りていました。途中で人が出入りするようになってから、別の場所借りました。
神楽岡工作公司として運営メンバー、職人、研究者というか、森田、柳沢、山田、他に庭師の人とか左官屋さんとか大工さんとか、最大7人ぐらコアメンバーが居て、それで5千円ずつぐらい出しながら月・数万円の家賃を負担していたんですね。

佐藤:割り勘で場所を借りてた、電気代など光熱費は要るしね。
柳沢:1人、1万円だったか5千円だったか、1万円も出していなかったと思います。1万円出す人もいました(笑)

佐藤:学生も居たのでしょうから多く負担した人もいたんだということですか。
柳沢:コアなメンバーでは、山田がドクターでしたね。僕も最初は学生でしたけど。





 絵:webより

柳沢究さん略歴
1975年 神奈川県生まれ
1999年 京都大学工学部建築学科卒業
2008年京都大学博士(工学) 学位取得
2001年 建築集団・神楽岡工作公司 共同
2002年 Que一級建築士事務所 設立
2003年 神戸芸術工科大学大学院 助手(〜2008年)
2007年 4月 国立民族学博物館 共同研究員
2008年 一級建築士事務所 究建築研究室に改称
名城大学理工学部建築学科准教授を経て京都大学大学院准教授


魚谷繁礼さんの勉強会

藤:柳沢さんありがとうございました。では次に魚谷繁礼さんお願いします。魚谷さんの私塾は凄い強烈な印象が残っているんですよ。狭い町家に人がギューギュー詰めて語り合った。あの場所は何ていう名称だったんですか?

魚谷:あの場所は学生が住んでいた家なんです。

佐藤
:シェアハウスの一部を使った勉強会だったですか?
魚谷:個人で住んでいた家です。僕は私塾をした覚えが無かったで、なんで呼ばれているのかなーと思ったんですけど。佐藤さんに呼ばれて


 2012年2月7日魚谷さん的私塾 勉強会の後の集合写真(動画より)






 絵・略歴 サイトより

魚谷繁礼さん略歴

1977年生まれ。兵庫県出身
1996年大阪教育大学附属高等学校池田校舎卒業
2001年京都大学工学部卒業
2003年京都大学大学院工学研究科修了
京都工芸繊維大学特任教授
京都大学, 京都建築専門学校など非常勤講師
魚谷繁礼建築研究所代表

佐藤:俺が呼ばれた場所は、会は私塾だと思っていた、自主トレーニングの場でも言い方はいいんだけど。

魚谷:思い出したんですけど、たぶん僕が30才(35)ぐらいの時だと思うんですけど、その時に専門学校でゼミをやっていましたね。それから京都造形芸術大学で一般講座の授業を見ていて、専門学校のゼミ生と、元ゼミ生とか集まっていました。造形大の学生とかで、よく分からないけど、意欲だけはありそうな学生たちが集まって、一緒に建築を観に行く機会があったら観に行った後にレポートを発表し合ったり
佐藤さんが来る時には、ああいうふうに来てもらって話をしたり。これが大きかったですね、東北大地震、東日本大震災の時に皆で仮設住宅に庇を付けに行ったりとか。そういう活動をやっていました。
私塾かどうかは分からないけど、僕がたまたま縁の有った学校の学生とか元学生が、何か機会があったら集まって建築について一緒に考えていた感じですね。

佐藤さんが来た時の場所というのは僕の事務所の裏に在る長屋で、「学生が借りたい」と言っていたので、大家さんに言ってそこに学生を住まわせていました。長屋も高齢化しているので、若い人が入れば、もしもの時には役に立つかなーと想ったりしつつ、そこに学校卒業した学生が集まりながら、独立したばっかりで仕事が無いだろうから、場合によっては家の事務所の仕事とかも一緒にしたりとか。あるいは紹介したりしながら、ドンドン自分で仕事をしていけるように成ったらいいなーと思って。で大家さんに掛け合って長屋を借りたんですけど、その彼が凄い呑兵衛で酒に呑まれてしまって。そのうちに家賃を払わなくなってしまって(笑)大家さんにも追い出されて。こっそりといろんな問題を抱えたまま実家に帰ってんです。最近、5年ぐらい前にまた京都に戻って来たとい噂です。


 西都教会 壁と天井が織りなす情景
 

佐藤
:強烈に覚えているのは、魚谷さんが教会(西都教会)を完成させていて案内されました。「これで魚谷さんはやることが無くなったかなー」と俺は見ていたんです。
その足で太秦の方の住宅の増築(西橋詰町の長屋)も見学に行きました。あの建築はつい最近出来た「コンテナ町家」と言うんですか、あの建築の原形のような住宅の増築でしたね。

魚谷:あれは住宅ですね、太秦屋敷の住宅という。

佐藤:ぱっと見ですが家(西橋詰町の長屋)なのに高足蟹みたいに長い足でまたいだ家が屋根の上に増築されていました。(動画に説明あり)教会と住宅増築の見学の後、事務所に戻ると立体グリット格子の絵が飾ってあって印象に残りましたよ。魚谷さんはこの絵の立体グリットを使って建築をつくりたいんだんなと思っていました。
最近あの絵を具体的な建築にされ実現され何かの賞を受賞されました。骨組みを鉄骨で立ち上げた立体グリットの実現が始まったんだなーと想像しておりました。
あの日の最も強い印象は、いろいろ見学した後に「夜に何か話せよ!」といきなり言われたのです。毎日聞き取りしてたうえに、1日歩き周り、老体はぐったり疲れ切ってたんだけど、魚谷さんは元気いっぱいでして、集まった皆んさんも元気いっぱいで。こちら老人へろへろ。そんな人間の話を聞く人が居るんだなと。であの晩は何故か熱い空気だったんで強い印象が残りました。自分が話した内容は覚えてないです。
あの場の勉強会には名前が無かったんですか?
佐藤制作動画
2012年2月7日 my支援者である 京都の建築家 魚谷繁礼さんと1日過ごし語っていただいた内容などまとめたスマフォ自撮り動画記録です スマフォで音録はなんがありますがご覧くださいませ。
「魚谷繁礼さんと一日」
2013年4月24日動画公開

魚谷
:名前とかは特になかったですね。
佐藤:池井さんもいましたし、キチンと勉強してる印象だったです。女の子たちもいましたよ。いい感じだなーと。魚谷さんが勉強会を開いて私塾的に運営しているんだとばかり思っておりました。
魚谷:やらしているわけじゃないですよ。好くも悪くも学校のゼミとか授業とかの範疇じゃないので。自由に語り合う場でした。
佐藤:そうそう、売れっ子というのは大変なんだなーと思った。専門学で教えて、その後私を案内し続けて、夜は学生を集めて勉強会も開く。エネルギーあるなーと。毎日あのような活動をしているのかなーと想い驚きまいした。毎日やっていなかったんですよね。

魚谷
:や、結構やっていましたね。京都の街区のリサーチとかもしたりとかもしました。
佐藤:2011年にはまだ活動していました。
魚谷:継続してたというわけではないけど、何かあればやっていた感じでです。それで学生を長屋に住まわせて良かれと思ってやっていたんですけど。人に期待すると好い事ないですよ。(笑)学生は学生で自分の人生を彼らなりに生きているわけだし。

佐藤:
学生に期待してたと言われましたが、何を期待したんですか?
魚谷:こちらは長屋に住まわせて地域のためにいい事になるし、学生にとっても好い事あるんじゃないかなと思って。全然なにも好い事ないじゃないですか。(笑)

佐藤:そういう地域との経験がいいんだと思うんけど、好い事してる気持ちがあるという気持ちで魚谷さんが勉強会を開いてたとは今初めて知りましたよ(笑)

魚谷:そういうもんだなーと思って。良くも悪くも。
佐藤:魚谷さんは若い学生に裏切られちゃったと思っているんですか?

魚谷
:そんな事は思ってない、そんなもんだなーと。

佐藤:一通り勉強会といいますか呑み会といいますか、とりあえず私塾としておきますが。ここからはその特性などいろいろ話合っていきたいと思います


 その02に続く