鈴木達治郎先生 1980年代を語る その1 | 作成:佐藤敏宏 2024年6月 | |
佐藤:鈴木先生の画像が写らないな・・・。一度、切りますね。で、私の方から連絡します。 もしもし。 鈴木:はい、見えました。どうもどうも、先日はありがとうございました。 佐藤:こちらこそ、長崎までお仕掛けて行き、夕飯、ご馳走していただきありがとうございました。先生に谷中の煎餅を気に入っていただけるとは思いませんでした!煎餅好きだったとは・・・よかったです。 鈴木:お煎餅まだ一杯残ってますよ。オフィスでみんなにおすそ分けしました。 佐藤:それはどうもありがとうございます。今日は「鈴木先生の1980年代を語る」ということです。80年まではコンサルに勤務されていたということでよろしいですか? ■81年、「国際エネルギー政策フォーラム」に勤務 鈴木:そうですね。 佐藤:1981年から国際エネルギー政策フォーラム(IEF)に勤務なされたと・・・。 鈴木:81年の1月だったかな。 佐藤:その機関は東京大学の中に設置されていたんでしょうか? 鈴木:国際エネルギー政策フォーラムですね。これは財団法人の工業開発研究所、その後「産業創造研究所」に改称し2007年解散しています。 大学の先生がよく政府からお金をもらうときに、直接大学にもらうのが恥ずかしいときに、外に研究所を作って、そこが受ける。そこでいろいろプロジェットをする。「お座敷シンクタンク」って聞いたことありますか? 佐藤:ないですね。 鈴木:はははは。そこに先生がたを招いて、「お座敷でお酒を呑みながら、ご飯を食べながら、いろいろ議論をする」、そういうシンクタンク。 佐藤:鈴木先生は、お酒は呑めないので困りますね。 鈴木:そうそう。そこに私の恩師の大島恵一先生、工業開発研究所の理事長をやっていたんです。で、そこの中に向坂正男さんという・元経済企画庁のお役人で、お兄様が有名な社会学者で、向坂逸郎さん。 佐藤:お兄さんはバリバリの左派・マルキストというか経済学者ですね。 鈴木:そう。弟さんの正男さんは政府、役所にいたので中道的なかたで、凄いお世話になりました。向坂正男さんは経済企画庁のときに、外へでて当時の通産省などと一緒になって、日本エネルギー経済研究所をつくったんです。で、そこの最初の所長になられ後に会長になられた。 60年代は、日本のエネルギー政策が脱・国内石炭でEU石油にシフトしたときなんです。そのときに日本エネルギー経済研究所をつくられたんです。理事長をずっとやっておられて、エネルギー危機もそこで予想されていたぐらいの方なんです。 オイルショックは1973年ですが、その前に作っていた。「エネ研」というんですが、向坂正男さんはそこに長く勤められていて辞める。総合開発機構(NIR・ニラ)という政府が作った総合シンクタンクがあるんです。今はあるのかな?そこの理事長も務められていた。 そこを辞められて、1981年に国際エネルギー政策フォーラム(IEF)を大島恵一先生と一緒に作った。 このフォーラムは珍しくって。実は、70年代に前回に(1970年代を語る)お話したアメリカが再処理政策を変更したじゃないですか。 |
『エネルギーの情勢と日本の選択』 1974年向坂正男。大島恵一編 |
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■「IEF」オフレコ討議をまとめ配布する 佐藤:カータ大統領が発表した政策ですね。 鈴木:そうそう。東海再処理工場の問題で2国間で、えらい長い交渉があったんです。カーター大統領の突然の政策変更に懲りて、「平常時からアメリカの有識者や政府の人間と、ちゃんとコミュニケーションしておく必要がある」と。 1980年にレーガン大統領に代わったんですけど、特に日米間、そのほかに石油危機もあったので、中東も含めたエネルギー政策の議論の場をつくろうと。それで国際エネルギー政策フォーラムをつくった。それが目的。 佐藤:向坂先生と大島先生の役割分担はどういうことでしたか、議長はだれかですね。 鈴木:議長はかわらないで、共同議長ですね。基本的には向坂さんが議長です。フォーラムのボスです。大島先生は工業開発研究所の理事長だったので、それとの関係もあって共同議長をやっておられたんです。私はそこに雇われたんです。 佐藤:鈴木先生はそこで何をなさっていたんですか? 鈴木:私は主任研究員という肩書で、30歳になったばかりでした。日本のエネルギー政策って、政府が作っているのではなくって、産業界がリーダーシップをとって、産業界の知恵をお借りして政府が政策を作る。そのパターンが多かったんです。 だから、日本国内の政府や役所や業界や専門家の議論の場にもIEFはなっていた。 佐藤:役人をふくめ関連業界の方々が一杯集まって議論されていたんですね。 鈴木:すごい勉強になりましたよ。政府の要職に就いている通産省のかた、外務省の役人、業界のリーダー。どっちかというと一番バリバリ働いている企画部長クラスの方々を集める。週一回ぐらい、エネルギーサロンと称して夜の6時ごろから、テーマごとにまったくオフレコの議論をやっていたんです。我々はその話を聞いて、テープ起こしをして誰が何を言ったか分からないようにして、こういう重要な課題があります・・・と、それをレポートにして、スポンサーに配っていたんです。 佐藤:スポンサーの数ですが・・・。 鈴木:スポンサーは7者です。東京電力、関西電力、中部電力、新日鉄、東京ガス、大阪ガス、出光興産。 佐藤:記録は誰が語ったのか大切ですが、メンバーが誰の発言かはスポンサーの方々は分かっていたわけですね。 鈴木:もちろん。 佐藤:そのときのテーマはポスト国際核燃料リサイクル評価時代の核不拡散政策、プルトニューム・リサイクルの経済評価などと、いただいたPDFには書いてあります。 鈴木先生が一番印象に残っている議題はどのようなものでしたか。 |
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■国際核燃料リサイクル評価時代 鈴木:一番大きいのはポスト核燃料サイクル評価。というのは実はカーター大統領が核燃料サイクルの内容を変更をいったとき(1977年4月7日)ヨーロッパと日本は大反対したわけです。 それで、「国連で総合的な評価をしましょう・・」と。今では考えられないけどね。国連で専門家が集まって「核燃料サイクルの総合評価しましょう」と1978年から、3年かけてやった。それが81年のはじめに終わったんです。結論から言うと、どっちもどっちという感じ。政治的な結論で、アメリカの言っていることも正しいし、日本やヨーロッパの言っていることも正しい。そういう結論になっちゃった。それでポストINFECEという、インフセと読むんです。 ポスト・インフセの核不拡散問題と核燃料サイクル政策の今後が、第一の大きなテーマだったんです。当時、日本では六ケ所村に再処理工場をもっていこうという話があって、凄い動きが起きてました。日本の原子力委員会の中でそういう議論が行われていて、大島先生は専門部会の委員だったので、内部情報が一杯、IEFにくるんですね。向坂先生も核燃料サイクルの部会の委員だったので、どういう提案をしたらいいか・・・、それをサロンでみんなで議論していた。それは大変おもしろかった。 佐藤:生々しい話が飛び交いそうですね。 鈴木:生々しかったです。で、当時、若手の優秀な先生、私の後々の恩師になる鈴木篤之教授がいまして、当時まだ40代になるかならないか、若い先生だったんです。鈴木篤之先生は、アメリカが核燃料サイクルを変更した理由は、「一つには経済性が無いからだ」ということを、堂々と言って論争していった。 IEF会員にそのペーパを配布した。そしたら大変な騒ぎになってしまって。 |
使用済み燃料太平洋に貯蔵 朝日web記事へ 鈴木篤之教授(1942年10月31〜) |
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■経済性がない核燃リサイクル ノーシンクタンク 佐藤:日本政府は核燃サイクルを、どんどん押しているわけですから、とんでもないと、もめそうですね。 鈴木:そう、とんでもない事を言い始めたと。でも篤之先生は勇気があって、ちゃんとまとめてそれをレポートにして、形にした。核燃サイクルの経済性評価というので、全員のスポンサーに回したんですね。もう、大反響というか、IEFの外に出ないんですよ・・・。結局「六ケ所村の再処理工場は大きすぎる」、篤之先生は「規模の効果と言っているけど、まだまだ再処理技術は未熟だし・・・」と。 ドイツが同じ時期に、もう少しちっちゃい・・・半分ぐらいのサイズの再処理工場を自分の技術で作ろうとしていた。日本は東海再処理工場の次のプラントだから、そのニ倍ぐらいの大きさで良いんじゃないかと。ドイツと同じように・・そういう説と、いやいやこの際だからデカイの造らなければいけないと、でっかい方がいんだと言う説の、両方があったんです。 佐藤:デカイ方が良い、その根拠はあったんですかね。 鈴木:当時はまだ、高速増殖炉が必要だという人たちが一杯いて、それに合わせようと思えば、でっかい再処理工場でないとプルトニュームが足りなくなっちゃう・・・と。2024年の今では考えられないですね。当時は本当にプルトニュームが足りなくなっちゃうと心配する人は、いた。 それと規模の効果の方が大きくて、デカくっていい。それから「日本の技術は信用できない・・」と電力会社の人が言ったりして。日本の動燃・・・原研と動力炉・核燃料開発事業団(動燃)、核燃料サイクル事業団というのがあったんです。あまりうまく行ってなかった。再処理工場はフランスから技術導入していたんですよ。だから信用ならんと言って、どうせフランスの技術を使うんだったらフランスのでっかい再処理工場のコピーを造ったほうがいい、と。結果的にはフランスのUP3という再処理工場のコピーをもらうことになる。 絵 オラノ社の核燃料再処理工場PDF 佐藤:プラントの設計そのものをいただく? 鈴木:技術移転ですね。技術をフランスから買ったんです。その時に、1985年ぐらいに決まったんですけど、私とか篤之先生は一生懸命計算して「どう考えても800トンの六ケ所の再処理工場は大き過ぎる」、プルトニュームが余ってしまう。 そういうペーパーを書いたら、ケチョンケチョン。それも実は反対派の高木仁三郎さんという有名な原発反対のかた、高木さんが同じような論文をすでに発表していた。 だから私達の書いたものと高木さんの書いたものがほぼ一緒だったので、プルトニュームは余ってしまう。我々は「お前らは反原発か?」と・・・その頃から言われ始めた。 私達は「そうじゃなくって、経済性などいろいろ考えると大きすぎるんじゃないですか」と言って、一生懸命。向坂さんや大島先生に説明したんだけど、電力会社は聞く耳を持たない。それでフランスからUP3の技術を買って、それにすると決めてしまった。今思えば、それが最大の失敗。 佐藤:そうですね。六ケ所村は一度稼働させましたよね。 鈴木:それは2005年にね。 |
日本原燃、六ケ所村の再処理工場について |
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佐藤:六ケ所村の施設は、既にプルトニュームに、汚染されちゃっているんでしょう? 鈴木:一端、動かしたら汚染されています。1985年までは。私にとってはその問題が一番大きかったかな。 佐藤:お聞きしていると冷静な議論ではなく、先に回答があって、思惑があって、その筋にそった意見をだしておかないと叩かれる・・・というふうに聞こえるんですが。 鈴木:基本に日本のシンクタンクは、そうなのよね。某・財閥の◯◯総研というのがある。そこに勤めていた人が昔私に言った、彼は、「どう考えてもこれはおかしい」と言って反対をしたら、「君、シンクタンクはクライアントの言う通りにしていればいんだよ」と言われたわけよね。 「これはシンクタンクじゃなくって、ノーシンクタンク・・・ですね」と言って辞めちゃった人がいた。 ■本音を知る 佐藤:いいね、そういう人が日本にも居るんだ! 鈴木:います!だから、大勢はそういう感じだったので、うちのフォーラムはそういう意味では比較的自由に書かせてもらっていたんです。大島先生も、向坂さんも。 ただし公表はできない。でも、中でキーポリシー・メーカーへ。100部ぐらい刷るんですけど。全部はけてしまうぐらいに人気があったんです。 通産省のお役人から、業界の意思決定者のところにはみな行って(配布)ましたから。そういう人たちから。しょっちゅう電話が掛かってきて話をしたり、説明しに行ったりしていたんです。私にとっては大変、凄い経験になった。 佐藤:鈴木先生は、30歳から5年間ですから・・若いですね。 鈴木:若いですね。その時はまだ基本的には耳・学問なんですよね。耳・学問だったんだけど、結局、みな本音で喋っているので、いい意味で勉強になりましたよ。「これが本音なんだ」ということを知りました。 で、それに基づいて分析していくと、本音の部分は正しいことを言っているんだと分かってくる。表で言っていることと、本音で言っていることが、こんなに落差があるんだと。その実態を我々は知ってしまったので、政府や電力の表向きに言っていることは、必ずしも本当ではない、それが分かってしまった。 佐藤:日本の場合はその差は極端に違うのでしょうか? 鈴木:何って言ったらいいのかな・・・。 佐藤:世界中の政府も電力会社も本音はさらさないでしょうから、同じかな? 鈴木:おっしゃる通り、世界中、同じなの。政府の言っていることは半分ぐらい正しくて・・・・・。 佐藤:トップは、役者じゃないとやってられない・・・と言ってますからね。 鈴木:正しくない、と言ったら語弊があるな・・・・正しいんだけど半分は言い足りていない。 佐藤:政治を動かすには本当の事を言い続けると動かなくなりますね。 鈴木:それはありますよね。だけど、それが本当に国民のために隠しているのか、自分のために隠しているのか、よく分からないところです。 佐藤:鈴木先生たちの論に対して政治家が気づいて、なんだかんだと言ってこなかったんですか。 鈴木:政治家は、当時に国際エネルギー政策フォーラム(IEF)には、ほとんど来ていないですね。 佐藤:核燃料サイクルに興味なかったのかな? 鈴木:役所がほぼ牛耳っていたんですね。だから通産省と電力のキーパースンをつかまえておけば、だいたい思った通りに、こっちの意図は伝わる。・・・議員さんは当時、誰だったかな・・・覚えてないんだけど。後で政治家になられた方には当時東大の舛添要一先生、上智大学の猪口邦子先生などがおられた。 佐藤:感づいて鈴木来いと・・それはなかったですか。 鈴木:それはないですね。私は自分の名前を書かないですからね。名前は全部、向坂正男、大島恵一で出ちゃうんで。 佐藤:両先生のところには苦情などを言ってそうですね。 鈴木:それは言われていると思います。 |
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佐藤:1986年まで、IEF(国際エネルギー政策フォーラム)に鈴木先生は、5年間在籍してました。週一、発表して月に4回として、通年ではかなりの回数の議論をし配布していましたね。 鈴木:かなりやっている。で、テーマは原子力が多かったです。他には石炭と石油の話もありましたし。中東問題、地政学の話もありました。そのうえ毎年一回、国際フォーラムで、アメリカに行ったりし国際会議をやっていました。これらも全部クローズドでやっていて、その事務局も全部やっていました。 そこで、多数の関係者と知り合いになったし、英語で全部テープ起こしたりして、大変でした。 佐藤:MITの修士論文で苦労した、英文タイプライター打ちが、ここで役にたったわけですね。 鈴木:そうそう。 佐藤:まだパソコンは無い、ワープロは出始めかな? 鈴木:パソコンは無い。レポートはだいたい手書きです。それを和文タイプ。使ったことないですか。 佐藤:会社には和文タイプ・専門家がいましたが・・私は打ったり使ったことないですね。 鈴木:デカイんですよ、漢字も打つ。フォーラムのタイプの方は、我々が手書きで書いたものを和文タイプで打ち直す。海外とのやり取りもまだFAXが無いんですよ。テレックスでした。知らないですか。 佐藤:聞いたことはあるけど、和文タイプもテレックスも、使ったことないですね。土建屋の設計部でしたから。 鈴木:テープに穴があいていて、ドットッドットッと出てきて、それを読む機械があって、文字がバッと出てくる。でも、83,84年ぐらいに日本で始めてのワープロができた。富士通だったかな。 佐藤:思い出しました。最初に私が買ったワープロはキヤノン製で160万円もした、確か84年ごろでした。翌年30万円になっていた(笑)TI機器は激安になると知りました。 鈴木:(笑)ワープロはキャノンではなかったな。富士通か東芝か・・でかかったですよ。英文のタイプライターのパシン、パシンから、電気仕掛けになって、IBMの丸いタイプライターボールだ。地球儀みたいに丸いんですよ。そこにアルファベットが打ってあって、ストンと押すとくるっと回転して、ピっと打つ。面白いのは間違いたら昔は白い修正液で消してた。それにはちゃんと修正テープが付いていた。間違いたら修正テープを押してやればいい。ちゃんと消してくれる。 佐藤:今想うと、たいへんアナログですね。今、鈴木先生はその時に膨大に作られた資料は持っていらっしゃるんですか? ■向坂正男さん、1987年に亡くなる。IEF閉鎖。 鈴木:家に帰ればあるかもしれない。後でお話しますけれど、向坂さんが87年に亡くなってしまったんです。国際エネルギー政策フォーラム(IEF)はそこで閉鎖になってしまった。全部閉鎖。それで書類は処分してしまった。要するに、もともとあまり残して置くものではない」と言うことで、部数をあまり作ってないんですよ。思い返すと、もったいないですよね。中にはすごい貴重なレポートもあったんですけど・・・たぶん家にもないと想うな。 佐藤:向坂先生は心労、ストレスで亡くなられたんですか。 鈴木:肺癌でした。若いときからタバコを一杯吸っておられて。私がお会いしたときは吸っていなかったんですけど、肺がんで亡くなられた。72歳と若かったんです。 佐藤:大島恵一先生は向坂先生と同世代でしたか? 鈴木:大島先生はちょっと若くって、フォーラムで会ったときは65歳ぐらいでした。東大の先生をまだやっておられましたから。そうするとまだ60代だったかな。大島先生もすぐに癌で亡くなくなったんです。 ■ IEFは職員5名 佐藤:国際エネルギーフォーラムには、職員が何人いたんですか。 鈴木:私と、出光興産から出向で一人来ていて、最初はいなかったんだけど、後から大阪ガスから出向で一人。プラス「一人、雇う・・・」ということで、アメリカ人で日本の政治を勉強しているゴードン・エプシュタイン(Gordon Epstein)君を採って4人。あとは帆足さんと言って研究部長に当たる企画部長のかたで、クラレから出向で来られていたんです。その5人だね。 佐藤:5人で事務局を執りおこなっていたと。それにしても週一回の討議と日英両文で記録作り配布するとなるとたいへんですね。 鈴木:忙しかったですね。一週間に一回はちょっとオーバーですけれど、3つのワーキンググループ、サロンがあって、1年に各10回ずつやってましたからね。 佐藤:合計、30回開催として、毎週、開催と言っても過言ではなさそうですね。 鈴木:それに毎年、国際会議を1回やっていました。それぞれにテーマを決めて報告書を書いていた。そのうえに、通産省から委託研究ももらっていたんで、その委託研究も我々がやっていました。 佐藤:それは、大変忙しいですね。 鈴木:ゴードン君とは、その後もずっと付き合っていて、彼はその後アメリカに帰って、最終的には三菱商事のワシントン・オフィスに勤めて、ずっと原子力問題を追っかける専門家として仕事をしていました。今でもワシントンでよく会います。 佐藤:三菱商事は原子力関連で、どのような御商売をされていたんですか。 鈴木:三菱はプラントのマネージメントと、主に燃料、天然ウランとか、濃縮ウランとか。 佐藤:長崎発の岩崎弥太郎の仕込みですね、何でも商売しますからね。 鈴木:(笑)今思えばね。三菱商事の燃料調査部に彼はいたんです。アメリカや世界の動向を毎週報告書にして、三菱商事のクライアントに配っていた。その報告書も我々は読んでました。 佐藤:プラント作ってマネージメントして、稼働したら燃料売って、まるっと商売すると。 |
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■お金持ちだった日本 鈴木:当時は電力さんも大金持ちで、ワシントン・オフィスを作ってたんです。東電も中国電力もみんな!それぞれ持っていいる。そのほかに電事連の事務所もある。 そうそう、東電のワシントン事務所長交代セレモニーというのがあって。私はたまたま出張で行った。そのときにやっていたんです。なんと!東京から東電の社長、会長が来て。 佐藤:暇な人達だ(笑) 鈴木:暇だよね〜・・・今思えば。それからワシントンの最も有名な、日本で言えば帝国ホテルみたいな、ウォルドルフ・アストリア・ホテル、そこの一番いいところを貸し切って、経済界の大物をみんな招いていた。 佐藤:バブル経済、まっただなかですね! 鈴木:バブル、バブル。私はびっくりしてしまった。東電のワシントン事務所、所長の交代にこんなセレモニーやるのか!と。 佐藤:日本人は儲けすぎて、お金を何に使っていいか分からなくなってしまった時代でしたからね。 鈴木:本当にそんな感じでしたよ。「なにやっているのこれ?」って。その時、「電気料金返せ・・」と思った。それぐらいお金持っていた。全部、アメリカでロビー・コンサルタントを雇っていた。まだその頃は、1988年に改正される日米原子力協定の交渉をずっとやっていました。そのためロビーイング活動するために、アメリカのコンサルタントを一杯雇っていた。電力会社は大金持ちでした。信じられない!雇ってもらっていたので文句は言えない。 |
絵:webより |
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■当時のウラン燃料市場 佐藤:各社は、お金を儲けるために情報をまず集める。それから現場に入る。鈴木先生にとっては国際的な環境にいてたいへんよさそうでしたね。ウラン燃料の売買に絡めて儲けるのは分かるとして、プルトニュームの売り買いっていうのもあったんでしょうか。 鈴木:まだ、そのころは市場で売り買いするほどの需要はなかった。また核兵器の材料にもなるもので、国際管理も厳しく、各国で利用することが前提となっていました。 もちろん後になりますけど、まだ、その頃はまだプルトニュームを燃やす原子炉があまり無かったので、買いたいという人はいなかった。主に、高速増殖炉の燃料ですからね。だけれども、90年代になります、もんじゅの燃料はプルトニュームなんですけど、動燃事業団はプルトニュームを持ってないんです。だから電力会社からプルトニュームを買っていました。そういう事はできます。 絵:webより 佐藤:ウラン燃料の売り買いには総合商社が入っているんですか。 鈴木:入りますね、ウランはグローバルなマーケットがあるので。 佐藤:商社が買い占めている、それはありますか。 鈴木:グットクエスチョン!実は74年の石油危機の直後、ウランの価格が高騰したんです。その時に価格が跳ね上がった。で高速増殖炉も必要だという話になってたんです。でもウランの価格は直ぐ下がってしまったんです。なぜかと言うと、カルテル。 佐藤:価格高騰によってウラン鉱脈がたくさん見つかって下落ではないの? 鈴木:後で見つかった。値段が上がったのはカルテルなの・・・。すごい上がって、もちろん見つかるんですけど。カルテルで10倍ぐらいに釣り上げた。それでたくさん見つかったので市場はオープンになった。最初の頃は一部の企業が独占してました。フランスとベルギーとイギリスとアメリカ、カナダぐらいしかいなかった。 佐藤:ベルギーのウランは植民地で採れたウランなんでしょう? 鈴木:植民地でとれたもの、フランスもそうです、原産地はアフリカが多く、南アフリカ、ニジェール、ナミビアなどです。輸入統計を見ると日本のウランはフランスとかイギリスから買っていることになっている。イギリスにもフランスにもウラン鉱山は無いんです。実態はアフリカ、ニジェールとか南アフリカから買っていた。 南アフリカは当時アパルトヘイトで、経済制裁されていた。で、本当は日本は輸入しちゃいけなかった。ところが商社がイギリス経由で買っていたので、共産党がそれを見つけて大々的に国会で追求したことがあった。 佐藤:ウラン版、産地偽装問題ですね。(参照:しんぶん赤旗「核燃料の「産地偽装」疑惑 第三国う回、政府認める 衆院内閣委 吉井議員追及) 鈴木:おっしゃる通り、産地偽装。それは1970〜90年代のはじめだったですね。 下図 世界のウラン資源の分布 |
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■新型炉の商業化・・・って何 佐藤:いただいた40年を振り返り語る、そのPDFには課題として80年代には、新型炉の商業化と書いてあります。これは何を言っているんですか。 鈴木:そんなこと書いてあるの?新型炉の調査は通産省からもらった仕事なんですけど、今使っている原子力発電所の原子炉は軽水炉と言われていて、水を使ってますよね。そうじゃなくって、将来、高速増殖炉、ナトリウムで動かす・・。 佐藤:もんじゅタイプの原子力発電ですね。 鈴木:そうそう、それが一つと、他にも一杯あって、日本では重水減速軽水冷却と言って、重水炉と軽水炉の間の子みたいなのを作った。ATR(Advanced Thermal Reactor)と言う。その原型炉を「ふげん(仕組みへ)」と呼んで。、動燃事業団で造ったんです。それを実用化するかどうか悩んでいた。 というのは、お金は高そうなんですけど、本来は重水炉は天然ウラン(濃縮しなくてよい)、カナダのウランで燃やせる、CANDUというんですが、実はそれを通産省は輸入したかった。 だけど、日本でそれをやろうとしたら、うまくいかなくて、結局、微濃縮ウランで燃えるんですね、ATRというのは。当時、ATRを実用化したほうが良いのか、高速増殖炉を早く実用化したほうが良いのか・・迷っていた。 高速増殖炉は1977年に臨界の予定だったのが、1980年代はまだ建設中だった。で、高速増殖炉はまだしばらく時間が掛かりそうだと。で、中間炉という名前でATRの新型転換炉と言います、それを実用化しようという動きがあった。 他にもまだある。それで、新型転換炉と高速増殖炉の商業化。研究開発で、原型炉なんかを造ってから、実証炉を造って新型炉を実用化するというプロセスを、海外のプロセスを勉強して、日本はどうすべきかについて提案をしてくれということで報告書を作った。 それで、ドイツでは高温ガス炉というのがあって、これは原型炉はうまくいったけど、商業化まではいかなかったんです、実用化しなかった。フランスもスーパー・フェニックスと言って実証炉までいったんですけど、1980年代はじめは、実証炉がフランスは「うまくいきそうだ・・」と言っていたんです。 それから「高温ガス炉もドイツはうまくやっているじゃないか・・」と。ドイツやフランスの経験を勉強して来いと言われて、行った。 佐藤:簡単に見せてくれるんですか? 鈴木:見せます!実際に電力会社の人たちにインタビューしたり、研究所の人たちと交流したり・・・それで日本のもんじゅやATRの実用化について提言をした。 だけど、一言で言えば「日本ではうまくいかない」という結論にしたんです。フランスとドイツとアメリカにもちょっと行った。うまくいかないのは、なぜかと言うと「海外では実験炉を造った人たちが、そのままちゃんと商業炉のため、他の会社に移って、人に繋がりが出来ていた。ノウハウも繋がっていた。 日本では研究所は研究所、メーカーはメーカーで。しかもメーカーはバラバラで分担しててまともにノウハウが残っていない。 佐藤:そんな!技術の移転継承が無いなかで実施してしまったら、危なくっていけまんせんね。 鈴木:おっしゃる通り。結局、もんじゅが事故を起こしたのはそれが原因だと私は思っているんです。いずれにしても、そういう報告書を作った。やるなら、技術の移転をきちんとしなさいという提言した。 |
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1980年代を語る その2へ |
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