編集者と建築家について語る 記録 01   文責と作成2021年8月佐藤敏宏
2021年8月4日 13:30より ZOOM開催 タイム・キーパー岸祐さん
佐藤敏宏のイントロ
佐藤不慣れなZOOM 操作てこずっている
岸:わかりますか
佐藤:分らないからこのままいっちゃいます
中村:レコーディングは佐藤さんの方で
佐藤:皆さんの声も聞こえているので、始めても大丈夫です



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佐藤敏宏の粗年譜
佐藤:みなさんこんにちは。13時30分になりましたので始めます。今日は「編集者と建築家について語るかたる」ということです。前半の1時間は渡辺淳悦さん、井口勝文さん、中村謙太郎さん、布野修司さんの順で15分ずつ語っていただきます。花田達朗さんにも参加いただきましたので最後に話していただきます。
2時間目は公開ZOOMの参加者にも語り合いに加わっていだたきます。それぞれ語り継ぐように自由な内容で5分ぐらいずつ発言してください。前もって知らせましたように、肉声はそのまま文字にしweb記録をつくり公開します。ZOOMで公開中でもありますから責任を持って発言ください。

私のメディア関係・体験について少し話します。私の「建築あそび」「ことば悦覧」活動や生き方にロールモデルがありません。ですから、活動は意味不明で変な奴だ(参加者によると・天然不良)と思うでしょう。

中学校時分から土方バイトをたびたびしてました。工業高校を経てゼネコンの設計部員に運よくなれました。1980年代からは独立設計士となりました。それはバイト代で黒川紀章さんの著書『行動建築論』を買い読み「設計士はこういう事を考えているのか、面白い」と思い、面白さを追った結果が今の私です。1990代半ばまでは耳慣れない「建築家」と言われる者に興味がありませんでした。1975年頃ですが、安藤忠雄さんは我がゼネコン設計部の仲間を奴隷でもあるかのように、こき使って図面を書かせる、なんだか暴力団員あるいは奴隷主に見えてました。

ただ縁あって、1994年に『建築文化』特集されます。2001年に『住宅建築』にも特集され講演に呼ばれ「建築家」と言われたりする、望外のことも起きました。建築雑誌の編集者が私を建築家に仕立てた、ということです。自分で建築家と名乗ったことは無いです。それは人生でマスディアと関わり、初めてマスメディア体験も影響してると思います。今日のゲストである渡辺淳悦さんとは1983年、朝日新聞福島支局の仕事で出会いました。挿絵を依頼されました。週に1カットで1年間、挿絵を描く仕事でした。メディアとの最初の関わりは朝日新聞だったのです。

その次に、1984年毎日新聞社から原稿依頼が来ました。原稿料をもらいコラムを書きました。福島市の土湯温泉町の路上を占拠し身体表現やアート表現活動を主催したからです。その活動の記録集を自費で刊行しました。あまり売れませんでしがコアな身体表現者、勅使河原三部郎さんなどには届きました。

さらに1984年11月17日に、その年に完成した私の家の様子が朝日新聞福島版に載り、見知らぬ高校の先生から設計の注文が2件来ました。

次に、自分で刊行した本の体験を話ます。身体障碍者や知的障害者の肉声をまとめた『フロッタージュ』を刊行、増刷しました。売上は全部彼らに寄付しました。
三冊目は『新都白河』という記録集です。首都機能移転の代案を社会化した活動内容です。渡辺豊和さんが曼荼羅都市・新都白河計画をつくり、白河市民有志との私の三者共同で話し合いと講演会を開きました。その時の活動内容を記録した本です。地元の反対でゲラの段階で終わり、本を刊行するまでには至りませんでした。見本一冊を保管したままでもったいない出来事でした。
一般的な建築家なら自作集を刊行し広報するのでしょうが、私は自作集刊行や建築家への思いが無い、そのことを分かていただけるかもしれません。30代は必死に家族と共に生きていて余裕がなかったのでしょう。「建築」を高卒で世間知らずもあり、大学で学ばなかった影響もあるかもしれません。何を思って暮らしていたのかと言いますと「家人の病と共に暮らしていた」家人の病のことばかり考えていて「建築」に関することはさほと考えていませんでした。

 子供が成人してしまった50代初頭、2002年11月5日に福島の民友新聞、社会面トップに大きく千万家が掲載されました。事件を起こす建築士にのような扱いですかね、記事の内容は真逆ですが。その時、最初に電話を掛けて来たの人は福島県土木部次長(建築トップ)でした。「おまえ〜民友新聞に幾ら払った」と言われました。新聞を購読してないし手元に掲載紙がないので、とっさにはその意味がわかりませんでした。次長の言葉は、福島県は新聞社に情報をたくさん与えると同時に、多額の広告費を払い県行政の広報活動をさせている、そういう認識の現れですね。つまり「県と新聞社は強い癒着関係にある、お前もか?」と次長が言ったのです。そう私は受けとめました。当時民友新聞はは20万部ぐらいの発行部数だったと思います。押紙数は2割ぐらでしょうね。さら同じ月に福島民報新聞、発行部数30万部の文化欄に載りました。県紙2紙合計50万部、実質40万部でもって福島県内に知らせていただきました。が、注文は一件も来ませんでした。私が設計した建築が社会的事件や松井秀喜の引退記事と並べられ扱われたのです。事件の建築士に成ったわけですから、県内に発注者は存在しないのも当然かもしれませんね。2002年には福島テレビ局の番組レポートで2つの建築が紹介されておました。この時も電話は鳴りませんでした。2002年に「建築設計はやめよう」と決めました。対話の時代到来でしからweb発信と「建築あそび」活動に移りました。それまで建築を自由に造るために長年持っていた福島市内のゼネコンの株を売り払い、設計も開店休業にしました。粗く言えば福島ではマスメディアは企業や行政と癒着し広告費をとり記事を書いてあげる、ごろつき媒体がやるような関係なのでしょう。そんな編集者・メディアとの体験・経過となります。

建築媒体・専門雑誌ですが、建設業界や建築家、あるいは教育者などと癒着し共存共栄を企てている広報機関誌だと思ってました。建築業界関係者のための広報誌ですかね。ですからあまり購読したことがないです。建築系媒体も、その姿は読売新聞社社主であり首相の座をめざし、原発を推進し、読売巨人軍をつくり、日本テレビをつくり、よみうりランドをつくり、販促した巨怪の正力松太郎、あらゆるメディアを駆使して、一般の日本人の深層を支配しコントロールしてしまった、あの正力松太郎と、それを継いで今でも政治界(自民党)を誘導する渡辺恒雄主筆。アネハ事件もそうですが省庁のリーク先は読売が多いわけです。二人の巨怪たちが作り出した媒体の成功モデルを、建築の各業界誌が小さくした形で真似たかのように成り立っている建築媒体、そのような大まかな編集者・メディア認識です。間違ってたらご教示ください。
一方、建築家のロールモデルは東大を卒業し博士になり、同時に建築家になり、建築業界と雑誌と教育界を支配する。それが典型的な「希望の建築家像」だったと思います。2000年以降に出会った若者たちは、有名なプロフェッサー・アーキテクトになりたい、と真剣に頑張っています。既存のロールモデル建築家像を追っている人間にはさほど興味と興味が湧きませんけれど、観察しているのは身近な社会がわかるような気がするので楽しいです。ここまでは建築家と言われる人をさほど知らない体験での感想です。

分断対立するのは好くないので、今は行政の人をふくめ組織事務の方々、ゼネコンの人、教育者たちも含め、日々建築を主に考えて暮らしている人、建築を造る人、それら全てを「建築家」と捉えております。もちろん建築編集者も建築家だという認識です。

私の持ち時間5分が経ちましたので、1983年、私が最初に出会ったマスメディア人、元朝日新聞・記者の渡辺淳悦さんからお話をお願いします。


渡辺淳悦さんの講話へ 

 

佐藤、19才現場監理姿









人生初刊行した本 記録集


1997年10月 新都白河計画・活動用チラシ