第一回 鈴木達治郎先生に聞く (1)2024・03・04─19時〜 (FB電話で聞く)作成:佐藤敏宏 |
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鈴木先生とのショットはこの絵しかないのです。 懇親会に参加して@飯坂温泉 (はじめに) 鈴木達治郎先生と佐藤の出会いは2012年11月10日福島大学で開催された第二回「ふくしま会議」の会だった。全体の討論や分科会のあと場を飯坂温泉旅館に移し、懇親会で語り合った、その中に鈴木先生も参加されていた。だから福島原発事故によって生れた実例の一つとも言える。 福島での集会から原子力委員会に戻られ鈴木先生は、原子力委員会の会合ごとに、ままの内容を即時WEB公開された。そうしていただいた事で佐藤は原発事故後の状況や政府の動き、各地の被災状況、各行政の対応策を詳細に知ることができた。 例えば、50回原子力委員会の音声をもとに作成したWEB記録。 長崎市民セミナー「2016年3月2日「核兵器と戦争の根絶を目指して」など多数で、鈴木先生によって公開された内容が行政や政治の対応策と連動していた。 鈴木先生の3月11日前後の言動とその詳細を知ることで、原子力災害、原爆・災害史と言えるようななかで「福島のあの事故」の実態の一端を知ることになっていた。鈴木先生のように振舞う日本人が居た!と確認でき驚いたと同時に「なぜこのような日本人が存在し目の前に現れたのだろう?」との謎も残った。幸いなことに昨年(2023年)からWEBを使い私的な交信してたので、この機に鈴木先生の生い立ちから聞き取りを始め先生を知るための年譜を作成しようと思い立つ、そのことでこの記録を残すために聞き取りを始めた。 快く応じていただいた鈴木先生には感謝しかなく、返礼品を佐藤はもっていないのだが、この記録や鈴木年譜が完成することになれば、福島の原発事故に際し現れるべくして現れた稀な人であることを多くの人に知ってもらえるための、WEB情報の一つになることを願っている。 |
(註)第一回ふくしま会議は2011年11月11日福島大学を会場に、老若立場や被災・非被災者を越えた意見を交換し分断と対立を防止しようとしつつ、フクシマの実情を世界に発信しようとした有志による市民会議であった。細野原発事故担当相も参加し福島に暮らす若い者たちの声を聴いている。2015年以降だれにも知られずに解散していた。 動画:2012年末に作成したふくしま会議の様子 |
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■聞き取り、その前に 佐藤:もしもし、佐藤ですけど 今日はよろしくお願いいたします 鈴木:はい、どうもこちらこそ!大丈夫ですかお体の方は? 佐藤:大丈夫です。(佐藤は前立腺癌の治療中) 鈴木:無理なさらないでくださいね。 佐藤:ありがとうございます。今日から1F処理水放流差し止め訴訟が始まりまして 鈴木:あ〜処理水の放出ですね。原子力市民委員会ね? 佐藤:そうです。 鈴木:あ、固まった。 佐藤:電波使いすぎかもですかね?音だけで話し合う方がいいですかね?(鈴木先生のPC固まっている)大丈夫ですか 鈴木:ちょっとまって、今固まってましたね。 佐藤:先生の声は聞こえてますけど絵は出てませんので、通信過多なのかな? 鈴木:絵、今、見えないですか? 佐藤:絵が固まっていますね。私の絵は見えますか? 鈴木:見えます。こっちはオンにしてあるだけど。 佐藤:電波使いすぎかな・・あ、絵が出て動き始めました。 鈴木:笑) 佐藤:一月前(2月3日)の深夜まで、3時間超の話し合いにお付き合いいただきありがとうございました。 鈴木:いえいえ、こちらこそ。 佐藤:その後、鈴木先生から40年間にわたる「原子力政策を振り返る −私の40年史」(エネルギー・環境研究会2021年11月26日)PDFデータをいただきまして、めげず・ブレなく活動されている先生の姿勢を確認できまして「これは?一体どういう動機やエネルギーでそうなるのだろうか?と・・」人の活動と動機に興味があるので・・・お聞きし記録することに・・。 鈴木:ありがとうございます。 佐藤:『原子爆弾』(イギリス1957年生まれ、ジム:パゴット著)、日本では作品社から2015年刊行されている本、この本に「原子爆弾年表」がついていたので、私と先生が生れる前に原子爆弾に関してどんなことがあるのか分る年表を見易くし動画を埋め込んだWEB頁を作成しました。こんなことがあったんだ?外国の研究関係しか書いてないのですが、敗戦前の日本の理化学研究所あたりの研究成果もあるはずなので後々加えていきたいと思います。今日は鈴木先生が生い立ちなどをお聞かせください。 |
日本の原子核物理学の父、仁科芳雄博士(1890〜1951年サイトへ中根良平元理研副理事長に聞く 歴史秘話サイクロトロンと原爆研究 |
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■鈴木達治郎先生の生い立ちを聞く スータト 鈴木:はははは 佐藤:聞かれたことないと思うんですよね。 鈴木:聞かれたことない!話したこともない! 佐藤:人間の生い立ちを聞いて記録するのが好きなんもですから、20年ぐらいWEB記録作って公開しているんです。 鈴木:いくらでも話ますよ。 佐藤:生まれた年は1951年ですよね? 鈴木:そうです、1951年で4月生まれです。 佐藤:私は7月生まれです。福島市中心部から東にある中山間地で育ちました。鈴木先生はどこでお生まれになりましたか? 鈴木:大阪市の阿倍野区で生まれて、大阪の南の方ですね。難波球場ってご存知ですか。 佐藤:近鉄の藤井寺球場があったあたりですかね、今はあべのハルカス、こてこての大阪人ですね 鈴木:そうそう、心斎橋の一番南の端ですね。その近くなんですけど、1才で豊中市に引っ越しました。 佐藤:大阪の北部、郊外住宅がたくさんできて暮らしには環境のいい豊中市に引っ越したと。 鈴木:新しいベットタウンが出来て、引っ越しまして・・・。私が記憶があるのは豊中しかないですね。 佐藤:知り合いが服部緑地公園と緑地公園駅の間に暮らしていまして、泊めてもらって大阪市の知人を聞き取り活動したことがあります。 鈴木:綺麗な公園ですね、小学校の時には兔狩りなんかして。小さな丘が一杯あって山があって、山の中を走り回ったりしてましたよ。周りには団地が一杯ありましたよ。今で言う公営住宅がベビーブームだからたくさん建ってました。学校は豊中市の上野小学校というのが私の小学校です。家から歩いて5分ぐらいのところです。 ■野球小僧 佐藤:町中から郊外住宅に引っ越されて野山で遊んでいた!鈴木先生は小学生時分はスポーツ少年だったんですか?ひたすら勉強小僧でしたか? 鈴木:野球やってました。今みたいなオーガナイズされたものではないので小学校で勝手にチームを作って、3年生から6年生ぐらいまでが集まって。学校内同士でゲームしたり学校の中でゲームしたりしてました! 佐藤:小学校の監督は近所の野球好きのオジサンがやってきて教えてくれてましたか? 鈴木:え?監督なんかいないよ(笑)まったくの草野球で自分たちで好きにやっていて、校庭で野球しますから、当然、学校の先生がいないとだめなので、4時半か5時になったらお仕舞・・・という感じだったですよ。 |
オレンジの線で囲った所が現在の阿倍野区 |
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鈴木:放課後みんなで練習したり、ユニフォーム買ってもらって!それを着てやってました。 佐藤:小学生なのに!ユニフォーム揃えて・・・ふふふふ、そうとうですねふふふ・・・周りも野球小僧だったんですね。 鈴木:そうですよ。ピッチャーもやったけど最後はサードとショートやっていたのかな。ホームランはあまり打たないだけど、中距離バッター・・的な感じでした。 ソフトボールは学校単位の地区大会があるんですよ。それは5〜6年生が中心になってチームを作る。その時は学校の先生が監督をする。ソフトボールの代表に選ばれて、ショートをやれ!と言われて。 佐藤:書となら阪神タイガースの吉田義男、牛若丸に憧れたんですか? 鈴木:私は、当時三宅(伸和1934〜2021─元祖・鉄人)という三塁手知ってますか? 佐藤:知りません。 鈴木:三宅という名手がいたんです。彼が好きで背番号が16番だったんです。 佐藤:鈴木少年は16番付けてた! 鈴木:16番付けて、ショートと言われたのでしょうがないからショートを守ったんだけど、逆シングルで捕るのが大好きで、わざわざちょっとセンターよりに守っていて(笑) 佐藤:危なっかしい捕り方をして人気者になろうと(笑) 鈴木:ただ突き指をしちゃって6年生のときに大事な試合に出れなくなっちゃって。「おまえ何とかできないか」と言われたので、捕れるんだけど投げれないんですよね・・と。それでピンチヒッターで出させてもらって。凡打に終わったという記憶があります(笑) 佐藤:突き指!それは悔しいかったですね!私が育った福島市は読売巨人戦しかTV放送しませんでしたからね。 鈴木:そうですねよ。 佐藤:日本テレビ、読売新聞系民友新聞、ジャイアンツ漬けに遭ってますからふふふ。 鈴木:大阪でもそうです、全国的にそうですよ。時々は優勝決戦とかはやってましたけど。 佐藤:社会人になってから長嶋茂雄の引退試合(1978年10月14日ダブルヘッダー)を仕事サボって後楽園球場に行って観てました(笑)最後はセカンド・ゴロ! 鈴木:(笑) 佐藤:これは外せない観に行こう・・・同僚と示し合わせて後楽園球場で昼から夜まで観戦ししました、ふ・・ふふふ。 鈴木:私は物心ついたら阪神ファンで、オヤジは静岡出身で東京の人間なんですけど、巨人、だいっ嫌いで。 佐藤:中日ファンじゃなくアンチ巨人のお父さんかな? 鈴木:それで、私は気が付いたときは阪神ファンでしたね。 |
「六甲おろし」作曲・福島市生まれの古関裕而 |
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佐藤:僕は本社が関西・西宮駅前で恵比寿駅前に東京支店にあったゼネコン設計部で働いてたんですが、東京なのに周りは虎キチだらけでしたね。隣の席には城崎市生まれの設計マン虎キチ!負けると朝の表現が激しい!ははは。 鈴木:それはそうだ。 佐藤:関東地方の出身の人もいるんですが人数が少ないので、虎キチと東京人は時々口喧嘩してましたふふふ。ジャイアンツが負けると不機嫌な上司だったので、困りましたね(笑) 鈴木:はははは。当時はおっしゃる通り、巨人は全国放送だったので、大阪でもだいたい半分は巨人ファンですよね。クラスに行くとジャイアンツの帽子被っている連中が半分ぐらいいましたね。 佐藤:桑田・清原を持ち出すまでもなく?・・・・巨人ファンも多いと 鈴木:やっぱし日本テレビの影響力が大きい。大阪では読売テレビだったからね。 佐藤:正力松太郎は、原発は輸入しちゃうし政治家にはなるし、新聞・TVなどメディアは占拠しちゃうし、なんでも支配してしまい、多様に情報をコントロールして流す悪い、ろくな奴ではない! 鈴木:ははははは。 佐藤:読売ゴルフクラブからプロ・ゴルフ放送するし、子供はその遊園地遊ぶんですから、東京の郊外の人々は読売漬け。正力が富山から代議士・選挙に出ると巨人軍の選手を私物化し応援演説させるし、湯川秀樹の話を聞かずにイギリスから日本では使えないプルトニューム価格計上でなっていることを無視し、原発を輸入して科学技術庁長官になってしまう・・・酷いですよね。(詳細は『原子力政策研究会100時間の極秘音源─メルトダウンへの道』参照) 鈴木:長嶋と王の人気は大阪でも高かったですよ。 |
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通学時間片道1時間半 | ||
■勉強もした小学生 佐藤:そうでしたか、メディア総がかりでの攻勢にもかかわらず鈴木先生は阪神タイガース・ファン。小学校は野球小僧で勉強はしなかったんですか? 鈴木:勉強はやってましたね。4年生ぐらいから塾に行かされて。 佐藤:中学受験のためにですか? 鈴木:中学受験ですね。兄貴たちも「中高は灘高校を受けろ!」と言う。 佐藤:教育パパだったんですね? 鈴木:教育ママです。パパはほったらかしですけどね。 佐藤:有名難関校なので、受験突破たいへんそうですね? 鈴木:う〜・・あんまり苦労してないというか、勉強が嫌だとは思わなかったですね。塾行くと友達はできたし、受験も言われるままに、やるもんだという。 佐藤:小学校の野球活動終えてから塾に行くわけですよね。豊中と灘ではけっこう離れてますよね? 鈴木:小学校の近くにちゃんと進学塾が出来て、夜の6時ぐらいから8時ぐらいまでやるのかな・・・早めにご飯食べてそれから行く感じでした。 佐藤:授業をおえたらソフトボール2時間ぐらいやって、家に戻ってご飯たべてから進学塾に行く、タフな子供でしたね。 鈴木:塾は毎日じゃないから、週3日ぐらいかな。 佐藤:鈴木先生のような小学生は何人ぐらい居たんですか? 鈴木:当時は50人クラスですからね、何人いたかな。最低5,6人は間違いなく居ました。小学校は3クラスだったかな。 佐藤:1学年150人で20人弱は進学予備校へ、当時は子供が多かったですからね。 鈴木:多いですよ。 佐藤:団塊の世代の2才後の子供とはいえ子供はまだ多かった。 ■幼稚園時は病弱、小学校では学級委員を毎年する 鈴木:生徒会長はやらなかったけど、学級委員長をずっとやっていたので。まちがいなくやれと言われるんですよね、だから、学級委員は全学期じゃなくどこかやればいいので、1年中やるわけじゃないから、それも「やれ」と言われたらやるもんだと思って、末っ子なんで・・。 佐藤:言われたことはなんでもやる素直な子供、末っ子だった・・そうだったんですね。 鈴木:子供のときには身体が凄い弱くって幼稚園には半分ぐらいしか行ってないです。盲腸の手術をして3ヶ月ぐらい何で休んだのかな?・・・覚えてないんですけど。身体が弱かったで、薬は先生の言う通りに飲むので親がびっくりしてて。「小さいのに先生の言うとおりに飲んで、この子はおかしい・・」って言って(笑)。親は「いい子だね」と言ったかもしんないけど、私は意識してなかったんだけど・・・几帳面だったみたいですよ。 佐藤:いろいろ指示だされても苦にならない子供だったんですね。 鈴木:苦にならなかったですね。言われた通りやってましたね。塾にも行ってたし。 |
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The Beatles - Live At The Washington Coliseum 02 11 1964 - 5 songs | ||
■中高で 「精力善用・自他共栄」を身につける 佐藤:関西知り合い多いですけど、灘中高卒の人知らないですね、初めてですね。 鈴木:今は、悪い人ばっかりです、西村元経産大臣とか、盛山文科大臣とか・・。 佐藤:鈴木先生より年下でも新宗教に冒されてもいる!国会で嘘ついてますね。 鈴木:最悪ですね。中高一貫教育でね、大学まで受験勉強しなくっていい。 佐藤:灘中高は嘘をつかないいい人間が多い・・・という印象がありますけど・・。 鈴木:「精力善用・自他共栄」と言って講道館を始めた嘉納治五郎さんの作った学校なので、自分の力をいいものに使って自他共栄する。 佐藤:毎朝、朝礼で皆で歌う。 鈴木:言わせられますね。校歌の中にも「精力善用自他共栄」って入っています。中高一貫校だから中学に入れば6年間受験勉強しなくっていいから楽だったですよ。だから柔道は必ずするの。 佐藤:鎖骨骨折しそうですね。 鈴木:いやいや、柔道は面白かったよ。朝練もあってね。中学に入ってからサッカー始めた。 ■中学からはサッカー部へ 佐藤:野球をやめた理由は?嫌になったとかですか? 鈴木:野球が嫌じゃなくって私そういう事があるんですよ、別の事したくなっちゃう。それで運動部どこやろうか・・・と探して、どうせ野球部弱いじゃないですか。みんながやらないスポーツだったらひょっとしたら勝てるかも知れないと思って探したわけ。試しにいろいろ入ったんだけど、バトミントン、水泳とかいろいろやったんだけど、体操とかね、結局人が足りないところはレギラーになれるじゃないですか。 一緒に ふふふふ 佐藤:いい考え方ですね(笑 鈴木:しかも、サッカーは世界で一番スポーツ人口多い。 佐藤:お金掛からないし、ボール一個あればどこでもできる。 鈴木:どこに行っても「サッカーは人気がある」と聞いたので。「これはいいや!」と思ってワールドスポーツでやっていたいと。最後はバスケにしようか・・どっちにしようか?兄貴がバスケットだったので・・・。 |
灘中高校 校歌 |
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■5人姉兄の末子 佐藤:上が兄貴、末っ子?かな。 鈴木:末っ子だからね、自己主張は全然しないですよ。言われるままにやっておかないと、抵抗しても勝てないので。 佐藤:兄貴とは歳が離れているんですか? 鈴木:5つ。二番目の兄貴とは2つ違い。その上に姉が二人いましたから、5人兄弟の末っ子なので。 佐藤:鈴木先生の穏やかな性格が分るきがする。 鈴木:分るでしょう。いつも可愛がられて、だけど虐められても可愛がられても抵抗しない。 佐藤:なるほど(笑 鈴木:親も5人目だから。 佐藤:いい感じに放置しておいてくれる。 鈴木:ほっといてくれる。叱られるのは上の兄貴の方。 佐藤:敗戦後を通過した今も長男・長女は期待されちゃうけど・・兄弟多い末っ子! 鈴木:私の時は誰も叱りもしないし、卒業式も親が来なかったから。 佐藤:おぉ! お母さん上の4人で教育疲れしちゃったのね! 鈴木:そう。ほったらかしだった。 佐藤:いいな、姉兄5人で、末っ子は・・・ほどよく放置され・・・すくすく育つと。関西の野球を観ると浪商の尾崎と法政の柴田の投げ合いとかあった時期だったでしょうか・・・野球で頑張っても関西は私立の強豪野球部多いな・・・。 鈴木:サッカーはちょうど、日本サッカーリーグが出来始めた頃で、オリンピックで銅メダル獲ったんですよ。 |
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■中・高はサッカーに明け暮れる 佐藤:釜本(邦茂)のあたりですよね、関西の実業団でしたか。 鈴木:ヤンマー大阪です。オリンピックが中一のときだったので、サッカー偉い人気が出ちゃって、サッカー面白いなと思って。 佐藤:オリンピックは1964年の秋開催ですものね。 鈴木;日本サッカーリーグが始まったのが65年なんですよ。ちょうど人気が出る前だったです。 佐藤:オリンピックで3位でしたか? 鈴木:銅メダルとったのはメキシコだ。東京オリンピックの時はベスト8だったかな。 佐藤:企業に所属してるチームでしたからね。 鈴木:実業団。 佐藤:今は企業所属の選手じゃない地域のクラブチーム。 鈴木:日本サッカーリーグが始まって。 |
1964年東京オリンピック |
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佐藤:聞いてみなければ分からないものです、鈴木先生はスポーツ少年だったとは! 鈴木:真っ黒に日焼けして。サッカーもほとんどのポジションやったんです。けど、背が小さかったのでゴールキーパーだけはやらなかった。 佐藤:得意のポジションはどこでしたか? 鈴木:最後は今で言うボランチ。中学・高校、両方でキャプテンになっちゃったんですよ。 佐藤:何でもこなせた、指示も出せるから? 鈴木:さっきも言ったけど、真面目なのよ。下手だから一生懸命練習するわけです。とにかく練習、最後まで残って練習したんですよ。 佐藤:夜間照明はあったんですか? 鈴木:なかったですね、6時ぐらいで暗くなる。 佐藤:灘高は神戸ですか?豊中からは電車で・・通学。 鈴木:遠いんですよ、電車で1時間半、しかも阪急電鉄。豊中から十三まで行って、そこで乗り換えて西宮を通り越して岡本という駅で降りるんですけど、降りてから20分歩くんですね。 佐藤:それは、遠いね。 鈴木:ただね、甲南女学院、同じ駅で降りるので・・・一緒に歩ていても後ろ姿しか見えないわけですね(笑)可愛い子がいたら、わざわざ走っていって!前に行ったら振り向いたりしてね。 佐藤:なるほどいいですね、ふふふふ・・・女の子に興味があるのはいいじゃないですか。 鈴木:そりゃあるでしょう。 佐藤:そうですね、男女共学ではなかったでしょう、男子だけ。今もそうなんですか? 鈴木:今もそうです 佐藤:今は、男子校って珍しいですね。 鈴木:灘高は今でも男子校です。 作詞北山修 作曲 加藤和彦 「あの素晴らしい愛をもう一度」 佐藤:毎日、往復3時間の通学電車ではキツイですね。 鈴木:寝てました。帰りは練習した後なのでくたびれているので、ぐっすり寝てましたね。疲れていて宿題なんかほとんど出来ないので、翌日クラスに行って皆で叱られて、「立ってろ!お前・・・」とか言われて成績がどんどんおつこっちゃって。先生に叱られて、「お前サッカー部やめないと試験は受からないぞ」と言われて。「やめません」と言ってやめなかったですよ。 佐藤:成績が落ちると下のクラスに入れ替えられる? 鈴木:ないです。同じクラスだけど席次が毎回発表されるので、これキツ〜いですよ。皆知っているの、あいつは酷い成績だって。高校1年から2年にダダダダと落っこちた。 佐藤:サッカーやり過ぎ! 鈴木:先生に「お前やめろよ・・」って言われて「もういいだろう」って、「いやいやここまでやらしてくださいよ・・・」と。高校2年生の冬までやるんです。それで浪人しましたからね。受験勉強1年では間に合わないですね。 佐藤:浪人しても身体鍛えた方がいい時期ですよね。 鈴木:その時も先生に言われようと、これはやめられないでしょうと。キャプテンで途中でやめられない、成績悪くっても後で、それまでは成績良かったんだからやれば成績戻るという変な自信があったです。ははははは・・・ 佐藤:なるほどいいですね。若者の根拠なき自信はいいですよ。 鈴木:根拠なき自信、ははははは・・・やれば戻るんじゃないかなと、先生も素質のある奴にはスポーツやめろと言わないじゃないですか。「お前スポーツやっていてもいいよ」と言うじゃないですか、「お前は勉強したら受かるかもしんないから、勉強しろ・・・」というとう事は、きっと素質はあるんだ!と思っていたんで、1年あれば追いつくんじゃないかと。 佐藤:楽観的でいいですね。 鈴木:勝手に思ってたのね。 |
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■ 一浪し東大入学 佐藤:東大紛争は1968年がピークですかね。 鈴木:入試が無かった、次の年に私は受験です。 佐藤:東大安田講堂が学生に占拠されて機動隊に火炎びん投げ合っていたという事件。 鈴木:東大闘争、68年が入試が無かった年です。69年度が我々の受験です、68年に東大受けられなかった人たちがわざわざ1年浪人してどっと来たので、競争率が上がったんですよね。 佐藤:それでも突破したと! 鈴木:突破しないですよ、それで落ちた。私は東大闘争がなかったら受かっていたかもしれないと。 佐藤:いいですね、受け止め方、その発想は明るくていいです、落ちたのは実力ではないんだと、たまたま社会状況の混乱が歪んだ受験状況を生み出したんだと。 鈴木:だから1年浪人したら絶対受かる!何かへんな自信があったんです。 佐藤:人生は問題が起きたら楽観的に受け止め対応してる方がいいですよね。 鈴木:楽観的。おっこって駿台予備校に入って、千葉の寮に入りました。 佐藤:一番下の子だから、好きな所に行けや・・という感じでしたか? 鈴木:全然、誰も気にしてない(笑)浪人したこともあんまり覚えてないみたい・・ふふふ・・・「おまえ何でここに居る・・」のみたいな感じ、兄貴たちは大学に行ってましたから。二人とも早稲田でした。両方とも理工学部です。私も一応早稲田の理工を受けましたけどね。工学部に行きたかったので。無事1年で東大は受かりました。 佐藤:おめでとうございました!! 鈴木先生はいつから映画好きなったんですか? その02へつづく |
ザ・タイガース「青い鳥」1968年 森本太郎作詞作曲 |
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1967年伊東ゆかり歌 「小指の想い出」 作詞:有馬美恵子 作曲:鈴木淳 |
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