佐藤敏宏 原稿 2020年10月12日 曇り 作成 佐藤敏宏
『別冊渡辺菊眞建築書 感涙の風景』について
 ( その2 )  その1 その2 その3 その4 
 
(1) 「ここでない遥かなかなたへ通じていく場所を建築によって構成するために建築が到達すべき目標に」ついて、まとめてみます。

 私の誤読であるけれど・・・・

 建築を造ることは「ここを保障するための人間の活動だ」と思います。が、菊眞さんは「ここではない遥かかなたへ通じていく場所を建築によって構成する」そのために「建築が達成すべき目標」としています。ここを保障しつつ遥かかなたへ通じていく場所とは、他者にとって何を意味するのでしょうか。それを推測するために「菊眞さんの引き裂かれ同置してるような「言葉の源に戻って想う必要があ」そう今思いつきました。そこで、展覧会に来場された友人たちの言葉の数々と過去の聞き取り記録から、それに関するものを拾って確認しておくことにします。

展覧会で会った方々の言葉の一部を拾ってみた

 ・香川県ミュージアムのテーマは「日本の自画像ー探究者たちの語り」でした。学芸員の竜馬さんは「いまこことは何ぞや」に対して「これが正解であると押し付けることに対して立ち上がるコミュニテーではない。」竜馬さんの問いに対し佐藤は「菊眞さんの金嶺神舎という建築は、コロンブスの卵のような建築で解答を示しています」と応じました。

 ・県立滋賀大学の川井先生は「繊細な感性みたいなところから建築をつくり、建築のどのようなところに着目ているが分る写真群でユーモラスありさえする」と語っています。

 ・ 京都大学で同窓生の建築家・森田一弥さんは「繊細な感受性みたいなところから建築をつくっていて、社会に対する憤怒を建築にぶつけている。それは私小説的な感じだ。また大学時代は風景と言っていた。さらに「日時計の裏に住む、ここがあることが重要で、自邸は敷地の関係なく、周囲を活かさてないい」と語っています。
 第一作の評が「NO Future」とされている点にも注目していたし「紙の上で表現しきっていると思っているところがあるが、踏ん張って実作にしてほしい」と激を発しておりました。

 このように京都大学で学び建築家になったり、関連する建築仲間の言葉は暖かさと厳しさが融合していて興味深いものです。しかし森田さんの激は半分だけの正解になていると思います。菊眞さんは当初から「リアル」なここを半分、アン・リアルな「遥かかなた」を融合させるべく格闘して表現者であります、そのことに触れていないからです。
(菊眞さんが育った土地との関係にも注目しておきます)

 私は2009年12月12日に奈良市に暮らしてのベース、菊眞さんの家を訪ね聞き取りを行いweb記録を残し公開しています。その中から「ここではない遥かかなた」に関連する興味深い主な言葉を抽出しておきます。

 (イ) 卒業設計まで

 ・家にいるのが好きではなく昆虫採取、網で魚を捕まえる子供だったそうです。中学生になると陸上部に入部し800m〜1500m走る選手だったそうです。屋外活動をおこなう一方、捕まえて昆虫を観察し描いたりし、夢のような絵をかくのが得意で「絵は誇り」だと語っています。画風は「ダリ」のようなシュール・レアリスム系(無意識や夢の表出を描く)の画家を目指したていたが、高校生になると画家としての才能の無さに気付き、シュールレアリスムの画家になるという夢を断念したそうです。受験勉強に力を注ぎ、ミーハー的に京都大学を選び、入学したと語ってもいます。

 大学での卒業設計は観光地に広められている「なんとからしい風景」「風景の欺瞞」と語られている=受動的言葉と格闘することで、天井が爆発したような直径500mのドームを提出しています。
 卒業設計は敷地も宙に浮いている幻想城みたいなものを設計しようとしていた、シュールレアリスム建築の表現だと思います。
 ですが指導教官である布野修司先生に「建築には敷地が宿命的についてくるので、幻想的で宙に浮いている卒業設計してもいいが、どこか場所に置けるようにしてくれ」と指摘され(母親の生まれ育った地)東尋坊を選んだそうです。東尋坊を大急ぎ訪ねると「風景を観ると、何か考えることは結構あるなーと思い、一起に方向を変えて卒業設計を仕上げた」そうです。


 (ロ) 社会に出てから シュールレアリスム的思考はコミュニティー思考とどう融合されいくのか
 (枠内は聞き取りまま、抜粋)
渡辺:地方にある大学って地域貢献がどうのこうのって言ってますけれども。結局、なんかにゃかにゃと言って就職率がどう?みたいな話でアピールしようとするので。田舎の大学がその手の就職率9割なんぼとか言ったところで、こでしか出来ないような生き方みたいなものを、事態をつくり出すような状態をサポートするような事の方 が意味があるしょう。 

 ときたま田舎の方に行って大学の先生がレクチャーするのはほとんど意味が無いので、それよりは何かやりたい学生がそこに行って生きていくほうが、よっぽど地域貢献というか、ちゃんとした事になるんじゃないかなと思って。

佐藤:実験的な、子育てしているみたいものだ ふふふふ
渡辺:基本的に実験的な状態が何か好きなんでしょうから
佐藤:ちょうど良い時期だよね、そいう場所(高知県)で活動するのは 近代のシステムが末端で壊れててしまった時期だから。そういう時にでも人間は生きていかなきゃいけないからね。新しい仕事を発明したり、暮らしと人間関係を発明したりしないと 新しいものを産みださないと、生まれないと死ぬ。知らず知らずに まちづくり嫌いな者が人間作りに突っ込んでいて、まちづくりになっていくと。地域作りになっていくよね

渡辺そうですねあんまり、そんなの意識してなかったですけどふふふ、一個あるのはヨルダンに行って、アフリカのどこかに行ってても。何か基本的に四万十に行くのとあんまり変わらないんですよね。要は僕自身は日本人とかっていう事が有ったにしても、地球はどこへ行ってもある地域なんで。
佐藤:適応能力高いかも

渡辺:
もともと奈良生まれですけど両親が奈良と関係無い人だったので。だから目の前に在る場所で何をするか?っていつも自分で考えて楽しまないと、しがらみみたいなものが無い場所なんです。ここも(奈良市)。

 だからどこでも意識変わらないんですよ。ヨルダンに行こうがアフリカに行こうが、高知の僻地に行こうが。何か目の前に在るものをじーっと観て。じゃあ、ここやったらこうしようかという処から始まるような、思考回路が出来てるんでしょうね

佐藤:ということは子供の時に産まれた地域に馴染めないっていうか?。そういうのが元々あった、他者を受け入れない地域だったんですか、排他的だったのかな

渡辺:排他的です


佐藤:そこれを体験することによって、どこに行っても、誰とでも適応できる人間が生まれるっていうのは、面白い話だね
渡辺:そうですね、だから当たり前なんですけど。とくに田原本は古い農村が一杯あったので僕らは新興住宅地だったから、川向こうの子らんなんかと遊ぶな!みたいなことを村の子たちは言われるので。それで、そういうのも子供どうしだから、仲良くなったりしますよね。

ただ、家にもよりますけど、行ったらあからさまに、その子が来たって感じで、嫌な顔しますよ。そういうの敏感に感じるような事が有ったので。い嫌だったですけど、コミュニティーが強いって事はそうい事なんじゃないかなと。

 やっぱり自分らを守って行くってことだから、簡単に外部に開いてますなんて事はあり得ないだろうと。っていうのがあった事もあって。

 ゆるいワークショップによるまちづくりも、基本的にあんまりピント来なかったのも、それが有って。だから根本的に、それはちょっと違うだろうと言う思いが有ったの。

佐藤:排他的ある場で、まちづくりだから受け入れるという。ダブルスンダーは成たつのかと?

渡辺:それ自体嘘だろうという思いがあったので

佐藤:だんだん菊眞さんの全体がまとまりつつあるようですね
渡辺:そうですね 

 聞き取りの最後に菊眞さんは「ここでない遥かなかなたへ通じていく場所」というイメージの源泉を、無自覚にもここではない場所を求める構え方が身についてしまっていたと、以下三点にまとめるように語っています。

両親が奈良と関係無い人だったので。だから目の前に在る場所で何をするか?っていつも自分で考えて楽しまないと(生まれ育った場所は) しがらみみたいなものが無い場所なんです。

何か目の前に在るものをじーっと観て。じゃあ、ここやったらこうしようかという処から始まるような、思考回路が出来てるんでしょうね

◎ い嫌だったですけど、コミュニティーが強いって事はそうい事なんじゃないかなと。 やっぱり自分らを守って行くってことだから、簡単に外部に開いてますなんて事はあり得ないだろうと

 両親の暮す土地
 それが、どでもない遥かかなたに通じていく場所である

 菊眞さんの両親は戦中生まれの少年・少女であります。両親と同世代の方の一般的な夢は「家を持ち、物質が豊かな暮らしを得る」そう言っていいと思います。ここで重要なのは彼らは単価には最新の注意を払うが家を建てる土地の情報に関しては極めて無関心の世代だということです。

 お父さんから直接聞いた話ですが「坪10万円で買える土地を探してもらって、友達と二人で分譲地を買って、半分ずつ分けて一方に家を建てた」その地が菊眞さんが生まれ育った土地です。
 ですから菊眞さんも両親もあらかじめ奈良の地とは関係がない、既存コミュニティーから拘束されていない、旧来の居心地のが無い、そのことを覚悟しつつ生きることで「目の前に在る場所で何かするのか、考え楽しむしかない。そして目の前のものをじーっと観てここから何かをしよう・・ところから始める思考回路ができているのでしょう」と。ここでもないどこかに通じていく場所を建築によって拓く姿勢が生まれ育った場で知らず知らずのうちに身についてしまっていたと言えます。
 菊眞さんのお父さんである建築家の渡辺豊和氏は『大和に眠る太陽の都』(1983年学芸出版)の冒頭で、家と建てる土地の情報をせず購入し家を建って暮らし、歴史狂の兄がやってきて「飛鳥に行こう」と誘われるまま出掛けます。そのたことから古代史や巨石についての書籍をたくさん生み出しております。お父さんと古代史の融合も、居心地がよくない土地で生まれた、おじさんによる誤配のなす妙と言えるのではないでしょうか。

ですから菊眞さんは地球上のどこに居ても
 「・・ 一個あるのはヨルダンに行って、アフリカのどこかに行ってても。何か基本的に四万十に行くのと あんまり変わらないんですよね。要は僕自身は日本人とかっていう事が有ったにしても、地球はどこへ行ってもある地域なんで・・・」と語っています。

 菊眞さんがこのような心境を手に入れたことは幸いなんでしょうのか、不幸なのか、どちらでもあるけれど・・・・「旧知の価値感で言えば、根無し草的、浮遊し漂い続ける、漂泊の民・それで生きるための精神的な支柱を知らずに、無自覚に身に付けいてしまっていた」それは近代の目的合理から解放される幸いと換言できます。

 そのことは「コミュニティーのため・・・」という言葉が大好きな建築家の方々から、多いに嫌われる態度だとは思いますが、固有の土地・地域に親密に繋がれ生きなければ・・・そのような建築家や人間の可能性より、菊眞さんは広くて大きい領域を見つつ、シュールレアリスム的地平とも共振・連動している、そこにはまだ広大な可能性を見つけうると私は考えます。
 つまり「菊眞さんにすでに、彼が生まれていた場所にあった可能性より数段広くて大きい可能性の中に少年期まで生き、建築家のベースとなる視線をもちながら身体を動かし絵を表現して活動していたんだ」とだと言えます。(ここではないはるかかたなと繋いで生きる様は、旧来のコミュニティー大好きな者たちには不可視の領域でもあります。)

 さらに菊眞さんもの同世代の方々にも不幸な事態が加わっていたことも、簡単に確認しておきたいと思います。それは1985年プラザ合意によて生み出された日本経済のバブルとその崩壊、戦後が生み出した日本の中間層の消失、そして就職超氷河期に入ってしまう中を生き抜いた世代の一人であるということです。 世間では「失われた30年」、あるいは「日本経済は永遠に失われたままなのではないか」と言われています。政府はその状態を粉飾するために「マスコミに自主規制を強いる政策を採っていることは周知の事実でしょう。戦後の高度経済果実を一瞬に水泡にし、流してしまい、惨憺たる政治状況を日々見せつけられるなかでも、生き抜いている、大地が揺らぎ続ける中で暮らしているかのような人たちだ」ということを再確認しておきたいと思います。

 宙地の間ー日時計のあるパッシブハウス

 「ここでない遥かなかなたへ通じていく場所を建築によって構成するために建築が到達すべき目標に」したことは菊眞さんにとっては無自覚であろうが当然の帰着地だと思います。
 その状況を生きていることの成果として、菊眞さんは「宙地の間Home between Eaerth」を手に入れることができました。地球上に在ることはどこでも「空と地の間」で在るという身構えのことだと菊眞さんの自邸を知ることで理解が進むでしょう。
 ですが、そのことを詳しく語る前に、もう少し菊眞さんの写真について見ていくことにしましょう。

 その3に続く