第2回 私の1970年代 2024年4月13日 | 作成:佐藤敏宏 | |
(私の1970年代 その1) ■1950〜60年代の追加、豊中市の実家のこと 佐藤:今日も、よろしくお願いします。 鈴木:はい。今昼ご飯たべていたの・・・。 佐藤:食べながらでいいです。先日は映画談義(『オッペンハイマー』1954年『ゴジラ』と2023年『ゴジラ-1.0』についての語り合)お付き合いいただきありがとうございました。 前回は鈴木先生の1950〜、60年代と語っていただきました。その時に暮らしていた家のことを聞き漏らしていました。大阪市阿倍野区から豊中市に引っ越しされた、家の建築の様子ですけれど、家族構成は姉兄と両親プラスおじいちゃん。 鈴木:おばあちゃんもいました。 佐藤:9人家族ですね。大きなお家に住んでいたと想像しますが、郊外住宅でしたか。 鈴木:かなり大きいですよ、蔵もありました。 佐藤:古い屋敷を買って住んだということですか。 鈴木:造ったんじゃないかな、覚えてないけど。祖父が淡路島の出身で、大阪に出てきて会社を作って、それを父親が継いだのです。 祖父が造った会社は「鈴木合金」と言って、電車の抵抗器。ブレーキですね。電流をコントロールして緩めるために使う抵抗器なんです。抵抗器の専門会社でした。当時の国鉄に仕入れていたんです。で、国鉄とのやりとりだけだったんです。それから近鉄、関西の電車の会社に売っていたんです。結構うまくビジネスをやっていて、その後「大阪酸素」と言って、窒素と酸素とへリュームも売っていたです。空気からとりだす。空気を冷やしていくと液体になる温度違うので空気を窒素とか酸素に分類できるんです。酸素を造る会社を作ってました。当時ブームだった製鉄会社に売っていたんです。この商売も地域独占みたいなビジネスで儲かっていたんです。 佐藤:淡路島から出てきて身を立てた、すごいですね。 鈴木:父親が婿養子で東京からやって来て。母親は一人娘だったので、父に婿になってもらって鈴木の名を継いでもらい、屋敷の中に家を造ったんです。父親は戦争中は東京でした。大森に家があって父親は日立に勤めていました。そこで飛行機のエンジンを製造をしていました。 佐藤:鈴木家では代々男は工学系なんですかね。 鈴木:祖父は叩き上げなので、小学校しか出ていないんです。冶金を勉強して、冶金で抵抗器を造ったんです。今も抵抗器を造っているんです。二番目の兄が鈴木合金を継いでいます。私は合金製造については詳しくは分からないんです。そんなに難しい技術じゃないんです。 当時、JR、国鉄は国営でした。1964年、特に新幹線が走りだしたときは爆発的に売れたんです。今はもうだめです、電子制御なので。抵抗器を使っている電車はほとんどないです。そういうことで豊中の家はデカかったです。 佐藤:実家は屋敷も広くって、蔵もあり、もちろん部屋数もたくさんあったんでしょうね。 鈴木:たくさんありましたね。覚えているのは子供部屋を造ってもらって、離ではないんだけど、蔵を越えてさらに先に子供だけの部屋を造ってもらったんです。夜、寝る時に蔵の前を通って行かなければいけないので「怖くって」。屋敷も広かったです。 佐藤:子供部屋は各自の部屋があったということですか。 鈴木:姉はですね・・・どうだったんだろう。小学校のときは私は祖母と一緒に寝ていたので、中学校に入ってからは兄と一緒に寝るようになりました。男三人は子供部屋にいたので、姉ふたりは、私が小学校のときには大学生だったので、別の部屋で寝ていたんです。一番上の姉とは9歳離れていますので。 |
鈴木合金HP HPへ 大阪酸素工業 |
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■ フランクレポート(内容を読む) 佐藤:前回、聞き漏らしていた家の間取りをなど追加事項を聞かせていただきました。ここからは鈴木先生の1970年代について聞かせていただきます。鈴木先生の人生を決めてしまった1970年代、かなり濃厚な時間だと思いますが・・。映画の感想語り合いの機会には『フランク・レポート』という貴重な米国極秘だった文書について教えていただきました。鈴木先生と知り合いにならなかったら、福島原発事故に関していても『フランク・レポート』を知り読むことはなかったです。 鈴木:『フランク・レポート』はすごいです。 佐藤:鈴木先生に教えていただき紐解いていって知ったことなので、釈迦に説法にはなりますね。原爆投下前後には当然の国家秘密文書だったとは思いますが、軍人や政治かに対して科学者が誠実に意見を述べ、その資料が保存され、今は公開されている。その事実は凄いです。 1954年制作の『ゴジラ』ではないですが、国民国家を越え科学的知識を共有して国際管理をしようという提言、その発想が書いてありました。また科学者の意見を、『マンハッタン計画』の頂点で指揮もしたヘンリー・スチムソン陸軍長官声明も読むと、軍部でも核の戦後の国際核管理についても考えていた。同時に核の民間活用技術も開発していかなければいけないとも語っています。 1945年8月6日広島原爆投下の直後にスチムソン長官の声明も記録保存公開されていて、読むと科学者の提言を受け止めて、声明文を書いたことがわかりました。日本では1945年敗戦前に政治家=日本軍と科学者の意見交換なんてありえなかっただろうと思っていたので驚きました。 米国の関係者は世界の人々と核に関する知識を活かし、情報を共有して核を国際管理していこうという発想には驚かされました。民主主義の国ならではの出来事ですかね? 鈴木:「フランクレポート」は軍事秘密なので米国民も誰も知らないですよ。政府の中でもごく限られた人しか知らない。 佐藤:そのレポートは後々公開され、今は福島市に暮らしている佐藤だって今は読めるのがすごい。福島原発事故後の日本人の自覚は・・・1945年に米国の科学者の自覚の域に達してないかも・・・と思いました。 鈴木:本当に凄いと思います、公開されるもの凄い。『フランクレポート』を書かれた先生たちは科学者なんですけど「政治と科学の関係について」書いたんだけど当時の政府には届かなかった・・・という歴史は重いですよね。 佐藤:レポートを読んでからは、54年版ゴジラの芹沢博士の行動を想像すると、彼は当時米国に集まっていた標準の科学者の発想ではないなと思いました。浪花節語りかな。ふふふ 鈴木:侍的。 佐藤:それから原爆投下後は軍拡競争になると警告している点もフランク・レポートで見逃せない点のように思います。 鈴木:見抜いてましたからね。凄いですよね。 佐藤:核の軍拡競争を止めるには「適切な政治合議が唯一無二の保護装置」ともレポートにはありました。 鈴木:核を国際管理しなければいけない。核兵器についてはまだ誰も分からない時にあそこまで提言しても、分からないでしょうからね。 |
ジェームズ・フランク 1882年8月26日 - 1964年5月21日 絵:ウィキ―より 1954年『ゴジラ』作予告 芹澤博士 絵:1954年版『ゴジラ』予告編よりスクショ |
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■予備校での寮生活 佐藤:ということで今日は、鈴木先生の1970年代についての語りをお願いします。鈴木先生から頂いたPDFデータを時代別に分解して、年譜ふうにしています。PDFだと時間が行き来してたので分解させてもらい、語っていただきたい主な内容をチェックしました。 今日は1970年代、灘高校を3月に卒業してからの出来事についてお願いします。下総中山駅そばの駿台予備校の寮に入寮され浪人生活は始まった。寮は一人部屋だったんでしょうか? 鈴木:4人部屋だったんですよ。2段ベットが部屋の両側にあって、二段ベットの奥に机が4脚並んでいて。私の部屋は、たまたま他の3人が医学部志望でした。朝の6時から夜の10時までぴっちり勉強する人たちでした。京都と東北大学の医学部志望だったかな・・。 寮の部屋の壁に時刻表を貼るわけです、何時起床と。従わないとまずいので私もしょうがないから付き合った、本当によく勉強しましたよ。あれだけ勉強したことはなかった。 佐藤:鈴木先生は実家では子供部屋に一人で暮らしてた?いきなり4人部屋はストレスが掛かりそうですね。 鈴木:実家では子供部屋は一人でなかったけど、高校生になってからは一人部屋だった。中学までは兄貴といっしょに子供部屋で暮らした。 佐藤:建築の設計を生業にしていたので、子供が一人部屋で育つのか多数部屋で育つのかは、気になるもんです。 鈴木:なるほど。 佐藤:一人で暮らして育ち、予備校寮で4人部屋に入って生活するのは精神的なストレスは掛かるように思いますが・・。 鈴木:あんまり無かったですね。実家を出て生活するのが初めてだったんです。4人部屋で3人みな真面目な生徒だったので、とにかく勉強するしかない環境だった。でも漫画は読んでいたんです。4冊ほど漫画週刊誌を購読して、4人で読んでいたし、スポーツもやったりしてました。 予備校の校舎はお茶の水駅下車なんです。総武線で1本で行けます。ドアツードアで40分ぐらい掛かったかな。寮から駅までは徒歩10分ぐらいでした。あんまり寮では苦労せず何もなかったです。食べ物ね・・・朝ご飯が納豆と生卵しか出てこないんですよ! 佐藤:野菜なしでは朝飯じゃない!ですね。 鈴木:納豆と生卵しかでてこない。大阪で暮らしていたときは納豆は食べたことなかったんですよ。家の親父が納豆大好きだったんだけど、当時、関西では売っていなかったんです。 親父が「納豆買ってこい」とお手伝いさんに伝えたら甘納豆を買ってきた!そういうジョークがあったぐらいで、関西ではほとんど納豆は売っていなかったです。あの匂いはとてもじゃないけど、関西では受け入れられない。 で、東京について最初の朝ご飯が納豆とご飯!こりゃまずい!と思って、でもしょうがないですよね食べなきゃ。生卵が付いていたのかな。生卵とお醤油で食べていたら、だんだん美味しくなって今は納豆無しでは生きていけない。 佐藤:納豆と生卵だけで野菜しではきついですね。 鈴木:きついですね。でも朝飯は寮だからね、でも晩ごはんはちゃんとしたご飯でした。 佐藤:朝は何時起床でしたか 鈴木:6時に起きました。学校へ行く前に予習して、7時にご飯を食べて、8時15分から授業開始だったかな・・・予備校では。理科系と文系は別れていましたが志望校別にはなっていないです。偏差値はあったけど、入試に落ちたときにギリギリ合格点だったので頑張れば合格するだろうと思ってました。 佐藤:1年間、寮に入り映画も見ず勉強三昧でしたか。 鈴木:映画は観てましたね。観てたけど記憶にない! 佐藤:そうでしたか、中・高とサッカー部で活躍していたので、浪人生活に入り、途端に勉強ばかりだと体調おかしくならなかったですか。 鈴木:そうなんです。運動は寮でキャッチボールとかやってましたね。他はほとんとやってないです。通学は高校生の時の方がよっぽど歩いてましたから・・・運動はパタっとやめてしまいましたね。とにかくこの1年間は漫画だけは読んでいたけど運動はなかったかな。 |
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佐藤:めでたく合格。大学に入ってから環境工学に進む目標で勉強ばかりだったと。 鈴木:東大の都市工学です。有名な宇井純さんがおられたんで、みんなそこに行きたいと。宇井さんは助手なんです最後まで助手だった。いわゆる環境汚染なんですけど。特に都市の下水道とかの話で、そこから入って環境汚染を。 佐藤:豊中市から東京に転居して、当時は空気の質が悪い、臭かったですよね。大気汚染光化学スモッグもおきてました。 鈴木:それもあんまり気にならなかったですね。 佐藤:大阪市周辺の方が工業先進地だから大気汚染は酷かったかな。 鈴木:おっしゃる通り汚かったですね。 佐藤:予備校の寮から歩いて、下総中山駅。江戸川、荒川、隅田川と三本の川を渡って総武線走っていますので・・臭ったのでは・・。 鈴木:御茶ノ水あたりに川も確かに臭かったですね。今は綺麗になってますけどね。 佐藤:水質汚濁防止法は無かったような記憶ですが。(1970年に制定された) 鈴木:丁度入るころかな。 佐藤:隅田川に接して建築工事現場があって、そこに立つ・・・岸壁に寄っていくと硫化水素に似た匂いで倒れそうな酷い匂い、あの記憶は消えないです。 鈴木:川は汚かったです。スモッグが出てましたね。 |
絵:宇井純 WEBより 専門は下水道 「栃木県で育って実家が栃木に・・」 公開自主講座 「宇井純を学ぶ」PDF |
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■ 駒場東大と下宿のこと 佐藤:1971年4月めでたく東大都市工学部に合格したと。東大にはいって2年間は駒場に通学でしたか。 鈴木:そうですね。 佐藤:下宿先はどこへ転居されましたか。 鈴木:下宿は井の頭線のひと駅手前(井の頭公園駅か三鷹台駅)なので歩いて井の頭公園まで行けたんです。電車は20分ぐらいで駒場東台前まだ行ってしまいましたね。 佐藤:ようやく一人暮らしが始まったんでしょうか。 鈴木:「賄い付きの部屋じゃないといけない」と親が言って、それで探したんです。井の頭公園駅そばに賄い付きの部屋がありました。学生は3人いたかな。おばさんが一人居て、息子さんが御茶ノ水の雑誌社に勤めておられたんです。だから時々雑誌を見せてもらったりしていました。 賄い付きだから朝と晩飯は付いていたんです。夕食のキャンセルは5時までに連絡を入れないと作ってしまうので。時々食べちゃうことあって、そのときはもう一回食べる、8時ぐらいに食べると。若いから食べれちゃうんですよ。 佐藤:3人の学生さんは全員駒場東大に通っていたんですか 鈴木:いえ、違います。上智大と渋谷にある大学(国学院大学)で、東大の学生ではなかったです。和室の6帖ひと間に2年間居ました。洗濯は自分で手でやってました。コインランドリーも無かったんじゃないかな。だから手で洗っていたような気がします。畳6帖にベット置いても、6帖で広かったですよ。 この2年間は映画いっぱい観ましたね。渋谷の3本立てを観ました。全線座ってご存知ですか。 佐藤:1970年から恵比寿駅前のゼネコン東京支店設計部で10年間働いていましたので、映画は有楽町か新宿で観てました、渋谷で映画を観た記憶ないですね。 鈴木:新宿で見るよりは渋谷が近いので、明治通りの方です原宿駅の方へ進んで右手にあった全線座で観てました。3本立て200円でした。 佐藤:1970年代前半では恵比寿駅界隈では質のいい昼飯が250円でした、映画3本200円はめちゃくちゃ安いですね! 鈴木:3本立てを観続けるとさすがに疲れましたね。1時間半ぐらいで1本でしたから、午後いっぱい使って観ちゃうんです。だからいっぱい観ましたね。その頃ですよ『明日に向かって撃て』とかボニー・アンド・クライド『俺たちに明日はない』とか『007』とか、何本見たか記録してないから分かってないです。一月に1,2回は行っていたかな。当時の200円は今の値段で言うと千円ぐらいですかね。 |
絵:全線座沿革より 1967年『007 は二度死ぬ』予告編 |
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■ 2ヶ月間ヨーロッパの旅─欧州派遣団(WFA) 佐藤:学生の初期にヨーロッパへ行ったという話を以前お聞きしました。ヨーロッパ行きはなんだったでしょうか? 鈴木:大学に入って、何か運動をやりたかったので陸上ホッケー部に入ったんです。サッカーもやりたかったんだけど、人気があって人が一杯いたので「大変かなー」と思って陸上ホッケー部に入った。すぐレギラーに成れて。サッカーに似てるけど小さい玉で当たると痛いんですよ。サッカー知っている人は攻め方は分かるんですよ。すぐに「君はレギラー」と言われました。 1年生からレギラーになって調子に乗っていたんだけど・・・2年生の頭ぐらいに身体検査で高血圧と出ちゃったんです。たいした高血圧じゃないです、普通に暮らしては問題ないんだけど、ドクターストップも掛かってない。 健康診断書は体育の先生のところにみな集まっちゃんです。それが部長に行ってしまい。キャプテンが「君はちょっと休んだ方がいい」と言われたんです。「休まなくて大丈夫ですよ、できますから」と言ったんだけど「使う方は困るんだよ」となって、それでレギラーから外れちゃったんですよ。 佐藤:健康管理厳しかったんですね? 鈴木:どうかな・・・言い訳に使われた可能性はゼロではない。2年生になって控え選手になっちゃったんで、おもしろくなくなったんです。「何か面白いのないかなー・・・」と思っていたら、兄貴から「ヨーロッパに行く旅行があるよ」と言われて。「2ヶ月間でヨーロッパ一周する旅をするので、来ないか・・」と言われて、それで行ったんです。2年生の6月から8月です。兄はその前の年に行っていて、兄が推薦していたんです。 佐藤:2ヶ月間でヨーロッパ周遊では濃密な旅ですね。 鈴木:面白かったですよ。私の人生は変わりましたよ。 佐藤:初の海外旅行でしたか? 鈴木:初海外旅行でした。2ヶ月間でいろいろなドラマがあります。若者30人と一緒に周りましたから。引率者は梅津先生、サブリーダーに大林さん。ユネスコ企画なので東大とは関係ない旅行と学生たちです。ユネスコの支部がヨーロッパにもあるので「ヨーロッパの支部を訪ねる」というのが大きな目的で、それ以外はほぼ観光旅行です。 佐藤:ユネスコ支部の方々と各国で交流するので旅の効率良さそうですね。 鈴木:非常に面白かったです。フランスから始まって、イギリス、ドイツ、イタリア、スイス、オーストリア。スエーデン、デンマーク、オランダ。チェコにも行きました。 とにかく海外に出たのが初めてだったので、すごいビックな体験でした。30人は日本人だけでほぼ同世代で上は大学院生もいましたね。上が24歳から20歳まで。 一番印象に残ったのはフランスで最初に1週間いたんです。フランスは英語を喋れないと聞いていたので、フランス語の勉強をみんなでしていたんです。フランス語はぜんぜん通じなくってフランスの学生は英語はぺらぺら喋れたんですよ。 英語が通じた時の感激は今でも忘れないですね。それまで私は英語好きじゃなかったんで勉強をやっていなかったんです、英語で通じたのが感激で「これからは英語を勉強しなければ駄目だ」と思いましたね。 佐藤:訪れた国の言語を使って対話できるのは後々、大きい体験ですよね。 鈴木:ロンドンで2週間の旅で日本人は高校卒業して大学に行く前の人達を対象にした。特に科学系の高校生を対象にしたサイエンスのイベントに参加したんです。そこで日本グループとして発表する。発表する日が8月6日だったんです。で、原子力をテーマにして扱ったんです。 佐藤:「原子力は第三のエネルギー・・」だということだった、そうですが・・ 鈴木:そうそう「第三のエネルギーからの警告」で、警告も入ってます(微笑) 佐藤:警告はフランクレポートに近かったのかな、当時はフランクレポートはご存知でしたか。 鈴木:知らない。核兵器の話はほとんどしなかった。真面目だったので原子力発電の話。発表するレポートを作成するために、武谷三男さん、有名な物理学者の『原子力発電』を書いていたので、わざわざ会いに行って、原子力の危険性について話を伺いました。先生がたは学生と言うと会ってくれるんですよ。素晴らしい先生でした。背は低いけどいわゆる学者さん・・という感じの先生でした。とにかく原子力の本を読んでいる中で『世界』という雑誌の中の沖縄特集の中に掲載されていた。 当時は学生運動が激しかったので『朝日ジャーナル』と『世界』は必読の書で毎月読んでました。その中に服部学さんが書かれた原子力と核兵器の関係。それを読んでびっくりしちゃって・・・原子力と核兵器はつながっていたと知り、それをテーマにしようかと提案したんだけど「政治的になりすぎる」という話になって。原子力発電の安全性についての発表でした。 佐藤:フランクレポートには「核の管理は政治的に解決するしかない」と書いてあるので、政治的な発表になるとよかったのでは。 鈴木:(大笑)たしかに。発表した内容は当時すでに商用原子力発電が始まっていて、世界でも化石燃料が無くなるかもしれないので、燃料に代わるエネルギーにしようか・・みたいなストーリーがあった。いいことばかり言っているけど、実はこんなに危ないことがありますよ!・・・核のゴミの話とかをしました。武谷三男さんは当時、核融合はゴミが少なくなるのでその方がいいんじゃないかとおっしゃっていました。 日本の原発は万博に合わせて美浜発電所の稼働が最初かな。 佐藤:70年代前半にはドル・ショック(ニクソンショック)オイル・ショックにも遭って世の中は大騒ぎでした。原発依存が加速しました。鈴木先生は学生だったので影響は少なかったかもしれませんね、建築業界は資材不足と物価高騰に遭い大騒ぎでした。 |
絵:武谷三男1911年〜2000年 服部学 1926− 昭和後期-平成時代の物理学者。大正15年1月29日生まれ。昭和57年立大教授となり,平成元年同原子力研究所所長。東京帝大在学中,原爆に被爆した長崎の土壌調査に協力。のち原水爆禁止運動にくわわる。宮城県出身。著作に「原子力潜水艦」など 1970年大阪 万国博覧会。原子力発電で会場は輝いた。絵:1970年週刊朝日3月20日号より |
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■駒場で自主勉強会に参加 テクノロジー・アセスメント(TA)やりたい! 佐藤:一旦戻って、71年東大入学まで戻します。大学構内は学生運動の被害で荒れていましたか。安田講堂だけが荒れていましたか。 鈴木:駒場構内もまだバリケードが残っていました。中核の連中はヘルメット被ってデモしてたりしてました。授業もほとんど無かったんです。授業が無かったのであちこちに勉強会があって、そこに参加してました。自主勉強会でそこには行ってたんです。その中で、星野芳郎さんが書いた『日本の技術者』を読んで感銘を受けました、内容は公害に係る技術者の話でした。それで公害に興味を持って、「公害から人を守るのは技術者冥利に尽きる誉だという話に「じゃー都市工学に行って公害研究をしたい」と。で、志望したんですけど点数が届かなかったんです。で、第一志望に行けなかったので第二志望でどこに出して置くか?・・・欧州派遣団(WFA)で原子力やっていたから原子力にしようと。 佐藤:そこから原子力に関する研究の道に入ったと。1970年初頭は公害問題は大きな社会問題でしたからね。 鈴木:人気ありました。 佐藤:東京駅と有楽町駅の間にあった旧都庁舎に建築の申請で通っていたので、チッソ本社前での抗議行動を見た記憶はあります。公害問題解決に興味を持って原子力発電の研究に入ったと。 鈴木:その時に読んでいた本の中に「テクノロジー・アセスメント(TA)」があったですね。TAはアメリカが60年代になると「技術が社会に出てから(対応)では遅すぎるので、出る前に技術のいろいろな社会的影響を評価しましょう」という考え方。アメリカの学者が提案して、それをアメリカの議員さんがそれを掴んでアメリカの議会の中にテクノロジー・アセスメントの機関を作ってしまった。それを作ったガザリオさんは科学技術政策の専門だったんです。 話せば長くなりますけど、SSTってありますね。コンコルド。 佐藤:コンコルド来日時に羽田空港に見に行きました(笑) 鈴木:デザインが可愛らしいですよね。コンコルドをアメリカとイギリス・フランスの連合チームが競争したんですね。それでイギリス・フランスに負けてしまうというのでアメリカは焦っっていたんです。その時にコンコルドの超音速旅客機の環境影響評価をやったんです。それをやった時に全米科学アカデミーの特集がニューヨーク・タイムズに。公害は絶対出るとは言わないけど騒音と大気汚染の公害あると、それが結論だったんです。ところがニクソン政権が必ず公害が出るという証拠は無いと解釈して発表しちゃったです。 議会はそれを後でニューヨーク・タイムズがリークしたのを見て「政府は嘘をついた」と言って、行政府は信用ができなくなる。当時はベトナム戦争で議会と行政府の関係も非常に荒れていたんですが、そこで「議会で独自に科学技術をちゃんと評価する仕組みが必要だ」ということでTAの機関を作った。 アメリカのTAの評価を聞くとよく出来ていて「騒音と大気汚染。燃費が悪いので燃料費が上がると大変なことになる・・・」そうなりました。それから「乗る人数が少ないので、計算すると凄い高い料金になってしまう。商業的には成功しないだろう・・」と結論が出ているんです。それなのにフランスとイギリスは運行させてしまい大失敗しちゃった。 私はTAを知って「これやりたいんだ!」ところが日本のテクノロジー・アセスメントを紹介した本の中に大島恵一という先生の名前が出ていて、それが東大の原子力工学に居ると知ったものだから・・・・「原子力に行って大島先生の所に行こう」と。大島恵一先生の研究室に入って「これやりたいんです!」と点数では入れたんだけど「テクノロジー・アセスメントは10年早い、まず、お前卒業してドクターとれ・・・」と本当に言われた。「分かりました、なんとか大学卒業します」と言って、原子力工学科に行った。そういう経緯です。 |
全共闘 東大安田講堂事件 - 1969 東京都の大気汚染対策 TAについて 超音速「コンコルド」 |
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■研究室と実家の家業がつながる 佐藤:大島先生はその世界では有名な方でしたか。 鈴木:原子力の先生なんですけど、大島先生はユニークな方でフランス語がぺらぺら。それで、若い。50代だったと思うけど、OECDに科学技術政策部があって、大学の先生をやりながらそこの局長になってしまった。今はできないんじゃないかな。政府の指名だからね、 佐藤:フランス人は人を活かすし太っ腹ですね。 鈴木:そう、彼は本当に優秀なんですね。堂々とやって帰ってきた。そういう先生だったんです。しかも驚いたことに、偶然なんですけど、大島研究室に液体窒素が入っていたんです。なんと!大阪酸素だった。私の親父と先生が友達だった!親父が気づいて「東大の研究室に大島恵一先生がいるんじゃないか?」と。「俺の先生」と言ったら「えー!」と言う話になって。世の中狭い、本当にびっくりしましたね。運命だったんですね。 大島研究室には学生3,4人だったかな。助手の藤田さんにもお世話になって、私の研究は原子力の中でも大島先生は放射線科学研究室だったんです。彼はもともとは化学なんですけど、低温化学。プライオリック・エンジニアリングという学会があって、そこの先生だったんです。低温の勉強していた。−273℃絶対零度。へリュームの温度で温度計を作るプロジェクトがあって「日本ではその温度計は作ったことがない。東大で作ろう!」と。その論文を研究テーマに選ばしていただいて、一生懸命、回路のハンダ付けをやったり、大失敗でした。手先が不器用なので。へリュームは高額なんですよ。 佐藤:オッペンハイマーと同じで不器用(笑)。 鈴木:そう・・・観ていて「あ、僕もオッペンハイマーと一緒!」 佐藤:でも鈴木先生は毒リンゴは作らない(笑) 鈴木:しない!とてもじゃないけど回路製作、何回も失敗しちゃって!液体窒素で冷やすんです、液体窒素は飛んじゃうんですよ。真空で使わないと駄目なんです。 佐藤:お父さんの経営している仕事と研究室がつながってしまいましたね。 鈴木:もう一回、あとで父親との関係は出てきます。大島先生の研究室にいたんです、順調に卒論は書いて「卒業後どうする」って話になって「大学院に行きます」と答えたが大学院を目指したんだけど失敗。二回も失敗しました。 |
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■修士課程はMITで(Technology and Policy Program) TA、原子力・核政策 佐藤:鈴木先生が原子力や核兵器の研究をしたいと言い出したのは卒業してからですか。 鈴木:卒論、その頃から。「大学院に行けば勉強してもいいよ」と言われていたので。東大では「核兵器と原子力」の研究は誰も教えていなかったんです。だからいずれ海外に行かなければいけないとは思っていました。 当時の先生の考えは「まず、東大の大学院を受かって、マスターに入学してからアメリカの大学に行ったほうがいい」と。2回失敗しちゃったもんだから「就職するか?」と言われて・・・「就職したくないです!」「そうか、じゃーアメリカの大学探してみるか・・」と。あちこちにアプリケーションを出したんです。一つ二つの報告はきたんです。最後に、これまた不思議なんだけど、MITは大島先生の友人が居るということで申し込んでいたんです。政治学と原子力工学、二つに・・・そしたらMITの方から手紙が来た! 佐藤:MITの政治の方から、手紙が来たんですか? 鈴木:違うんですよ「鈴木、お前は政治と原子力工学の両方にアプリケーションを出したよね」と。MITで分かっていた。「両方に興味があるなら、実はMITではこういうプログラムがあるから・・・「テクノロジー・アンド・ポリシー・プログラム( Technology and Policy Program)は今年できたばかりなんだけど。工学部の学生を対象にするんだけど政策の勉強もできる、どうだ?入ってみないか・・・」という手紙が来た。 佐藤:すごい!ラッキー。渡りに船が米国から来た! 鈴木:びっくりしちゃって! 佐藤:のんびりでもないでしょうけど、2年間修士浪人しててよかったですね(笑) 鈴木:そうなのよ、二年間、浪人してなかったらMITに行かなかった。 佐藤:1968年に学生運動がなく、スムーズに東大受験してたらMITには行かなかった。不思議な運命ですね。 鈴木:そういう手紙が来たので、びっくりして大島恵一先生の所に行って「先生こんなのが出来たみたいです」と・・・「初めて聞いた」と言われて。当時、アメリカに留学しようと思ったら、留学センターに行って各大学が出しているカリキュラム載っている雑誌を見るんですよ、新しい出来たてのカリキュラムなので載ってなかったんです。だから、MITから手紙が来たので慌ててアプリケーションを作り直して送った。 佐藤:鈴木先生の中にも核兵器・原子力と政策を一体にし研究するという発想はなかったんですかね。 鈴木:微妙。政策というか目的がテクノロジー・アセスメント(TA)だったので。実験をするのは無理だと分かっていた・・・。 佐藤:核のTAの研究は原子力と核兵器。学部生でユネスコツアーで発表したこととつながっているんですか。 鈴木:つながっていますね!だからMIT Technology and Policy Programの記述を見た瞬間、「あ!これだ」と思ったです。「俺はこれをやりたいのよ!」と。でアプリケーションを出したら直ぐに返事が来て。 佐藤:大歓迎されたように思いますが旅費や授業料は免除されそうな気もしますが、どうでしたか。 鈴木:それは親父です。親父は「MITなら出してやる」と。ははははは。「他の大学なら自分で奨学金を取ってこい」と。 佐藤:お父さんハードル上げますね、建築ではMITは秀才や神の世界に登る感じなんじゃないかな・・・。 鈴木:私も「まさかMITには行ける」とは思ってなかったですね。テクノロジー・アンド・ポリシー・プログラムに行くなんてびっくりしちゃうし驚いちゃって。「こんな幸運なことはない!」と。「東大の大学院、二回も落ちて、なんで?MITに行けるんだ?」と。 佐藤:周りの研究者からは妬まれそう(笑) 鈴木:本当に「ラッキーだなー・・」と言われて。その年じゃなければ行けなかったんです。1年早くても遅くても、MITには行けなかった。 佐藤:自分の希望した修士試験に失敗しても、その先の人生は何が起こるか分からないですね! 鈴木:分からない。大学院の試験一回落ちたときは落ち込んでしまって・・人生で二回ぐらい落ち込んでるんです。 佐藤:そうですか。院試を落ちてる学生の身分は浪人生ですか? 鈴木:大学院の中に研究員制度があって、研究生として大学には残れた。そういう身分の人もけっこう居るので、珍しくはないんです。周りの皆がわかっている、同期も一杯いますしね。修士浪人しているって分かるから、あまり大学に行きたくないんですよ。 佐藤:なるほど、映画も見ず、2度も落ち込んたことで人生が大転換する。でも凄いですね何が起こるか生きてみないとわからないですね。MITはピンポイントで向こうから手紙がやってくるなんて・・・凄いですね。 |
MITとは |
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私の1970年代 その2へ続く |
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