佐藤敏宏 原稿 | 2020年10月15日 曇り 作成 佐藤敏宏 | ||
『別冊渡辺菊眞建築書 感涙の風景』について ( その4 ) その1 その2 その3 その4 |
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再度、私の疑問を示しながら、その応答のようなものを記録することにします
巻頭の「感涙の風景へ きわめて個人的な目線が普遍の深みをひたすら手繰り寄せるために」に記されています。京都の古代コスモロジーの象徴的再現への技巧の深さを知り、古代風景を体現できる奈良へ目を向けることになりました。 建築を学ぶことで、計画することへの視線が拓かれ人間がつくった古代風景体現の地(都市)へと導かれました。とあるんですが奈良に戻り 29.不意に廃虚は亡くなる 1998年 30.古墳は畑作に最適 1998年 31.墳丘上のお墓 1998年 28.俊立する木壁 2007年 「30頁古墳は畑作に最適 1998年」と「31頁は墳丘上のお墓 1998年」については、前のweb頁でこのように記しました。 菊眞さんの個人史と過去の学びから解放され「宙地の間」へと進んでいくのです。「死の上に人間の生がある!そのとめどない循環の発見と・発明と」でもいいましょうか、興味深くて面白いですね。 とすれば、菊眞さんがの語り「古代風景体現の地」への視線でもって「宙地の間」が拓かれていくとは想像しにくい。 菊眞さんも自身を誤読しているだろうし私も誤読している。とすれば、菊眞さんは京都から建築と都市について学んだと想い込んだことによって、京都の風景画が奈良の風景より先に編まれていると推測できます。 あえて遭遇した感涙の風景を地域別に分割してしまったことで起きた混乱だと思います。そうしてしまったことで、今、菊眞さんが歩んでいる道を観る視線に混乱が生じた、と言えます。 |
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感涙の風景に遭遇した数は高知に暮らすようになってからが多いのです。奈良で出会たのは8度、京都に住んでからは25度、他は高知で暮らしているから49度も遭遇しています。 それは高知に暮らすことによって「何にもないと想っていた大地に感涙の風景がくさんあった」そのことに気付くことで、過去に得た学問や体験の呪縛から解放されます。 そうして建築の作り方、考え方、暮らし方、感涙の風景への視線が軽快でかつ大きく拓かれ、カメラの自由が増したのだと思います。 菊眞さんは個展を開くまでは、はっきりと気付いてなかったのではないかと推測できます。大学教育でどっぷり京都に浸っていた影響がおおきい証でもあると思います。学ぶことは、蒙を開くと同時に視線を拘束・固定する力として働いてしまい、その効果が持続するということだと思います。 |
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この点は、風景それぞれに付されている文言を咀嚼していないのだが、このような解説をつけ置きやがて「感涙の風景」それぞれを再解説しようとしているのだと推測しておきます。 さらに、私は「この風景には何かあだろう?」と想い込むんでしまい、ストーリーを誤読・想像し「建築書をして読み込む能力が無い」のです。そのことを表明しておきたいと思います。 |
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人が居ない時間だから感涙の風景に遭遇する。 感涙の風景は人が居ない事で、ようやく立ち現れる。 人が居ない=無尽だから人の営みを明確に感じシャッターは押せる 他者を写すと指が腐ると思っている 人は嫌い 人が居ない風景が好き 感受性が強すぎて、人が居るとシュールな想像力が駆動して止まらない 感涙の風景を共有できる同伴してくれる仲間が居なかった 一人の方が感傷に浸り、感涙できると思っている 人間の日常生活を観るのが嫌いだ (息子さんがはっきり写されていることについて) 「29.不意に廃虚は亡くなる‘98」であります。ふいに20年前の自分自身を、息子さんに見てしまった。失った時間の大きさと意味、それに加えて、ここにある時間と来るべき時間の豊かさを実感し、時間の概念が急変することで、一直線に進むかのような時間感覚から解放されました。その姿、自己投影の図を明確に撮ったのです。 |
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菊眞さんは9月27日のFBに以下のように投稿しております。 「・・・・あらゆるものが電子化する今日この頃ですが書籍を手にとることの大切さは電子には変え(代え)られないと確信します。 また通常だと「ない」ような編集の仕方で編集して書籍として編み上げることが個人出版だと考えました・・・・・」 自分でつくりだした物を手にとること失いたくないと思います。個人編集の可能性を追求できるの2点なんだそうです。 ★ここで、2009年に私がおこなった菊眞さんへの聞き取りを読み返すことにしましょう。菊眞さんは大学を終え設計事務所勤務します。同時に京都内の15大学ほどの連合で京都CDLの運営委員長を務め学生を引っ張るやくを負っています。 CDL活動の目的は、行政から自立した運営態で(会員・300人ほどの大学生とともに)タウンアーキテクトの可能性を模索することにありました。京都CDLは5年ほど続きます。そして年一冊、必ず機関誌を発行することにしていたそうです。機関誌(下の絵)の出版費用は支援者である不動産屋さんからの提供と会員の会費によって、合計100万円。それを本づくりに投資したとのことです。 京都CDLの活動内容を詳しくは私は知らないのです。が、菊眞さんの話によりますと、学生たちは「町づくりのための調査」と「まちづくり・タウンアーキテクト」にたいしては興味が薄く「建築を作品としてつくる」そのことに傾いてしまいがちで、活動は尻すぼみがちになってしまったとのことです。 そこで菊眞さんは社会人との交渉と行政との関係を構築せず、学生だけで町づくり活動するため能性を拡大することは上手くいかないと知ったようです。ですが菊眞さんは他者と関係し、交渉し、300人の組織を動かし、本を出版することを実行ししました。本を刊行する体験を得る事になっていました。 設計事務所に席を置きながら、他方で5年間も京都SDLの活動を行いつつ、毎年本を刊行する。貴重な体験をすることができる社会人は稀ななのではないでしょうか。 一年間の活動の重みが一冊の本に変換して目の前に現れる喜びはweb全盛時代にあっても得難い体験だったと想像できます。本を出すことを実感することで本への拘りは本を刊行した事のない人には想像できない愛着の大きさを感じます。 私も頻繁に県立図書館に出向き、50年以上前の本や新聞などの紙媒体を手に取ります。借りたりもします。そうして本独特の良さを知っています。私が借りるまで一度も開かれたり、読まれたしたことのない本の頁を開きますと、独特の音がでまして、それを聞くと作者生きた時間と空気が立ち上がるように感じてしまうこともたびたびあります。 ですから、webには無い本が持つ物の特有の良さについて、共感いたします。私も本を出版したいと思っておりますが、体力と資金力がないので実行できていません。ですから書籍などの紙媒体を刊行する人を羨望する者の一人であります。 |
聞き取り時にサインをいただきました |
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最後にまとめ 机上の建築家ではなく、地球上のどこにでも立つ。そしてその地で体を動かし建築を造る。実践する建築家であることは体験記に書きました。 『別冊渡辺菊眞建築書』を手に取ることで、思ったことはここまで書いてきました。「宙地の間 (そらちのま)」を手に入れることになった経緯を感涙の風景を追うことで解いてみました。 「時間は近代風に一直線に進まず、単に循環している」そのことで「宙地」を発見しんだと推測してきました。森田さんが指摘するように「宙地」による実践は周囲の景観を消化していない、そのように感ずる人も多いと思います。コミュニティーが消滅し世界にITによって高度情報化をもたらすことで、均質化しつつ温暖化に遭っています。 そのような変動から現在では景観を生み出す「コミュニティー」とか「ここと言える固有性」は「そんなものは無かったんだ」と感じたり、それを知ったり理解したりする人は多くなるだろうと思います。そうして人々は「宙地的地平の広大な存在」を実感すしかなくなるのだろうと思っています。 「宙地=Home between Earth and Sky」という概念を、菊眞さんは強くは自覚していないとしても、菊眞さんの身体は咀嚼し建築として実践ている結果、他領域である博物館や美術館からの評価が高く招聘されていることでも明らかであります。 この地にある狭くて窮屈な建築界隈から離れることで「宙地」という概念を発明したのだと思います。「宙地」が含む可能性は大きく、今後の建築的実践と「宙地人」としての活躍は、多いに期待できます。 2020年10月15日 佐藤敏宏 |
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