2017年8月26日 岡田治子さんに聞く |
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01 02 | その03 鹿屋荘 岡田:鹿屋荘はそんなに大きくなかったですよ、一回焼けたんですよね。焼ける前の方が大きかったんじゃないですか。板前さんも居ましたし、女中さんいまして女将さんやったんですよ。しかたないからですねー。お客さんの所にでていた女中さんと名の付く人は3人で、もう一人おばちゃんがいて、それから本当の下働きのおばちゃんがいて。板前さんがいました。 佐藤:和服を着て女将さんやっていたんですね 岡田:着ましたよ〜。 佐藤:どんなお客さんが多かったですか 岡田:そう大きくもなかったですけど、古いし。戦時中は軍が接収したり、終戦後は進駐軍が接収したりしたって言ってましたから。進駐軍が接収しているもんだから、戦争に負けた時には主人は子供ですね、お父さんお母さんと何食べてたの聞いてきたんですよ。私はお芋さんの、種芋とか変なの食べていたと言ったら、主人はカレーライスって言いましたもの!その頃カレーライス誰が食べていたのかと思いますけどね。ステーキ食べたりねー。軍から接収して食べていたから、主人の家にも肉とか来てたんじゃないですか。 軍が来ていた頃は焼ける前で、主人が高校の時に火事になったと言っていたかな。高校生のくせに酔っぱらって寝ていたら火事になって鉄格子を力一杯だっして開いて逃げたとか言ってました。 主人は子供の頃からカレーライス喰っていたなんて!。私なんか引き揚げてきてから、田舎にお芋さんを分けてくださいって言って頭をさげてですねー、買出しに行くわけですよ。葉っぱの出た後の種芋です。それを分けてもらって〜みんなで食べてましたものね。 佐藤:発芽した芋 まずそうですねー 岡田:おいしくない!今だったら食べられない。引き揚げ当時はそれを食べてたんですよ。子供たちが100回聞いたと言いますけどねー、ボールに卵を一個入れてお醤油を一杯入れてご飯を一杯入れて、ずーっと混ぜて、それを家族で分けて食べてました。何度も聞いたって子供たちが言いますけどねー。今は考えられないですよ。そういう生活していた私は引揚者でね。主人は本当に楽ちんしてて、だからあんなに大きくなったんじゃないですか〜はははは。 八幡から鹿児島市へ 佐藤:また、八幡時代の話をおねがいします 岡田:北九州市の小倉からの八幡の二軒長屋に行ったんですよ。主人は何か鶏肉屋、鳥をさばく所に行ったのかなー、あれこれしてましたもの。 お兄ちゃんは幼稚園に行っていたから、下二人は保育園ですよ。栄造なんかおむつの頃からですよ保育園ですよ。私もなんだかんだ働きましたよ、色んなことをしました。数えられないくらい。もー色々しました。 佐藤:お父さんの支援はなかったですか 岡田:私の実家はお金持ちでないしねー、引揚者で公務員でその頃は年金生活ですからねー。むしろ弟の方がしてくれたかなー、行けばお小遣いくれますけどね。 佐藤:いい弟さんです 岡田:私が学校時代からずーっとぶっ通しですよ弟は ははははは。私の弟は自分のおかげで、お姉ちゃんは大学にすんなり行けなかったと思ってますからね。色々苦労したと思ってますから。 佐藤:保育園のほかに誰かに子供さんたちをみてもらっていたんですか。 岡田:おむつもって保育園にいってました。坂の上に家があったんですよ。坂の下が保育園があって平地で、保育園から少し行ったところに電車が通って、博多と小倉を結ぶ線路が通ってましたね。保育園に負ぶって行ってましたよね。お姉ちゃんも、その幼稚園に行ってました。栄造が歩くようになってからは歩きながら、仕事の帰りに、私も自由の利くような適当な仕事を色々やってましたから。 佐藤:今でいうパートタイム労働ですか 岡田:何をやっていたかなー 鍋を売ってました、それから新聞のですね短ーい求人の広告の営業っていうんですか、お店とかに行って広告をとる新聞広告社ですね。臨時かパートか覚えてないですけれども。お金になるところは何処へでも行ってたんですよ。お客さんの所へ行っては話して、宣伝とか、求人とか、ちいちゃな記事をね書いてですね、それが読売アド通信社だったかなー。何とか言う通信社だったんです。 佐藤:旦那さんは給料は持ってこないんですか。 岡田:一応働きはするんですよ。自分が使うんですかねー、少しはくれてたと思いますよ〜。 佐藤:三人育てるんだからからねー、ドルショック当たりの1973年ごろですからね。高卒で私1970年に就職しましたら、給料2万5千円ぐらいだったと思いますよ。その後10年間で10倍になりまたよ、今は1980年代より若い人の給料は安いですよねー 岡田:私が昭和29年(1954年)高校を出て銀行に勤めたときには普通は6千円ぐらいだっていうのを銀行は良かったから8千円かなにかもらったですよ。家にその時は入れましたよね。そんな時代でしたよね 佐藤:高度成長期ですからどんどん給料は上がってましたよね 岡田:主人はねー何かねー。働きに行って、男の人が私に隠れて言うにはですよ、食べたい物があれば買ってきて食べる。ジュースみたいものはジャンじゃん買って飲む。普通しないことをするわけですね。呆れるから私に言うわけですね。主人は小さい頃お金に苦労してないもんですから、お金がこれだけだから、これはこうやって子供たちにも要るからっていうのは無いんですね。働きはするんですよ、家でゴロゴロしているわけではないんですよ。働きに行くんだけど、稼いだお金と自分が使うお金のバランスがとれてないんですよ。ほいほい使うわけですよ。 主人 倒れる 周りの援助やらなんやらで何とかやっていたんでしょうね。可哀そうにと思ってから親・兄弟が助けてくれた。そんなこんなでですね。小倉の長屋で栄造も小学一年生になったですよね。そしたらまた主人が何かでですねー鹿児島に支店を出さんかって言われたか何かで、鹿児島に行くぞとなったんですよ。 主人は言い出したらぱーっと実行に移すわけです。あれよあれよという間に行動はするんですね。みんな連れて鹿児島市内に行ったんですよ。子供は1年と4年と6年でした。鹿児島市立紫原小学校に三人して入ったんですよ。 家は借りてましたよね。もちろん私も働きましたよ。化粧品なんかしたりしてけど、直ぐに証券会社を受けて、入りました。山一証券にね、潰れましたけどね。 山一のミディーと言って正社員ではないけど、準社員ぐらいかな。女の人たちがおる。栄造が小学校2年生ぐらいだったかねー。そこで働きだしたんですよ。そこで栄造を学童保育にやろうと思って入れたんですよ。そしたら嫌だって言ってですね、お家で、お利口にしとくからって。学校から帰ってお家で、お利口にしてるって言うもんだから。栄造は拘束されるとか、ああせいこうせいは嫌なんじゃないですか元々が。 年ごろ 治子さんの家族 私は山一で仕事をずーっとやっていたんです。割と時間が自由、その頃はですね自由にしててお客さんの所に行って、株を売る資格はなかったですから投資信託を売っていたんですよ。積み立てみたいなのとか、簡単なのをですね。私は株のことはよく分からないけどですね。 栄造は学校から帰ってきたら遊んでいたと思います。学校も近かったしね。近所に友達もいたと思いますよ。 主人はどっか出稼ぎに行って居なくなったり、まー色々でしたねー。東京の方に働きに来ていたような気もしますしねー。とにかく適当だったですよねー。私も自分働いているし、知らんわーっていう感じだったんじゃないですか〜。時々は帰って来る。姿を現す。 佐藤:文句を言わなかったんですか 岡田:言わなかったでしょうねー言ってたかも知れませんけどねー。主人はほんわかーってしてた人だからねー聞き流していたかも知れませんねー。家に居たり居なかったりでしたよねー。 そうこうするうちに、一回目 主人が倒れたのは福岡に何か仕事か何か知らんけど、福岡から車で帰って来てですね、帰り着いた朝に「あいたー」って言ったのがくも膜下出血 第一回目でした。栄造はまだ小学生でしたねー、娘が中一で、お兄ちゃんが中三ぐらいでしたね。病院で手術を受けて、その時に臭いが駄目になっても一応は復帰したんですよね。仕事でタクシーか何かに乗ったんですけど、それも一時だったと思いますけどねー。 二回目くも膜下出血が来たのは、私が仕事に行っていて、帰って来たら家で倒れてました。直ぐ救急車を呼んで鹿児島市立病院に入れた。その時はもう、栄造は中学生でしたよね。お姉ちゃんが高校一年、兄ちゃんが高3ぐらいだったんじゃないですかねー。3年ぐらい間があった気がします。そこか主人は酷かったですから、廃人じゃないけど、色々、分からなくなって。 私もそこまでは助けてくださいと言ったんですよ、お医者さんに一生懸命ですね。二回目は何とか命は助かったけど、病院生活ですよね。鹿児島市立病院っていうのは一定期間しか預かってくれなくって。遠い所の脳外科みたいな所に行くようにと言われたんです。遠かったから、そこまでは行けないからと言うことで、近所の内科にお願いしてそこに入れてもらったんですよ。 病院から居なくなる 近所の内科に入院している時に居なくなったりしていたんですよ。一回目はそこの病院から夜中に居なくなって。私も泊まっていたんじゃないかと思うんですけど、すっと抜けていったのか、入院先は家からは近かったんですよ。病院からいなくなっちゃったんですよ寝巻か浴衣を着たまんまですよ。 気づいて大騒ぎになって、みんなで探し回る、栄造とお兄ちゃんは山を下った辺からずーっと探す。娘は家で電話番ですよ。病院も大変な思いして、警察に届けたんですよね。消防も出て山狩りっていうか、探したんですよ。警察が私にラジオで放送していいか?って言ったですよね。そのときはもちろんって思ったんですね。嫌がる人も居るらしいんですよ。「はいお願いします」と言ったわけですよ。ラジオでこんな人がって放送したらだいぶ離れた所にそれらしい人が居るって、車に乗っている人から連絡が来て。パトカーが連れに行ったんですよ。 その時は病院の婦長さんやら先生やらどこかで死んでいるんじゃないかとか自殺しているじゃないかと言うわけですよ。自殺するような人じゃありませんって言ったら、帰ってきたんですよ。お兄ちゃんは高校3年生かだったですよね。お兄ちゃんが先生やら、奥さんやらみんなに迷惑かけてすみませんってすごくー謝ったですもんねー。お兄ちゃんも大変だなーとおもいましたよねー。一回目はそれで済んだ。 二回目 失踪 また居なくなったんですよ。二回目の時はこれは何札をね付けさせていたみたいです。繁華街の方に行ってですね、どこかのアパートか何かに入って水呑みおったって言って病院に連絡が来たんですよ。もう、病院に迷惑を掛けられないと思って家に引き取ったわけですね。 家でぶらぶらぶらぶらしてて、主人は人がよくって、人から好かれてましたから、近所の人たちも悪く思う人は一人もいなかったんですよ。愛想はよかったしね。隣に美容室とか在ったんですけど、そこの美容室の人にお金を千円貸してとか言ってですね、可哀そうだと思って貸してやるわけですよ。貸したからねーって私に言うわけですよ。借りたお金でアイスキャンデーとか買って公園に行って子供にやるわけですよ。子供が好きでしたからねー。 今度は小学校で問題になったんですよ。ガラは大きいし、ぼーっとしているわけでしょう、会話は一応通じていましたね。変なことを言ってたかもしれないけど。子供が好きだもんだから悪気はないけど、知らんしかも、おかしいおじさんからですよ物をもらうっていうので学校で問題になったんですよ。こりゃいけん!と思って。 栄造も言っていたと思うけど、近所にもちょっと変な女の人がおってですよ、この人がノイローゼのような若奥さんだったんで。皆が「夏でも厚いセーター着ているよ」って言うような人だったんですよ。その人と喧嘩したかで、その女性が警察に通報したんですよ。派出所かに呼び出されたんですよ。その女性の旦那さんも来てた。お互いにすみません!すみません!ですよ。自分の奥さんがそんなだからすみませんって言うわけですよ。そんなこともあったから「こりゃいけん!」と思って精神病院に入れたんですよ。可哀そうだなーと思ったんですけど、どうしようもなくってね。私は働かなきゃなんないしね。 それから私も収入がちょっと良くなって、紫山の二軒長屋から下って町中に引っ越したんですよ。マンションのオーナーが上に居るから、ちゃんとした人しか入れませんと。山一証券に勤めてますと言うことで入れてくれた。いい所だったんです。その時は栄造しか居なかったですよね。高校3年生ぐらいでしたかね。 そこから甲突川の川沿いを歩いて鶴丸高校に通ってました。余談ですけど「お母さん僕が歩いて横手君と一緒に歩いて学校に行きよった人知っている?」っていうから。名前だけ聞いたねー、今東大の助教授かなにかしている友達がね。マンションのすぐ下に私の父のおじさんになる阪大の医学部教授の碑がたっているですよ。そういう所だったんですよ。 主人は病院から週末タクシーに乗って帰ってきよったんですよ。日頃は大変だったと思いますよね、精神病院だからね〜。 佐藤:くも膜下出血で倒れたんだから精神疾患ではないんでしょうけど 岡田:でも人に迷惑掛けるでしょう、預かってくれる病院が無いんですよね。どうしうようもなかったんじゃないですかねー。主人を見張ってもらわないといけないんですよ。週末にタクシーで帰ることも主人は自分で出来ていんじゃなかと思うんですけどね。送っていったり、タクシーに乗せて帰らせよったんですよ。 三度目のくも膜下出血 そんなこんなしてて、 帰ってきている時に家で三回度目のくも膜下出血になったんですよ。家に帰って来てるときだから、よかったけど。 栄造が高校3年生で別の部屋におったんですね。寝てたら「う〜ん」ってうなり声が聞こえた。「あ!またやった」と私は思ったんですよ。市立病院が近かったんで。市立病院の裏ぐらいのマンションにおりましたから。即救急車を呼んで。毛布でかかえたのかなー。 11月初めでしたね。お医者さんは何度も行っているから主人の状態を解っているんですよ。宿直の先生が部長先生に連絡をして。主人は「働く」と言ってましたもの、働かなきゃいけないと思っていたのかですね。私たちも大変だけども本人もちょっと可哀そうですから、「無理に助けなくっていいです」って言ったの。三度目の時は。「無理やり助けても植物ですね〜」って言われたですよ。部長先生と連絡をして、「それでいい」ということになったんだと思うんです。 子供たちを緊急で呼び寄せてですよ、娘も東京で働いていたし、お兄ちゃんも何回か大学受けていて、東大もずっこけたりして、ちょっと遅れてましが九大へ行っていたんです。九大のボロの寮におったらしくって連絡つかない。今みたいに携帯もっているわけじゃないしですね〜。私の弟が寮宛てに電報を打ってくれたんですよ。「すぐ帰れ」と。飛行場に行けと。弟も飛行場に駆けつけてお金を持たせてくれてですね「鹿児島に着いたら病院までタクシーで行け」って、色々してくれて、長男は帰ってきたんですよ。娘も東京から帰ってきたんですよ。 その時は心電図(などの配線が)こーなっているのをみんなで見てたんですよ。 栄造じゃないけど、お兄ちゃんはほっとしたんじゃないですか。私は三回目でしたからね、もう踏ん切りはついたんですよ。二回は助けてくださいって言ったけど三回目はもういいですって言ったんです。 二回目はおかしかったけど、普通の会話はしてたし、おかしなことに誰にお金を借りたか分からないんですけど、福岡に行ってましたもの。福岡の弟がですね「来ているよ」って言ったんですよ。そういうところが不思議なんですよ。どうやってどうして行ったのかは分かんないけど。福岡の赤間っていう駅から車で送り迎えしてくれるぐらい距離あるんですけど。 私の兄弟みんな濃密なんです。仲良しなんです。それだから行きおったと思うんですよ。二回目におかしくなって、もそこまで行っているわけですよ。「来ているよ」「とにかく帰してよ」「旅費を持たせて帰すから」と言ったんですね。 弟の家まで行ったのにですよ、その家から「散歩に行く」って出たのにその家がわから、なくなっているわけですよ。うろうろしてたんでしょうよ、誰かが聞いたら「佐多という家に来た」と言ったから、その人が電話をしてくれて弟の家まで連れ戻して。どこまで送ってくれたのか分からないですけど、鹿児島の家に帰ってきましたもんね。 過ぎ去ったことだから面白いけど ははははは 大変ですよ。私は小さいときからおてんばで気が強くって、なんとも思わなかったんでしょうね〜。愚痴は言ってないような気がしますよ。自分が選んで結婚した人だからっていうのがあったし。親はこの人と結婚せいといったわけじゃないし、途中で別れろと言ったのにーと言われるのが落ちでしょう、だからですね、過ぎ去ってみれば面白かったなー。退屈する暇が無かったなというようなもんですよ ははははは。 三者面談 佐藤:その後は栄造さんが大学へ行かれたので 一人の生活になったんですか 岡田:私はですね、筑波大学かな。高校の先生は東工大どうかという話があったみたいです。私も筑波にいけばーと思ってたんです。そしたらお兄ちゃんが九大に行っていて「お前に似合うぴったしの学校が在るぞー」って言って、九州芸術工科大学ですか。そこへ行ったんですよ。こじんまりしているけど、いい大学でね〜。寮もすごくお金掛けて、音響とかいろいろあったからですね。その寮に入って。 私は皆から「両親そろってても大学出せんのに、あんた一人でよく出したねー」って言われるんですけど。親兄弟の援助もちろんあったけど、娘はですねあまり勉強が好きじゃなかったんですね。中学の時もほったらかしでしたからね。栄造に言わせれば「お母さんが女の子はどうでもいいぐらいの考えだったんじゃないの〜」って言いますけど。 お兄ちゃんは中学校で一番だったですから、お兄ちゃんを受け持った先生が妹も受け持ったわけですよ。面接に行くとですよ「この子はお兄ちゃんとはちがいますから」って先生が言うわけですよ。、妹も「比べられてかなわない!」って言いますよ。お兄ちゃんのときは「あんたのところ三者面談しないといけないの」というぐらいでしたから。先生はお兄ちゃんが出来るのを知っているから、いいように高校に推薦状を書いてくれたんじゃないですか。 娘は、おっとりして優しい子供だから、この人は家庭向きな子じゃないかなーと思って、地元の女子短大に行ったら〜と言ったんですよ。行かない。私と一緒ですね。「短大に行っても何も身につかない」と言って「私は働く」と言ったですもの。沖電気に行ったんですよ。で東京に出て来て自立してくれて。 娘は工業高校のインテリア科に行ったんですよ。先生がここに行けちゅうので。私は女子高で家政科系にやろうかと思っていたんですね。そこから短大にやればと思っていたんですよ。先生がそう言ったら「はい、はい」って。先生の言うこと聞くから、先生はいいように書いてくださったと思うんですよ、で入ったんですよ。出る時はほとんどトップだったもんだから沖電気に推薦してもらって、さっと行きましたけどね。 栄造はですね、最初はね兄ちゃんほどじゃなかったんですよ。野球したり色々してましたけどね、三者面談ありますでしょう、栄造は言われたくないか分からんけど。先生がですね、公立は鶴丸、甲南、中央っていうランク順位なんですね。「甲南ですね」っていう訳です。鶴丸じゃないと。 そしたら本人がですね「鶴丸受けます」っていうわけですよ。「落ちたらどうすんのか」と先生がいう。「通ります」って栄造が言うんです。「お母さん、どうおもいますか」って言うわけですよ。甲南というのは鶴丸を追い越せ追い抜けで目指しているものだから、ものすごい詰め込み主義というか、凄いんですよ。私は栄造は自由な子ですからと、ちょっと興南は向かないと思いますからね鶴丸がだめならね玉龍という市立の高校があるんですよ市立にやってくださいとやってくださいと言ったんですよ。 「それは困ります」と先生が言うわけですよ。一応先生は割り振っているんですようね。悪くはないけど何ランクか下だから「それは困ります」と先生が言うんですよ。本人はあくまで鶴丸に行きますというわけですよ。粘ってですねー、私もだまーっといたんですよ。先生もしょうがないなーというふうで終わったんですね。本人はよっぽど悔しかったんでしょうね。それまで塾もどこにも行ってなかったんですよ。 「別に教えてもらわんでもいいけど、塾に行ってそこで勉強する」と言って近くの個人の塾みたいな所に行ったんですよ。そこで勉強したんでしょうかねー。差し迫った12月ごろですよ。いよいよ最後というときですよ。その塾の人は私が知っている人でしたから、受け入れてくれて。 先生から言われて悔しかったから頑張ったんでしょうね。年が明けて一月のテストで学校で4番になったんですよ。それまで20何番だから、2番ランクに行けって言われてた。その時の先生の言い分がですが「お前カンニングしたろう!」って言ったんですよ。いささかその時は呆れましたねー。「なんちゅう先生だろう」と思いましたよ。それで先生は鶴丸やめろは言えないわけでしょう。最後は2番ぐらいになってましたものね。卒業式はそれがわかってから先生は私の前から逃げ回ってるんですよははははは。 娘は娘でお兄ちゃんのこと言われて嫌いだと言うけど、お兄ちゃんはお兄ちゃんでその先生はよくしてくれたんですけど。委員長でトップなもんだから。見せしめで殴りしたと言いますもん。長男を。クラスで何かあると。それを私にも言うんですよ先生は。本人は別にどうもないけどって。お兄ちゃんはその先生は嫌いだと言ってましたもんねー。 佐藤:今なら辞職しないとでしょうね、変わった先生ですね 岡田:色々ですねー 佐藤:栄造先生はラストスパートし無事 鶴丸に入学 岡田:入学したんですよ。 佐藤;高校時代はどうでしたか勉強してましたか 岡田:勉強はしたかどうか、楽しくやっていたでしょうねー。甲突川の川端をほいほい歩いて。 佐藤:二人暮らしでしょうから、お喋りしてたんじゃないんですか 岡田:あんまりしてなかったんじゃないですかー。私は仕事してたし。お父さんは大変でしょう。亡くなったのが栄造が高校3年生の時でしょう。小さい頃は子供は好きでしたから、あっこち車に乗せて連れていきおったですから。中学校の頃は学校で噂がたって「変なおじさんがおる」と。自分の父親だから、でも父親だとも言えないでねー嫌だったでしょうね。 佐藤:くも膜下出血でそうなったんで、本来はそういう人ではないんだけどね 岡田:元々はねー。高校も適当な成績で、先生は一応東工大ぐらいと言っていたからまあまあはできおったのかも知れませんね。進学校で一流のところへ行く学校だから。お兄ちゃんのすすめで福岡に行ってくれたから、私としては助かっているんですよね。経済的な意味でも私の兄弟がいるから。みんな色々してくれてみんなに世話になっていい思いしているんですよ。 お兄ちゃんのこと 佐藤:お兄ちゃんは大学の先生ですか 岡田:お兄ちゃんは国家公務員です。 佐藤:おじいちゃんの跡を継いで税務署員ですか 岡田:本当に税務署に勤めているんですよ。おじいちゃんに税務署っていったときはう〜んって言いましたけどね。お兄ちゃんは大学出た時はバブルのかっ盛りでですねー。凄かったんですよ。大の経済学部へ行ったんですよ。しかもダブったりして年が遅れているんですよ。ストレートじゃないんですよ。東大も落ちているんですよ。私たちの時代は二浪か三浪したらもう就職の時はたいへんよーってよく聞いてましたもの。お兄ちゃんはいいときでしたから、引く手あまた!だったんですよ。超バブルの時でね。 会社におる先輩ですね、九大の先輩が引き抜きにやってくるんですね。一流企業が来るわけですよ。三菱系のとある会社が来てですね、行きかえり飛行機代を出すわけですよ。宿泊費を出すわけですよ。銀座で飲み食いさせるわけですよ。小遣い50万もらって帰ってきましたよ!。なんでそこへ行かなかったのか分からないんですけど、優秀な人がおり過ぎたと言ったのか、東大を出てないといかんと思ったのか。そこへ行かないで明治生命に行くことにしたんですよ。ほいで、50万送り返したですよね。もらってても何も無かったと思いますよ。 佐藤:その当時の日当でしょう はははは 岡田:返しました。明治生命に入ってですね、東京駅の裏の本社に研修に行ったりして、鹿児島支社に入ったんですよ。その頃お兄ちゃんは「丸の内で働きたい」なんて言いながら三菱系の会社は蹴ったわけですよ。一流の会社一杯来てくれいうのを蹴ったわけですね。「生命保険の営業なってへんよ」って私は言ってたわけですよ。だけども何を思ったのか明治生命に入って鹿児島支社に来たんですね。バブルの最中だから、4月に入ったと思ったら夏のボーナス70万かなんかもらいましたもん。びっくりしましたよ。給料はいいしねー。そこの頃支社長がものすごく忙しくって、休みも、お付き合いでゴルフに行ったり「あんなしてたら体壊すわー」って言ってましたもの。それ見ててですね、「こりゃいかん」と思ったみたいで、給料はいいけども仕事は忙しくって、体に悪いと思ったみたいですね。 急にですね、国税専門官を受けると言い出したんですよ。「ま、いいけど」と私言ったんですね。「給料は半分になるからね」と。「それでよかったらいいよ」と言ったんです。そしたら受けて今は国税専門官っていう職なんですけど。そして東京国税局に入ったんですよ。 一時したらバブル弾けてですよ、大変な事になったら明治生命の人達が「君の選択は正しかった」はははははは。葉書が来たですよははは。確かに正しかったと思いますよ、今となれば。 佐藤:バブル弾けて、もうすぐ失われた30年になりそうですね 岡田:もう安泰ですよ。悪いことさえしなければね。あんまり出世欲はないんんですけどね。家庭第一というか。体もすっちゃかめっちゃか働かんという主義でですね。無難に働いているんですよ。 佐藤:お兄ちゃん堅実で賢いですね 岡田:ねー!栄造にはあそこに行けって行かせるし。栄造はね前から絵が上手だったり、工作で作っると、先生が次の授業の見本に貸してくれとか言ったましたよね。 佐藤:周りにだ誰かモノづくりや絵が好きな人がおったんですか、洋裁でお母さんに似かな 岡田:芸術系の人おったかしら。どうなんでしょう。私も絵を観るのも好きでした、しょっちゅう美術館で絵を観にいきますけど。家は音楽系はあまりいないんですね。音楽お金かかるからって言うんだけど。主人もね頭おかしくなってからですね、絵を描くと言ってましたものね。画材屋に行っていたみたいですよ、好きやったんやろうと思いますね。 佐藤:栄造さんは大学に行くまでは波乱万丈な時間の中で生きていたよう思いますが 一番下だから大変でしたか。 岡田:お兄ちゃんが大変だったんじゃないですか。性格にもよるかも知れないけど、本人は大変だったと思いますけど、お兄ちゃんが自分がーしっかりしなくちゃーとというのがあったと思いますよ 東大受けたのも私に楽させたかったからと言いますもの。東大に行ったら家庭教師してもね高いし、お母さんに支援できると思ったみたいですもん。そういう処はお兄ちゃんに対して気の毒だったなーと思いますよ。ちょっと一風、変わっているかなーと思うんです、育った環境がああいうのだからかなーと思いますけど。公務員向きですね。経済学部に行ったから数字を扱うのは好きなんですよ。だから今の仕事は向いてる!んですよ凄く。自分でも向いていると言います。 栄造は芸工大に行っている時に徹夜で椅子を作ったとかいう話をすれば「俺にはそういうことはでけんち、一晩中〜数字を扱っておけちゅうたら出来る」と言ってましたから。好きな仕事に就いたと思います。大変だとは思いますけど夕方さーっと帰ってきますもん。 今度は三茶の方に自分たちで借りたけど、目黒の公務員住宅にいたんですね。新しい所だったんですよ。結婚したと同時にそこに入ったんですよ。公務員住宅って上に行くほど偉いんですよ。上がいわゆるキャリアって言われる人たちがおるんですね。お兄ちゃんは三階なんですよ。平でね。するとですね、キャリアの人たちは仕事も忙しいんでしょうねー、夕方とか帰って来ないみたいですよ。お兄ちゃんはさーっと夕方帰って来て、子供と遊ぶでしょう。そうすると近所の子供がね、「おじちゃんもう帰って来たの、いいねー」とか言うらしいですよ。それを嫁が言いまもの「おじちゃんは偉くないから早く帰るの」って私が言ったのね。嫁はですね「おじちゃんは偉いから早く帰るのよ」ちゅうてははははは。本当は偉くないから早く帰るのにはははは。 キャリアという人は子供と遊ぶ時間もないぐらい忙しい人もおるみたいですよね。こんどは何を思ったから知らんけど、長男の子供は孫のなかで一番小さいんですよ。だから下に降りたほうがいいと思ったからか、三茶の方に移ったみたいです。こないだ越したからまだ行ってないです。 私も色々あったけど、みんな健康でありさえすればね、栄造は健康だけが心配。その話からそういえばねー父さんは野球してて血尿が出たからって言って、その系統かねーという話はしたんですけどね。分かんないんですよ。 お兄ちゃんも健康だけど、公務員だし悪いことしなければ定年まで無事に済みますし。お嫁さんは元国立病院の看護士さんで、結婚して辞めさせたんですよ。お嫁さんは働きたいんですよ。子供が大きくなったら働くと思いますから。心配はしていないんですよ。お兄ちゃんは小さい頃自動車にはねられているからおかしくなるかもよって言ったんですよ。「脳外科にもいましたから」って言うんですよはははは。 娘のところは孫、二人とも大きくなっちゃって働くようになって。女の子二人なんです。二人とも一人前になって。 私は孫が6人います。長男のところが一人、娘が二人、栄造が三人でしょう。私は何気なく言うんですけど、孫がいない人もいらっしゃるから、あんまり言っちゃいけないのかなーと思ったりしますけどね。今は いまのところ!!ですよ、まあまあははははは、平穏無事で。お金はないですけどふふふふ。無いのはお金だけです。 佐藤:旦那さんが亡くなったのは何年だろう 岡田:1988年だったと思います。昭和63年、昭和の最後の年でした。 佐藤:20年過ぎたんですね。健康第一ですね。一回目の聞き取りなのでこんな感じでいいかなー 岡田:ははははは。 佐藤:聞いた記録にならないから、文字にまとめますからお待ちください。まとめた記録に写真とか話を再度付けくわえたりして岡田治子さんの記録を完成させましょう。元気なうちに写真も整理して記録作っておかないと 誰がどこに写っているのかわからなくなっちゃいます、治子さんの人生経験が消えるのはもたいないですよ 朝鮮半島で生まれた治子さんの子供の写真が皺もなく綺麗に残っていたのは不思議ですしその経緯も興味つきないですよね〜 岡田:親戚からもらったんでしょうかねー。持ってきたのかなー。よく分からないです。 佐藤:治子さんの人生を聞いていると、今いる人の中に先人の人格が引き継がれているように感じ、先人のいろいろな人生が立ち昇って来て、見えるような錯覚におちいりますね。今日はこんなところで丁度午後四時ですから終わります 岡田:本当によーしゃべりました 佐藤:ありがとうございました。 |