2017年8月26日 岡田治子さんに聞く

その02

勧業銀行に就職するも・・・

 短大には行かない!就職すると。大学は行かなかったんですよ、その時はね。同じ年の女の人も九大に行ったり京大に行ったりね。男の人はみんな優秀でしたから、佐賀では佐高って一番でしたからね。みんないい大学に行かれたんですよ、でも私は行かない「就職する」と言ったから。

就職は一番いい就職先だったと思いますけども、今のみずほ銀行ですよね。日本勧業銀の佐賀支店に入ったんですよ。そこでですね、1年半ぐらいいたんですかね〜 また父が転勤ですよ。今度は久留米の財務所長さんか何かになって。当時は単身赴任なんかしてませんもんねー、家族みんな付いて動いてましたねー。弟たちもみんな転校してたわけですね。私も学校を幾つかわったか分からない。私は銀行員でしょう〜、でも女の子は転勤を認めないということで勧業銀行の佐賀支店は辞めたんですよ。

久留米に行ったら、私の子供たちは「コネ、こね」って言うけれど・・父が財務局だという関係もあったからか知れませんけどね、久留米支店に声かけてくれてね、「私を採用してくれ」と。父が勤めていた財務局は銀行を監督しているようなものでしょう〜。佐賀支店に入ったときも私の兄弟はコネやろうと言うけれど、私は成績で入ったんですよ、成績よかったんですから!ね。久留米支店で採用してもらったんですよ。それこそそれはコネでしょうよね。銀行は所長の娘さんが探していると佐賀支店から連絡が行ったんじゃないですかねー。



久留米支店にちょっと勤めたら、また福岡に転勤になったんじゃないですか。北九州財務局って言ってましたね。熊本には南九州財務局って言うのが在ったんですよ。北九州財務局の監察官になってですね、また転勤ですよ。私は久留米支店も辞めたわけですよ。弟たちも高校をかわったり中学をかわったり、転々としてましたものねー。

そして福岡の官舎に住んだんです。そこも一時だったような気がします。そこから、父も年で定年間際だったと思いますよ。弟たちは学校へ通っていたでしょうね。私はなんもしてなかったんじゃないかなーと思います。は、そこで定年をむかえて、国家公務員共済組合若松病院事務長に行ったんですよ。福岡から北九州市に移ったんですよ。


東京へでる 

北九州市に行ったときにですね、ちょっと洋裁学校に通ったんですよ。その頃にがそこから西南大学とかに行ってました。福岡まで通ってましたよねー。2番目の弟も西南大学でしたかねー。私は洋裁学校へ行って、私は東京に行くって親に言ってですね、東京の今のドレメですよ。杉野学園ですよ。今は大学ありますけど、その頃は短大だったんですよ。杉野学園女子短期大学だったかな。

銀行へ勤めててすこーしぐらいお金を貯めてたのかも知れませんけどね、あれよあれよという感じでね、高校の時の先生に推薦状を書いてもらって、それを出してですね、入学したんですよ。



私は6歳遅れてはいりましたからね、24歳ぐらいじゃないかなー。同級生より6歳上でしたから。

上京したのは1960年かなー、東京タワーが出来てすぐぐらいでした。自分でぱーっと出て来て学校の寮に入ったんですよ。親もたぶんお金を送ってくれてたと思うんですけれども、二つ違いで4年の大学でて弟がすでに銀行員になっていましたから。弟が卒業してから私が東京へ出たのかも知れませんけどね。

弟がボーナスが出たとかで、お金送ってくれてましたもん。そこに来ているのは皆 お嬢さんですよ、嫁入りの資格とりみたいにね。私は行きたくって行って、アルバイトもしてましたよ。勤めた経験がありますので、勧業銀行の本店に九州時代の知り合いかなにか居て、アルバイトで電々債の集計とかしてましたもの。

     
      上京当時の治子さん

私が年いっているし、自分でやっているのを知ってた学校の先生がですね、旦那さんが朝日新聞でしたの。朝日新聞でアルバイトを募集しているからって世話してくれたんですよ。その頃の朝日新聞社は有楽町に在り日劇とか在ってね。

朝日新聞にアルバイトに行くとですね、すーごく!良かったんですよ。給料ちゅうんかねー。学校の休みの日に行っていたんでしょうけどね。授業をサボって行っていたりはしてなかったから。新聞社だから朝遅く行くでしょう、していた仕事がですね、世論調査の集計ですよ。その頃は聞いて書いたペーパーで世論調査してましたからね。集まったペーパーが来るわけですね、私が覚えているのは日本国家をどう思いますかとか日本国旗をどう思いますかというのがあったですね。私は算盤が出来るからそれを集計してたんですよ。大会社でしたからねー。アルバイト料もすーごくよかったんですよ。

昼が来たら食堂でご飯を食べられてましたね。お茶、のもうとかいってそこの喫茶でおごってくれるわけですよ。その時の印象は朝日の記者とかねー、頭がいいなーって思いましたよ。一を聞いたら十を知るっていうような人たちばっかりだったからねー。切れる人たちおったですよ。その他は切手を販売するところのアルバイト、切手シートを送るような所にもいたことがあります。初台でしたね。

杉野学園のは学校の傍に在ったんですよ。住所は品川区大崎ですけど、今も在りますからね。山手線の目黒駅で乗り降りしおったです。その頃の山手線はもー押す人がおって、押し込まれてですね、バックなんか潰れそうになるような時代でしたよ。1960年代。

その頃に大学の60年安保闘争など色々ありましたよね。私がおるころも凄かったですよ 美智子が死んだのも。学校ではそういうのには行っちゃだだ駄目だって言われていましたもの。そういう学生運動はしてなかったけれども東大とかに遊びに行って写真撮ったりしてました。上野に西洋美術館が出来ましたもの、直ぐに行って写真撮ってます。ロダンの考える人とか、コルビュジェがね。
 
 
杉野学園を2年で終え、私は年がいっていたから、そこも代表で卒業したんですよ。ドレメの洋裁の専門の方に行きたいと言ってですね師範科というのかな、短大じゃないから寮は出なくちゃいけなくって。でて荏原という所に部屋を借りたんですよ。今、しょっちゅう話すけどね、確か3帖じゃなかったかと思うんですよ。

その頃は一帖千円ぐらいだったでしょうね。そこに何が有ったかと言えば、ミシンだけは一応置いてました。それから出窓みたいなのがあったので携帯コンロみたいなのを置いてましたね。そこで煮炊きしてたんか。トイレは共同ですよ、風呂はお風呂屋さんに行ってましたね、風呂屋に行っていたのは覚えてます。

荏原の目蒲線ですかね、荏原の駅を降りたらアパートまで行く間に商店街でいろんなお魚とか焼いて、惣菜を売っているんですよ。そういうのを買って帰ったりしてましたね。お金は家からも送ってきてたろうし、弟も助けてくれたか、なにかして、バイトもして、まあまあ生活してましたね。

出会い結婚

杉野学園の師範科を卒業したわけですね。そこも代表で卒業したんですね。そこからイギリスに行こうと思ったんですよ。みんなその頃はフランスに行ってましたもの。でも、どういう訳か私はイギリスに行きたかったんです。イギリスに行くって親に言ったんだと思うんですよ。私の性格を知っているものですから、何をするか分からない。銀行時代とか色んな縁談も蹴散らしてましたからねー。イギリスに行っていいからと。一度、家に戻って来いと。父は3年経っていたけど事務長で北九州に居ましたね。行ってもいいから一応一回帰ってきなさいと。ほっとけば何するか分からないと思ったんでしょうね。とにかく戻ったんですねー。

ちょっとの間、洋裁学校の先生をしたんですね。そしたら体壊し具合が悪くなったんです。洋裁学校の先生を辞めてですね、アメリカの百科事典を売るセールス会社が在り事務員募集してたからそこに入った、そこで主人と知り合ったんです。

主人はですね、鹿屋でですね、したい放題していたから、親から出ていけって言われててですね、誰か知った人が居たんでしょうね、福岡に出て来て。そこの会社で働いていたんです。北九州に支店を作ったときに主人も北九州に来て、私も北九州に来て、その会社に事務員で入ったんですよ。運命でしょうね

巡り会ったでしょう、鹿児島で意気投合したわけですよ。私は鹿児島の人間だと。それまで私は鹿児島に行ったことなかったんですよ。本籍地は鹿児島だ、先祖は鹿児島なんですと。主人は鹿児島の人間でしょう。私の旧姓は佐多ちゅうんだけど。

私の父の従弟が鹿児島での参議院議員でしたもの。だから名前が佐多で、あっと思ったんじゃないかと思うんですけど。父の従妹の佐多は東大出ていたんだけど、東大で左になっちゃって社会党でしたから。佐多忠隆っちゅうてですね、国際局長とかしていたから社会党の歴史には載っていると思いますけどね。佐多と聞いた途端に主人はあ!鹿児島の人だと思ったと思うんですよ。鹿児島縁で親しくなったんだと思うんですけどね。

主人は調子のいい人でしたから〜。C調な人でしたから。口もうまくってでっすね。体が大きかったです180pぐらい。

主人は鹿屋の中学で野球をやっていたらですね。

鹿児島商業に野球で引かれたんですよ。そこで野球をやっていたら、血尿が出たってか何かで野球をやめると言ったら、お前は野球で入ったんだからやめるんだったら学校をやめろと言われたとかでですね。

鹿屋に戻ったんです。そこで野球やっていて、ピッチャーやっていたんです。切り抜きもあるんです。体格がいいからですね、そこを出る時にですね、阪神で40万円で引かれたと言うんですよ。
子供が、今ならいくらかなーちゅうて計算しよったですけどね。

主人の父親が反対して阪神には行かなかったんですよ。「貧乏人やったら行っているよね」ちゅてからですよ、栄造が言ってたけど。阪神に行かないで、主人は野球で阪神に行かなかったから、おじさんが横浜で公認会計士・会計事務所をしていたんで、そこの手伝いに出て来たんですよ。そこで、どこの大学をでたんですかってみんなが言うもんだから、「自分は大学を出ておかんといかんなー」と思ったわけですよ。で、神奈川大学に入ったんですよ。主人のお母さんも元気だったし、お金は有ったと思いますから、神奈川大学の短期かも知れないですけれども出ているんですよ。主人も大学入学は遅れて行っているわけですよ。

主人放蕩息子というか、私が鹿屋に行っている頃は女中さんが話してました。主人の両親が遅くなってから主人が出来たもんだから、お姉さんが出来て、主人、弟とできたんですけど。お母さんが子供が可愛いくって、お母さんはメロメロだったんですよ。お母さんもしっかりした人で婦人会長とかなんとかしたような人。女学校を出ているから、旅館を取り仕切っていたわけですね。お父さんは違うことをしていたみたいですよ。

女中が私に話すのには、主人が手を出すとお金を載せおったって言うんですよ。何に使うのとか、こないだも上げたでしょうも、何も聞かないって言うんですよ。主人はそうやって育っているんですよ。戦後でみんな大変な頃にステーキを食べさせたりしてて女中さんたちも呆れてたようで、私に告げ口してたんです。

神奈川大学に入って休みに鹿屋に帰るわけでしょ。授業料とか言ってですねお母さんに持たせられて。そしたら友達と一緒に京都で降りて散々遊び惚けて金なくなって、また送ってくれよったらしいですから。そういう生活してたんですよ。

神奈川大学を出てから鹿児島に戻ってやっていたのか、その間にお母さんが亡くなってますよね。私が結婚したときにはお母さんはいませんでしたもの。脳溢血かなにかで亡くなったんです。主人は鹿屋に帰ったけど、店をしたり、なんかかんかして適当にやっていたものだから、お父さんが勘当したか何かしたんで福岡に行ったんですよ。

主人は私より三歳下でしたから。昭和13年生まれでした。結婚したときは27歳かな。

主人は調子よくってですね男は大きい方がお得ですとかなんとか言ってですね はははは マヨネーズやケッチャップじゃあるまいしと私は言いよったんですけど。結婚してくれんかったら、ブラジルに行くとかですね。私もけっこう周りが真面目な人が多かったですからね〜、公務員の家庭に育ってですよ。主人がC調なのに半分は新鮮だったのか、面白かったのかも、騙されたのか、とにかく調子がいいんですよ。

私の名前は佐多だったのにですよ、岡田治子って今の名前を書いてですよ、「いいなー、字画が いいなー」ちゅうて言うんですよ。「ぜったい こりゃーいい」って言うんですよ。ころっと騙された はははは。豊かに育っているから、人間は悪くないですよね。嫌な面も無いしですね、結婚しよう!ということになってですね〜。そしたら鹿屋の親が帰って来いだったですよ。私も二つ下の弟あるからですね、年下と結婚するちゅうことは考えたこともなかったんですけど、うまいこと言われてですね、好きになっちゃったんでしょうね。

結婚するって言ったら母がですね、「旅館の息子はねー」って言ったんですよふふふふ。だけどですね、「いい歳になっているし、この子が結婚するというのに結婚させないと一生結婚しないか、どこかへ行っちゃう」かと思ったでしょう、両親はね〜。「しょうがない」と渋々許したわけですね。

結婚したのがねー昭和39年です、オリンピックがあった年でした。

佐藤:1964年ですね




鹿屋へ 

岡田:そうです64年です、長男が65年に生まれましたから。結婚して即鹿屋に帰ったんです。私は鹿児島に行って旅館の女将なんか考えもしてませんでした。北九州でずーっと働くもんだと思っていたんですね。主人はほいほいで、帰ったら楽すると思ったんか知らんけど。結婚して直ぐでしたよ鹿屋荘でした。あんまり言いたくないんですけど。荷物まとめてほいほいって帰っちゃったんですよ。たいした荷物も無かったんでしょうけどね。

主人の父親はそのとき喜んだですよねー。嫁さんもらって家に帰ってきたからねー。親戚にはあの佐多・参議院議員の親戚だと言ってですよ喜んでるんですよ。

長男も翌年には生まれたし、すぐにお父さんが癌で亡くなりましたよねお父さんがずーっとおってくれたら何とかなったんか知れんけど。父親が亡くなったら皆 よってたかって。隣の人は隣で狙ってたのかですね、ボンボンはたやすいと思ったかですよ、一部土地を売ってくれと、ほいほいと譲ってやったんですよ。そのうち、ヤクザみたいな者から麻雀に誘われるんですね。皆に狙われたんですよ。ボンボン育ちだから騙すのはなんちゅうことないという調子でしょうよ皆。

主人は人を差別しないっていう、いいところはある、えり好みしないから、誰とでも付き合うわけですよ。麻雀屋でいい鴨にされとったわけですね。よってたかってヤクザ連中から鴨にされ。誘い出しの電話が来るわけですね、私はいませんよともちろん言ってました、行ってほしくないから。女中さんたちも皆知っているから、「いない、いない」と言うわけですよ。本人はどうやって行きよったか、ふらふら行ってたか知りませんけど、行って散々鴨にされて、負けて「金貸す金貸す!」と言われよったんだと思うんですよ、乗っ取ろうと思ってたと思いますよね。

ある時に、栄造がお腹にいる時に、主人は危ないと思ったんでしょうね。実家に帰って産めと言ったですよ。上二人は鹿屋で産んだんですよ。私は旅館が無くなるということも分からないし、上の二人を連れて実家に帰ったんですよ。若松の父が事務長をしている家に帰ったんですよ。栄造が生まれたのが70年の4月ですから、70年の初め頃帰ったんでしょうねそれっきりになっちゃった。だから荷物も何もねー、実家に帰るときには知らないですからねー。若松病院で産んだんですよ。産んでから幾らもせんうちにですね、病院からは戻っていたと思うんですけどね。父が勤め先の病院から飛んで帰ってきたんですよ。 「・・さんが出て来たぞ」と言うわけですよ。

主人の弟と二人でですね、トラックか何かで荷物を積んでですね、独身の時も来てたので実家の場所は知っていたと思うんですよ。主人はジャイアンツ、ファンでですね、我が家族はアンチジャイアンツだったんですよ。自分一人でジャイアンツ応援するんですよ。普通遠慮しそうなもんですけど、そういう人だったんですよ。実家は知っているんだけど直接病院に行ったですかねー。父が飛んで帰ってきたから。今から家探すと言ったかどうか知らんですけど。それから大変なことになっちゃって洞海湾って言って北九州に湾が在って、こっちが若松ですけど、こっちが小倉ですよね。小倉に部屋をみつけたんですよ。私たちもそこへ「来い!」ですよ。


私は栄造を産んだばっかりでしょう、それなのに小倉へ行って皆のご飯を作らなきゃいけないんですよ。

鹿屋の旅館にいたころは人がいてですよ、お兄ちゃん産んだ時なんかおむつなんか洗ったことがないぐらい、下女中もいましたからねー。途端に、その生活になったんですよ。目が回りおった!倒れるかと思うようになったですよね、あの頃は。

主人と主人の弟は日雇いみたいなの何か行きおったのです、私は家事全部してましたものね。子供のおむつの洗濯もせんといかんでしょう。ご飯もつくらんといかんでしょう。兄ちゃんがその時に5歳です、幼稚園でしたもの。ちっちゃい子ばっかりおるわけでしょう。兄ちゃんはおかしくなってですね

お兄ちゃんはおっきな家に居たわけでしょう〜広ーい家に。お客さんが来ればいらっしゃいませって挨拶する、5歳ぐらいでですよ。お客さんが帰るときはまたなんとかと言ったら、みんなお客さんがいい後継ぎが出来たねーと言ってたんですよ。お兄ちゃんも調子いいんでですね。急に本当にちーさなアパートみたいな所にね行ったでしょう。おかしくなってでんぐり返りしおったですもん。なんかおかしかったですよ。逆さまになってみたりですね〜。そこを脱出したのはどうしたのかなー。

私の母親はそこには手伝いに来てないと思いますよ〜。主人が家をつぶした時に父親がですね、母にですね、別れさせようと言ったみたいですよ。先が見えているからね。苦労がね。私は直接父からは言われてないですからね。私は別れるなんて、とんでもないと。私は主人を嫌いなわけでもないし、経済的にも大変な人でしたけどねー、でも優しい人でしたし、別れるなんてこれっぽっちも考えなかったですねー。

その後色々あったときでも、子供の父親だからなーと。戸籍上にね父親がなくなるのはなー。自分が勝手に結婚したんだし、親が結婚せーちゅうて結婚したわけじゃないし。責任とらんとーという感じはあったですね。

その頃、私の弟たちも結婚してたんですかねー。結婚していない弟もいたでしょうからね。母はその世話もあったでしょうよ、妹もいたしね〜どういう経緯があったのかなー、主人の弟は前に付き合っていた鹿児島の人と小倉で結婚したんですよ。

私たちは小倉から北九州市の八幡の二軒長屋みたいな所に引っ越したんですよね。

佐藤:話を少し戻しますが鹿屋荘は大きかったんですか。


 その03へ続く