鮪立計画 2011/08/25〜28日 home 2011/08/26日 菅野栄喜先生 の講義 その01 その02 その03 質疑応答 (その03) 菅野:時間だいじょうぶですか 佐藤:時間はたっぷりとってありますので 捕ってきた魚はどこで加工したんですか 菅野:あのね。鰹船で鰹一杯捕って来るでしょう。ここ鮪立にも鰹節加工業が一杯在った。鰹節を作っていました。 佐藤:鰹節を地元で加工して売る 菅野:もちろん気仙沼の市場にも出しますよ。当時はね冷凍の技術が発展してなかったので、塩漬けとか、そういうものが多かったんですよ。今みたいに流通が発達してないのでね。鰹節作っている人は気仙沼にもいたし、ここにも一杯いました。 (冷凍運搬の技術 ) 桑田:冷凍の技術が普及して来たのは 菅野:鮪漁船が台頭してきてからです、昭和35年(1960年)ぐらい。でも鮪漁業の冷凍技術をもちょっと話しますが、面白いんですね。 当時はねだいたい15度 20度せいぜい。うんと良い冷凍庫でもマイナス30℃。ところがマイナス30℃でやると鮪を長期間、3ヶ月 4ヶ月船の冷凍室で保存してくるでしょう、そうすると表面は良いんですよ。中から油焼け起こして、実際に水揚げするときには非常に品質が悪くなって。今はだいたい鮪船は60℃ぐらい。 佐藤:冷凍機は重油で動かすんですか 菅野:それは、当然冷凍士っていうのが居て、腕です。 佐藤:船も廻りに氷がへばり付いちゃいそうだね〜 菅野:ふふふ、それは無いけど。断熱材ちゃんとやっているから。冷凍してくればいいという問題でもない鮪は油を持っているから。捕って保存している鮪が油焼けを起こして、品質が非常に落ちてしまう。安く買い叩かれた。だからマイナス30℃がマイナス45度になってマイナス45度になって、マイナス60℃になり。 佐藤:どんどん冷やすと燃料食いそうですね〜 菅野:掛かりますよ。燃料もかかります一杯。船っていうのは一旦出港するとエンジン止められないですから。 車だと朝エンジン掛けるでしょう、会社に行ったら止めるでしょう。また会社から帰宅するときにエンジン掛ける。家に戻ったらエンジン止めますよね。船はそういかない。漁船っていうのはとくに一旦出港したら、2ヶ月になるか、半年になるか1年になるか、もう帰って来るまでエンジンは掛けっ放しですから。冷凍庫もあるし。 佐藤:魚捕っているより 重油空だきしてる時間の方が長そうだな ( サンマ漁 棒受け網 ) 菅野:そうです。サンマも気仙沼に揚がったようですけども。サンマの漁法っていのは面白いんですよ、皆さん御承知かどうか解りませんけども。サンマの漁法というのはね、棒受け網漁法っていうんですよ 棒受け網漁法。絵を描いた方が、絵書いても上手でないからなー( 黒板に絵を描く菅野先生 ) これからね〜気仙沼に一杯入っていると思いますけどね。 ここにライトが一杯付いている船を見かけたらそれはサンマ船だというふうに思ってください。これ(黒板に光を発する絵)ライトです全部。もっと細かいんですよ、一杯電気が付いてましてね。これが船ですね。(平面図)サンマが泳いでますよね。一杯ね。サンマの習性は灯りに集まる習性があるんです。烏賊もそうですけど。サンマもそうなんです。 だいたい魚は光を嫌う魚もあるし、嫌わない魚もある。興味を示してくる。サンマ一杯の群れを見ますね。ここの灯りをぱーっとつけるわけです。 全部つけるわけです。この船の近くに全部集まって来ます。ここで回遊しはじめるわけです。回遊し始め、ここで集めておきますよね。そのうちここ(船の反対側)に仕掛けをしておくわけです。網を、これが棒、棒なの。棒で受けるから棒受け網っていう。この(サンマを集めた側の)灯りを消した途端に こっちの灯りを付けるわけです かいじょう はははははは はははははは ぱっと灯りをつけるわけです。そうするとこのサンマが 船体の下を通ったり 回ったりして ここ(光が付いた側)に来るわけです。一網打尽にしてしまいます。これをすくい上げて、サンマを捕る。 昔はね、刺し網漁業でサンマっていうのは漁をしていたんですよ。このサンマが来る所にこの網を入れて置いて。網に刺さったのを捕っていたんです。それを 刺し網漁業と言っていたんです。昔はこういうふうなかたちでサンマを捕っていた。現在はこの棒受け網漁業に全部代わったんですけどね。 佐藤:刺し網は死ぬけど 棒受け網は生きたまま捕れますね 菅野:どっちがいいか。どっちも生きてますよ。ところが皆さんサンマを食べて腹は食べますか?腹の腑は。 佐藤:食べないです 菅野:食べないでしょう。ところが我々は腹の腑を食べるんです 腑は美味しいんです。みんな綺麗な身だけを食べますからね。腹の腑まで食べるんです。 ところがね、この棒受け網で捕ったサンマっていうのは全部鱗を飲み込んで、船に揚げたときに、容器に入れたりすると鱗を吸い込んでしまう。そうすると商品になったときに、腑に鱗が入っているからなかなか喰えないんです。それでも私達は今でもたべますけどね。 刺し網で捕ったのはそういうことないから、網に刺さったもの1本ずつ外して、商品にしますからね。刺し網で捕ったほうが、鱗とかが腹の中に入ってない。そういうこともあるんですけども。昭和30年代はサンマ漁業は1貫目 は3.75kgです。今は皆さん忘れていると思いますけどね。3.75kgが5円です。そういう時代があって。この辺では、だれもサンマを喰う人が居ない。猫跨ぎだというふうに言われたときがあります、サンマがね。今やも〜サンマもなかなか食べられないという状況もありますけどね。昔はそうだったと。 今気仙沼に関わりもっている、サンマね。サンマが有名だし、鰹も有名だし、鮪も有名だし。この3つの漁業について、だいたい。話しました。 ふかひれ 菅野:鮪延縄漁業で、今あとは、もう一つ有名なのが ブランドになっているフカヒレ。フカヒレはどうやって捕るのかと。フカヒレはですね、さっき言った鮪延縄漁業で延縄をやると、鮪だけ掛かって来るわけじゃないですね。鮪だけ選んで食いついて来るわけではない。一杯混穫されるわけです。どちらかと言うと鮫の方が多く掛かって来て。 (鮫は)気仙沼の港に入ると、二束三文にしかならないんです。それで、どうしたか?と言うと船主さんは「おめだちにやっから」と。それは「おめぇだち 手間暇掛けたんだから、それを売った分は船員の人達にやるから」と。船員の人達は鮫そのものの魚体を持ってくるんじゃなくって、ヒレだけを取って、そしてある程度船で干して、加工屋さんに卸すわけですよね。そうすると鮫ヒレ代ということで自分たちの水揚げ金の奨励金以外にフカヒレ代をもらって小遣いにしたわけです。 まあ色々な支払いになったんですね。お母さんに黙って飲み屋さんに付け払ったりね。そういうことに使っていたんです。そういうことでフカヒレも、重要な産業に成ってきましたけれども。いわば、余り物がねブランド化したっていうことになるわけです。鮪延縄漁で鮪が2割だとすると鮫が8割ぐらい。ところが今ねアメリカでは鮫を捕るなっていう。鮫も捕るな、アホウドリも。もちろんアホウドリは食べませんけどね。亀も駄目。それからイルカも駄目。ところが皆さんもイルカ可愛いと思うだろうし。 オーストラリアなんかもけっこう、五月蠅いしね。とういことでねー、実際鯨もそうですし、イルカもそうですし、みんな日本人の食文化でね。そういうふうに捕って食べて来たんです。マンボーも食べるんですよ。もちろんこれは。マンボーもね 佐藤:マンボーなんて箱みたいな魚で 喰うとこあるんですか・ 菅野:あります。美味しいんですよ 丸橋:伊豆とかでスーパーでイルカ売ってますね 伊藤:流通しているんですか?! 菅野:水産業は鮭・鱒漁業もそうですけどね。昔はここにも 県会議長さんの別館の方の家で、畠山コウジさんという人が居るんですけど。その人は北洋漁業の神様って言われていた。要するに北洋漁業の漁場の1〜100まで知っているという人。どんな所にいるんだ?鮭がそこに来るかっていうのもう周知している。 佐藤:鮭の心を知っているんだ 菅野:そう 鮭漁の神様って言われた。日本一の漁獲高に8年かな 9年だか、連続してなって。北洋の鮭鱒のね。そういうふうな人も ここ、鮪立にいます。はい。それで鮭鱒に行った人もいます。 佐藤:今生きてらっしゃいますか? 菅野:生きてます。そういう方もいますし、鰹と鮪以外にもね、北洋の鮭・鱒であるとかいうのもけっこう重要な産業だったんですけども。 今はね母船国主義。日本の200海里内部であってもね、捕れないんですよ、鮭は。なぜかっていうと、母船国っていうことで、その鮭はロシアの河で生まれ育ったものだから。漁場が日本であっても、外国の人は捕って駄目だと、母船国主義っていうんですけどね。これが出来たお陰で、鮭をとることも出来なく。だから入漁料支払って。 今日本で参加している北洋の漁船というのは、気仙沼はもちろん無いですよ。全国的にも何隻も行ってないんじゃないかと。20隻ぐらいかなー。行ってないと思います。 そういうふうに北洋漁業も廃れて来たんです。だから北方4島が帰ってくるか来ないかっていうのは、ただその、主権争いみたいに考えますけども、漁業面から言うとね、ものすごく大事なんです。 北の海ほど栄養分が、栄養塩類って言いますけどね。栄養塩類が豊富なんです。南に行けば行くほど水は綺麗です。要するに、人間と同じように清い水の所はね住みにくいんですよ。ある程度汚れていないと育たない。北洋漁業、蟹であるとか、鮭であるとか、銀鱈であるとか。水産漁業にとっては宝庫なんです。だから唯単に返還されればいいという問題でもない。水産業にとっては死活問題っていうこともありますね。 昆布にしてもそうですよね。 (養殖業) ちょっと養殖業について触れたいと思いますけども。 この辺でやっているのは蛎 唐桑ガガの綾子さんの家でもやっている。それから今は少なくなりましたけれどね。6、7軒かなー蛎養殖やっているのは。 それから舞根でもやっている、有名なのが水山養殖場ってありますね。森は海の恋人の提唱者。畠山繁篤さん。それから藤浜っていうところありますね。蛎養殖はなくてはならない産業になっているんですね。蛎というのは昔から、アメリカ当たりでは地撒きとかでずいぶん自然の蛎があったようですけどね。それを持ってきて石巻の新城さんて言う人が、垂下式っていうね発明しました。蛎は蛎筏に吊しているんですよ。模型があれば分かり易いんだけど。 昔は地蒔き式っていって直接浜に蛎を置いておけば、自然に蛎が大きく成長するっていう地撒き式。蒔いて砂地に置くっていく。石巻で新城さんって言う人が垂下式っていうのを発明しまして。その人が、(黒板に絵を描く) こういう筏にね 吊してあるわけです。一杯。蛎の稚貝をロープに挟む訳です。この挟んだやつがね、海水の流れてきた養分を吸ってただ成長するんです。それだけなんです。非常にお金は掛からない。 (広島市水産センターの垂下式解説頁) かいじょう おっこちないんですか 菅野:落っこちないです。大きくなりますから。稚貝っていうのは、おっきい貝にくっついている。それが成長してくるわけです、どんどん。だから、何も畑みたいに肥料をやるわけではないです。吊しておいて時間が経てば成長する。非常に効率的な漁業ですよ。ただこの蛎筏を造ったり、それからこのロープを購入したり、それからある程度 時期的に揚げて、消毒したり、それから海草とか何かを取ってやるとか、そういう作業ありますけれどもね。実際なにも金掛からないんです。だから非常に効率が良くって。そして高価に売れるということがあります。 蛎の地蒔式の時代は、明治頃からやっていたんですけどね。そうですね、大正中期頃、大正3年頃だったかな。本格的に垂下式っていうの始まって。昭和20年代になると、戦後すぐ当たりから蛎の垂下式養殖始まる。 ウニは出来ますけども、そんなことしなくっても成長しますから。鮑もやってます。でもそれは一部の人で、こういうふうな養殖ではやっていません。蛎とホタテですね養殖は。ホタテも本来であれば青森県の陸奥湾でしか出来ないって言われていたんです。ところが、昭和30年の中頃かな〜、舞根の人が 陸奥湾に行って稚貝を買って来て、そして始めたんです。昭和40年代(1965年)に入ってからが、この辺で充分漁業者に浸透して、始まったようですね。今ではホタテも非常に良い産業になってますね。養殖の人々にとっては。 わかめはですね、天然わかめっていうのは、昔、我々子供のときは天然わかめはこの辺に全部あったんですよ。今でも若干あるんですよ。でも養殖で流れた成長したもんだから、本当に天然なのかどうか判りませんけどね。天然わかめが主体だったんですけども。天然わかめから、効率をよくしようということで。これは昭和28年頃じゃないかな。28年頃にわかめの養殖が始まって。そして三陸のわかめとしてね。大量に生産されるようになったんです。 佐藤:わかめはどのように養殖するんですか 菅野:ロープ張って。ロープに種を挟み込む。縦に伸びるこれを逆に横にしてやるから。こういう大規模な養殖は使いませんけども。 (北海道漁業図鑑のわかめ養殖方法) 佐藤:何吊しているのか色分けかなんかで分かるんですか 菅野:こういう筏でやっているのが蛎だから。ホタテもだいたい同じようなものです。観ればすぐわかります。 実際体験すれば分かります。これは何ですかって言えば。 わかめはそうですね、昭和28年頃から養殖が始まったようですね。海苔はね盛んだったんですよ。この気仙沼地方は。気仙沼地方の海苔っていうのは凄く有名で、非常に品質が良くって売れたんですよ。売れたんですけども漁場の悪化、それから海岸線の防潮堤とか何か、工事で。そうするとね、漁場が無くなってしまった。そういうことで、気仙沼なんかの 海苔の一大漁場が無くなってしまったです。 この辺でも、伸太郎さんの回りなんかはね、海苔芝ってね、竹を刺したり、それから今は網ですけれども。昔はね柴の木。木をね植えてそこに海苔をくっつけた。 佐藤:コンクリートの湾になってしまって浄化能力が無くなったので海苔が採れなくなったということですか 菅野:海苔というのは、塩の干満の差が無いとだめだから。水中にばっかいり居たんでも成長しない。太陽の光合成しないと、なかなか成長しないんです。 海苔はね幕末頃からなー。横田屋さんの横田信平さんっていう人が、東京の大森って所在りますよね。あそこは海苔の養殖で有名だった頃ですけど。大森に行って修行して来て気仙沼に普及させたと言われてんですけども。それ以後ですね。 海苔は本当に気仙沼では漁場が在った時は海苔業者が一番金持ちだったんじゃないですか。一番車社会が普及したのは、そういう海苔業者でしたから。昭和30年代の後半当たりで1千万ぐらいの収入がありましたから。 だからいち早く、階上(はしかみ)地区ていうんですけどね。階上漁協当たりの人達がいち早くこの辺では車を購入した。 特に菊田隆一さんっていうね、全国漁業協同組合長をやった人なんですよね。その人が推奨して、組合長率先してこれやったほうが良いっていうことで薦めたから、余計に発展したんでしょうね。海苔。 (開口制度 鮑 うに 海草 アサリ ) あとは何がありますかね。あとは開口システムっていうのがあるんですよ。かいこうっていうのはね、開く口って書くんですけども。これは、鮑。ウニ。それからアサリ。雑海草。こういうものを捕ってもいいよという日が指定されるんです。漁協から。その季節、 佐藤:誰でもとれるんですか 菅野:組合員の人としか捕れない。この辺だって捕れない人一杯いるんですよ。組合員以外はそこに入って捕ってだめなんですよ。だから閉鎖的って言ったでしょう。絶対的なものなんです。それは。鮑だって11月が解禁。ウニは6月。それからアサリは3月とか2月。 要するに開口制度っていうのがありましてね。それに基づいて管理されているんです。県の漁業調整規則があるんです。宮城県の漁業調整規則。この規則の中でアサリは3p以下はだめですよ。鮑は9p以下はだめですよ。決まっているんです。 そういうことで漁船漁業、それから養殖漁業、だいたい分かったでしょうかね。ふふふ 佐藤:どうも本当にありがとうございました。 会場拍手 ぱちぱちぱちぱち ぱちぱちぱちぱち 質疑応答 ● 菅野:何か質問あれば私が分かる範囲で 太田:海のカタチと、海底の地形と、それからその養殖とか漁の深さは関係するとか、どういう感じが こういうときは このぐらいの深さとにしたらいいとかあるんですか 菅野:基本的にはですね、深さよりも水の流れだと思います。はい。深さがあって抜ける潮がね。停滞するような場所はあまりよくないようですね。森は海の恋人っていうの、畠山さんが提唱しているが、そういう塩分が大川の水を伝わって、山から下りてきて、塩分が舞根湾に流れたり、鮪立湾に来たり、そういう流れがあって。浅くっても困りますけどね。 漁業にとっては若干関係ありますけれども。養殖はある一定の深さがあれば大丈夫。 ● 伊藤:複数の魚介類をとっている人はいなくって、サンマならサンマ。養殖の蛎なら蛎っていうふうに、漁師さんは決まったものを 菅野:さっきも言ったようにね、蛎とかわかめとか、海面占有してやりますので。だから他の人やれないんですよ。やりたくっても 伊藤:蛎とわかめをやっているとかいう人は 菅野:それはあります。当然あります。ホタテもやっているし。ただ漁船漁業をやっている、そういうのやっている人もありますよ。 例えば、若いから私は漁船に乗ってて、そして、お父さんがまだ若いから、お父さんは養殖をやるというふうな形態はあります。みんな権利は持っているんですけど。 会場 あげぱんの差し入れが行われている 唐桑ガガ:今日は気仙沼名物の揚げパンやさん、このパンやさん震災に遭ったですよ。それで今日ね別な仮設でおかりしまして今日発売、今日始めて震災後ね。初めてのお店やったんだそうです。それでこれがね、初恋の味なんですよ。 かいじょうわいわい 佐藤:唐桑ガガさんの初恋の味がこれだそうです 唐桑ガガ:そう。これはね ● 佐藤:その他に 質問ある人いますか〜 丸橋:鮪立では養殖の割合はどういう割合なんですか 菅野:現在ですか。昔はね〜9:1ぐらいで漁船漁業の方が多かったですけども。今は逆転しましたね。 丸橋:9が養殖 漁船漁業が1 菅野:1も行っているかどうか疑問視するぐらいだね、それだけ漁船員の人達が少なくなって。 丸橋:経営的に成り立たない。 菅野:漁船は、若い人達の苛酷な労働条件がありますんでね。ドンドンドンドン離れてて。経済的にはまだ成り立つんです。乗っていればとにかく生活は出来ると思います。 佐藤:その外ありませんか質問は なかったら終わりにします。菅野先生の講義は終わりますので、皆さん拍手おねがいます 菅野先生長時間の講義ありがとうございました 会場 パチパチパチパチ パチパチパチパチ |