2017年8月26日 岡田治子さんに聞く 千葉県稲毛市内の共同住宅にて |
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01 02 03 (天安市) 大隅国 佐多? |
その01 岡田:私は友達に前の話は全然してなかったのに!「あなたは〜鹿屋におったの〜」って言われてね。まぁーと思って。私は失敗の過去はじゃべらないようにしてたもんですから。はははは 友達にばれちゃってですね〜。(2009年12月の記録-えいぞう「父を語る」-友達はを読んだらしい) 私は昭和10年生まれですから。こんど82歳で名前は岡田治子です。1935年生まれで10月で82歳。生まれは今の韓国ですね。戦時中だから韓国は日本の植民地だったわけですよね。満州とは全然違うんですよ韓国は。生まれた頃は朝鮮と言っていたと思います。ソウルじゃなくって確か天安(チョナン市)という所で生まれたと思います。 父と母について 私の母はですね、今の釜山で大きな商売をしている家の、もちろん日本人なんですけど。そこの娘だったんですよ。何でも商っていたんじゃないですか〜、わりと大きくやっていたみたいです。 私の父はですね、遡ればきりがないですけど、どこから話せばいいかなー。私のお爺さんっていう人は、私は本籍は鹿児島ですからね。薩摩藩で島津の流れの士族(大隅国の佐多?)で佐多という旧姓なんですよ。それは本当に昔〜むかしに分かれて。栄造も持っている家系図なんかにも載っているんですけど。それこそ昔でよ、島津の5代あたりで分かれてんですよ。それで本籍は鹿児島なんですよ。 私のお爺さんはいちおう士族だったわけですけど、昔はね。鹿児島ではお爺さんは何か事業をしててうまくいかなくって、というのがあったとかで長崎に行って。長崎の鎮西で漢文の先生をしたわけですね。 お婆さんも鹿児島の人。お婆さんのお父さんの兄弟はみんな西南戦争で死んでいるんですよ。お墓もあるんですけどね。西郷さんの方でね、やられちゃった。だけど私のお婆さんの父親が亡くなった時にお婆さんは12歳ぐらいだったから、私たちが繋がっているわけですけど。お婆さんの父親も西南戦争で死んだ、賊軍かは知らないけれど鹿児島では士族だからもてはやされ、大切にされていたらしいですよ。長崎に行ってお爺さんが鎮西の漢文の先生をしたときに、お婆さんはお金には不自由しないで、お稽古ごととかしたもんですから長崎の女学校でお花とかお茶とか教えてたという話です。 鎮西の先生になったからか、どうだか分からないんだけどお爺さんはねキリスト教徒になったんですね。そこで父は生まれているんですよ。私の父は長崎で大きくなって、勉強ができたからか、熊本幼年学校(陸軍幼年学校)に入ったんですよ。 その頃は幼年学校に入ったら、みんなすごいねーっていう時代だったらしいんです。周りの人は私のお婆さんに対して「父親を西南戦争で亡くしているのに一人息子をなんで軍人にするのか?」って言われたらしいんですけど。お婆さんは気強い人で「いや、お国のために役立つなら」って言っていたらしいですよ。 長崎から東京だと思いますけど陸軍士官学校に行ったわけですね。士官学校にいっている時に父は疑問に思いだしたらしくって、今のノイローゼみたいになって「もう〜やめたい」と言ったら。その当時は簡単にやめさしてくれなかったらしいですよ。戦争というのが嫌だったのか分からないんですけど、父は悩んだらしい。それでテストの時に白紙ばっかり出していたら「ちょっと家に帰って休養してこい!」と言われて。長崎に戻って、それっきり士官学校には行かなくって退学のようなかたちになっちゃったみたいですよ。 父はその頃、挫折を感じていたみたいですけれども。それからですね、今の日大の法学部か何かに行ったんじゃないですか。そこを卒業したんです。その頃、国内は不況で仕事が無くって、釜山に渡って税務署員になったんですよ。私が漢文を教えたお爺さんを知っていますからね。その時たぶんね、親も連れて行ったんでしょうね。 私の父親は釜山で税務署員で、母は商売人で、それで知り合ったというか、誰かが取り持ったか知らないけど。税務署員とお店の娘とでね、結婚したわけですよ。父はしばらく税務署員だったけど、どうしてか財務監督局っていうところに移ったんですね。理由は知らないんですけど同じお役所ですからね。今の日本の財務省みたいなところだと思いますけどね。 そこでずーっとお勤めしてて、韓国内で転勤を転々としたいたんですね。私は天安というところで生まれたんだと思いますよ。それから開城といえば今は北朝鮮になっているんじゃないですかね、洪城とか転勤して。弟たちがいますけれども、みんなそれぞれ別の所で生まれました。(弟、克彦・開城、 秀彦・洪城生まれ) ( 年撮影) 母 父・寅雄 敗戦のとき 父は終戦の時にはですね、38度線ぎりぎり南の春川((ちゅんちょん))という所の役所に勤めていたんですよ。私もそこの小学校に通っていたんですね、春川の前はソウルの小学校に入学したんです。終戦のときは春川に移って4年生だったんですよね。夏休みですよね、8月15日ですからね〜 家に居たらバタバターって父が帰って来てですね。「日本まけたー!」って言ったんですよ。それと同時に朝鮮の人たちが旗を振りながら騒ぐんですよ、日本人は帰れと言わんばかりにね。通路をずーっと行くわけですけど怖いぐらいにね。そしたらアメリカ軍が進駐して来たわけですよ。38度線から北はソ連軍が入って来て、そこでは皆、悲惨なめに遭ってるわけですよね。私たちは38度線のちょっと南だったもんですから、一応アメリカ軍が来たんですよ。 終戦になってから2、3日か〜1週間ぐらいのうちだと思うですけど、アメリカ軍が校庭にテントを張ったりしてね、それを覗いてね〜、私なんかは小学校の庭にテントを張ったりしてましたもの。アメリカ人は優しいから何かくれたりしてたみたいですね。その時に私は初めて西洋人を観ましたよね。いよいよ日本に引き揚げなければいけないということになって。日本人帰れ!帰れ!って言う。食べ物はね何とか有ったですよ。 それまでは日本人はいい生活してた、朝鮮人を使ってましたものね。家なんか公務員でたいしたお金持ちでもないのに朝鮮人のおばさんが一人手伝いに来てましたもの、そのおばさん優しかったですよ。私の家は普通の家庭だったんですけど、よそに居たときも下働きをしてくれる朝鮮人の人が居ましたよ。 父は40代だったと思いますけども「今度はいよいよ自分も戦争に行かなきゃいけないかなー」という頃でした。終戦の日に父は「残務整理に残らなきゃいけない」って言われたんですよ、そしたら母はですね、その時は私を頭に兄妹が四人いましたもの。一番下は昭和19年に生まれた弟でしたから、赤ちゃんだったんですよ。母は「私一人で4人連れて帰られない」と言って「途中まで付いて来てくれ」って父に言ったんですよね。「じゃーしょうがない」と。 朝鮮の人たちとはけっこう子供も仲良くしてたし、両親も仲良くしてたんですよ。それで父は隣の仲良くしていた朝鮮の人に自分の着るもの、やらなんだかんだ、本とか色んな物を預けて「戻って来るから」と言って家を出たわけですね。手伝いに来てたおばさんにも何か上げたと思いますよね〜みんな置いて帰らなきゃいけなかったわけですから。家はたぶん官舎だったと思うんですよ。お金持ちの人は自分のいいお家を持ってらしたけど。 家を出るときの荷物はね〜リックしかないわけですよ。日本人はどうせ荷物を置いていくだから、朝鮮人たちが物を買うな買うなと言ってました。父は物を売ったかどうかは知りませんけど、荷物は無いんですよ。確か母は弟を背負ってましたよ、父が衣類の入ったリックを背負ったんじゃないかと思うんですけど。私とすぐ下の弟がお米か何か食べる物を背負ったような気がします。2番目の弟は自分一人で歩くのがやっとでしたよね。一番下は母に背負われていると。 そんな姿ですね、春川から汽車に乗ったわけですよ。お手伝いに来てたおばさんが駅まで来て見送ってくれましたよ、それ忘れないですね。ゆっくり、止まったりしならがゆっくりと京城・ソウルまでまず行ったんですよ。 帰国の路 朝鮮人がなんだかんだ邪魔したりしたんだと思うですけど、ソウルに着いて小学校に収容されたんですよ。そこにもアメリカ兵がトラックに乗って来るんですよね。その時か、釜山の時かはっきりしないんですけど、広ーい体育館みたいな所で荷物に寄り掛かっては寝るわけです。そこの記憶なのか次に行った所かは知らないんですけど。ソウルから列車に乗って釜山に着いたんですよ。釜山でも収容所ですよ。春川の家を出てから日本に着くまで1か月ぐらい掛かってますからねー。 それぞれの収容所に何日かずつ居たと思うですよね。どっちの収容所か知らないんですけど校庭に母たちがですね、石を持って来て釜を造って鍋はね、たぶん持って来たんだと思うんですけど。その釜でご飯を炊くんですよ。そうやって食べていたんですよ。誰もくれないんですよ援助もないんですよ。軍関係の乾パンぐらいはもらったかも知れませんけどねー。朝鮮人がおかずを売りに来てたか、自分たちで作っていたのかはっきり覚えてませんけれども。皆、家族たくさんおるわけですけど、みんな自分のリックを傍に置いて固まって食べていたんですよ。私たち家族も鍋を囲んで何日間も食べていたと思うんですよねー、家を出て着くまで1か月かかったわけですからね。 「船が出る〜」との集合がかかってですね、船着き場に行かなきゃいけんとなったわけですね。 お金がある方たちはですね、待てなくって早く日本に帰りたいから朝鮮人の船をチャーターするわけですよ。チャーター船で自分勝手に日本に帰る。帰り着けばいいけど途中でひっくり返って、なんもかんも無くなっちゃって戻って来る人も居たんですよね。我が家はチャーターするお金無いから〜待っていたわけですね。 いよいよ集合がかかって船着き場に行ったんですよ・・・沈黙・・・ そしたら、そこでまた朝鮮人が身体検査をするわけですよね。なんだかんだ持って帰らせまいと思ってね、お金とか取ろうと思ってですね。男はその場で男がするんですよ。女の人はその場で裸にできないからどこかへ連れて行くわけですよ。母をですよ。母は弟を背負ってましたでしょう、その背負い紐にお金を縫い込んでたわけですよ。とっさに頭に気づいたんでしょうかぱっと私に弟を背負わせた!私は子供だから連れて行かれなかったんですけど。母はどこかに連れていかれちゃったんですよね。「帰ってくるのかな〜」と思ってですね、そのときそ凄く不安だったのを覚えているんですよ。 父は職場に帰るに帰れず、戻るに戻られなくって ふふふふ・・けっきょくそのまま、仕事を放り出して一緒に日本に帰って来ちゃった。本当は戻らなきゃいけなかったらしいんだけど「途中まで」ということで付いて来たんだけどね。母が「このまま帰ってください」って言ったみたいで、職場放棄で無責任だけど。隣の朝鮮の人は「とうとう戻って来なかった」と言ったと思いますね。 母が身体検査から戻ってきて船に乗ったわけですよ。有名な興安丸(こうあんまる) じゃないかと思いますけどね。ギューギュー詰めでね。船底のなかの丸窓から船が見えたのが覚えてますね。みんな船酔いしてからげーげー吐いたりして。引き揚げでたくさん乗ったわけですから大きな船だったと思いますよ。 母も父も一緒だったですよ。とにかく皆家族、はぐれないで一緒に帰れさえすればいいという気持ちだったですよね。 帰国する 着いたのが山口県の仙崎っていう港に着いたんですよ。だいたいしか覚えてないんですけど、家を出たのが8月の20日かな、1月後の9月の20日頃に着いたはずですよ。栄造にも言ったんですけど、もっと親に聞いておくべきだったと 佐藤:家族・全員そろって帰国したのは希でしたか 岡田:38度線より南の人は多数ですが北に居た人たちが悲惨だったんですよ。満州の開拓の人も悲惨だったし北朝鮮にいた人たちも悲惨だったんで。女の人はみな顔に泥を塗りたくったり炭を塗ったり、髪を切って男の恰好をしたり。悲惨なめに遭っているんですよ。家族離れて途中で死んだとかね。引き揚げて来てから弟の友達になった人は、途中で母親が死んでそれを埋めておったんですよ。私が4年生です、弟は2年生だったんですよ。なんも持ってこれなかったりして大変でしたけども、南はそれほど悲惨じゃなかったですよね。家族はまとまって帰ってきたんですよ。 引き揚げ船は一晩過ごしたくらいでしょうか、山口県の仙崎の港に着いた時にですね日本に人たちがですね、迎えてくれたんですよねー。麦のおにぎりをですね、くださったんです!それが美味しかったのを忘れないです。麦のおにぎりは自分が小さかったからか大きな!おにぎりでしたよね。それ美味しかったー!覚えてますねー。 仙崎港から汽車に乗るために先崎駅までトラックの荷台に乗せられたんですよ。たくさん乗せられたと思うんですけど、荷台から落ちないように落ちないようにと言いながら先崎駅に着いたんですよ。 汽車の中は引揚者が一杯、今でもテレビなんかの放送で出るようにギューギューに押し込められたり、窓から汽車に乗ったりして、なんとかかんとか乗ってですね、叔母が長崎に居たのでそこを頼ってですね、父の妹を頼って長崎まで汽車で行ったんですよ 長崎に着く 岡田:そこで長崎の原爆の跡を観たわけですね。 佐藤:おばさんは原爆に遭ったんですか 岡田:おばさんはですね、長崎市内の反対の方に居ましたから、それでも「爆風で物が割れた」とか、話は聞きましたけどね。浦上に落ちたんですけど、おばは大浦に居ました。おばさんの家はちょっとお金持ちでして。長崎まで行く列車の窓から見たら焼け野原で、それも覚えてますね。父は叔母さんのお家を知っているから、たぶん歩いたんだと思うんですけどね。前もって連絡は行ってないとは思いますよ。みんなして叔母さんの家に行ったんですよ。叔母さんの家は大きな家でしたから、貸家も持ってたりしてましたけど、落ちぶれましたけどね。私たちが引き揚げて行った時はそういう家でした。そこにお世話になってですね。 引き揚げてきたので皆の体にシラミが付いているんです、着物なんかにもね。母が叔母に知られたくなくいでしょう。こそこそこそこシラミをね潰す姿を覚えてます。DDTと言って真っ白く粉を掛けられおりましたもん。 しばらくお世話になっていたんですよ。お金あるからね。ほかの人がひーひー言うころに食べ物も豊でしたからね、そこにおるぶんには困らないけども、父も母も肩身が狭かったと思いますよ〜。叔母さんの旦那さんという人がいい人で、優しい人だったからよかったんです。4年生だったけどずーっと居たんでほんのちょっと大浦の小学校にも入りましたね。 父も働らきゃなかいけないから、父のおじさん(私のお爺さんの弟)が大阪大学の医学部長さんした人だったんですよ。阪大の医学部の初代の何かという人でしたからね。家のお爺さんが「長崎の医学校を出だけでは全国通用しないから」と言って東京に出るのを援助したみたいです。その人は羽振りがいいというか、初め医学校の初代校長かなにかで、阪大に医学部が出来たときに医学部長かなにかしたみたいな人で。知っている人は知っているんですよね。 父がそのおじさんに「何か仕事がないか」と頼んだんじゃないかと思うんですよ。そしたらですよ長崎県の大村に元海軍病院っていうのが在ってですね、終戦後ですから国立病院でしょうね。おじさんのつてで職を見つけて、洗濯場主任とかですね。病院の色々なものを洗う洗濯場ありますよね。洗濯場じたいは大きいでしょうからね。そこに雇ってもらってですよ。 私たちは長崎には一時だけ居て、父の仕事が決まったので長崎県の大村市に引っ越したわけですよ。 長崎県大村市で暮らす 引揚者住宅みたいな古町住宅という所に住んで、父はそこの元海軍病院に通ったんですよ。父もなんとかお金をあれせんといけないからね。家からは遠い所だったみたいですけどね、私は長崎県大村市の西大村小学校に転校しました、まだ四年生でしたよ。 私が忘れないのが6年生になった時に給食があったんですよね。今でいう脱脂粉乳、アメリカさんからもらったシチューという名の付く白いスープみたいなのが給食に出たんですよ。私は臭いが臭くって「食べたくない」って言ったんですよ。そしたら先生が「こういうのを食べないから戦争に負けたんだ」と言ったんですね、はははは ミルクですよね。 私はその頃は勉強できていたから、副級長さんしてたような気がしますね。一クラス多くって50人ぐらいいたんでしょうか。引揚者住宅が在ったくらいだから大村にも大勢い引揚者がいたようで、市営住宅みたいに優先的には入れたりしてたんですよね。 附属中学校へ 大村にですね師範学校、教育学部の付属中学校があったんですね。友達が「そこの中学校に行こうや」と言うわけですよ。その頃は親のことなんか全然考えていなかったけど、親がお金が要ると思ったのかも知れないですけどね。「先生の実験台だよ〜」と父が言ったのを覚えているんですよ。親の経済状態とかまったく考えませんし、母はもちろん働いていなくって専業主婦ですよね。たいへんと思って、そういったのかなと今は思うんです。 友達が言うもんですから受けたんですよ。面接とか色々あったんですけどね。そこに合格して行ってました。面接の時にですね「なんか、病気したことがありますか?」先生に聞かれたですよ。私小さい頃は体が弱かったんですよ。肺炎が何回、赤痢が何回とか言って、朝鮮に居るころ肺炎になると親が胸にシップしてくれて、看病してくれたんですよ。肺炎が何回、赤痢が何回って言ったもんですから先生たち笑ってですね、先生が笑ったから合格したのかもしれませんけど。とにかく合格して入ったんですよ。 その頃に大村湾で泳ぎを覚えたり、泳ぎというほどでもないけど一応浮かぶっていう程度ですね ふふふふ。 師範学校の跡だから広いグランドが在ったんですよね。貸自転車屋が近くに在って、自転車を借りて自転車に乗るのもそこで覚えたんですよ。ケガしながらこけながらですね。個人ではみな自転車を持っていなかったんじゃないですからね。 引揚者用の住宅に住んでいる時にですね、同じ住宅の少し離れた所に、父が朝鮮で働いていた財務監督の時の上役だった人が、たまたま居たわけです。その上司がですね大村に引き揚げて来てから長崎の財務局に勤めてたわけですよ。偶然再会しですよ!ほいで、「財務局に来い!」ということになったわけですよ。幸運ですよね〜たまたまそこで「あれー!!」ということになったららしいですよ。 4、5年いた病院の洗濯場主任は辞めて、中学の2年が終わろうとしている時でした。「また、財務局に勤めるから長崎市内に引っ越すぞー」ということになった。その上司は、大村のその住宅から通っていたのかもしれませんけどね。その後そのおじさんは税理士さんになられたですものね。再会したその時はまだ税理士ではなかったと思いますけどね。家族みんなして長崎にまた引っ越したんです。 長崎にまた引っ越す 私が中学二年のときに引っ越し、長崎の大浦天主堂やグラバー邸の在る、大浦のですね。グラバー邸のすぐ下に長崎気象台というのが、今もあるかなー知りませんけど。気象台が在ってですね、そこに掘っ建て小屋みたいなのが在ったんですよ。そこが官舎だったんですね。本当の掘っ建て小屋みたいなんですよ。 もう一間も若い子供のいない夫婦でしたけど、財務局の人でした。その家と玄関向き合っているけれど、そこと半分に割ってですね、6畳一間じゃなかったかなー、うちが海が見える側に入ったんでですね。大村に居るときに昭和22年に妹が生まれましたから。家族が7人になったんです。増えたんですよ。私と弟3人と妹の5人兄弟です、はい。 佐藤:掘っ建て小屋6帖で五人で暮らすとなると狭くって大変そうですね 岡田:たいへんですけどねー。そこでですよ、丸いちゃぶ台ね、それが有ったのは覚えているんですよ。そのちゃぶ台でご飯も食べ勉強もし、たたんで布団を敷いて寝てたように思いますね。少し下がった低いところが土間になっていて、そこでお母さんが食べ物を作ってたように思います。お風呂をどうしてたかっていう記憶が無いんですけどねー ふふふ。風呂屋に行ったのか、そこに何か有ったか覚えてないです。もちろんトイレはあったでしょうけどね。 佐藤:中学3年生の乙女でしたから風呂のことは覚えてそうですけどね 岡田:風呂のことは覚えてないんですよ〜。家の下の方にね銭湯が在ったから、そこの銭湯に行っていたんじゃないかと思いますけどねー。風呂に入らないってことはないですからねー。 佐藤:大村では附属中学校に入学したんだけど長崎に転校したんですね 岡田:中学二年で普通の長崎市立の中学に転校したんです。梅香崎中学校ということろにね。教科書はあったと思います、テレビに出て来るように、大村の小学校に入った時には全部黒く塗りつぶしてましたね。その記憶はありますね。 スポーツはね得意ではなかったけど、長崎の大村の付属中学校にいるころらか新体操というか、平均台とかですね、真似してましたね。長崎市の中学校に転校したときには「体操部を作ろう」と言ったのか何かでベンチみたいな長い椅子ですよね。友達集めてですよ、その上で平均台をやりおったわけですよ。そしたら先生たちが見るに見かねてですね、平均台を造ってくださったんですよ。木材をもってきてね造ってくださったんですよ。 運動は得意というほどではないんですけど、私はおてんばだったんですよ。小さい頃は男の子の前で高い所から飛んで見せたりするような、おてんばだったんですよ。おしとやかではなかったですね。自分でいうのもあれだけど勉強もできましたよね。 その頃は高校進学する人が少なかったですからね〜。中学3年生になったら、高校受験する人だけ残して勉強を先生たちが教えてくださるわけですね。 佐藤:将来このような人になろうと 岡田:その頃はですね〜、学校の先生とか・・思っていたような気がするんですけどね、漠然としていたと思いますよ。残って勉強してたんですよ。私、勉強が出来てですね、その当時はですね卒業式の時にですね、一番勉強が出来る男の子一人と女の子一人に市長賞というのが出よったんですよ。私も市長賞をもらったんですよね。英和と和英かの辞書にちゃんと市長賞って判が押してあるのをもらったんですよ。卒業生総代で卒業したわけですよ。 私の主人が家を投げ出したから、中学生の時のその証拠物はなんも無いけど、鹿児島時代にはね市長賞の辞書を持っていたんですよ。 県立長崎西高校へ 佐賀高校へ 高校は県立長崎西高校に合格したわけですね。今も在ります。こないだ行って写真撮ってきましたけど。ふふふふ。中学校の写真も撮ってきましたけど。はははは。県立の普通科で何クラスかは覚えてないんですけど写真があると思うんですよ。一クラス何人だったか分からないので写真を探してみますね。これが中学校でこれが・・・これが小学校の卒業写真ですよ、みんな下駄はいてますからね〜。 写真の裏に15歳と書いてあるので高校ですよね。5月と書いてある。これが高校ですね!昭和26年に卒業したんだから。あ!西高って書いてある。 佐藤:男女共学ですね、女性の方が少なくみえますね 前2列 左から3人目が治子さん 岡田:はい。西高に入って。西高は浦上に在りましたから通学はですね、始めは官舎の掘っ建て小屋から、大浦天主堂の前を通って下りてきて電車に乗って原爆が落ちた浦上まで通って学校へいっていたんですよ。 佐藤:原爆が落ちてから6年ほどですが高校が建っていたんですか 岡田:この時は26年ですからね〜。私たちが2期生ぐらいかな、一つ上の人がこの(稲毛)近所に居るんですよ。話が合うんです、同じように引揚者でふふふっふ 偶然にね、この高校の一つ上ですよ。 その人は鹿児島にも行っていて、それも一緒なんですよ。不思議なぐらい一緒なんですよ。 その人は自分たちのときは制服無かったって言ってですね。制服の話が出てたぐらいで、一つ下の私たちから制服があった。この写真では私、制服着て写ってませんもんねー。制服がなくって高校の途中からでしょうね。これが私ですからね。私服も半分ぐらいいますね。 前2列 左から3人目が治子さん 高校には入ってやっぱり体操部に入ってましたね。 そしたらですね、西高校をくだって登った辺りに国家公務員住宅というのが出来たんですよ。戦後初めてじゃないですかねー。今住んでいる団地のような鉄筋の住宅ですよ!。4階建ぐらいだったと思いますね。 丘にですね公務員住宅というのが出来たんです。綺麗だし。そこには裁判官とか大学教授とか、いわゆるお偉いさんが入ったんです。父は財務局に勤めていたので、管理人としてそこに入ったんですよ。だから1階のかどっこかどこにに入りましたよ。嬉しくってですね〜。三部屋ぐらいの、ちょうど今住んでいるような家でしたよ。お風呂はあるし、とにかく掘っ建て小屋から移ったからですねー、嬉しくって嬉しくって〜ですねー。部屋は6帖だったか4帖半だったか覚えてないけどね〜。 本当は入れる身分じゃなかったんですけど、国有財産ですから財務局が管理していたからねー、管理人として入ったんですよ。他はみんな偉いさんたちが入っていたんですよね〜。そこから高校へは下りて上がったら学校だったんです。 高校1年が終わる時にまた父が転勤で、佐賀に転勤命令が来て転勤しなきゃいけなくなったんですよ。佐賀に行くことになって、課長じゃなかったかと思うけど財務局、か財務事務所かですね。 佐賀の高校の編入試験を受けなきゃいけないわけですよ。今はその高校は三つに分かれましたけども、私の受けた頃は佐賀高校でしたもの。20何クラスありましたからねー。受けて一応通ったから2年生に編入したわけですよ。お役所の裏に家が在って。佐賀の繁華街の真ん中の辺りのいい所のお役所の敷地内に家が在ってそこに住んでましたね。掘っ建て小屋じゃない、平屋だったと思います。ちゃんとした家でした。そこから高校の通いましたね〜。 その頃勉強も好きだったと思う、大学へ行きたいと思っていたですよ。だから進学クラスみたいなところに入った。その頃は3年生になって、進学適性検査っていうのがあったんですよ、今は共通一次試験ですか、今は変わったんでしたっけ。進学適性検査を受けても結構いい成績だったもんですから、その頃の私の希望はですね、九州大学の法学部に行きたかったんですよ。 兄弟が5人いますでしょう子供が。母は専業主婦ですよ。父は公務員ですよ。おそらく親はお金のことを考えたと思うんですね。私は考えもしなかったけれど。それと一つは父、昔の人間は女があまり学問をすると幸せになれないと言うんですね。父の本音もあったと思います。あんまり学問を身に着けると幸せになれないと。どうしても行きたいんだったら地元の短大に行けと言ったわけですよ。佐賀に短大在ったんですね。私は「短大なら行かない」と言ったんですよ その02へ 続く |