佐藤敏宏   この人に聞く    

 2009年6月30日   本江正茂さん (第1回)         home 

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 その01  

       (仙台一番町内の居酒屋さんにて)

佐藤:よろしくお願いします
本江:はい。よろしくお願いします
佐藤:ます写真を撮らしてください
本江:はい。
 
      居酒屋内の音 写真を数枚撮る さとう

佐藤:ますは乾杯しましょう。よろしくお願いしま〜す
本江:よろしくお願いしま〜す

佐藤:メールでもお願いしたんですけども。情報技術が建築系でどのように進展しているのか?、また建築(物)にどんな影響与えたのか、いるのか。それから建築系学生にどのように創発的な誘導をしたか・のか?それらは前段で教えていただきたい、知りたいわけです。本江さんが提案しているギガ・ハウスというのは何なんだ?や私が実践している星座型居住の比較へ最終的に到達してワイワイしたいのです。本江さんの研究史(論文アーカイブ)とそれらは重なっていだろうから、研究成果など紹介いただき、具体的に仙台の町に適用し 活用するような話を経過してもオモロイんじゃないか?と都合の良いことを言っていますが。第一回目は本江さんのこれまでの人生を行ったり、来たりしたながら、後の展開を見据えつつ色々お話しを聞かせていただきたいなと思っています。

本江:なるほど。
佐藤:そうすれば、本江さんの研究史が解りやすいくなるし。理解できるような気がするのです。最初ですが、研究のテーマが情報環境とかという曖昧な、言葉を、本江の「環境」はこういう定義だ。「情報はこうだ」というものを最初話していただきたいんです、と。でも話が広がりすぎるので

本江:ふふふふふ

佐藤:今日はそいう専門的な話の前に本江さんのベーシックな情報、どこで?いつ?生まれた学校はどうしたとか、色々教えてください。

本江:僕はね生まれは富山です。両親が富山で。
佐藤:何年ですか・
本江:僕は1966年、昭和41年丙午(ひのえうま)43才。そういう年です。ただ富山生まれと言ってるんですけど。
佐藤:富山はどこですか
本江:富山市内。ほとんど神奈川育ちです。神奈川のね。
佐藤:富山には何歳まで
本江:ほんのちょっといただけですね。だから育ったのは全部神奈川です。神奈川の秦野って言うんです。ちょっと山の方。

佐藤:小田急線の郊外のその奧って感じですか
本江:そうそう。学校の半分は農家の子っていう感じの所だったんだけど。

でも新興住宅地で、割とドンドン開発されていって。東京のベットタウンになっていくという時に、そこに居た感じですね。 で、そこで小中。高校は平塚の江南高校っていうんですけど。それはちょっと遠くまで通ってました。高校までは神奈川にずーっといて。大学から東京に。

佐藤:大学へは自宅から通われたんですか。
本江:いやいや、「大学生になったら家から出て行け」と言われていたので。東京で下宿してました。
佐藤:学生時代はスポーツとか、何もしてないですか
本江:学生時代。それは何時から数えて。スポーツやっていたとか、そんなに一生懸命やったことないですけど。

佐藤:勉強だけですか
本江:いやいやいや。高校のときはね映画」を作っていました。8ミリ。まだ8ミリでビデオ無い頃で。
佐藤:どんな。やっぱりウルトラマンみたいなものですか

本江:ウルトラマンみたいなやつでもないんだけど、一応劇映画ですね
佐藤:ラブストーリーですか
本江:ラブストーリーう〜ん半分。あとアクション
佐藤:アクションとラブストーリーを構成に劇映画。やっぱり善悪がはっきりしているような内容ですか

本江:いやいやそれは、青春の苦悩を扱ったわけです
佐藤:ははは、本当かな〜怪しいな〜
本江:本当。本当。ふふふふふ
佐藤:何本ぐらい作ったですか。

本江:作ったのは、先輩がやっていたやつに、ちょこっと引っ掛かったのと。あとは自分たちで作ったのが1本と。まあってもそんなに一生懸命映画少年だったんじゃなくって。友達と
佐藤:8ミリでしょう、あの汗くさそうな画質
本江;そうそう、酸っぱい、で編集して。色もあれる。
佐藤:フィルムの質によって画質が違うし
本江そうそうそう。色違います 違います。フィルムで。だからアナログの編集を、ガラガガラってやって、コマ映しして、「二コマ切る」とかやっていた。編集は凄く面白かった。
  
             (編集機上記絵 web画像より)



佐藤:
映画少年がまたなぜ建築へ行っちゃったんですか。
本江:それはそれで、別に職業っていう感じでもなかった。建築は何か行こうと思ったですね。あんまり僕も覚えてないけど。
佐藤:覚えてない、ふーん。

本江:友達が言うには突然「建築に行く」と言い出して、本当に行ったという。言われました。
佐藤:突然、へ〜
本江:思えば、爺ちゃんが設計をやっていたんですね。いわゆる建築家じゃないですよ。町場の工務店の設計だった。まあそういうのにちょっと憧れていたこともあるかもしれないけど。まあそれは後付で。

佐藤:東大へ行かれたわけですが何年ですか。
本江:東大はストレートで行ったから66で18だから、84年
佐藤:戦後も終わって、プラザ合意

本江:そうそうそう。だからバブル(経済)になる直前に大学時代はバブルですね。大学院の時とかバブルだ。
佐藤:ドップリとバブル(経済)時代と学生時代が。
本江:だから大学の学部の卒業の就職活動の時とかはもう、同期はみんなバブルの建設業になんか行かない。

佐藤:青田買いも酷い状況で、学生さん時代から企業に上げ膳据え膳で宴会やりまくって!
本江:そうそうそう。宴会やって身柄拘束されて、リゾートでテニスやって
佐藤:栄養費支給されちゃったりしてははははは
本江:そうそうそう。
佐藤:激しくバブルしてた時期なのにですよ、またなんで研究者なんぞの地味な家業になられたのは

本江:その時は、だけどやっぱりまあ建築やっていたから修士ぐらいは行くっていう空気なんですよね。だったので行って。修士行っている間はけっこう真面目に勉強してたんですけど
佐藤:建築の勉強ですか

本江:そうですよ。僕は研究室を色々渡り歩いているので。渡り歩いているって言うと変なんだけど、4年生で。卒論を書いた時は槇文彦先生。建築意匠ですね。都市デザイン。建築の設計都市デザイン

 料理が出て来る (右絵 webより)

 お任せメニューでその日のいろいろ出て来る

佐藤:お!これは富山の蛍烏賊じゃないですか、小さいとき移動したからホタルイカは食ってないか

本江:親戚はみんな富山にいるからね、今もお袋 富山に居るんですよ。オヤジは死んだんですけど。
佐藤:お母さんは富山に帰ったと。
本江:盆暮れには孫連れて行きます。


佐藤:研究室を渡り歩いたと。槇先生の後はどこへ、事務所に入所しちゃったんですか
本江:ちょうど槇先生退官の年。最後の4年生なんです。で、修士は香山 壽夫先生の処に行ったんです。そっちは都市デザインというよりはぐーっと建築の意匠。様式とかもやったし、空間構成も。

佐藤
:今研究されていることと全然違いますかね。
本江そんなに違わない
佐藤:そうなんですか
本江:香山研に行っていたんだけど、丁度ですね槇先生の助手をやっていた大野秀敏さんが東大の先生なんだけど。
佐藤:藤本壮介さんの先生でもある、兄弟弟子ですね

本江:そうです。僕は藤本と兄弟弟子で、師匠は大野さん。大野さんが助教授なったばっかり。大野研、始まったけど学生いないじゃないですか最初。僕は香山研にも行っていたけども、大野研のゼミに出て両方行っていたんですよ。で、色々、両方で勉強させてもらってっていう感じです。

佐藤:総計で東大に何年いたんですか
本江:東大は結構永くいましたよ。学部4年いて、修士2年行ってるわけでしょう。ドクターは3年行って中退したんです。で「助手やれ」って言われたんで、学生をだから、4、6・・9年やっって、それから助手を6年やりました。15年

佐藤:15年、凄いですね〜学校大好き人間だね ふふふ
本江:まあだから運が良いというか、タイミングが良くって。大野さんの所と香山さんのところ両方の研究室に。もちろん香山さんからも色々沢山教わったし。でも大野研は、槇研と同じような系列でやっていたんで。そこで都市デザインの事をずーっとやっていました。で、槇さんの所からそうですけど、近代建築の問い直しみたいなことな訳ですよ。都市デザインにしても。

それをずーっと色んな話をやっていて。で、ドクターは香山研じゃなくって大野研に行った。3年行って、その後大野さんの助手をやっていたです。けっこう永い。


佐藤:じゃー実施設計なども行ったんですか
本江:やってましたよもちろん。それでいえば。修士の2年間はそれこそバブルだったんで。「ちゃんと設計しゃっていた」と言うのはおこがましいんですけど。まあ何か当時はですが、覚えてらっしゃると思うんですけど、山ほどに出鱈目な仕事が有って。学生に何でも良いから絵描けみたいなのが有ったんですよ

佐藤:ふふふふふふ
本江:あんまり言うと、あれだけど。だから、あったわけ。
佐藤:土地の値段がバンバン上がんるから建築はオマケで建てろみたな
本江そうそうとりあえず建てろみたなことが有って。それで設計頼むも誰もやってくんないから忙しくって。ちょとっと絵描いて儲けつくると、何十万みたいな。一杯バイトで有ったから。ほどんどそれで生活費を稼いで。

佐藤:俺もそうですけどね。、今振り返り言えるが、バブル前に設計事務所始め子供育てて、大人になったらバブルが消えて。祭りが無くなっていた。今やることなくなった、インタビューしているみたいな、ことです。本江さんは学校の先生だけど俺は唯のルンぺオヤジにと、ふふふふふ

本江:タイミングの問題、
佐藤:おもろい
本江:で、そうですね。やっぱりだけど、どっかに「こういう感じでは続かないよな〜」って解って来たし。それこそ直ぐ上の先輩とかにね、不動産のデベみたいな仕事始めたりして。自分で凄い金借りて土地買ったりしていたから。「大丈夫かな〜」と思ったけど。今どうしているか聞かないから。大丈夫じゃないんじゃないかと。
佐藤:それは聞かない方がいいな、でもその当時は大丈夫だったでしょう。

江本:バブル期は大丈だった、若造でも「土地を買うから」って言えばなんぼでも金が借りられたみたいな。僕は何か直感的にそういうバクチには手を染めませんでしたけど。
佐藤:プラザ合意の後ね、5年間か、つかの間に50兆円日本は使いますみたいな、約束して。下り坂を生きいる俺はビックリしたけど。リゾート法とか作ちゃって。じゃぶじゃぶ播いた。日本はどうなっちゃうだろう思ったけど、やっぱり凄い事になちゃいましたよね〜後処理の、失われた10年も含め。その上に去年の緊急危機の重ね餅で、酷いことになっちゃいましたね〜

本江:なっちゃいましたね〜
佐藤:車のトランクに札束積んで、農家のオツサンの顔叩いて目覚!津々浦々にゴルフ場作ったり、建物つくったり凄かったですよね。建築関係者は真面目に建物作っていなかったように感じた俺は。土地のアクセサリー何かオマケのような。グリコのオマケのようだった建築は。こんなに金あるなら後世に残るような建築は出来ず、投機的なお金の循環でしたね

本江:なりませんでしたね。
佐藤:あれは不思議でしたね。
本江:不思議でしたね。僕も山ほど絵描いたけど、一つも建ってないですからねどうなっちゃったんだろうな〜って。それも特段期待もしてませんでしたけど、そんな時期がね。

佐藤:そういう時期の痕跡のデータとか、残ってないんでしょうしね、もったいない話ですよね。(のち夕張市は破綻)
本江:そうですね
佐藤:日本人が、金が有った時にこういう絵を描いたりしていたという記録になったんだけど。今だとデータ残せるけどね。
本江:そうそう そうね。
佐藤:その時PC無かったもんね。

本江:今見るとみすぼらしいデータしかないんですね〜
佐藤:そう、金が有ってこそ、あくせくしないといけない社会の風圧は建築家にとっては仕方のないっていうか。面白い時代でしたよね。建築では歴史的様式を参照し使ってポストモダンとか言われて。ポストモダンの意味が違うとは思っていましたが。、今はライトコンストラクションの建築で、意味を付加しない、主体性のない、主張しない建築、保守化っていうような建築になってしまったけど。もうちょっと追求していくと面白かった。本江さんが『エディフカーレ(EDIFICARE 1−1991年)に都庁問題で書かれた「コストの射程」が共有されたかもしれなかった。

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