佐藤敏宏
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2024年6月の日記       5月の日記へ

 6月30日 

長崎漫遊記前半を完成させた。書き継いだので6webペイジに分け公開した。29日の分は後日書き継いだいく。

■AUショップに行きweb使い放題を解約し1〜2GBに変更した。でかいけないので光回線で済んでしまうから、料金がもったいないと思ったからだ。2Gオーバーした場合は加算請求が来る

■午後食事後、気分が悪くなり、ベットに寝ていた。夕方吐き気がしたので、便所に行ったらコールタールみたいな排泄物だったので、驚く。同時に倒れ脂汗などかいた。キューキュー車を呼んだ方がほかったかも 明日病院にいく。

ベットに入ってずーっと寝ていた。むかつきはなくなった。

■FB投稿

長崎漫遊記2024 再開
一月前、長崎市を訪ね多数の初体験をしたので、記録を「長崎漫遊記」として作り始めていた。先週の土曜日から左足に激痛が発生し、痛みは脳を占拠し何もできなかった。ようやく3時間ほどのワイワイを文字にした。今日はそれを元手に5月28日の夜の活動で〆記録をつくった。
健康第一!「痛い」となんもできないもんだ。
■動画各種に触れて
長崎市も人口減少だと行政は頭を抱えているような動画を見つけたり、長崎に移住してきた人があれこれ不足を動画にしたりしているが、俺は長崎を憂うのは筋が悪い、見ている点が違うと思う、クレームつけて注意喚起しインフレンサーになるってダサくないかいと・・思ったが・・・しらんけど・・「流行りに付ける薬無し\\]ってことで嵐が去るのを放置して待つしかないかな。

6月29日   夜になると涼しい風あり。

■数日前から、家人の部屋に小さなステレをがセットされて、夕飯おえると猫と一緒にベットに寝転んで聞いている。ようやく音楽を聞いても妄想がでなくなったのかもしれない。薬1ミリグラムが合っていて安定しているのかもしれない。

■昨日今日と鈴木先生とmy長女と長崎で夕飯をたべながらワイワイした3時間ほどの肉声を文字にしている。足も痛くっって3時間文字にするには1週間はかかりそうだが、貴重な機会なので、語られた内容を文字にして残して置きたい。
でコツコツ、作業中 数日で終えそうだ。

そしたら、長崎漫遊記、初日の記録を書いて、翌日の29日のことを各予定だ。さほど深いとはおもわないけど、いろいろ思うことがあったので記録しておく。



















6月27日  

先月長崎で鈴木先生からmy長女とふたりでご馳走になったときの会話の内容を文字にしはじめる。雑談風なのだけれど、今後のテーマがいろいろ見つかるので公開しないけど、web記録にしておくことにして作業を始めた。

■左足の痛みがだいぶ取れて、階段の上り下りがすこし平常にもどりつつある。足を動かそうと考えただけで痛みだすあれを通風というのだろうか。かなりしんどいよ。介護の世話、下の世話になるではないかと心配してしまうほど痛みで歩行できなかった。原因を突き止めて解決したい。


■FB投稿

「種田山頭火と漂白」@1986年福島駅そば「ホテル板倉」
(絵)は種田山頭火を支え続けた福岡県柳川市西浜武生まれの医師・木村好栄(ヨシマサ)=自由律俳人の木村緑平さんの句と写真。
◆我が家の容量をオーバした客数だったので「ホテル板倉をお借りし」てワイワイ。講師は村上護さんでお題は「種田山頭火と日本人の漂白」ついて。木村医師は豊国鉱業所病院、赤池炭鉱病院にて勤務し、山頭火のスポンサーでもあった人なので、知る人はおおいかも。(石炭が主力のエネルギーから廃鉱になるあたりのことを調べていて偶然、動画が落ちてきたので見た)
◆介護保険が無い社会では家族が倒れると家族が介護を担いつつ働くという過酷さが常態となっていた。その当時詠まれた緑平さんの句「ゆまりをさせる夢からさめて ゆまりをさせる」若い伴侶を介護している状況の中での一句は人をうつ。介護保険ができた世にあってはここまで家族が追い込まれることはないように思う。同時に緑平しのこの詩にうみだす心境に到達することも不可能だろう。

ドキュメンタリー動画はこれ 絵はここから撮るhttps://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=wMGjuKJxgo0...




















6月25日 正午まえ雨ぱらつくも続かず、気温上がる

■左足甲の痛みは薬の成果か、和らいできている。湿布貼り薬は靴下を履いてないと寝ている間に剥がれてしまうことが分かったので今夜は靴下つき湿布にしよう。

■足の痛みが取れたので、県図書館に本を返却に行く。歩けるのはいいね、としみじみ思う。途中撮り鉄のおじさんに声を掛けて、流石に人気のスポットは多くの人が言っているのだろう。我が近所では撮り鉄出没回数ダントツ。

図書館の帰りに美術館に寄る。人が少なく空調も効いているので、のんびり半日掛けて鑑賞するのに適している『福島の美術家たち』展、出店すうは実に多数である、154とか。工芸品が特にいいと感じた。

■FB投稿
■長崎漫遊記 「鈴木達治郎先生に夕飯ご馳走に」
 足の痛みに脳機能は占拠されていた3日間が過ぎ去り、今日から長崎漫遊記再開。(くいだいじん─食い大神の地としておこう)
「ハトシ」サンドイッチでもハンバーグでもない発想は似てるか
「すり身揚げ」東北の地では薩摩揚げという揚げたてが美味い
鈴木先生の口からは聞き慣れない料理名が出てくるでてくる。
店員が運んでくるくる長崎の味、姿も名も初物ばかり!だが美味い、で食うことに夢中で写真は撮り忘れて一枚もない。
絵は、サイトや観光パンフに載っている絵を投稿。
「わからん(和華蘭)」料理の混在した面白さは突き抜けているし、鯨の部位名も鯨食ったとは言わない文化分厚さを査証する一つだ。後に絵2枚投稿予定

■福島の美術家たち2024 @県立美術館(おすすめ)
2階のコレクション展に寄贈した斎藤隆さん(1984年作)の作品が展示してあった。多く人に観てもらえればいい。中学生たちが観に来ていたので、ちょっと声掛けたら引率の女性先生に礼をいわれた。礼儀正しい学生たちだった。
◆足の痛みは少なくなってきた。なんとか歩けるので県立図書館に返書しにいく。ついでに寄り道。西隣の県立美術館の「福島の美術家たち」を鑑賞。福島大学卒生だったりなど、福島県にゆかりのある作家たちの作品を多量に集め展示してたいて見応えあるのでお勧めします。気に入ったのは工芸品だったけど。気づいた事だが、福島系の平面絵画作家たちは優しい人が多い(都市の暮らしが無いので作家の暮らしやそこから生まれる性格が凡庸ともいえる)。立体作品がいい。工芸はいい、会津という地域が力になって現れてる・・ように勘違いかな
◆作家では、飲み食い交流し買ったりした方は陶芸家の一重さんのみだった。
◆コレククション展は80年代にワイワイ交流した知り合い作家が多いことに気づいた。絵画作品も作家とその背景にある暮らしぶりを知って観ると断然意味が異なってくるのでお勧めだけれど、作家に知り合いになる機会は一般の方々は殆ないかも。(気に入った作品を買ったた、扉が開いてひど目にも遭うかも)
◆県美美術館を体験すると分かることだが、足が痛く歩行に難儀するとなると特に気になる。そのの1点は土を盛って高くしてGL設定したことで、メイン展示室は階段でおろす・・スロープで下ろす、その強引さだ。歩くの痛いいたいのよ>根本的な計画の欠陥があらわになる。「足の痛みや歩行できないやつは来るな・・・ここは美の神殿」と胸を張ってエラそうに見える神殿なんだろう。そいう意図なら時代錯誤も甚だしいが建設経緯を知らん。ベン・シャーンの贋作購入疑惑でもりあがっていた県美だったので、建築の講評はいいのを耳にしたことがない。
来月、福島県の当時の建築を語る講義を拝聴する、そこで歴史系はこの美術館をどう評価するか・・スルーかも。













6月24日  

■昨夜から左足の中指の付け根が痛くって歩くこともままならず、立った瞬時にそこが疼くので夜トイレに行くのが苦痛だったので、一階のソファーで寝た。朝一番に整形外科に行き、レントゲン、採血、超音波などで診察してもらう。どうも通風しか原因が無さそう。とうとう通風に襲われたかもしれない。なにしろ痛いのなんの、尿酸値が溜まりすぎると、膝に痛みが出るなど人によって現れかたがことなるのだそうだ。アルコールもビールも当分の間呑まずに体調管理にいそしもう。
とにかく痛くなてしまうと、1日中やる気がでず、寝ているしかなくなるので、健康第一、最優先し淡々と日常をすこしていこう。

■一月前にお願いしたのだが、家人の部屋にエアコン工事が完成した、大変喜ぶので驚いてしまう。
■16日夜、辻琢磨さんのご両親を聞き取りしwebペイジにし内容を訂正す完成とする。

■FB投稿

痛み止め薬と湿布(とうとう通風か?)
あまりの痛さ!歩行できないので整形外科医にて診察うける。レントゲン2枚撮る。骨は折れてない、ヒビもない、突き指もなし。「通風かもね」と採血し痛みが取れるまで2週間分、痛み止めと湿布薬を買う。
「通風の治療は痛みが消えてからね」俺は歩けないのだが、松葉杖ほしいだけ・・ど貸してもらえず。
(左足が激痛で頭クラクラした、それで一番困ったことはトイレまでの歩行だった)

■40代に入ると「通風でる」と医師から言われていた。看護婦も慣れている通風。「年代関係なく通風出るから・・」とそっけない。俺の足の痛さと看護婦の素っ気なさの対比は、強く印象に残った。2週間後に通風宣告うけるかも。それにしても・・いろいろ病っているな俺。生きているから痛いだ・・ということですかね。





6月23日  降ったりやんだりの1日 野鳥がさかんにさえずっていて賑やか

昨日午後から左足の甲がいたくなる。階段歩行が特に痛い。


■FB投稿
梅雨に入ったかのような雨の日曜日
昨夜から突然左足の中指と人指し指の間の甲が腫れ上がる。階段や歩行など体重移動を伴う空間移動にさいし左足のそれが痛いん!痛いんである。
寝てれば良くなるのかと思い早寝して、ごろごろ動画を見てた。その間、トイレに行くたび立ち上がると・・左足の痛い痛いそこに目掛けて前・血液が流れ込むんでるような血管が太くなるのが分かる、同時に痛みが一気にくる、痛いん。血管破裂するのではないかと感じるほど痛くなる。足の甲を見るとさほど腫れてはいないが、熱がある・・、歩くたびに血流が移動するのだろう、同じようにいたい。今日は病院はお休みなので量販店に自転車を漕いで熱さましシートを買う。
自転車を漕いで買い物は痛くない、だが、乗り降りい時の体重移動にともなって、たまらん痛い。なんじゃこりゃ!通風きたるかな?・・などと原因を詮議せす、熱冷ましシートを買って来た、冷たくて気持ちいいね。明日整形外科に行って病名をつけてもらおう。若い時分から言われていた。尿酸値が閾値を越えてしまい高くなったのなら、禁酒だな・・・ぶつぶつ。














6月21日  気温上昇せず快適、梅雨のような湿っぽさもない

■県立図書館に行く、ついでに町中に出て雑用。途中で一升瓶を買う。酒もさほどのまなくなった。
 お金を稼せげなくなったので、活動はほとどできなくなった。それは少し人生としてはよくないと思うが打開策は「稼げ」が答えだが・・。
■my次男家から通っている職場からの指示で、 3ヶ月間で10日ほどの講習を受けよ・・講習後の専門の試験にパスした。家人はほっとしている。

■FB投稿

長崎漫遊記 (作成中休み)長崎の豊かさはどこから
長崎市の重層的な豊かさはどこからやってきたのか?地形がいいと気流がいい。なにしろ食い物はなんでもうまいよ!(中華ばかり食っていたか・・美味い刺し身もご馳走うになりました・・・などいろいろある。
歴史上の本流の長崎の豊かさの源は日本初プロカメラマンである上野彦馬(1838〜1904)さんの評伝に書いてあったよ!
■以下21ペイジより抜粋
●一般町民もその(←長崎奉行大いに儲かっていた)おこぼれを、家持たちには「箇所銀」、借家人は「かまど銀」で分配していた・・・・・行政費も町民の分配金の中から、あらかじめ天引きしておくので、税金の負担もなかった。・・・長崎人は裕福で、宵越しの金はつかわないという気風は江戸っ子と似ており、祭り好き、遊び好きで、料理が発達してうまいものをつくるといこうとになった・・・ 抜粋終わり(上野さん!そりゃないでしょう・・というほどの女好きであるが省略)

■いまではだれでもスマフォ・カメラは持っていて、自撮り絵は盛んにSNSに投稿されるので、写真画像は珍しくない。しかし日本人による日本人の人物撮影写真を知っている人は少ないかも?右の写真がそれ・・これは藩主の島津斉彬さんを宇宿右衛門さんと市来四郎さんが1857年9月17日撮影に成功したそれ。(参照:『写真の歴史』福島県立図書館所蔵)
・ニ枚目は上野彦馬さんが1866年に撮影した坂本龍馬さん30歳。これ、多くの人は見たことあるはず・・革靴が珍、お腹にグラバーさんから頂戴した、短銃を隠し持っている?・・と想像させてくれるね

福島市と長崎市は縁がある、毎日駅前で古関裕而さんが長崎の鐘を演奏している(オルゴール)以前は夕暮れ18時に演奏開始だったが、最近は夕方福島駅に近づかないから演奏時間は知らん。






6月20日  気温上昇し大地乾く

■校正データが来たので、1日中、鈴木達治郎先生の「1980年代を語る」を修正し更新する。1987年のボストンお雪の写真サイトを見てびっくりする。

「原爆の開発を指揮したロバート・オッペンハイマーが、終戦の19年後に被爆者とアメリカで面会し、この際、「涙を流して謝った」と、立ち会った通訳が証言している映像が広島市で見つかりました。」とのニュース流れる。

■都知事選挙が始まったので、ウェブ状に関連情報が溢れている。
■FB投稿

オッペンハイマー氏の晩年の激ヤセ(憔悴)の因なのか
1960年9月3週間ほど、湯川秀樹博士、朝永慎一郎博士などの招きで来日しているときの記事には、ヒロシマ・ナガサキに関して、涙を流したとの記載はない。1960年の帰国から4年間で何が、オッペンハーマー氏を変え反省することで(?)憔悴していったのだろうか・・(伝記にも無い内容だ)





6月19日  今日は朝から気温上昇した、少し風ありて助かる

■辻琢磨さんの両親とワイワイした文字記録に絵をつけ整えて、連絡する。
この記録を元に他の記録と合わせて「生い立ち」編を書く予定。

■昼前に食材を買い出しにいく。

■午後、記録を読み直す。夕方鈴木先生から校正の連絡あり。忙しいなか見ていただき大変ありがたいことなのです。明日朝から修正更新する。


■FB投稿

食堂の日除け葡萄 繁るしげる。
穀雨と日替わりで照日差しに支えられてぐんぐん葡萄の弦のび盛ん。葡萄の実もたくさんつけていて、日除けにしては出来過ぎ













6月18日 朝方から 夕方あがる。

■朝あら晩まで辻琢磨さんの両親と16日ワイワイした記録を文字にしてしまう。

他はなにもせずだった。ほぼ終えたので、明日から絵をつけよう。
■1Fの6号は朝から路冷却できなくなっているとのニュースあり。

■17日のFB投稿

「両親に聞く!」@ぐうぜん父の日
浜松市を拠点に活動中の辻琢磨さんのご両親とオンライン。そこで琢磨さんの生まれた経緯など含め、忌憚を知らない俺が、何でも質問し、強引におしえてただいきました。なるほど!
■1986年生まれの辻琢磨さん世代は、紙媒体から開放され学生時分の21世紀初頭から活動を発信した最初の世代だ。で、瘋癲あるいは野良犬のような暮らしを実践している俺は、偶然にも琢磨さんとも出会った。あれから20年ほど交流ししているのだけれど、辻さんを通じて、あの当時の幻のような時を記録しておきたいと思い込んでいる。
俺記録は、高尚な記録にはならない、下品とさえ言われている。だれとは書いて投稿しないけどそうなのだ。「高尚さはでっち上げ。インチキだ・・既存メディアが作った仮の情報を受け止め信ずるのは嫌だ・・」そう思う人も一部いる。旧来の価値にへばりつきコバンザメ型で権威をかり成り上がろうとする者も無関心もいる。どっちでもいいけれど面白い人類が建築家と称される生き物たちだ。
自ら発信することを知ってしまった初物・若い世代はどのように誕生し、どのような地平に行き着くのか?・・興味はありますよんですよ。そんなのね!まいいや・・ご両親にお聞きしてみよう・・なるほどそうか・・とわかったような気がする。
■辻さんのご両親様に感謝申し上げ、同時に数々の非礼もお詫びいたします。
■こんなことだったとしておこう。
琢磨さんより15歳(50歳ちょい)ほど、年上の方々だと戦中に暮らしを生き抜いた両親が多いんようにおもうだけど、琢磨さんの両親、世代は戦争を体感していない、日本の台地で、戦争を知るその機会がない世代の子どもたちだと分かって(当たり前のことだ)興味深かった点も多数あり。



■長崎漫遊記 こつこつ書いている (江戸期は税の負担なし長崎民)
長崎がいつから豊かだったか、そしてその豊かは被爆に遭っても続いているのはなぜか?たいへん興味のそそられる点の一つだ。
坂道も多い、俺は資料館から爆心地、平和祈念像まで歩き回ったが息があがりっぱなしだった。地図で高低差を切って観たらてみたら差は50mだ、ビル15階を登り降りして鑑賞して行き来したようだな・・・疲れるはずだよ。
■長崎漫遊記は28日の半分しか書いてないけど5webペイジにもなっている。あまり長くならないようにしたのだがおもしろ長崎だからたがをはめずに書こう。
今日は明治維新前後の超名人を撮影した日本初のプロカメラマンの『評伝・上野彦馬』をめくっている。21ペイジには長崎奉行になりたひとがたくさんいたとある、一度就任すると数年で一生生きられる分の収入を得てしまうのだそうだ。一般町民にも富はおこぼれされ、長崎全体が株式会社のようなかたちであった・・と。これが基本中の基本だろうが、全域に富を分配し、外国文化を受け入れ、商売ならなんでも商うぞ!そして儲ける三菱魂?・・・もかりマッセイ精神が底流を流れ、坂道を登りくだりする。殉教者も被爆死者も長崎の大地にたつと唸りをあげるように立ち上がる、そういう気配で満ちている不思議な場だ(地形が人に与える続ける影響は大きいのだ)



6月16日  さほど暑くならず過ごしやすい日だった

■昨夜、煮た杏じゃむ食べ、杏ジュースを呑む。美味い!

■長崎漫遊webペイジ5枚目を書く。6枚目を書けば5月28日の漫遊記はまとまる、でつづいて6月29日長崎漫遊記へとなるが、完成まで果たしていつまでかかるか不明だ。

■午後、花田先生のwebペイジを更新アップする

■夜7時から辻琢磨さんと両親を聞き取る。やく2時間。

webオンラインがつながるまでだいぶ時間かかり過ぎて・・・大に弱る。オンラインワイワイもいろいろあるので、今夜はどうも上手に繋がれないのだが・・。やっと繋がって、出足まずく、繋がったので、どうもうまく聞き取れなかったかもしれない。聞き取るって難しいね。

とはいえ、これからも、、迷惑かけても、いろんな人に聞き取りするつもりだ。よろしくっていうことです。







6月15日  今日も夏日暑いひだったよ。

雑用と食材買い出しの合間に長崎漫遊記を書く

■FB投稿

杏を摘果しジュースとジャムに!するする。暑いよ!
福島市一気に気温上昇、ととに庭の「杏」熟れすぎ落ちだしたので、全て摘果して煮ている。甘酸っぱい香りに台所満たされている。適度に甘酸っぱいジュースも美味いね。今年は実すぐりしたので、粒が一定になっている。惜しまず、ひと手間かけると効くね。

都知事選に「AIゆりこ」登場ってTL落ちてきたけど、候補者の代理で語っていいのかね?アバターなら何人でも複製できる金持ちのための道具だと思うけど。どうなのかな。電通仕込・金持ちAI使うって今後選挙って問題ないのかね、しらんけど、生身で立会演説会でガチコンすべきだろう。立会演説会にアバター登場させちゃったりするかな・・

今日も猛暑になりそうだぜ福島市内
涼しい時間に雑用を済ませ外にでず、長崎漫遊記の継ぎ書きはじめる。今日は「長崎原爆資料館」を体験し感じたことやままに書き出した。展示屋さんたちは一筆書きのように計画するのが大好きみたいだね。俺はトコロテンじゃねぇんだから、押すな!・・・こういう展示計画はどうもな・・という気分で見まわった。人が多いのには仰天した、家に帰ったら長崎の被爆のことを一人でもおおく語って伝えてほしいものだ。









 6月14日  午前から暑い1日 33℃とか。

■鈴木達治郎先生の1980代について語っていただいたweb記録に絵をつけて、先生にお知らせする。ついでに年譜も修正する。

■午後、あついのでPC作業はやめてごろごろしながら読書する。『ご冗談でしょうファインマンさん T U』をよぼ読み終える。原爆についてワイワイしているので、「下から見たロスアラモス」は『オッペンハイマー』伝記とは視線が違うので、下から目線をもってその当事者が書いているので、伝記の欠点も分かったような気がする。男性が書いているからだとは思うが、あの伝記は赤裸々には書いてあると思うのだが、立派だよ科学者とロスアラモス視線で書いている。ファインマンさんは実に具体的で的確な視線で存分なくロスアラモス欠点を記述していて、貴重な視線だと思った。他には日本に来て帝国ホテルに泊まるより和風旅館で日本文化を堪能するのがいいとか、教科書の委員になって教科書選びの問題を散々かきまくっている。子供の豊かな才能を開花させる教科書になっていず、知識を押し付ける意味のない教科書だと酷評している。日本の教科書にファインマンさんが触れたら絶句することだろうと邪推しながら読んだ。

■今日のFB 
八戸市美術館に関する記事が投稿されています読んでね! 勝手に森潤平さん(先生ニ就任)推し歩いているお爺さんです。

八戸市美術館に関する記事が投稿されています読んでね!
 勝手に森潤平さん(先生ニ就任暑中見舞 いるいるそんな 水無月哉
このとこと数日福島市は猛暑なみの気温になっているようです(気温測ってないけど暑い)桃もどんどん大きくなっていて、ひと月も経てば、桃かじる月がやってきます。
桃かじりながら原発ごのフクシマも体験しよう!
(お誘いなのだが効き目なさそう))推し歩いているお爺さんです

鈴木達治郎先生早稲田大学で有料,全4回講義7月4日〜 
若い方、おおいに参加され核兵器開発の歴史から核廃絶まで学び、戦争や平和についても考えつつ21世紀を生き抜いてください!!よろしくお願いいたします。

6月12日  気温上昇し夏のようになった午後、夜風は涼しくっていい

■午前 鈴達次郎先生の1980年語りを文字にする。
■午後、スーパーに食材を買いにいく。他は鈴木先生の文字記録に絵をつけ始める。

■FB投稿

夏用麻糸で袋をあんでもらう
家人あんていし手芸盛ん。世界に一つしかない夏袋かんせいした。夏は麻が似合うのでは・・。
糸代3000円なのに完成した袋をメリカリで売り出すと「500円でも売れない」と次男に告げられたが・・。






6月11日 

朝から、鈴木達治郎先生の1980年代を文字にしつづける。といっても休憩すると寝てしまう、老人なのであった。眠い眠い、逆らわず寝る。

合間に『ご冗談でしょうファインマンさん』第ニ巻も読み進む。

■FB投稿

昨年の初夏、移植した紫陽花さいた!
選定の仕方分からず、いい加減にぶった切って、北道路面の幅の狭い庭から物干し場の移した。・・咲いておおいに喜ばれる。紫陽花は水滴が似合うね。(昨日撮った)今日はカンカン照りの福島市なのでぐったり・・しおれている。


6月10日  昼ごろ強い日差しあり 

何度も昼寝しつつ、文字起こしする1日 長崎漫遊記4ペイじめも書きはじめた。
















6月9日  昨年移植した、あじさいと額紫陽花が咲きだした。

寝ても休んでも疲れがとれないのはホルモン剤の効果なのではないかと疑いだしている。薬休むと男性ホルモンによって元気になりそうなのだが・・医師に言われたとおり残る半年ちょいは言いつけをまもることにしよう。

■午前中、長崎漫遊記、その3を書く。まだ半分まで来てない。休みながら、こつこつ続けよう。

■午後、鈴木達治先生の1980年代語りを文字にする。45分ほど文字になる嬉しい。

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長崎漫遊記・・原爆資料館の入口に来た。そこまで書いた。
「爆心地を訪ね体験する」それと原爆資料館を体感することをいの一番に掲げ長崎市を訪ねた。想像していより遥かに豊かな町の体験だった。原爆資料館にたどり着くまで2WEBペイジ半書いてようやく資料館の入口の坂道まで書いた。(資料館・内部での体験を明日から書き継ぐつもり)
絵は資料館の入場券と一緒に渡される資料にあったものだ。
丸い斜路の絵はフクシマ伝承館にも転写され、造られている。が、俺にはこの長いクルクルした斜路が鑑賞者に与える、強要・移動する意味が長崎原爆資料館に入っても腑に落ちないままだった。
資料館の回りは地図絵のように、関係施設がびっしりと設えられていて、1日では見尽くせない濃密な地域であった。そうして長崎市の人々は、原爆を記憶を伝承することに注力し、日本に数少ない場所であることを示していた。
だから原発で豊かに暮らすことになている日本各地の人人は訪ねるべき観光地は長崎市なのだと、思うことになった。そうして東京電力第一原子力発電所構内も体験するのがおすすめだ。それは敗戦後のエネルギーと現実と、それを選択することでおきた悲劇を知る貴重な体験になるだろう。フクシマ〜ヒロシマ〜ナガサキの旅を多くの人に俺は推しますです。


6月8日 

午前中、長崎漫遊を書く。まだ原爆資料館に至ってない。こつこつ少しずつ書くことにしている。
ストリートビューで確かめる、6月6日に作成した地図に間違いがあったので修正する。

■午後、鈴木達治先生の1980年代語りを文字にしだす。毎日30分ずつ文字にする予定だ。

ときどく『ご冗談でしょうファインマンさん』を読みながら・・。

























6月7日 薄曇り

■家人の司令で北側の道路面の草むしりをする。20mオーバーの距離に生えた夏草をこつこつ掘り起こし採る。筋肉衰えているので、疲れる。一気にやらずに何でもサボりぎみになっているこの頃。


■昨夜 鈴木達治郎先生の1980年代を聞かせてもらったので、絵と音データを整理時、文字起こしはいつでもできるように準備する。毎日こつこつ文字にして年譜などに投影していこう。

■午後、近所のスーパーに食材を買い出しにいく。体力が落ちているのか、前立腺がんの薬ホルモン剤の効果なのか、大腿骨と背中の筋力がおちて、疲れやすくなっているようにおもう。元気がなくなっていると書いたほうがいいかも。

■残りの時間は長崎漫遊記を書いては、webアップしアンドロイドに読ませつつ修正をする。これは便利だ。文章が下手くそなことも分かってしまうのだが・・モツコツ続ければすこしは分かり易い紀行文も書けるようになるかもしれない。

■夜はmy次男が会社の呑み会だということで、家人と二人し早めに乾杯して飯を食べて、寝ながらユーチューブ見ていたら本当に寝込んでしまった。近頃寝すぎているように思う。寝るわりには筋力が回復しないのはどうしてだろうか・・とあらぬ想像をする。

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鈴木達治郎先生 1980年代を語る
昨夜ワイワイしました。80年代は日本経済も人々の気分もナンバーワン観あふれた、一種気でも狂ったような様でしたから覚えておられる方も多いと思います。そんななか、鈴木先生は国際エネルギーフォーラムを経、1986年からMIT(環境政策研究所)にて技術経営組織、規制、政策ををあわせ、日欧の原子力発電所の安全パフォーマンスを学ぶプロジェクトイン参加されていました(ディレクター)。欧米・日本・米国の事例を徹底的に集め失敗から学ぶ、そこから徹底した合理主義にもとづいた原発運営の実例などの一端をおしえていただきました。
次回は日本の経済バブル崩壊から失われた30年が始まっ平成の世下で、鈴木先生はどのように研究し、暮らしていたのか・・・などをお聞きします。
鈴木先生の明る、笑顔を絶やさず困難に立ち向かい、問題が起きると動物的にとっさに判断する・・・その姿勢と、研究者にもかかわらず仕事をとりに声掛け、動き回り仕留める・・・アメリカ・MIT仕込の生きる研究者の姿勢は、多くの者にとっても鑑と言っても過言ではないのでしょう。35年後の現在も変わりなく「核廃絶」を主に活動されている稀な方です。

ちょっと褒めすぎ…こちらこそありがとうございます

じょじょに専門的になっていますのでおおめにみてください!次回は「冷戦崩壊後」私はこれで核戦争は無くなるのかと思ってしまいましたが・・その影響のあれこれのこともよろしくお聞かせお願いします







6月6日

夜7時より、鈴木達治郎先生の1980年代を聞き取りする。専門的な話に入ってきているので、以前いただいたPDFを追いながら質問する。

2時間弱で終える、次回は1990年代について聞き取る予定だ。

借りてきた本を読んだり、長崎漫遊記を書いたりしていた2日間。長崎漫遊記web版はまだ下記始めたばかりだが、長く書くと決めてはじめた。完成まで1ヶ月ぐらい掛かるかも、出来たあとは東京漫遊2024を書く予定。


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■長崎漫遊2024を書き始めた(奥深すぎる長崎!)
「2017年8月26日 岡田治子さんに聞」も思い出してしまった。
岡田治子さんと家族は満州から引きあげ、長崎市のおばさんを訪ねた話を記録したことを思い出した。引きあげてきて、おばさんを頼りにしようと、このあたりを歩いたのか・・・キョロキョロみてしまった、かなり坂道だった。治子さんは大村市で暮らし成長し東京に出て、現在は千葉の稲毛で暮らしている。

■ファインマンさんが体験したロスアラモス、それを知る
(今年度は原爆と核発電あれこれ、そしてまち歩き三昧ときめた)
長崎漫遊しドイツに帰ったmy長女から「家に置いてるほんの中に『ご冗談でしょうファインマンさん』って本があるはず。ファインマンって(オッペンハイマーと)同時代の物理学者で、映画『オッペンハイマー』にもちらっとでてくる。その人の自伝。ロスアラモのこともなにか書いてあったきがする。」
早速さがして読もうとしたが、my次男の鍵つき書庫にある・・しかたがないから県立図書館で借りてきて読み始めた。「下から見たロスアラモス」という50ペイジほどの節があった。オッペンハイマーの評伝にあるロスアラモス、映画『オッペンハイマー』、『シャドー・メーカーズ』で描き出されたロスアラモス。オッペンハイマーは所長でボス、ロスアラモスの下っ端物理学者、ファインマンさんの回想録で浮かび上がるロスアラモスや最初の核実験の様子が独特の筆致で表現されていた。大変興味深い内容。講演録のような書なので読みやす点もおすすめか・・。









6月4日 晴れたり曇ったり雨が落ちてきたり梅雨らしい天候だった

■午前中、長崎漫遊記を少し書く。11時ごろ県図書館に本を返却し他の本『ご冗談でしょう、ファインマンさん』1,2巻借りてくる。「下から見たロスアラモス」を読む。

■午後疲れたので横になると、2時間ほど寝入ってしまった。東京漫遊で貯まった疲れがようやく抜けていくような気がする。
 
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長崎市と写真家たち(機会があれば写真家の軌跡を踏みしめたい)
写真家の東松照明さんが撮影した組写真「風化する時」(オリジナルプリント)を衝撃を受けながら観たのは1982年12月、福島市の文化センターで実行委員となり開催した「東松照明の世界・展」の設営会場だった。
展覧会の冒頭写真は1945年8月9日11時2分で停止した懐中時計ではじまっていて、片岡津代さんなどを被爆者数名と被爆者2世の浦川志津香が成長し花嫁衣装姿で御仕舞にちかづく。東松さんは晩年長崎市に移り住んで長崎市をこよなく愛した写真家の一人でもある。
長崎市は写真と縁が深い。写真が日本列島に最初(1984年)にオランダ船によってもたらされた(沢木耕太郎著『日本人の写真・歴史と現在』)地でもある。さらに日本人初のプロカメラマン・上野彦馬さんは今も長崎市観光案内図にも紹介されている。
1945年8月10日長崎市の被爆後を撮影したのは山端庸介さんという軍の記録兵で「井樋ノ口のおにぎりを持った親子」や原爆資料館に展示されている写真、さらに1952年に出版になった『原爆の長崎』を観ている人もおおいだろう。















6月3日  曇り時々はれては、夕刻から強い雨 

■午前、電気量販店に行き6畳用エアコンを調査する。設備工事店にエアコンをつけてもらったほうがいいと思ったので、電話をして調査に来てもらい今月中に設置してもらおうと思う。(長生きに効くかは分からいけど、そしてお金は無いけど、少しでも快適な環境で老後をすこしてもらいたいので、家人のためのエアコンだ)

■長崎漫遊記を書き始めるもさほど進まず、資料を整理していると、読んでしまうからだ。(長崎と関わる人では東松照明さん、上野彦馬さんなど写真系の人も興味があるけど、今回は訪ねることができなかった・・・)
旅の記録づくりとしては順序が逆になってしまうのだが、その後に東京漫遊2024も書くことにした。

■FB投稿

今日から「長崎市漫遊記」webペイジ作り開始
「1F原発事故後フクシマを生きているので・・俺、長崎市のファットマンの爆心地を今年は訪ねようと計画してるよ」とmy長女とたべっていた。ダベリは「東京漫遊2024」の宿住居(星座型居住実践)で飯炊き爺さんしながら。
PC操作していたmy長女が「マイレージが貯まっていれば・・カチャカチャキーを打つ・・・たまっているので、それ使うと2人で行ける!」と応じてきた。
■長崎市に行くなら、長崎大学の鈴木達治郎先生に会ってワイワイしたいので、連絡するとウィーンで会議中だが長崎に戻る6月28日夜なら時間があるとメッセージがあった。そうして28、29日、一泊二日の長崎市漫遊が決まった。
■事前準備なしの旅だったが、その地に生きる人に会う、地形と歴史を体験することは面白く教わることも多い。








6月2日 朝がたから晩まで 

■午前、午後先月末にデータ整理をするもさほどはかどらず。原因は新PCと新スマフォを同時に手に入れてしまったからだと思う。どちらもまだ慣れてない老人であるよ。

■大阪の林さんからメッセージあり、アーキフォーラムのビデオを撮影した画像を探すも見つからず。残念。林さんはアーキフォーラムをテーマに博士論文を書かれている方だ。

■FB投稿

老人はスマフォとPCを同時に新しくするものではない!ようだ。
俺が阿呆なのかもしれないけど、画像データ整理手法乱れまくって落ち着かないくってゲンナリ。新スマフォにしたら1カット当たりのデータ量が多すぎてゲンナリ。同時に新パソコンの画像ファイル作成のしかた下手でゲンナリ。おまけに記憶力無くなっていて、撮影した日を思い出せないくってゲンナリ。
夕飯早めに食って酒でも呑んで・・老化に逆らわぬことにしよう。
音データ整理はスムーズなのに・・撮影に数台カメラを使うからかもな・・・。
めまぐるしく・・・活動し過ぎかも・・my長女の「IT術生活に」付いていけない老人パパとなる。









6月1日  

重い荷物も背負ったり都内の乗り換えで階段を登り降りしたりしたので、筋肉痛(年はとりたくないな)なおらず。

午前、午後my長女帰国に合わせて各地訪問した写真データとパンフレッtなどの資料を整理する。

my長女も無事ドイツに戻ってのんびりしているとのこと。そうそう、飛行機の中で『オッペンハイマー』を英語版でを観で短い感想メッセージあり。

■FB投稿

我が家に戻り、データ整理・HP日記を粗書きしアップ

 この十日間の出来事を「東京・長崎漫遊記」としてまとめてweb記録にしたいのでデータを整理する。記憶がすでにごちゃ混ぜになっていて呆れる・・記憶力と体力がなくなっての強い味方はデジタル機器各種だが・・・それらの機器を使いこなせていないので、最適な使いこなし方を編み出さなければと思う。my長女の使い方を観ていたが到底娘にようには使いこなせない・・と諦め気味。

仕事場から見える
信夫山にかかる雲ともに美しい日だ。雨でホコリが地にほちたからかも。今年も梅雨は少なめなのかな、モコモコ感でていて、夏めいているような気がする。
■10日間にいただいたお菓子を食べて、あの時を想い味わう