石川初さんに聞く 2021年5月8日午後15〜  01  02 03 04 05 06
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■ アメリカ留学

佐藤:対話力、その技をどこで学んだんでしょうか、いつ身に付けたのっか分らないね、高校かな。
石川:それは仕事しながらですね。オンザジョブ・トレーニングです。それで、入社3年目のまだバブルが続いてた頃に「会社から海外留学する制度」があって。希望者は部長の推薦状と、英語でそれなりの点数をとると、留学させてくれたんですよ。アメリカとかの大学院に。建築はデザインスクールとかに行ってたんですよ。ハバードのGSDとか。俺は最初、留学の話が来たんだけど英語が全然できなかったんですよ。
佐藤:どうしましたか「嘘でしょう」という位でできなかったですか。

石川:英語まったくできなかったですよ。トイックねー入社したころ、300点台とかでしたよ。答案は4択だから、鉛筆転がしてもそのぐらいの数字には確立的になるっていう。そのぐらい英語は出来ない人間だったので。留学の話が来た時には、「そろそろランドスケープから一人ぐらい留学したら〜」みたいな話が社内であって。だけど、俺の2年ぐらい先輩の人が留学したんですよ。「お前は英語できねーからなー」みたいなこと言われていたんです。そしたらHOKというアメリカのデカイ建築事務所と鹿島が業務提携したんですよ。幾つか一緒に仕事する機会があって。それで「人材も交流しよう」みたいな話になって。「若い人を2,3年お互いの職場に送るみたいな事やろうぜ」という話になって。
佐藤:アメリカ全土で仕事してたんですか。
石川:アメリカ全土で仕事してました。
佐藤:何年間ですか。
石川:3年居ました。
佐藤:3年、けっこう居ましたねー。
石川:部長に呼ばれて、「お前がいいんじゃないかと思うんだ」みたいな「独身だし、一人でそういう所に送り込まれてもあんまり病みそうにない」みたいな。
佐藤:病みそうにない〜、いい。
石川:はははは、こと言われて。 「どう」みたいに、「じゃー行きます」。







絵:HOK ホームページより
■ 英語

佐藤:その当時はパソコン無いですよね。
石川:パソコン無いですよ。いや、ありましたけどねNEC・PCが。でもパソコンは丁度マックが売り出されて、インテリア・デザインとか割と感度のいい所がマックを入れ始めたころですね。

佐藤:アメリカに行って、英語で最初はボディー・ランゲージですか。
石川:アメリカに行く前に、会社のお金で英会話教室に通わされて。
佐藤:半年ぐらいですか。
石川:1月ぐらいです。短い。最後にレポートをもらって「ミスター石川は頑張りましたね、向こうに行っても会話にはカインド&センシブネイティブスピーカー」となら充分に会話できるでしょう、と書いてあって。これって褒めているのかなーって。ふふふふ。
佐藤:現地にいかれて英会話教室の太鼓判通り対話はスムーズでしたか。
石川:現地行っても全然わからない。誰が喋っている事も全くわからないし、本当に最初は分らなかったです。家でずーっとCNNつけてました。
佐藤:耳に慣れる、訓練ね。

石川:そうするとね一週間ぐらいすると、テレビが自分の解らないことを言っている、ということに慣れちゃうんですよ。でも、事務所なんで、講義を聞いたりしている訳ではないから。図面挟んで、ジスイズ、ライトとか描きながらしゃべっているから、職場では不自由しなかったですね。でもちょっとずつ、友達が出来たり、遊びに行ったりとか。いろいろしている内にちょっとだけ英語ができるようになっていった、まるっきり実践ですよ。勉強しましたけどね。実家から大学とか大学受験とかの参考書とか送ってもらって。単語はとにかく、分らない単語は全部、書いていくみたいな、地道にやってましたし。
佐藤:ずーっと勉強し続けていますね、どこかでサボっていた分からない、勉強はしているんだ。
石川:何ていうのかなー、受験勉強してるわけじゃないんだけど、向こうに行ってやむなく、「ちょっとずつやる」みたいなのでは。ずーっと勉強しているんですよね。勉強のしかたが変というか。
佐藤:無駄がない、実用的な勉強している






■ 聞き耳頭巾

石川:留学すると、みんなそうだと思うんですけど。段々と次第に分ってくる、とはならないんですよ。何か、あるとき急にガバッって、向こうの言っていること分るみたいな。聞き耳頭巾を被ったみたいに、分るようになって。分るようになると今度は壁に当たるんですよ、「向こうの言っていることは分るんだけど、こっちの言いたいことが言えない」みたいな。 それでしばらく苦しんでいたら、あるとき、ふと電話とかで普通に喋っている自分にびっくりする、みたいな感じで、こういう感じで上達するんですね。
佐藤:聞き耳頭巾は面白いですね、お喋り頭巾もあるといい。
石川:本当に、急に喋れるようになった〜、みたいに、なるんですね。
佐藤:3年間で帰ってきてアメリカには行かれなかったんですか。

石川
:住んだことはないですね、出張は何回かしましたけど。それで3年いて、戻って来たら、バブルが終わっていて、結構景気が悪かった。 何か鹿島も色々会社を再編成する事を頑張ってやっていて、バブルが終わってから時間が有ったので皆「組織の内部のことを」いろいろやったんですね。 ランドスケープの設計部門はアウトソーシングというか「外に出しても、やっていけそうだ」と評価になって、子会社化されることになって。
佐藤:造園、自分でも仕事が取れると、獲れや〜。という空気になってきた。
石川:そうそう、公共工事が多いので、公共のプロジェクトって設計施工はとれないから。
佐藤:役所の仕事は分離発注だ、そうだよね。
石川:資本的に分離している方がいいんですよ。というものあって、株式会社ランドスケープデザインが出来て、俺は鹿島に席があったですけど、そこへ出向することになって。それが2000年ですね。それから退職まで15年間ずーとそこに居たんです。


2004年3月27日我が家で2ショット
■ 2004年 3月建築あそび 福島市へ

佐藤:サラリーマン時代、その間に俺の家にも来ていただきました。ありがとうございました。
石川:そうですね。
佐藤:我が家でのレクチャーは2004年の3月27日です。
石川:2004年か〜。
佐藤:今から17年前ですから。
石川:まだ設計事務所に出向して数年という時ですね〜。でも田中さんとか松川さんとか、あのとき佐藤さんのところで出会った人とか、その伝手で知り合った加藤さんとか中西さんとか、皆さんといまSFCで再会してる感じですね。
佐藤:講義の内容を見ると、石川さんが今日の活動をやっている芽吹きみたいなものは、そこかしこに有りますね。
石川:はははは。
佐藤:そこかしこに落ちているんです。
石川:あの頃なぜかGPSを買って、GPS地上絵とか、誰も喜んでくれないのに、一人でやっていたんですよね。そしたら、佐藤さんの所でスライドで上映してみたら、凄い受けて。
佐藤:そうですよねー参加者大歓声だった。
石川:それで、これは人に話しても喜んでもらえるんだーと。

佐藤:だから「GPS使って、ITエンタメ芸人になるのかなー」と思っていたんだけど、あまり面白いからね。タモリ倶楽部とか朝日新聞にも掲載され、出てましたからね。
石川:そうですね、出ましたタモリ倶楽部に出ました。

佐藤:芸人になって日本各地をママチャリで走って地上絵を描きまくる人。
石川:「タモリ倶楽部」よりも「建築あそび」の方が早かったですね。

佐藤:そうですね。あの講義で僕が一番感動したのは、あの当時、向日葵の種をそこかしこに植えていくじゃないですか。密かに自分でそこかしこに種を植えて町、空き地や路上を自分の庭にしていく、みたいな活動ね「これはなかなかいいぞー」と思って見ていたです。



講義前の腹ごしらえ、参加者でワイワイ

2004年10月30日朝日新聞記事へ
■ 向日葵プロジェクト

石川:いまだにやってますよ、毎年研究室で向日葵プロジェクトっていう、今年もやりますよ。
佐藤:野菜の種も撒いたりしてますか。

石川:今年もこれ、これから学生たちに配るんですけど、(向日葵の種の大きな袋を差し出してみせる)。
佐藤:なんですかそれは。
石川向日葵の種2s!ふふふ。
佐藤:2s。ははははは。
石川:これを小分けにして、郵送するんですよ。それで咲いたら勝ちと。
佐藤:なるほど。向日葵プロジェクトはどうやって競うんですか、毎日写真などアップ投稿するんですか。芽吹きました自慢合戦とかして。

石川:言わなくってもみんなやります。勝手に自分の庭でもいいし、町の気になる所でもいいので植えて咲いたら勝ちというルールだけ言うと。勝手にめっちゃ盛り上がりますね、みんな写真撮って送って来るんですよ。スラックとかに。「芽でましたー」みたいに、ふふふふふ、ドンドン自分の庭になっていく。

佐藤:昔から「建築の理想は路上だ」と言って建築は路上のように誰でも自由に出入りしてね、みんなで使わなければだめだよみたいなことを言って、1984年夏に福島市の道路を使ってイベントやった。建築あそびも屋内版ですね、実践して家を解放してやっていたんですけど。石川さんは向日葵の種を方々に蒔き植えてね町や地上を私物化していくという感じで、これは凄いと思って。道路を畑にしている人が結構居てね、都市農業と勝手に名付けて見て歩いたことがあるんです。お金持ちの住んでいる地域には道路に野菜植えている人は居ませんね。

石川
:そうですね。

佐藤:大阪の鶴橋となどの下町に行って観察すると、道路半分が紫蘇畑になっていたりする、私有化めちゃめちゃ凄いですね。



向日葵種 land walk book2 28頁より


984年佐藤・主催 私的な路上的活用イベント
土湯温泉パフォーマンス&シンポジュウム


大学で教育する 関東学院大・非常勤講師

石川:佐藤さんに呼んでいただいたのが、2004年。あのころに丁度、同じ職場からハーバード大学のGSDに留学して帰って来た先輩に、「ハーバードで同級生だった面白い人が居て、これから飯行くんだけど、一緒にどう」って誘われて「行きまーす」って。
ご飯食べた相手が、当時、長谷工に勤めていて、その後、関東学院の先生になった中津さんだったんですよ。中津さんとそうやって知り合ったんです、俺。 食事しながら、話がえらい盛り上がって。そしたら中津さんから連絡があって「こんど関東学院で建築学科なんだけど建築のデザインじゃなくって、フィールドワークをして、リサーチをプレゼンテーションするという新しい授業を始めようと思うんだけど、非常勤で来てくれませんか」と言って。それが大学で学生に教える初めての体験だったんです。2005年でした。

佐藤:一度もどこでも教えたことないのに あ、教職とってたか、自分が日頃行っていることを教えちゃう、というか石川的観察をさせちゃうでしょう。

石川:2005年、中津さんの所に行って、一緒に始めたのは、本当に学生と一緒に街を歩くみたいな感じなんですよ。

佐藤:そうか、そうか。

石川学生と一緒に街歩いて、一緒に色んなものを見つけて一緒にびっくりするみたいな。そこでここをこういうふうに表現したらいいんじゃない、みたいなことを一緒にやるみたいな凄い楽しいかったですね。

(2カット絵:関東学院大学、中津研究室より 前列左から4人目、石川初さん)
観る 記録する 語る 本を作る

佐藤:観察することは以前から実践してましたが、記録をつけて、人に話す、神山町で町の人々にプレゼンするようになるじゃないですか。さらにそれを本にして発行したり。そういうことは大学に行って教えるようになってから「そういうふうにしよう」と思った。絵本などの本にするとか、文章にするとか。

石川:徐々にですね、自分でやったことを記録したり、それを文章にしたり発表したりするという事をし始めたのは、非常勤で大学に行ってたりとかするようになって徐々にだと思います。

佐藤:私の家の建築あそびの記録と『ランドスケール・ブック』との間の8,9年間で、ずいぶん違う人になっているなーと。
石川:『ランドスケール・ブック』は2012年ですね。その間に大学で教え始めているんですよ。
佐藤:その8年間で記録に対する姿勢が変わった事もありますし、観るためのスケールも時間のスケールとか境界のスケールとかスケールを一杯持って。

石川:でも やっていることは変わらないんでけどね、言語化しているだけで。
佐藤:こういうふうに概念でもって言語で言われると、なるほどと分かり易いじゃないですか。最初の方が楽しみが一般の人が楽しく参加できるという町観察が強いんだけど、時間を越えていくためには他の人に伝えるためもは概念を言葉にされ、細かく分かれている方が伝わっていくのかなーと、石川さんがずーっと生き続けられるわけじゃないから。

石川:あとあれですよね、飯尾さんとか、今日、参加の中村さんとか、編集者の人と知り合うと、いかに強度を持った情報に加工して残していくかというのを、あれこれやってくれるじゃないですか。

佐藤
:そうですね。

石川:編集者の人と知り合いになったのは大きいと思いますね。
佐藤:『ランドスケールブック』の見出しだけ書き上げても、いっぱい言葉があって、言葉を発明したんですよね。大多数では。

 (右絵 :『ランドスケール・ブックー地上へのまなざし』2021年刊行)



神山町での活動の様子

land walk book2 8,9頁より


■ 早稲田大学 

石川:徐々にですよね、たまにしか本出さないから。それまでのやつが、がーと入っているんですけど。徐々にです。関東学院が2005年で、その後に千葉大とか、武蔵野美術大学とか、非常勤の声かけていただいて。会社、勤めながら平日なんだけど、一日、行ったりとかするから、会社に掛け合って、中津さんとか来てくれたんですよ、会社まで。
佐藤:なるほど。
石川:それで、営業みたいな感じで認めてもらう。2010年に一応5年間、関東学院でやって、俺の後継ぎの人を紹介して、関東学院は卒業させてもらって。2010年から早稲田に行ったんですね。
佐藤:中谷さんのところですか。

石川:中谷さんのところです、早稲田が決定的だったです。
佐藤:どういう意味で決定的だったですか
石川:学生も凄いし、中谷さんとか後藤さんが凄いんですよね。後藤春彦先生って、俺のドク論も副査指導いただいたんです。都市計画の先生なんですよね。中谷さんはかなりいろいろと影響を受けましたね。もう取り返しのつかない影響を受けたひとりです。早稲田の5年間は随分変化がありました、鍛えられたというか、2010〜2014年まで。
佐藤:その間に大震災が起きましたが。

石川:震災入っていて。だから、2010年に早稲田で設計演習始める前に、中谷さん、まだ大阪におられた時に、声かけて下さって。今和次郎の追跡調査をやったんですね。それ本になって、共著で建築学会の著作賞をもらったんですよ。 そのあと、震災があって、それを機にその後の応用編という感じで千年村が始まって。ちょうどその時期だったんですね、俺が早稲田に行ってた時には。勤めてた会社も楽しかったですけれどもね。楽しく実地のプロジェクトは色々、忙しくやっていたんです。

佐藤:早稲田の授業も会社から派遣ということでしたか。
石川:そうです。
佐藤:会社から給与を頂戴しならが営業活動兼教育もすると。
石川:営業というか、大学で会社の名前をアピールするみたいな。そういう稟議書を書いて。そう中津さんは社長にお願いに来てくれて。中谷さんは、大学の中で手配をしてくれて委嘱状が総長の名前で来ましたね。うちの社長とか盛り上がっちゃって。

佐藤:そうだよね、会社勤務の人が大学の講師で呼ばれると、仲間も嬉しいもんだよね。
石川:総長の名前で来ます。
佐藤:早稲田でしたか?学生と一緒に展覧会を卒業制作を展をやり始めました。
石川:早稲田で設計演習の展示会というのをやっていたんですけど。今やっているのは、研究室の展示会は慶応に来てからです。
佐藤:早稲田では卒制の展示会、慶応では研究室の展示会して、社会に知らせると。
(下絵:2013年度日本建築学会第一回著作賞に あたって・瀝青会 PDFへより)







『今和次郎「日本の民家」 再訪』プロジェクトについて 2013年度日本建築学会第一回著作賞に あたって・瀝青会 PDFより 





■ 慶応大学 SFC 

石川:2014年にSFCの教員の公募が出ました。
佐藤:呼ばれたんじゃないんですか。
石川:その時に、その公募はメディアアートとかみたいな、未知の変わったことをやる人を求めるっていうような趣旨で、博士号の要求が書いてなかったんですよ。
佐藤:それはよかったねー
石川:それを見て「これは、呼ばれている」としか思えない。その時に思ってしまって。「これは応募しないといけないんじゃないか」と。

佐藤:3〜5年で博士号をとればいいんだから。
石川:その話は後でですよ。最初は博士号は要求されていなかったんだもん。色々資料を集めて、応募のための情報を集めて、本まで全部入れて、こんなパッケージにして、送ったんですよ、慶応に。そしたら、「面接に来い」というメールをもらいました。「15分間のプレゼンテーションしてください」。

佐藤:アヒル(ママチャリで描く地上絵)もプレゼンしましたか、何をプレゼンされましたか。

石川:アヒルもあるけど、いろいろ早稲田で教えたことや、業務で手掛けている設計の仕事とかも組み合わせて、それで、「デジタルツールと使いながら日常的なスケールのものと、地図的なスケールのものをつなぐような、そういう新しいデザインやアートに挑みたい」みたなプレゼンを作ったんですね。

佐藤:でもよかったじゃないですか


 05へつづく





landwalk book 26頁より


記号としてのSFC landwalk book 15頁より

landwalk book 22頁より

 05へつづく