佐藤敏宏
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2021年7月の日記        





7月31日 

午前中は県建築文化賞の記録づくり、午後も途切れ途切れに作業する、建築家が何度も同じことをちょっと言葉を入れ替えて鸚鵡のように、語気の強弱をつかって語るので、1時間も聞いていると 飽きてしまう。たぶんその事は気付いていず、自信満々である、面白いけれど、直には聞きたくない。一般の人には心地よいのかもしれない

今月は縁あって記録ばかり作っていたような気がする、来月は自分の事をこつこつ作業したい

■午後近くの農協直販店に出向き米10kgと桃を4個買って試食する。 ついてにきゅうりを買うも1本20円もせず新鮮で美味い。スーパーは50円+税で古い。
桃は今一だけど、まあまあだ来月初旬が食べごろかも。9月末までの品種があるので、時々買いにいってみよう

























7月30日  蒸し暑い1日

■午前、県建築文化賞の記録づくり
 fb投稿
福島県建築文化賞、のこの10年
8月4日の「#編集者と建築家 について語る」zoomで午後1半に開催する。それまで間ができたので県文化賞に関する記録作成を再開。彼らは一見多様だけど、カイサル様にプロポーズする姿はウィとルーウィウス以来なにも変わってない。幇間もと自虐的な語りがあったなーと、など、いろいろ記憶がよみかえる。
いま建築系技術者は一括し業者としてのみ取り扱われ建築士法で配列されを強いられてもいて、互いに競わさらている。
そこを越脱し脱法ではないけどその様な悪知恵を、持つ者もいたりして面白い。
◆気温上昇し油蝉がじーじー鳴いている。夏らしさの中の作業は楽しい。


■午後、建築学会業績賞を受賞された方々の聞き取りを始めているが、2人目のHさんに挨拶にいく。旧知にMさんも同じ職場にいたので、一緒に話を聞かせていただいて、挨拶をする。興味深い話をたくさん聞くことが出きたので、今後の聞き取りに役立つこととなる。いろいろな評価の仕方があるので、ひとそれぞれ人物評がことなるので興味深い。

■FB投稿

元福島県職員に聞く@311 二人目
 HさんとMさんに会い、聞き取りのための準備打ち合わせをする。今日福島盆地特有の蒸し暑午後です
◆誰も体験した事のない福島原発事故下の仕事は個人としても、職員としても未体験の世界で困難な対応連続の日々だったことは理解できることでしょう。(食い物買うだけでも1日がかりでした)が、具体的に職員として、人間として目の前の難問多発と、どのように格闘し未開の道を拓いたのか?ほぼ誰もご存知ないはずです。
◆県土木建築総室が今年の建築学会賞を受賞しました。(聞き取りは #編集者と建築家 について語るの一環の活動でもあります。)
◆県職員の方々は311当日から1週間ほどにどんな体験されたのでしょうか?それを、肉声として残しておかねばならと始めました。
◆むずかしい問題もあります、でも数年掛けます。(いろんな裏情報も聞くことができます。面白いです)

公務員の方々は一部県民からの罵詈雑言を黙々と受け止めなければならないのか?興味深いテーマの一つです(このテーマは私自身は余り興味が無い。政治家の不作は問うべきだとは思う)










7月29日  台風の影響がまだ残っている空模様だった


朝起きて文字起こしをする、今日から見直し作業するなんとか全部電送できた

■午後、食材を買いに行く。必要な食材買い忘れ夜もう一度スーパーに行く
■FB投稿
991年2月24日 毎日グラフ BOX4掲載
#編集者と建築家 について語る(8月4日午後1:30〜)
■福島県内の一般雑誌に掲載されるていたが、全国誌に掲載されてしまった。脇が甘かった若気の至りと後に反省。各地から電話・手紙、現場に、建設会社に私の家にも押しかけて来る者まで現われた。対応にげんなりてしまい、一切設計を請け負わないと決め、断り続けた。(理由省略)
■当時、俺は全く血縁もない建築会社の株主になっていたので、施工会社に指示を与え、同時に利益あげさせ、株主配当を多く受けながら、建築を設計し造っていた。でも、主な収入は事業計画を請負い銀行を交渉し事業をスタートさせ軌道にのせることだった。図面を描く仕事よりはるかに胡散臭く魅力的で事件にも巻き込まれるが、儲かる(総工費?事業費に係わるすべてのお金を支配し動かせちゃうから、建築設計はさほど魅力がなくなるのは当然の理だった
■一般紙に載る魅力は世界や社会のアクチャルな事件などの出来事と並列にmy建築が陳列されることで、相対化される、そのことで自分が何をしているか?逆照射されて鮮明になり歴史化されること。それに尽きる、建築専門誌は業界誌なだから小さな世界の出来事となり、それが無い)


7月27日 時々雨 台風8号の影響で台風らしい空模様 まだ上陸はしていない

■昨日の朝から 布野修司さんの対話(酒のみ話)5時間22分を文字にしている。1970年頃の新建築月評に担当された方々の 思い出呑みながら語り。迷走気味 高齢者の声は籠りがちなので聞き取り難い箇所多し

■今日も朝から文字おこし 3時間半ほど起こしたので、残り2時間だ。再度目を通してから送るので明後日にはお仕舞の予定だ。コツコツ作業三昧

















 7月25日  気温上昇したものの猛暑にはいたらず

■肉声データが送られてこず、予定の文字おこしにならなかったので、県文化賞の記録づくりをこつこつする。

■8月4日のZOOMをつかた「編集者と建築家について語る」井口勝文さん(イタリア)から連絡があり、開始の午後1時半はイタリアでは午前7時とのこと。少し早い設定すぎたかなーと。ZOOMは世界中の人がつながって語り合うことができるので、時差の問題は常に付きまとうだろう。
井口さんの懸賞論文で優秀賞を受賞されたものをまだ掲載されていたので「首都圏の発想から、ローカルな発想へ」井口勝文(いのくち・よしふみ)さん(70)= 建築家 、読み込む。10年前に受賞されていたが、主張の大方は現在もそのまま通じる。簡単に言えば東京一極集中の肥大化をやめて、地方が自立しつつ国際的に勝てる農業・漁業をふくめた産業の再生をはかりつつ 風景の生活を豊かで美しいものにしていこうという主張。多くの人も読んでいただき参加していただきたいが。

■今日のFB投稿より

8月4日 #編集者と建築家 について語る
日本時間午後1時半スタート、近づいてきました。 
今日は少し講話して頂く井口 勝文さんを紹介します。井口さんには早朝7時のイタリアから参加して頂く事になりました。野武士世代で私より10歳年上です。元竹ちゃんマン(竹中工務店)です。若いころ、休職しイタリア留学、画家の奥様と出会うなど、戦災母子家庭の1人息子さんです。苦労されてもいますけれど、バリバリ実務と実践家でもあり、それは凄腕でもあります。戦後昭和日本を生き抜いてきた生き証人です。(生命力が違います)現在もイタリアを家を持ち大阪など家をもち世界各地のフルマラソンに参加しています。
また論は、311後、朝日新聞社論文募集に参加され優秀賞だつたと思いますが、入賞されてもいます。語らせたら止まらない。
◆井口さんは私が大阪で聞き取り活動する際に長期逗留をさせていただく支援者でもあります(井口さんお世話なっております!)


藤本壮介さん我が家で講義、翌日田中浩也さん
2002の夏だったか。藤村さん流石の嗅覚です。我が家に。他は郡山の日大の学生たちだった












 7月23日  今日も2階で記録づくりしてても 半そでで汗かかずはかどる


■午前から県建築文化賞の10年分の記録をつくる。また半部も一次資料ができていない。できたとしても活用する道が開かれるのかさえわからない。おれが人り記録を残すべきと言い張って勝手に記録つくっているので、俺の意図は明確で、そのことが浮き上がって来てて十分に記録づくりの意味が分って面白いだけ。

■昼過ぎ昼寝、気持ちいい。起きて近所のスーパーに買出しに行く。暑すぎてか呆けだしたのか、荷物を店の中に置き去って自転車に乗り余りの軽さに、あれ何かおかしいと思い、荷物を忘れたことを忘れた、その中には食材半分が入っていた。家人はちかごろ「ぼけ老人」私を励ましながら、おおいに楽しんでくれている。

■今日からオリンピックが始まったそうだ。開会式の日だという。TwitterのTLが教えてくれた。
 FBに投稿する

長男のドイツ土産を着る
今日から東京オリンピックが始まったそうだ
我が家にはTVもないので、興味がない家族(非国民らしい)だ。またオリンピックアンチでもない。全く関心がない。ては何かスポーツに関係あるものを着てみようと、長男のドイツ土産を思い出した。サッカーの公式ユニホームらしい。中学生までは野球、40代までは冬はスキー三昧。今はスポーツもスキーという言葉はほとんど使わない。
 TwitterのTLを見ていた、スポーツ関連の日本語を思いだした。高齢者は日陰で昼寝するだけで、スポーツ気分になれちゃう、年取るものいいもんだね

曇り日、ちょいと涼しい時間がやってきたので、福島県建築文化賞の記録作りをした。
予想通り社会を写す一つの鏡になっていた。かなり、歪んではいる。
理念より社会対応が上手い方々なのかも知れない。(建築に興味が無くなり久しいので、だからかな、会いたくならない?? 話し合いたいと思わない、知らんからだろう)


















 7月22日 

■福島市内でオリンピックに関する競技が始まったようで、昨日から県警ヘリが飛び回っていて暑いそらに不安な震え音を散らしている

■20日に接種した予防注射が効きすぎて38.5度の高熱となりぐったりして今日の午前中まで半地下で寝込んでいた。午後ようやく何事もなかったように元に戻った。
で、建築文化賞の講演2本と、16日に聞き取った記録を聞き直して、目を通した。最初の聞き取りだったのだが、住宅課の職員の肉声の方が圧倒的に面白いことは言うまでもない。建築家と言われる人の講義はなんだか手ごたえがあまりない、それは個人の文化内の行為を無理に言語とし共有化しようする、無理か現れているのか、それとも建築家自身の対話能力の問題なのか、どちらもそうなのか、まだわからない。この10年間の最優秀受賞者の声を3人文字化しただけなので、もうすこし続けないと性格にはいえない。全員きろくしたとしても分らないこともあるだろう

■昨日のfb投稿より

熱でちゃってる 38.5℃ だ
新コロナ標準体温超!じゃないか。ひび寝起きは何も無ければ36℃を切てたりするのに。今朝は2.5℃も高体温。方々の筋肉痛。接種した左手の握力下がってて、手のひら熱い。怠い!。今がピークなのか?不明だ。夕方はもう少しあがるかも。
◆新コロナ予防接種の翌日は会社に行かず、休暇を取るようにお勧めします




 7月20日  今日も猛暑だった。半地下室で作業している

昨夜半地下26度だったので寝た。夜中毛布が必要な感じだった。外気温が30度ぐらいになるまで半地下で作業になりそうだ。

■午後スーパーに食材買出しに行く。

■午後4時、近所の診療所で2回目の新コロナ予防接種をうける。夜にあると打った方の手の握力がやや落ちてぼんやりした感じ、痛みも少しあり。

■とぎれとぎれの時間で県文化賞者の講演肉声を文字にし一人分終えて、見直しを30分する。








 7月19日  梅雨が明けて一気に真夏で連日の猛暑 36℃超かも

午前中16日 Tシャツを濡らして濡れタオルと首に巻いて、聞き取りした元県職員の方の証言、すべて文字してしまう。
 2階は暑すぎるので昼から半地下の書庫・模型置き場に引っ越す。半地下は26℃だから一気に10℃下がって快適だ。

FB投稿より

とうとう半地下の部屋へ。26℃だ!涼しい
 独立後、クーラー(無し)を使っことがない。夏場は仕事をしないで川遊びと昼寝の人生だった。この夏は文字起すると決めた。(肉声データがたくさんある)で、半地下の書庫・模型置き場に移動。ここでコツコツ文字起こし。
外と10℃ほどの気温差なので、快適。子供が小学生の時分は夏場の子供部屋だった。断熱無しの家だから、夏場の一月間は半地下に移動すればクーラー無しのエコ生活になりそう!

■初部屋に引っ越し完了したので、建築文化賞の文字お起こしをする。20分ほど文字にする。建物が笑い合うという」担当の方が意味が解らないとの語りがあって、これかと思う。喩えにしても聞いている人は理解できないのので説明不足だろう。しかし煙に巻くつもりで語っているかも、だからややこしいけど。西欧の古い知識を知識あちことから引っ張り出して、説明するのは田舎をこばかにしているとしか思えない。でも悦に入っているのだろうから、それも建築家の文化の一つなのだろう。

■my長男に鹿児島の美味い焼酎を二升もらう 暑気払いだな

FB投稿より

暑気払い 焼酎2升 (my長男より)
 建築学会賞受賞した第一回本県職員に聞く、文字起こし済む。現場の生々し思いで、誰にも語ってはいない内容が多いと思う。公開するのか、その判断は、だいぶ先になる。なぜなら関係多数の県職員の肉声を聞き取っていないからだ。
 一千年に一度の複合多重災害にどう立ち向かったのか?当事者の心境なといろいろと次世代にも知ってもらいたい内容たなーと私は思います。
◆my長男にもらう。飲み過ぎて熱中症に落ちないようにしたい。




 7月17日  猛暑日で暑い 

■県文化賞講演録 1人分文字にする。なんだか 質のよくない講演で驚いてしまう。こういうふざけ気味の方もおって多様なんだな

■午後1時から ZOOMを使って中村謙太郎さんと打ち合わせ。とても便利なZOOMを暮らしがある生活。話合いにそって、講話を布野修司さんと、井口勝文さんにメッセージなどをつかって依頼する。連絡がついて講話していただけることになる。よかつた。時間割り案をつくりWEB頁で公開する。 講話をお願いした4名の方のアイコンを貼る


■井口さんと連絡するのを間違えて娘さんに電話してしまう。で久しぶりにメッセー字の交換する。お子さんたち大成長してしまい高2、小6、小1になっていた! 

■夕方買出しでスーパーに行く

■夜、昨日聞き取りした内容を15分間を文字に起こす。











 7月16日  猛暑日となる 

■午後とあるところで元県庁職員で応急仮設住宅対応などについて陣頭指揮されたであろう方に聞き取りする。県庁OBの新関さんに先導いただいた。ありがたいことだ。
職員としてのポジショントークを脱して、人間の声を聞き出そうとつとめた積りだ。やく1時間半ほどで第一回は済ませた。5回ぐらい聞き取りし、のち、関係者を虱潰しに聞くことでしか、311直後の1週間、あるいは3月11日から3月末まで何が起きていたのかは分らない。

 10年経っていることと、記録が残されていないことが主な原因で、聞き取りも人の記憶を頼りにするので、食い違い思い違いなどたくさんあるだろう。肉声による一時情報をたくさん集めることで、その点は補完できるような気がする。どこかの次の世代に誰かに伝えるために、なるべく正確に記録したい。で数年かけて完成できればような気がする。

関連 FB投稿

元福島県職員に聞く@311 今日から開始!
 ◆誰も体験した事のない福島原発事故下の仕事は個人としても、職員としても未体験の世界、日々だったことは理解できることでしょう。が、具体的に職員として、人間として目の前の難問多発とどのように格闘し拓いたのか?ほぼ誰もご存知ないはずです。
 ◆県土木建築総室が今年の建築学会賞を受賞し、盾の鏡は先日投稿しました。評価された内容は東日本大震災と原発事故による未体験の災害に遭うなかで、応急仮設住宅と、その後の復興公営住宅建設の取り組みに対してです。(今日の聞き取りは #編集者と建築家 について語るの一環の活動でもあります。)
 ◆県職員の方々は311当日から1週間ほどにどんな体験されたのでしょうか?それを、肉声として残しておかねばならない(私の勝手な思い)と始めました。
きょうはNさんに導いて頂きNさんの経験した311について1時間半ほどお聞きしました。
◆むずかしい問題もあります、でも数年掛け、なるべく多くの311による住宅政策一端を拓いた方々の肉声を記録する予定です。


■よる食材を半分買う、日中だと暑いので、小分けにして買うことにした。

















 7月15日 

町に雑事を済ませるために出かける。梅雨が明けたかのような空だった。ついでに駅ビルにより家人の夏ものシャツを3点買う。駅前周辺には店が無くくなってしまっている。主なる店はロードサイドショップとなり、方々大きな道路沿いに移ってしまった。

■明日、県OBの方い聞き取りするので、関連した公式刊行本を読み返し、聞き取りたい要点をピックアップ。たくさんあるので、1回1時間半では終らないので、メモなど持たずに流れに任せて聞き取ろうと思う。

■FB 投稿

福島県建築文化賞の10年を振り返る
#編集者と建築家 について語る関連。福島市も梅雨明けたかものカンカン空だ
◆東日本大震災から10年が経ち2・13余震を機に311後の記録作り開始している、その一環。賞は福島県が審査をアウトソーシングし与えた建築文化賞。(建築は文化か?不動産じゃないのか?)関する受賞者の講演記録を作り始めていた。
◆35回受賞者は岩堀未来さんで、2008年に聞き取りしていたので協力頂き、彼の講演録は昨年10月に公開済した。
http://www.fullchin.jp/20iwa/35iwa01.html
◆岩堀さんのような協力が、受賞者からえられるのか?不明だ。が、デジタルデータは県から頂戴し、10年間8人分の記録をまとめる予定。(新コロナ発生ごは表彰のみ)受賞者の協力が得られないなら(スライド多き、寄りかかった建築講演)は絵を付けられない。そうすると意味不明な文字の羅列となる。一般の方、俺にも、何がなんやら理解不能な記録となる。それでも作ろと思うのは、古代の木簡も文字を拾い、想像してみる。あの楽しみや面白さは充分にある。
◆賞は審査員の心象を表しているだけだ。がそこにも福島県における原発事故の影響が読み取れると思う。影響が無ければおめでたい人々による講演として保存できる(そんな気がする)





7月14日 

8月4日に編集者と建築家について語る をZOOMで開くので、自分に関する新聞を県立図書館で探し出している 今日は3点見つけた

■ FB投稿より

渡辺 淳悦 さんの記事発掘 福島1982/12/8
 東松照明さん写真、敗戦から30年間を554点に整理し、以下のように区分、風化する時、チューインガムとチョコレート、日本、GNP、噴出、太陽の鉛筆の6ブロック、にまとめ展示した。(俺、会場レイアウト、展示監督)
実行委員会形式で全国展開した写真展であったが、福島市での実行委員会の様子を渡辺淳悦さんが記事にし、県民の方に紹介した。紙面のおかげさまで、大入りだった。(出会った頃の記事)
#編集者と建築家 について語ると、題したzoomイベントを8月4日午後1時半から行ない、渡辺さんにも参加頂きます。なんだか、懐かしい、厳しく、楽しく語って頂きます!(渡辺さんのレジュメも頂けますよ)
◆オリンピックど真ん中ですが、40年後もマスコミ状況は変わらぬどころか、政府の私物化があらわになっても誰も止められない状況です。




























7月13日  蒸し暑い スーパーに食材買いにいく

■午前、2002年4月10日に福島テレビで放送されたBOX13のWEB記録をリメークしてアップする。放射能沈着後解体されてしまった建築だ。が、記録はこされているので蘇る。

建築をどのように語るのか。それは語る人の生きている領域の解釈になることがおおい。テレビ局は、娯楽色と驚きと呆れと教化が主だと思う。放送されたからと言え注文が殺到しない、my建築。広告・宣伝で溢れる建物を見て、建築を必要としている者があれを建築、住宅だと思い込んでしまうようだ。情報をなぞり人生をつくる。それは情報化社会の面白い点の一つだと思う。今は、近代初期のように産業と生活する場所が一体に成っていた状況とは違う。しかし脱近代の建築を造っても、近代の思想を持ってくらす人には理解不能の代物となる。でmy建築が賑わわないのは当然である。

■昨夜、40年前に朝日新聞・福島支局で働いていた渡辺淳悦さんに連絡しまして、8月4日の「編集者と建築家について語る」に参加して語ってもらう事になった。どんな事が語られるのか、とても楽しみである。忙しいのにありがたい。40年前に担当され俺が挿絵を描いたアドリブ帳の担当記者だった。

■この1週間は県立図書館に行って、俺に関する昔の新聞記事を集めまくっていた。その記事を活用してWEB頁をつくりまくった。ようやく先が見えてきた。それも来月8日に開催するイベントによって動機づけがなされ一生懸命になったことだ。何かやると何かをまとめたくなる。終活みたいでもあるけど、まとめておいた方が後々活用しやすくなる。

■今日FB投稿した内容

俺!テレビに出てしまう(2) #編集者と建築家
 福島テレビの女性・敏腕でディレクターは、私が借り時々滞納した仕事場の大家の娘であった。私を不憫に思ったのだろう「あんたの建築を全部放映してやる!と激励され取材が始まる。と、同時に夫のアメリカ転勤が決まり、2つの建築だけ取材、放送された。
 なぜ二つの建築だけだったのか。それは2つの建築が福島テレビの目と鼻の先に在ったからだ。取材に行く手間暇が少なくて番組がつくれてしまう。テレビ局の事情だ。
 放映されたLの家とアナウンサーが呼んでいた動画を文字におこして記録にしたので目を通していただくと。TV局のデレクタ〜の建築に対する興味が分ってしまう。言いすぎかもしれないが、無垢の視聴者をどのようにtv情報を与えることで導き教化し常識なるものを流布させるのか。近代の思考が、俺様が番組に、掲載してやるんだ的な思いが露骨なんだな。それが分って興味深い。良し悪しはべつとして、#編集者と建築家 の意図の違いが明確に理解できると思う
TVの場組制作は下請け業者が行うのが常だ。局のデレクタ〜が直に取材し番組をつくるのはきわめて稀である。my建築はデレクタ〜が現場に来て指示をとばしていたので、かなり本気だったのだ。取材クルーはデレクタ〜、アナウンサー、照明係り、音声担当運転手で、だいたい5人ぐらいだ。
 建築物は所有者の不動産だから所有者の許可がでないと、撮影も放送も叶わない。幸い許可されたことで、記録が残っている、というわけだ。
福島テレビに感謝こそすれ、恨みもない。だが、理由は省くが、今でもTV局の番組には出たくない。そのことは現在もかわらない。








7月11日

■ FB投稿 福島大学経済学部 人生初講義
俺、大学で人生初講義 TV局も来た
#編集者と建築家
福島大学経済学部のフランス語の先生から声掛けてられ、福大av教室で講義したのが1990年12月24日午後であった。会場には花束を抱えたクラブのママ、旅館の女将さんたち、街中のガールフレンドたち、ゼネコンの社長や専務、下請けの社長さんたち、俺の友人知人が押しかけてしまい、講義室が香水の匂い立ちあがる見かける事がない様となった。(av教室らしくなった)
 講義途中で大学のプロジェクターが壊れて、スライド投影できなくなり、俺は怒り狂う。そうするとママたちがやんやの歓声をあげて喜ぶ。仕舞い質問には全く「応えない俺」。それをみて教授が喜ぶ。講義終了ごゼネコン社長がクラブを貸し切り先生も参加者も集まり大宴から三次会まで続き。皆に大笑いされた。
高額の講義料もくれた。担当教授はルーモンルーセルの本、後にマルセルデュシャン、ダリ、コルビュジエなど、フランス本の全訳をされた北山研二さんである。
福大で唯一面白いいい加減で市民と交流出来た人間であった。そのごは先生が教育機械に変わってるのかも、福大の先生とは311まで出会わないかった。
◆あの日は経済バブル崩壊していたが、福島市街夜の街は変な熱が残っていた。のち「公務員空出張費ただ呑み歩き」を叩いた馬鹿が現れ、福島の呑み屋街が消失するトリガーを引いた。水清くして魚住めずの街へと変化し続け今、街はウイルスが元気に蠢く街と成り果てた。
◆北山先生はフランス文字のような日本語手紙をくれ、おれが日本語でフランス人のような文章を書いて交換して楽しんでいた。

7月9日  

■午後、食材を買いにスーパーに出かけただけ

■ 昨日から3時間超の建築系話し合いの文字お起こしをしていた。2日かかって、よる11時ごろ電送し完了。梅雨時は文字お越しで家に籠るのが合っているように思う。
 TI社会は便利で、あっと言う間にデータのやりとりが出来てしまう。通信料とプロバイダー契約使用料とで月2万円ほど費用が要る。人と会うのも場所に縛られることがなくなってしまい、ZOOMを使うと交通費も懇親会のお金も掛からない。貧乏な老人でも一人前に活動ができてしまう。
7月7日  

他者の話を聞き取り記録をつくるまえに 自分がマスコミに出ていた記事を整理している
今日は 1984年11月 自邸 朝日新聞記事掲載 、1984年7月毎日新聞記事
 、1983年1年間  朝日新聞福島版 挿絵連載 のWEB頁を簡単につくりアップする。

■8月4日にZOOMイベントを主催しようと思い、中村謙太郎さんに同意を得て、呼びかけ文などを書いて、FBでしらせた

■同上のタイトルと 呼びかけ文

編集者と建築家」について語る

編集者の中村謙太郎さんと佐藤敏宏は四半世紀に渡り「記者と取材対象者」の関係にありました。その地続きで現在はフェースブック友達となり日々WEB情報を共有しております。
このような心地よい付き合いをさせていただいていますが、その間「記者あるいは編集者と建築家」について、さらに加えれば「編集者と建築家の健全なありかた」について話し合ったことがありませんでした。
そこでZOOMを活かし「編集者」と「建築家」や健全なあり方などにも関心をお持ちの方々とともに語り合いたいものだなーと思い、この企画を起動させることにしました。
目的は特にありませんが、旧媒体(紙)から新媒体(インターネット)へ移行中の現在は、どちらの良さも活かす関係が成り立ってはいないのではないかと思います。
もしかすると、この機会に新媒体における記者・編集者と建築家の好ましい関係を描きだすことができるかもしれません。
良し悪しがあるにせよ両者の好ましい関係性を描きだすためには若い人々の参加が要るわけですが、老人の呼びかける事ですので期待せず参加いただければ幸いでございます。
(呼びかけ人/佐藤敏宏・中村謙太郎)
会期:2021年8月4日(水)13時30〜16時
参加費用:無料
参加方法:人数を把握するため、このイベントページにて参加表明をお願いします。追ってZOOMのURLをお知らせします。
※注:発言の肉声はそのまま文字にお越し記録としWEBにて公開します。あらかじめご了承ください。 

















7月6日 

来月主催するZOOMワイワイの呼び掛け文を書く。

40年前の新聞資料をまとめる作業をしている。
■1
フリーペーパー『image box』#編集者と建築家
 発行涅雅とあるからジャズ喫茶が紙代をふたんしていたのかも。1983年10月9日から始めた広告取らずの手作りフリーペーパー。
 福島市内に暮らす福大生など含め7人で始めた。編集長は誰だったのか思い出せない。俺は建築に関するエッセイなとを書いていて、自邸を設計し工事に掛かる時期だったのでその事も書いてある。
 若い人々は元気で自由だったかも

■2

毎日新聞1984年7月14日記事 #編集者と建築家
このmy手作りアートイベントに最も反応したのは毎日新聞の記者だった。最後まで追っかけててくれ、何度記事にしてくれた。最後は事件記事になってしまい、きっかった。
締めの原稿依頼を頂き書いて原稿料も頂くことになった

■3

朝日新聞福島版に1年間、挿絵を描いた #編集者と建築家
 オレ・敏ちゃん31歳サラリーマン。1983年1月から12月まで「アドリブ帳」という連載に絵を描く。そんな予想もしてない機会があたえられた。(連載途中で独立敏ちゃんとなる)作者、記者、敏ちゃんのアドリブが紙に定着されて県立図書館に保管されてる。
 ◆担当記者の渡辺淳悦さんは連載終了後転勤になったが、赴任地の東京、大阪、名古屋で会い、ご馳走になったり、名古屋時代は自宅マンションに長逗留させてもらい、名古屋漫遊もすることが出来た。今もフェースブック友であるから、第一線の記者と40年のお付き合いになった。ありがとうございます。
◆文章を連載した会田健一郎さんは日テレ系の放送記者を辞めてジャズ喫茶を営んでいたが若くして亡くなった。ジャズ喫茶は溜まり場で国内でも有名店だったから多種多様な人々と出会える稀な空間だった。
◆記者、編集者と建築家の関係を語ろうとしてるので敏ちゃんが出会って記者たちを思いおこしてます。記者の皆さんいろいろお世話になりました、すっかりボケ老人になりましたよ。
渡辺記者よりの投稿

40年前の福島は、ごちゃごちゃしていたけど輝いていたような気がします。佐藤さん、会田さんのおかげで、その後の仕事人生が決まったような気がします。ありがとうございました。
佐藤さんのイラストは締切ギリギリに毎週頂き、福島駅発午前0時過ぎの上り急行津軽の列車便に託して東京に送ったのでした。まだファクスが普及する前の時代。急ぎの事件原稿のみが、漢電システムで送られていた。(渡辺淳悦









次男にもらった焼酎、鯛マリネをつくり呑む
アルコール40度だが呑みやすい

7月5日 

 昨日は70才の誕生日だったので、my長男・長女にメッセージをいただき、次男には40度の焼酎をもらって呑んだ。

■岡田喜美子さんからメッセージをいただく。昨日の豪雨で京都に帰れず、千葉のお母さんの家に泊まったそうだ。熱海で土石流が発生し大惨事が起きた、新幹線は辛うじて難を逃れたようだが、行方不明者が多数でそうだ。山津波のニュースに触れると太陽光発電パネルが敷き詰められた大地が崩れる様を想ってしまう。原発事故後よきエネルギーの得方にまだ解は見いだせていない。

■自分に関する雑誌や新聞記事のrWEB頁つくりをはじめた。今日は2013年のチルチンびとに掲載された中村謙太郎記者による記事を公開した。
よいスキャナーが無いのでデジカメで撮り加工した頁なので見にくいけれど読めるのでよしとした。さっそくフェースブックに中村さんから反応があったので、コピーし掲載しておこう。

以下のようなやりとりで8月4日午後1時半からZOOMを開くことにした。
タイトルや案内文は明日つくろう

中村謙太郎さんによる2013年の記事
 他者の聞きとり活動を始める前に「お前は何者?」と聞き返されること頻繁ので、自分に関する記事データを整理しアップし始めた。
◆読み手が注意しなければいけない事は記事は記者や編集者の作品、表現行為であって「取材対象の私がどのように描かれても文句を言ってはいけない」その事を知らない馬鹿が多く、記者に因縁つけたり、文句を言う、最低の阿保は「原稿見せろ!」とまで言い放つ。そんなことはしてはいけない、指示したり心配するなら取材は受けないことだ、だが建築家は原稿に赤入れてが常態だとも聞く、自由主義社会の雑誌の様とは言い難いんだね(コラムに原稿を投稿するべきだよ)
 記者を広報マンと勘違いしてる馬鹿者も山ほど居る。でこの世はマスコミを広報に見下し、彼らを活かすとこが少なく。そうして今日の政治状況に至っていることを知らない。
◆30代から好き勝手に活動しているので折々取材対象になっていてしまい、新聞記事なども想ったよりある。それらをなんとなく覚えているが散乱している。失ってしまったものは図書館で集めよう。
だが「こんな人生になるとは思ってなかったので、終活めいてしまうなー」のだがリスト化しておこうと始める

出版社的には見づらいぐらいが有り難いです

興味がありましたら、「編集者と建築家の健全なあり方」を、テーマに呼びかけてズームでワイワイしませんか。
(もちろん文字起こしして、ままweb公開することが条件です)
7月3日  

午前 2014,2016,2017年のTwitterログを整理し日記形式にする。今週とおして過去ログ整理していたがほぼ終えた。
 通常のWEB日記が無い、その因は、データを失ったのか、もともと書いてないのか、FBへ移行してしまいWEB日記記録の魅力を失っていたのか、またはそれ以外の原因なのか分らない。特に2017年の投稿が少なすぎるので、写真データなど何か無いか探してみたい。

■午後 アーキフォーラム主催の「建築とジャーナリズム」のZOOM会議に参加して拝聴する。キックオフのための基調講演、神子忠久さんが1時間ほど話、その後1時間半ほど、多様な話や最後に意見交換(神子さんによる取材記事は建築士会誌の今月号にある。若い建築人の琴線い触れるのか、疑問)

 (WEBを主にして活動しはじめた若い世代は参加したいと思うか?)

運営主体が70〜80代がメインであること、女性が主メンバーにない、40代以下の若い世代との分断が明らかに大きい、アカデミシャンが主要である、紙媒体の実績があることで、WEB媒体に対する評価が低い、さらにネット術を活用し展開する専門的技術とその配信技術がなく、売物の媒体にすることが困難だと思う。
 専門ねた=一般の人からみれば建築お宅ネタ話なので、とっつきにくい、など、これまでの建築紙媒体の欠点を消化し建築媒体新スタートのための主な課題は出ていたように思う。

 建築愛が強く多様面に意欲満点の老人たちに敬意を払うが、果たしてどのような効果が表れるのか。個人的には紙媒体は20年前に終わったと思って暮らしてきたので、妙案と意見は湧かないのだが、ワイワイ拝聴し、好ましい関係が生まれるように願うばかりだ

WEB術や配信術を身に付けて日常的に配信している、若い人たちは、今更紙媒体的な手法の場に近づかないだろう。参加する人が現れるとすれば、「建築編集者史」を研究しようとする若者に限られるだろう。

ざっとこんな感想メモ 詳しくは時間と意欲が湧いた時にでも復習しつつ詳しく加えていくかもしれない。

7月1日  一時  梅雨らしいいちにち

■花田先生のサイト再スタートしたのでWEB頁をつくり記事をアップ公開する

■過去20年の日記を整理してアップしつづけている。書いてない日時にはツイッターログを集めて、WEB頁にしている。 WEB日記をツイッターログどちらもたくさん眺めると長短が分る。ツイッターの方が感情がそのまま定着されていて、再現力が高いんだけど、物切れなので文脈が無いぶん、理解しにくい部位が多い。

今週中に終わりそうもないので、こつこつ自分の日記の整理をしつづけてしまおう。