鈴木達治郎先生 1980年代を語る その2 作成:佐藤敏宏 2024年6月


プルトニュームの輸送について調査

佐藤:理論がしっかりしていても、技術の教育とその継承がスムーズに繋がっていないと発電所も動きませんでしょうし、それからプルトニュームの輸送と核物質の防護がテーマになっていました・・・とあります。

鈴木:それも書いてあった?
佐藤:鈴木先生の40年語り、そのPDFにあります。プルトニュームの輸送は狙われていて・・・危険だったのでしょうか。

鈴木:1985年は国際エネルギー政策フォーラム(IEF)は最後の頃なんです。実はフランスとイギリスに再処理を頼んで、プルトニウムがヨーロッパに貯蔵されている。それを持って帰ってこなければいけない。それで、それまで日本で、イギリスから少量のプルトニュームは運んでいたんですけど、せいぜい数kgです。1984年にフランスから晴新丸で189Kgプルトニウムを輸送した。その記録をその後NHKがドキュメンタリー番組を制作しました。(参照:有料 「NHK特集 1985年1月28日放映 追跡核燃料輸送船

佐藤:狙われるおそれがあったと。

鈴木:そう、プルトニュームの輸送も含めて、プルトニューム核物質防護は日本で初めてだったので、これも「海外に行って調べてこい!」と、言われて調べてきた。その話は長いんだけど。まず最初に、ベルギーの再処理工場、ベルギーに小さな再処理工場があったんです。

ベルギーの再処理工場とフランスの再処理工場とイギリスの再処理工場に行って、どうやっているか観にいったんですね。大変な事をやっているんですよ。軍隊はいないんですけど、ものすごい武装した警官が守っていて・・・とうぜん武装している民間のガードもいるんだけど。所々に軍なのか?私は最初デカイ銃を持っていたので軍だと思ったんですけど、「軍じゃない」と言ってました。重装備で警護している。

それと従業員は、必ず今問題になっている信頼性調査をやんなきゃいけない。

佐藤:思想的にいかれた従業員がテロに巻き込まれたりするからですね。
鈴木:テロとかスパイとかいるので、信用できるかどうか信頼調査しなければいけない。

佐藤:10年後の1995年にオーム真理教によるテロ・サリン事件が起きましたから・・。

鈴木
:そういう幾つか新しいことを勉強して帰ってきて、報告書にした。実際の輸送は我々IEFは関係してないんです。関係した人が動燃の菊池三郎さんという有名なかたで、彼とは仲良くしていたんですけど、彼が、晴新丸の防護の責任者だったんです。
どうしたかと言うと、日本は自衛隊では護れないじゃない。

佐藤:自衛隊連れていけないですからね。
鈴木:そう、連れていけない。アメリカに頼んで、アメリカの第七艦隊に防護してもらったんです。
佐藤:大げさですね。

鈴木
大げさじゃないんですよ、しかも189Kg。だから25発ぐらい原爆できてしまう量でした。アメリカも大変な騒ぎでした。船で運ぶ、そんな事やったことないですよ。

だいたい、飛行機でせいぜい10kgとか20kg、それでも大変なんです。189kgたいへんですよ。もちろん専用飛行機で運ぶんです。その時は船で運んだわけですから、それがニュースになって、NHKがドキュメンタリーを放映した。189kgの時はもんじゅじゃないので、たぶん横須賀かな(NHKオンデマンドによると東京港)、福島かな・・覚えてない。

1985年にプルトニュームの防護問題のことを勉強したのがきっかけで、菊池三郎さんと鈴木篤之先生と3人で行ったんです。旅行中すごく仲良くなっちゃって。「今後何を研究したら面白いですかね?・・」といろいろ話をしたんです。

彼らは私よりは10歳ほど年上の方々でしたが、結局、私が全部報告書を書いた







 絵:webより


























絵:菊池三郎さんwebより



絵:webより アメリカ第七艦隊 

MITで博士論文を書きあげる

佐藤:1981年から86年までの5年間は激務で大変そうでしたね。

鈴木:すごく勉強になりました。それで、86年の1月に突然、我が家に電話がかかってくる。─MITに毎年外務省の制度─1年間、客員研究員として送る制度がある。当時の外務省はお金があって、MITに寄付したんです。そのお金で一人毎年日本から研究員を送ることになっていた。当時は、大学の先生が行っていた。ところが行くはずだった人が、キャンセルしちゃったの!理由は聞いてない。実は準備しなきゃいけない段階になって突然キャンセルして穴があいちゃった。他に行く人はいないか?と。「お前行くか?・・・」という電話だった。「すぐ、行きます!」と。

佐藤:1986年MIT、プルトニュームと安全と、PDFにありますね。
鈴木:86年に「すぐ行きます!」と言って1年間アメリカに行くことにした。
佐藤:PDFには1995年までの9年間、MITになってますが・・。

鈴木そこが面白いところです!

佐藤:どうして?9年間滞在することになったのか・・それをお聞かせ願います。
鈴木:外務省の約束は1年間。で、86年の9月から87年の8月までの期間だったんですね。


ジャパン・アズ・ナンバーワンの世にアメリカへ渡る

 博士論文アメリカの高速増殖炉の研究開発ダイナミックスを書く

佐藤:めちゃバブル経済スタートの時期ですね。
鈴木:めちゃバブル、ジャパン・アズ・ナンバーワンの頃。日本の車がバカ売れして、ソニーが大儲けしてコロンビアピクチャーを買収したり。ロックフェラーセンタービルを三菱地所が買収したり。ジャパン・パッシングが酷い頃です。日本が勢いがある時です。
1年間の予定で行かせていただいた。その1年間を利用して博士論文を書くことにした。1988年に博士論文です。2年間で博士論文。

佐藤:すごい、短期間で博士論文を書いてしまったんですね!MITでの修士論文は大変そうでしたが・・。

鈴木:修士論文と同じぐらいの期間で書いてしまった。いずれにしてもアメリカで1年間居るときに・・・何しようか?と。その時に、また当時の通産省から(現・経産省)委託研究をもらえるように提案書を書いて、それが通ったアメリカの高速増殖炉のプロジェクトがキャンセルになった後、どうやってアメリカは技術維持をしているのか?そういうテーマだった。それでアメリカのメーカーさんとか国立の研究所とかを回って、実態を調べて論文にした。

佐藤:博士論文を日本語に訳すると題・表記はどうなりますか?

鈴木:『アメリカの高速増殖炉の研究開発ダイナミックス』というタイトル。ダイナミックスというのはどう変わってきたか。ポイントは「商業化のためには実証して商業化につなげていかなければいけない。で、途中で実証プロジェクトをキャンセルしちゃうと、技術が無くなってしまう」と言われた。
アメリカはどんどんキャンセルするが、どうやって、その次の技術を育てているのか・・というのを私は興味があった。それを調べていた。半分ぐらい論文を書いたときに・・・・だいたい調査は終わって、「今から論文を書こう」と言っているときに、突然電話が入って「向坂正男さんが亡くなってしまった」と。それで「どうしようか・・」と。「エネルギー政策ホーラムは続くなら、私は帰らなきゃいけないから、帰りますよ・・・」と言ったんだけど、向坂さんがいなくなったら「もう失くしましょう」となった。

それで大島恵一さんと相談してたら、「お前帰ってくるか・・」という話になった。6月ぐらいだったんだけど、夏休みの前、そこで私は「我がままを言わせてください、まだ論文残っているので、もう1年いさせてください・・」と言った。そこで先生は怒ってしまって。「何を贅沢なことを言っているんだ!こっちは大変なんだ、早く帰って来い!」「いやー、もうちょっといさせてください・・」と言って辞職、辞めちゃったの。大島先生と喧嘩別れね

佐藤:いいじゃないですか、やりたいことがあっての喧嘩別れですから。






絵:webより ロックフェラーセンタービル

無給の人になる

鈴木:そうそう。そのかわり収入がまったくゼロになっちゃった。うちの、怒っちゃって「どうするつもりよ!」「・・・まあまあ・・・なんとかなるよ」と言って 。

佐藤:パパ急に無責任男になって、奥様ぼうぜんとする(笑)

鈴木:それで、慌ててMITの先生がたをグルグル回って「仕事ください!」と言ってまわる。たまたま、原子力工学科のケント・ハンセン(Kent Hansen)先生が「お前、日本から来たのか?」「そうです」と応答すると、「日本の原発たしかうまく動いているよな・・」「いまちょうどMITで・・・」アメリカが酷かった、ヨーロッパもパフォーマンス高かった。「ヨーロッパの経験を勉強しているところだから、ついでに日本も一緒にやろう・・」「それじゃやります!」

佐藤:渡りに船を手に入れた。

鈴木:そうなの、それで「サマー・ジョブだぞ、3ヶ月間だけだぞ」と。「3ヶ月でもいいです」と日本の研究所と電力さんを一緒に回ってレポートを書いた。そしたら、先生にすごい受けて、「お前これ面白いから、5年間のプロジェクトに書き直せ・・」と言われて。「分かりました!」と言って5年間のプロジェクトにした。


MITでアソシェート・マネージャーになる

鈴木5年間のプロジェクトにして電力さんを回った。日本からスポンサーとして5社、東京電力、中部電力、関西電力、日本原電、九州電力だったかな・・・5社が入ってくれた。「やった!日本の5社、やった」と。それで私のサラリーはそこから出るようになった。

佐藤:さすが鈴木合金の息子ですね!お金集めます!
鈴木:はははは、今思えばラッキーだったんだけど、必死だったですよね。

佐藤:そこで大島先生に逆らって自分の道を拓くところがいいですね。その大局観がいいですよ。

鈴木:なんか分からないだけど、「今は帰る時期じゃない」と私の心の中の声が聞こえたわけです。

佐藤:根拠はないんだけど、重要なとき大局観が働きました。振り返ると研究はスタートしたばかりという状態になりますからね。

鈴木:根拠はなかったんだけど、「もったいないよ・・・」という感じがあったので。英語もできるようになったし、もったいないよね。それで「なにか見つかるだろう・・」と探したらそういう話に展開した。

佐藤:3ヶ月が5年に膨らんでいく・・・・すごい腕前ですね。


鈴木:そこで、アソシェート・デレクターになって、実質的に私がそのプロジェクトのマネージメントを担わされた。それが原子力の安全性プログラム

佐藤:博士論文とは直接関係は無かったけど、重要なポストに就いた。

鈴木:今思えば、そのときの勉強がすごい役立っている。

佐藤:でも、テクノロジーアセスメントに近寄ってきました。

鈴木:ただ、大学の給料が安かったので、「MITの先生がた、こんな安い給料でどうしてんだろう?と思ったらみんな自分の会社を持ったり、コンサルタントやっていた

佐藤:いいですね、副業というか本業をもって、教えてもいる。

鈴木MITはそれで全然問題ない。それで私もコンサルタントを探そうと思って、探し当てた。例のエネルギーフォーラム時代に知り合った、アメリカのエネルギー省の役人だった人が、役所を辞めてコンサルティング会社を創るっていうことが分かった。その人も「お前、アメリカに居るなら一緒に仕事しようか・・」となって、そこに雇われて。

ここも日本のスポンサーを探していたので、当時、ワシントンに東電、中部電力、関電、東邦ガス、東京ガス、電源開発。動燃事業団、日本原研、電事連、これだけいたわけです。

佐藤:そのかたがたも、当時はお金もってそうですね、幾らでも支払うという気分でしたでしょうね。

鈴木:そこに行って「調査は何でもします!」と。原子力と関係ない温暖化の話だとか、省エネプログラムとか。

丁度、アメリカでは電力自由化が始まっていたので。私もまったく電力自由化の話は分からなかったけど、その調査とか。いろいろインタビューしたり調査したり。国内とアメリカ国内を調査したり・・・面白かったですよ。それで生活を支えていた。

佐藤:フットワーク軽いですね。うじうじしてないですね。さすが鈴木先生です。

鈴木:ふふふ、うじうじしていない。実はワシントンのコンサルティング会社の社長さん、ロジャー・ゲールさん、奥様が日本人の通訳なんです。彼は日本贔屓なんです。最後はロジャー・ゲールさんとは喧嘩別れ。彼が全部、私のサラリーを半分持っていっていた。

佐藤:鈴木先生の給料の半分(笑)ピンハネされていた!

鈴木:ピンハネが後でバレた。すごい儲かっているはずなのに、なんで私の給料が安いの・・・・分からないので調べたら、社長がピンハネしていた。で、喧嘩別れしてしまった。

佐藤:さすが、敵味方に武器を売りつける社会に生きている男だけあって、儲け優先なんですね、信頼は後回しにすると。
鈴木:グラバーさんも本当にしっかりしてますよね。

佐藤:20歳そこそこのグラバーさん、米・南北戦争で余った兵器を日本の攘夷にも尊王にも売りつけてしまう。日本にきて数年で富豪になってしまった商売人だ。長崎の丘に登って仰天しました(笑)

鈴木:すごいですよ。


1988年、博士論文提出

佐藤:1980年代の後半に博士論文は書いてMITで博士号を取得したんですか。

鈴木
:1988年に東京大学に提出しました。そのときの主査が鈴木篤之先生(のち原子力安全委員長)副主査が近藤駿介先生、岡芳明先生。

佐藤:1987年から92年までが今のMITのプロシェクトでアソシェート・デレクターとコンサルの兼業ですね。

鈴木:アソシェート・デレクターは92年までやっていたその頃に実は重要な出来事があったんです。

佐藤:阪神タイガース優勝ですか?

鈴木:阪神タイガースはアメリカ行く前に優勝しました。
重要な出来事として書くなら阪神優勝の85年は大変だったんです。日本の国際エネルギー政策のフォーラムに勤務していて、私の同僚の中に大阪ガスから来ていた人がいた。大阪ガスの彼と私が阪神ファン、もう一人が出光から来てた人は巨人ファンだった。それで毎日、毎日どっちが勝ったで・・・大変だった(笑)

阪神が優勝した時に、大騒ぎして「パーティーやります」と言って、阪神タイガースのビールがあるじゃないですか。知らない!優勝記念でラベルが阪神タイガースだったの。東京でも売っていた、阪神タイガース・ビールを一杯買ってきて、しかも有名なケーキ会社に特注の阪神タイガース・ケーキを作って送ってもらった。

佐藤:祝賀、こりますね!

鈴木:黄色と黒の縞のケーキ。それで祝賀会をやったら、大変な騒ぎになって面白かった。私はその年は、よく神宮球場に行ってたんだけど、優勝の瞬間をこの目で見た!!1985年の神宮球場で10月14日。



佐藤
:日本一になったのも初めてだったんですよね。

鈴木:日本一は西武球場でしたね。私が見たのは神宮球場でのセ・リーグの優勝。胴上げ見ました。感動しましたね!涙、涙でした、泣いているの・・・みんな泣いている。信じられないけどね、3万人ぐらいだった、神宮球場は超満員で9割が阪神ファンですよ。それで、優勝決定の瞬間大騒ぎになった。

不思議な事に一瞬みんな静かになったの、みんな信じられないのね。本当に優勝したのかと、一瞬、我を失くしたというかね。それで、吉田監督がベンチからとことこ出てきて、初めて大きな拍手が起きた。

佐藤:良い場に立会いましたね。
鈴木:あの瞬間は、いまだに忘れられないです。
佐藤:ファンならそういう場に居合わせないと・・人生楽しくならないですよね。


リスク・インフォームド・レギュレーション

鈴木:その話は置いておいて、仕事の話に戻ると。

佐藤:技術と規制と政策と・・。
鈴木:三つのグループに分かれていた。
佐藤:米国のパフォーマンス向上に貢献とあります。

鈴木:そうです、アメリカ、MITは頭が良くって素晴らしい所です。技術ではメンテナンスの複雑なプラントのメンテナンス工学というのがあって、その人達が、いわゆる予防メンテナンスと言って、「壊れる前に・・」という話をやっていた。 日本の交換はそれに近かった。壊れる前に部品交換してしまうと、本当の寿命が分からない。アメリカはそこが偉くって、壊れるデーターを集めている

佐藤:失敗学を資料とデータを集めてメンテナンス学につないで、つくっていると。

鈴木:で、壊れるデータがあれば、どういう状況なら壊れるかが分かる。それで温度とか圧力とか振動とかのデータを採って。たとえば、振動がこれぐらいになると壊れるとか、全て予見メンテナンス、予測メンテナンスという分野を作っていた
それを原子力にも当てはめようと言って、電力会社とメーカーさんに「故障のデータを集めてくれ」と伝えて集めた。これが偉いですよ。普通メーカーさんでも故障のデータは出さない。でもアメリカは・・そういう組織を作った。 全米原子力発電運転協会(Institute of Nuciear Power Operations:INPO)・を作った。ここで安全性向上を、データを公開しないから、あなた方の故障データを全部くださいと言って、メーカーさんからとる。故障のデータを集めて、データーベースにして機器ごとに失敗、事故率を一杯作って、事故率の高いコンポーネントについてはメンテナンスをしょっちゅうしている。あまり壊れない機器は毎年メンテナンスしなくっていいので、3年に一回ぐらいでいいですと・・・、これをリスクベースド・メンテナンスと言った。リスクに応じて点検すればいい。

日本は全部おなじく点検していた。それが蓄積してだんだんメンテナンスの期間をアメリカはどんどん短くしていった。日本は3ヶ月ぐらい掛かっていたんです、アメリカの点検は、なんと1ヶ月半ぐらいまでいった

佐藤:リスクべースド・メンテナンスに沿って点検すると原子力発電所の定期点検が1.5ヶ月で済んでしまうんだと。

鈴木:そう。そうすると運転時間が長くなるので、発電量が増えて稼働率が上がる。そして安全性も高くなる・・・・ということをやっていたのが、アメリカの90年代の初めぐらい。

佐藤:合理主義者の集まっている国のやることですね。

鈴木:そう、それが国の規制にも反映されて、リスク・インフォームド・レギュレーションというのを90年代の初めにアメリカの規制当局が入れた。規制法が合理的でリスクの高い所と低い所を分けて考えましょうと。これで産業界も頑張ったし、研究者も頑張ったし、規制当局も頑張って、アメリカンのパフォーマンスはガーッと上がった。

ということでそれに一部、貢献さしていただいた



博論の主査・鈴木篤之先生とスポーツ

佐藤:1908年代は大島先生からも離れ、向坂先生も亡くなられて、鈴木先生がトップランナーになった、ということでしょうか。

鈴木:そんなことはない、私の先生は鈴木篤之先生。博士論文の主査は鈴木篤之先生。

佐藤:MITへ提出したのではない?

鈴木東京から時々来られて、私は指導していただきました私も東京に帰るたびに鈴木篤之先生に会って、いろいろ論じていました。

篤之先生も面白い先生で、スポーツ大好きなの。彼は大の巨人ファン。だけどね、背が高いかたでバスケットボールをやっていた人なの。で、アメリカのバスケットすごい詳しかった。私はアメリカのバスケット、あまり詳しくなかったんだけど・・・・。彼がボストンにやって来て、バスケットの話を最初にするもんだから、バスケットも見るようになっちゃって・・・すごい面白くって、ファンになっちゃったんです。

面白いんだよ、アメリカに来て、「タツ!新聞買ってきて」と言う、「わかりました」と新聞買ってくるじゃないですか、アメリカの新聞って何重にもなっているんです、けど、スポーツ欄だけ取れる。篤之先生はスポーツ欄だけとってあとはみな捨ててしまうんだ(笑)

佐藤:それはそうだ、アメリカの雑多な情報をもらってもしょうがない。
鈴木:そうそう。

佐藤:1980年代はアメリカと日本のどちらでも研究活動しているという感じでしたね。80年代はノマド的な暮らしぶりで、いい感じですよね。飛行機で往復でしたか。

鈴木:行ったり来たりで、ボストンは直行便なかったので、ワシントンか、ニューヨークに一度行って。

佐藤:鈴木先生の80年代の研究部門はだいたいこのような感じでいいでしょうか。



サセックス大学で、ヨーロッパの余剰プルトニュームの研究をし始める

鈴木:最後にすごい大事なことがある。
佐藤:PDFに書いてないですね。

鈴木サセックス大学との研究は書いてないですか?
佐藤:1980年代には書いてないですね。

鈴木:プルトニュームのこと、1990年代に出てきますよ。サセックス大学の研究プロジェクト、書いてないですか、ヨーロッパの余剰プルトニュームの研究

佐藤:俺が写し間違えているのかな・・・、では語ってください、お願いします

鈴木:1980年代後半、88年か89年、そのぐらいなんです。MITの先生のリチャード・サミュエルズさんは日本研究の専門家なんです。彼の所に、イギリスのサセックス大学のサイエンス・ポリシー・リサーチ・ユニットSPRU)というのがある。そこは私が大好きな研究所だったんです。
そこの先生がやって来て「実はヨーロッパのプルトニューム問題を研究しようとしているんだけど、ヨーロッパのプルトニューム問題を研究していくと、ヨーロッパのプルトニュームの多くが日本の電力会社の再処理から出てくるプルトニュームだと分かった」と。「だから、日本のプルトニューム政策を勉強したいので、誰か知ってる人いないか」と言ってきた。それでサミュエル先生が、「お前、興味あるか」と言ってきて「はい、あります」と言ったら、「紹介してあげるよ」と言ってボストンのローガン空港のカフェで初めて会った。

慌てて空港に入って、今思えば危なかったですよ。その時に会えなかったらどうなっていたか分からないです、わずか30分。

佐藤:そのチャンスを落としてしまうと人生は変わっていましたね。

鈴木:変わっていた。1時間もなかったんですけど、30分ぐらいで少し話した。「分かったお前すぐ来い。「次のプロジェクトの会合に来い」と言われて。イギリスに行った。

サセックス大学は、ロンドンから電車で1時間ぐらい南にいく、そこに町がある。海岸に有名な避暑地があるんです。そこのちょっと北にファルマーに行きました、そこにあるんですね。そこで研究プロジェクトをやる、しょっちゅうそこで会合があったので、行っていた。


■一夜にして論文は日本語に訳され配布された

    1980年代末 日本の再処理計画を見直せ!と提言

佐藤:サセックス大学そばに住んでいたわけではないんですね。

鈴木:1995年の客員研究員の時に、通っていた・・・と言っても実はそんなに行っているわけじゃなくって、年に2回ぐらい。
実は、「日本へ出張調査に行くので、俺について来い」と。結局、日本語ができる人が居なかったので。私が付いていって、日本の電力会社とか、政府とか、反対派のグループとか、一杯紹介して、調査をした
それを元に、1990年代だと思うのですが、ヨーロッパで「迫りくるプルトニューム余剰問題」という論文を発表した。イギリスの雑誌に発表したんですね。

これが翌日にですよ、三菱商事が全訳をして配った。大変だったですよ。日本の再処理計画を見直せ・・・という結論だった。このまま行っちゃうと100トンぐらいプルトニュームが余ってしまうと・・・予想通りですよ。イギリスに110トンありますからね。日本は45トンもってますからね。

こんなにたくさんのプルトニュームを余らせるのは危険だ、再処理は見直すべきだ」という提案だったんです。それが1980年代の最後です。

すごい重要、スプル(SPRUって言うんだけど、先生がたと仲良くなって、私にはとってはすごい重要な、ウイリアム・ウォーカー先生です、先生はすごい紳士で格好良くってね、イギリス紳士。

佐藤:ジェントルマンというやつですね。

鈴木ジェントルマンなんですよ。スコットランドが出身なんです、私がイギリス人だと言うと「ノー、アイ・アムスコテッシュ」と応じ、誇りを持っていた。

先生は最後にイギリスの大学を辞めて、スコットランドのセント・アンドリューズ大学へ。ゴルフコース、ブリティッシュ、オープンするところ。その大学に移られた。後で1990年代になったら話します。そこに行ったらショーン・コネリーがいた

佐藤:それは、大変なことがおきましたね!『007』の日本撮影の、聖地を巡礼した鈴木先生を思い出します、神に会ったみたいでしたね。

鈴木:そうそう、ジェームズ・ボンドですよ。


1980年代の家や暮らしについて

佐藤:先生の研究については語っていただきましたが、その間、どこでどう暮らしていたのでしょうか。都内の国際エネルギーフォーラムに所属していたときは家はどこでした。

鈴木:東京に居たときは大森に居ました。1984年に結婚して、大森の父親の土地を借りて家を建て、そこに家族で住んでいました。86年に長女が生まれて、生まれてすぐ私はアメリカに行ってしまった。で、家内と娘は7月には渡米したかな。そのころは大森にずっと住んでいました。

佐藤:86年からはMITですから・・。
鈴木:ボストンの郊外のニュートンという所に家を借りて、住んでた。二人目が生まれたのでウェルズリーというボストンの郊外に、今度は家を買ってしまったんです。親父が「長くいるんだったら、家を買ったほうが得だ・・・」という話になって。「そんなお金ありません」と言った。借金したんだと思います、大森の家を人に貸したんです、その家賃で返却していた。家賃、結構高くて・・・4年しか経っていない新築だったので。

佐藤:やがて、アメリカの家も売ることになるんですよね。
鈴木:最後は売る。9・11の直後ぐらいに売ったのかな

佐藤:不動産売買、アメリカ国内で簡単にできるもんですか?
鈴木:そんなに難しくなかったですね、不動産屋さんにすべて任せましたね。アメリカの家も日本に帰ってきてから、しばらく貸していた。1995年までアメリカにいました

佐藤:アメリカでの暮らし、長かったですね。



サセックス大学 






ウイリアム・ウォーカー

英国・サセックス大学科学政策研究ユニット(SPRU)研究部長を経て、現在、セント・アンドリューズ大学国際関係学部長。ディビッド・オルブライトとフランス・バークハウトとの共著「プルトニウムと高濃縮ウラン1996:世界の在庫量、能力、政策」(SIPRI/オックスフォード大学出版)をはじめ、軍事用・民生用核政策、核拡散防止政策、エネルギー政策などについての著書、論文多数
核の軛(くびき) 英国はなぜ核燃料再処理から逃れられなかったのか




大トンネル ボストン・レッドソックス優勝をのがす

鈴木:10年いました。その頃のエピソードを言うと、例えば86年にアメリカに行った、ボストン・レッドソックスが久しぶりに、ワールドシリーズに行くんですよ。ニューヨーク・メッツと戦うんです。
第六戦、3勝2敗でボストン・レッドソックスが勝っていて、この試合に勝てば80年ぶりにレッドソックスがワールドシリーズで優勝するという・・・・大変な騒ぎだった。

延長戦でボストンが点を入れて、4対2か何かでリードしていた。もう勝った!みたいな感じで、抑えのエースが出てきて、なんと簡単に2アウトを取った。もうTV局はテロップ流してボストン・レッドソックス80年ぶりの優勝、真近・・。

ところが2アウト取ってからポンポンとヒット2本打たれた。2アウト1塁3塁になった。で、ピッチャー交代した。抑えのエースじゃないんだけど、中継ぎのエースが出てきた。彼は「僕の夢はレッドソックスのワールドシリーズの優勝の瞬間に立ち会うことだ・・・」とずっと言っていた選手なの。だから彼は、あとワン・アウト取ればいい。4対2ですよ、2アウト、2塁3塁。ところがですね、次のバッターの時にワイルドピッチしてしまう。1点入って1点差。しかも1塁ランナーは2塁まで行ってしまった。

思い出すと涙が出てくる。2アウト2塁でしょう、2ストライクまで行くんです、あと1球ですよ。みんなは大盛りあがり、ベンチも前に出て、今にもベンチからでそうな感じ。そしたらボテボテの1塁ゴロ、勝ったと思ったら。なんと!トンネルした!

佐藤:1塁手、ボールから目を放してしまったんかな。

鈴木:大トンネル!同点になってしまって、1塁ランナーは一気に2塁まで行ってしまって。次のバッターにサヨナラヒット打たれて、サヨナラ負け。

佐藤:負けパターンに入ったんだ。


Boston Red Sox at New York Mets, 1986 World Series Game 6, October 25, 1986

鈴木
:翌日のボストンは、みんなお通夜。新聞の見出し、ワンモァ・ピッチと書いてあった。─鈴木先生ゲラげら笑っている─ オフィスみんな、お通夜ですよ。みんなシューンとしてて。街全体が応援してますからね。阪神タイガースとよく似ているんだけど。あの試合はいまだに忘れられない。(1986年ワールドシリーズ

佐藤:80年ぶりの大悲劇ですから目に浮かびますね。その頃は野茂英雄さんは渡米してましたか。
鈴木:野茂は90年代に入ってから渡米です。トンネルをした1塁手、バックレーって言うんですけど、彼はその年は3割打って、優勝にすごい貢献したんですよ。で、なんで守備固め使っていなかったんだ監督!とみんなケチョンケチョンに言う。可哀想に彼はボストンに居られなくなっちゃって、2年後にトレードで出された。トンネルをしたグローブというのが、ボストンの博物館に飾ってあります・・・・ハハハハ。

佐藤
:アメリカは銃社会なので・・・撃ち殺されなくってなによりでした。

鈴木:あれは、いまだに野球は最後までわからんな・・と。最近、阪神タイガースはサヨナラ負けしているけど、あんな感じですよ。ワールドシリーズの第六戦ですからね。第七戦も勝っていたんだけど、レッドソックスは勝つ気がしなかったですよ。7回ぐらいまで勝っていたんだけど逆転されて負けちゃった。それが一つ大きなお話です。


佐藤
:80年代に観た映画で記憶に残っているのはありますか。

鈴木:アメリカで観た映画。エナジー・ラボラトリーという所に私はいたんだけど。そこにイケル・リンチさんという映画好きの男がいて、石油の専門家なんです。彼と「毎月映画に行こう!」と。当時何があったかな・・・スターウォーズはもちろんやってましたけど、あとなんだろう、思い出せない毎月観に行ってた。バック・ツゥ・ザ・フューチャー、ターミネーター、インディージョーンズなどですね。アクション。

佐藤:映画を観たあとは酒飲んでワイワイして。

鈴木:私は呑めないけど、みんなはビール呑んでだべっていたんですね。

佐藤:映画を見た後、わいわい喋るのは楽しいですよね。
鈴木:80年代の映画って、何があったか後で調べてみます。あんまり印象に残ってないんだけど・・・覚えてない。

マイケル・リンチさんは野球もバスケットも大好きで一緒に観に行きましたよ。それがまた可哀想なの。プレーオフ、セルテックスというチーム。このチームも強いんだけど、85年にチャンピオンになっているんです。私が行ってからはラリーバードは腰、痛めちゃってだんだん活躍が出来なくなってやめちゃうんですけど。

毎年、ロサンゼルス、レーカーズ超有名なチームと東西対決するんです。面白い時期だったんです。ようやくプレーオフのチケットが2枚手に入ったので、マイケル・リンチと一緒に行こうと。彼が誘ってくれて、どこで待ち合わせしましょうと・・・行ったら、なんと!彼は切符を落としてしまったの!どうしたの?と聞いても「分からねー」と「どっかあるだろう探せ・・一生懸命さがしたけど結局見つからなくって、彼は入れなかった。私だけ入った可哀想に・・。

私もよく物を落とすんですよ。マフラーは何回も落としているし、コートも落としたことがあるくらいだから。












佐藤:鈴木先生の人との出会いが人生を変えてきた。たった30分間、会っただけで余剰プルトニュームの研究に入っていく、人生は面白いですね、嗅覚と判断は鋭いですね、この人に会おうと思う感がいい。

鈴木:面白いよ、エネルギー・ラボラトリーで仕事をしていたときに、一杯いろんな人と会っているんです。日本からも結構出向者が来てた。電源開発、今はJパワー。そこの企画部から渡部肇史(としふみ)さんという人が来てて、すごい紳士だった。
ジェントルマンで奥様も美人で、お二人でミュージカル大好きで。ミュージカル大好きな上に「一番好きな映画なんですか?」と聞いたら、「バットマンですね」と。

佐藤
:ゲラゲラ笑う。

鈴木:この紳士がバットマンかい!と、だから当時はバットマンすごい流行ってましたよ。 スーパーマンとかバットマンはやってました。バットマンも何回もリメークしてますから。

その渡部肇史さんすごい優秀で紳士のかたで、仲良くなったんです。なんと、今は会長になっておられました!当時米国に来ていた人はみなさん偉くなっています。東京ガス、東京電力、日本原電、Jパワー。みんな偉くなっちゃった。渡部さんが最後ぐらいで、みなさんOBですよ。みなさん引退されてしまった。当時日本はバブルだから、日本企業は一杯人材を送ってました。日本人の出向者を集めて食事会を開いたりしていました。当時のつながりもありますね。

こないだ、Jパワーの高橋さんという人がいたんです、彼はいつも自転車で来てました。彼はJパワー辞めてしまってワールドバンクに行ってしまった。「僕はアメリカのほうが向いてます」と言って。
高橋さんからメールが突然来て「鈴木さん、今度長崎に行きますから」って(笑)



絵ネットより:渡部肇史(としふみ)さん

長崎について

佐藤:5月28,29日に長崎は初めて行きました。良い所ですね。

鈴木:ありがとうございます、良いところだよね。

佐藤:坂道だらけで辛いかなと思って行ったけど、違いましたね、坂も多いですけれど路面電車がいい。歴史も重層にあるし、写真好きなんでプロカメラマン日本第一号の上野彦馬さん、それから東松照明さんが移り住んだ長崎です。30歳になって東松照明の写真を見て長崎の被爆の実像を知ったんです。『評伝山端庸介─長崎の原爆を撮った男』を県立図書館から借りてきました。

佐藤:有名なかたですね。軍人で記録係、8月10日に長崎に入って撮ってますね。


鈴木:山端庸介さんの写真は有名です。ただ、写真はみんなご家族が管理してるので。一般の人はなかなか見れない。
佐藤:オリジナルプリントを見ることができないのは、残念ですね。

鈴木:時々展示はされますね。本物は全部ご家族が管理しているんです。
佐藤:そうでしたか。

佐藤:
グラバー邸も味わい深いです。平面図と広いテラスと格子上の垂れ壁、日本で発明された洋風建築住宅でもありますので面白い。維新前夜に関わって20歳そこそこの、3年間でボロ儲けして、建てたそうですから、驚くほどボロ儲けしたんですね。

鈴木:軍事産業ですから。

佐藤:倒幕派、攘夷派、どちらにも彼は、武器を売りつけて荒稼ぎしていました。福島県の当たる会津藩は戊辰戦争で賊軍にされてしまいましたけど・・。

鈴木:今の軍事産業の元を。三菱さんがそこから学んだわけですからね。

佐藤:岩崎弥太郎がいて、グラバーさんの商売を見て・・
鈴木:いろいろ勉強した。
佐藤:明治開国のときに、地上の山師、冒険者たちが一杯集まって熱気を発していた長崎、地形もいいので。

鈴木:石炭も一杯でましたしね。

佐藤:建築界では軍艦島が人気あります。海も穏やかで魚料理も美味いしいいです。
鈴木:魚美味いね。

佐藤:暮らしているには良さそうな町だと思いました。ちょっと坂道と観光客が多すぎるかな。山の中腹まで建築が建ってまして、驚きました。道路も曲がりくねった道ですから、車の運転がやや高度な腕がいりますね。

鈴木:だから軽自動車がおおいですよ。

佐藤:福島市だと、あの坂道の一部だと積雪すると凍るので危険すぎる、そういう道路形状でしたね。
鈴木:ちょっと入ると本当に道が狭いので気をつけないと・・。

佐藤:鈴木先生は良い土地に暮らしているな・・・と思って帰ってきました。















ボストン、大雪に遭う

鈴木:ボストンも良いところですよ。一つエピソードを言うと、1978年です。学生の頃です。大吹雪があったんです。グレート・ストーム、と言っていまでも有名なんです。 ブリザードというのかな。 「1978年の猛吹雪:米国北東部を襲った歴史的な嵐の冷凍スナップショット」は超有名。
丁度大学が始まる2月の頭、午前中に大学に行ってレジステレーションして、朝から雪が降り始めた。ぱらぱらと。天気予報はたいしたことない・・・・と言っていた。みんなオフィス行ったりして仕事をしていたら急に雪が降り始めて、天気予報が急に変わって「すぐ家に帰れ」と緊急警報が出た。大雪になるからすぐ家に帰ってくださいと。大学も午前中で閉まってしまった。
帰った、2時ぐらいに帰ったんですけど、前も見えないぐらいの大雪。あっという間でしたね。

絵:サイトより

佐藤
:鈴木先生は大阪から神戸を行き来して育ったから、大雪には遭ったことないし、対応は知らないでしょうね。
鈴木:知らない。怖くって怖くって・・・しかも風が台風なみだったんです

佐藤:車でも徒歩でも、前が見えないホワイトアウトですね。
鈴木:まったく見えない。怖くて、夜でもビュービュー吹いて、ニュースでやっていたんですけど海岸の家がぶっ飛んでしまった。

佐藤:風速40mって感じかな、真冬の大嵐でしたね。
鈴木:嵐、それで夜中のうちに、車埋まるほど雪がこんなに積もってしまった。朝起きたら、雪かきもできない。そのくらいもった。緊急事態宣言ですよ。朝からヘリコプターが飛んでいて、学校も職場も全部休みです。ところが翌日はすごいいい天気だったの。一応道路は除雪してきれいにしている。車は走っちゃいけないんですけど、緊急車しか走っちゃいけない。少しずつ車が走り出すと雪が溶けてしまい綺麗になる。クロスカントリースキーで歩いて行った。ははははは。

佐藤:クロスカントリースキーの板を持ってましたね!

鈴木:みんな自宅に持っているんだよね。

佐藤:ボストンは雪が多いので持っている!


絵:サイトより

鈴木:私の車は雪に埋まっちゃって出てこない。でも本当にいい天気でもったいないなーと言いつつ、仕事場に出てくる。緊急事態宣言下なので本当は出てはいけないんだけど。お店にいっても何もない。

佐藤:台風一過だと、いい天気になりますからね。

鈴木:2日間、食べ物もなかったですよ。その経験は今でも思い出します。というのはね、天気予報がすごくいい加減だったんですよ。今現在はそんなことは無いと思うんだけど。大したことないと予報していたのに急激に降り始めて、風向きが変わったみたい。

佐藤:福島市と県にも大雪ハザードマップは無いです。大水と火山ハザードマップはあります。近頃、積雪もオーバーきみに予報していると感じます。嵐にともない雪積もると電線切れちゃうと凍死しますね。福島市では大雪でも一晩に60センチぐらいですから電線は切れないし、スーパーの閉店は経験ないですね。

鈴木:雪はきはしなければいけないじゃないですか。

佐藤:一晩で60センチ積もると屋根の上もガラス屋根の上なども、除雪するので汗びっしょりになります。あまり降ると雪の持って行き場がないので、雪山がほうぼうに出来て、歩道なんかにも出来て、小学生は車道に出るしか無くって、歩きにくくはなりますね。
年々少なくなっているように感じますけれど、油断していると一気に降る。春先の湿った雪は木々の枝は折れるし、重たいので電線切ったりしますね。寒さ本番の真冬のパウダースノーは軽いので積もっても吹き飛んでいきますから、前は見えなくなるけど、重くはないんです。

鈴木:食べ物も備蓄してあるんだ。
佐藤:冬場でも、2024年の今は備蓄はしないですね。米や燃料味噌は東日本大震災いぜんは、秋に1年分は備蓄して、燃料の薪は夏場にかって乾かしてあるので通年あります。玄米は10kgずつ精米して食ってました。が、3・11が起きたし、スーパーが便利になっているので、今は備蓄はほとんどしてないです。

鈴木;ボストンでの大雪はすごい怖かったです。ブリザード1978年は今でも語り継がれていて。
佐藤:何人か亡くなられたんですか。
鈴木:亡くなられました。緊急事態宣言ですから、2,3日はどこも開いていなかった。停電は1日でなおったかな。

佐藤:冬場に停電すると暖房機器も、みな止まりますからね、危険ですよ。福島で原発が爆発したときは3月11日で真冬は過ぎていたので、しのげました。でも、スーパーに物がなんにも無かったですよ、食べ物はもちろん無い、商品棚に何も無いんですよ。記録写真は撮りました。

2022年1月1日 佐藤が暮らす福島市に、一晩で積もった雪の例

鈴木
:そうだよね。

佐藤:私1年分、備蓄もしてたし、1週間分の食材を買ったばかりでしたが、観察のため近所のスーパーに行ったんです。店になにもないんですよ。なんであんなものが売れるんだと思いました。全部の棚が空っぽで店員が突っ立っているだけ。皆さん慌てて片っ端から何でも目に入るものは買ってしまうようです。

鈴木:買い占めちゃうんだ。

佐藤:こんなもの買っても生き延びるためには役立たないだろうと思う物まで、唐辛子の果から、紐、接着剤、袋、ノート・文房具・・・なんにもない。

鈴木:考えてみたらおかしいよね。

佐藤:品物が増えてきても、レジに長蛇の列が出来て、買うより時間がかかるんですよ。レジ終わるまで1時間ぐらいは並ぶ。3・11なので原発事故に合わせて大雪降ったらさらに大変なことでした。

2011年3月16日 13時24分 佐藤の家の側のスーパーの棚 商品が消えている



鈴木:
986年にチェルノブイリ発電所の事故があった。86年の4月なので、まだ日本にいたんです・・・びっくりしましたね。事故直後の5月はじめに娘が誕生しました。。

佐藤:当時はTV でニュース見てました。放射能が気流に乗ってドイツ方面、アルプスの裾まで飛んでいく・・・300kmぐらいだったかな。原発が事故起こすと放射能の雲が風向き次第で遠くまで飛んでいくんだなと学びました。あれいらい、サージカル・マスクを、東京のハンズで買って持ってました。

鈴木
:売ってましたか。

佐藤:ゴム紐で顔にフィットさせるマスク売ってました。今ではどこでも売ってますが、当時は福島市にはなかったので、東京で買いました。「みんな福島の人は持っているほうがいいよ」と伝えていたんだけど・・。

鈴木:なにか、あるかもしれないものね。

佐藤:役にたたなくってもいいので、事故が起きると一部の人は言ってました。だから用心して買って持ってたんですよ。

鈴木:当時、事故が起きるとは誰も想わなかったでしょうしね。

佐藤:放射能は風に乗って遠くまで飛んで行くんだと、チェルノブイリの映像でしって、用心ぶかくサージカルマスクをもっていたんです。「あげるよ・・」と言って見せても「要らない」と言われ続けました。事故が起きてからはうらやましがってましたね。

事故直後、15日夜から16日にかけて福島市は毎時24マイクロシーベルトほどの高放射線だったんです。断水になっていたのでトイレの水とか飲料水が子供たちがマスクなしで並んで、水を汲みだして運んでいたのには心が痛みましたね。「マスクしなさい」とは言えないんですよ。放射能対応のマスクなんて福島市では売ってないんだから、言えない。ヨウ素が1週間ほどは飛び交っているのだから家に籠もっていなさいと言いたいのだが、水がないと生きていけないので、家に籠もれとは言えない。

安全神話があったから無防備でした。俺は例外でした。原発の立地地方の子供には事故後教育はしておくべきだと思います。

鈴木:東京電力さんからはパンフレっとなど無かったんですか。

佐藤:無いですね。事故起きないって言ってたから事故対応マニュアルは配られてない。
放射能に関して、汚染図を見たのは米軍の撮った荒っぽい縞もようの絵図が最初でした。ドイツ発のアニメ汚染状況動画(実はフランス製)は3・13日の頃ツイッター発で見ました。正確な汚染地図を見たのは原子力委員会で鈴木先生たちが環境省から受けたレクチャーの図でした。

チェルノブイリとスリーマイル事故はあとかな、前かな。

鈴木:スリーマイルは1979年です。

佐藤
:両方関心があって追っかけしながらTVが夜中の番組でも流していて、見ていたので、

鈴木:福島でも起こるかもしれないと思ったんだ。

佐藤:そうですね。東海村でも臨界事故で亡くなったり(1999年)絶対安全はない・・だから万が一原発事故が起きても対策案はもってた。1990年初頭から、家人が精神病の症状が一番ひどい時期だったので、事故が起きて、避難指示が出たらどうしようか?考えてました。「避難指示が出ても、避難しない」と決めました。暮らしている環境が変わると病状が悪化しちゃって手に負えない、慣れた自室にじっと籠もっているほうが、病気の対応としてはいいんです。「放射能で即死しないだろうから、食い物も備蓄してあるし・・逃げない」と決めました。だから、3・11直後から、いろいろ観察したり近所見回ったりしました。知り合いは自主避難していました。

鈴木:家の中にいれば安心だと。

佐藤:そうです、我が家はコンクリート造りなので線量測っても、平時と変わらずほとんど高くなってないんです。食い物が無くなる、煮炊の燃料が無くなるのは困るので、米と燃料は備蓄してたんです。
鈴木:さすが。

佐藤:事故前は備蓄してたんですけど、事故後は備蓄やめました。ニ回はあの事故はおきないだろうと思って(笑)

鈴木:(大笑いしている・・・)分からないよ。まだま880トンもあるんだよ

佐藤:3・11以前は、1年分の備蓄してあったので、福一で連続事故起きても食い物は大丈夫たと思って暮らしていました。これから原発に常時4000人も働いているのに事故起きたら大変な問題になる。

鈴木:停電はどうでしたか。

佐藤:停電は翌日3月12日午前10時26分09秒にツイッター投稿。「やっと電気がきて PCできるようになりました」とあります。電気が来たのは早かったです。後に分かったんですが、市内では停電無しの地区もありました。通電して火事も起きずホットしてました。 ラジオが無くって俯瞰的情報がないです、見る間もないんですね。福島には原発があるが、「どうやら放射能漏れしているようだ・・・今知る」と逐一ツイッターで投稿してました。

3月11日の夜は家の中はNゲージの電車模型のライトを灯してました。乾電池にNゲージのライトをガムテープで付けて、ともしてまいした。

ロウソクは15分間隔ぐらいで余震がおきていたので、倒れて火事になると面倒です。やはり電池で灯すのが安全だと思いました。小さい模型の照明なんですけど、真っ暗じゃないので、目が慣れてきて明るい、夜の暮らしには問題なかったです。小さな乾電池1本で24時間持つので、助かりました。

翌日12日からツイッターが生きていて使えました。TLから落ちてくる福一の放射能雲の流れ方が落ちてきていたので、福島にはこの時間にプルーム来たのね・・・と、直ぐ知ってました。後に鈴木先生が詳しい汚染地図情報を流してくれたので、汚染の詳細を知ることになり、ありがたかったです。


 2011年3月25日 佐藤が最初に見たF1放射能拡散アニメ

鈴木先生にも原発事故が起きなければ会うことはなかったです。いろいろなことが3・11後起きてしまいました。長崎まで先生を訪ねて親子で夕飯もご馳走してもらうとは、申し訳ないです。

鈴木:大笑いしている。

佐藤:不思議な縁です。これからもお付き合いよろしくお願いします。今日はここまでとして、文字にしまして、おしらせいたしますので、お待ちください。

次回は1990年代の語りをお願いいたします。バブル経済が終わって冷え切っていく日本と人々、89年に平成が始まりました。








世界のドキュメンタリー「ドキュメンタリードラマ チェルノブイリの真相


















水汲みにむらがる人々。佐藤の家近所
2011年3月14日 14時27分

昭和から平成へ1989年1月7日

鈴木:昭和天皇が亡くなって、お葬式があったときにはたいへんでした。
佐藤:建築業界は、宴会は自粛でした。だから町はシーンとしてました。


 
1989年1月7日 朝のNHKニュース

鈴木
:天皇家のことで、まわりから一杯質問が来て。みんなから、おくやみのメールが一杯きちゃった。こっちがおくやみいわれる筋合いがないんだけど。なんで私にお悔やみのメールなのか?それがまず驚いた。それからみんなから質問される。

アメリカの人たちはすごい憧れが皇室に対してあります。アメリカにない、国のシンボルという形のものがアメリカに無いんですね。だから大統領ですよね。そうじゃなくって2000年に渡る歴史を持って王室というのは世界に無いので、天皇家の歴史とかいろいろ聞かれる、質問されて、一生懸命勉強して。

佐藤:歴史家でもないかぎり普段から天皇家の歴史勉強しないですからね。崩御後のお葬式もあういうしきたりで執り行われるなんて知りませんからね。

鈴木:CNNでずっと中継していた。

佐藤:日本のマスコミは亡くなるまえから天皇の病状を伝えるニュース一色でしたね。

鈴木:領事館に行って記帳させられたんですよ。

佐藤:そうでしたか。福島市は飲み食い自粛でしたよ。飲食店は開店休業で大変だったのではないかな。

鈴木:私は天皇家を見直しましたよ。

佐藤:現在も日本のトップアイドルは不動ですね。


鈴木:次回は7月にまた。

佐藤:鈴木先生の1990年代の語りをするか蔦谷樂さんとワイワイするか

鈴木:それもやりましょう。

佐藤:蔦谷楽さんは5月末まで制作で忙しいとメッセージがありました。

鈴木:ニューヨークだから今の時間だと朝だよね。時差が13時間なので今は朝の7時です。でなければ日本の朝の9時か10時だと ニューヨークの夜。日本の朝の10時ぐらいから始めればいいでしょう。

佐藤:そういうことで今日は長時間ありがとうございました。これを文字にします。ありがとうございました。
鈴木:こちらこそお付き合いいただきありがとうございました。失礼します。

 共に・・・さようなら・・・