石川初さんに聞く 2021年5月8日午後15〜 | 作成:佐藤敏宏 | ||
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石川:父は高校まで桐生にいて、大学は横浜国大に行って。そこで、電気を専攻して、電気設備とかの会社に就職しました。建築じゃなく交通、電車とかの電気です。 母は恵泉女学園の園芸科を出て。母方の祖父が農大の前身の東京高等造園という、農大の造園学科の前身になった、造園の専門学校を出てから、いろいろ勤めて、最後は農大の造園学科の教授だったんですね。 調布に居たんですよ。母は調布で生まれ育ったんです。母方の家も父方の家もクリスチャン・ホームなんです。調布の教会で両祖父母が出会って、その紹介で私の両親はお見合いをしたんですね。 佐藤:当時は見合い結婚が一般的でしょうからね。 石川:まあね。母は園芸科を出てから、何かの本を読んで、日本の農村が、農村と都市部の社会格差みたいな事に対して「これは何とかしなきゃ〜」という使命感に燃えて。 佐藤:それはすごい、女性ですね。 石川:問題発見解決型母だったんですよ。それで保育士の資格を短大を出てから自分で勉強して取って。それで、長野県の平沢村という所へ行って、そこで農村の保育園で保育士してたんです、戦後すぐです。昭和30年代ですね。 佐藤:福島県に来ていたら俺の保育もしてもらえたですね。そうですか、東京に執着しないで田舎に出ていき、保育士すると。30年代当時の人、みんなと逆向きですよね。 石川:東京で見合いの話が進んでいて、東京へ戻って来て。オヤジと見合いをして結婚を決めて。結婚した途端にオヤジが転勤で京都に引っ越したんですよ。それで!俺が生まれたんです、京都で。 佐藤:おめでとうございました。生まれて来ていただき、おめでおとうございました。話を聞いていますと、石川さんは「お母さんの影響がかなりおおきいなー」という感じで、活動のルーツが分ってきておもしろいです。 石川:そうですね。 佐藤:生まれた時の大きさは分りますか。 石川:3300gとか。 佐藤:デカイ 赤ちゃんですね。 石川:3キロちょっとです。ふふふ 佐藤:2.5〜2.8位でしょうか。 石川:両親がとにかく、横浜と調布じゃないですか。だから関東弁なんですよ家の中が。 佐藤:関西弁が出ないから不思議だなーと思ってました。京都生まれというけど、関西弁でないのは、因はそれなのね。 石川:地元の幼稚園に行ったんですけど、幼稚園のころ結構どもったり、言語的にちょっと錯綜した状況だったらしいです。小学校の時は完全にバイリンガルだったですね。外に出ると完璧に関西弁なんですよ。関西弁で考えているし、家に帰ってくるとスパっと切り替わるんですよね。妹がいるんです、3才下の。妹は家の中でもずーっと関西弁なんですよ。 佐藤:お母さん注意しなかったですか。 石川:慣れて来たので両親共に地元に。俺の時よりは両親もご近所の人たちとの付き合いもあるし、もっと関西に定着していて。状況がちょっと違ったんだと思うんですよね。関西弁とのバイリンガルって本当に関西出身の人には分ってもらえることなんだけど、本当に何かバイリンガルになるんですよね。関西弁でしか考えられない事とか、あるし。関西弁で考えている時と、そうじゃない時はちょっと発想が少し違うんですよ 。 佐藤:高卒で本社が西宮の中・ゼネコンに入社したので、東京支店でしたけれども。周り関西弁でしか話さない会社に勤めました。関西弁の方が請負い仕事がやり易かったです、そういう感じはしますね。口汚い言葉でも角がなくって、仕事がスムーズにし進みましたね。 石川:俺の周りの事例でしかないけど、関西弁と関東弁のバイリンガルとか、九州弁と関東弁のバイリンガルみたいな人は英語上手になりますね、やっぱり。 |
『ランドスケール・ブック』P73より |
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佐藤:そうですか、30分経ちました。ここまで質問ある人いますか。質問していいですよ。無いようなので次に進みますね。関西弁と標準語を使い分けながら、いつまで関西でしたか。 石川:中3までですね。 佐藤:じゃー関西のお友達も一杯いそうですね。 石川:居ますよいまだに。 佐藤:幼稚園小学校の時には何をしておったですか「遊び」ですけど、漫画に没頭とか。 石川:特に変わったことはしていないですね、普通です。私が住んでいたのは京都と言っても「宇治」なんです。平等院とか在る宇治市。宇治って関西に行くと京都と宇治ってちょっと違うんですよ。割とのんびりした所で、宇治には実家はもう無いんです。いまだに行くと、小学校の時に見た風景が所々そのまま残っていたりするですよね。 佐藤:地形が残っていると記憶が蘇ってしまいますね。 石川:そうですね、何て言うか、古墳が在ったり、古い神社が在ったり、田圃が在ったりするような風景が、自分の風景感に影響を及ぼしていると思いますねー。 佐藤:農業の事も徳島県の神山町に行かれててから多く出て来てますけど、その頃は農業には興味が無かったですか。 石川:興味なかったですね、その頃は。佐藤さん画面共有できるように設定可能ですか。 佐藤:やりかた分らないです。 石川:今パソコンですか。 佐藤:iPadです、何かできますか。 石川:共有、地図とか見せようかなと思っただけで。 佐藤:何か操作すればできるのかなー。 石川:iPadからだと、どうやればいいのかなー。俺をね、共同ホストにするといいと思います。参加者の俺の名前がありますよね、そこを押すとオプションが出て来こないですか、共同ホストにするように。 佐藤:あこれか、これだなホストと ありました、押しました、勉強になるなー。 石川:いきなり俺がホストになったな、まあいいや。ふふふふ。 佐藤:初心者だから許して。 石川:はい、これが琵琶湖で京都でこれが大阪で奈良ですよね。ここらへんが宇治なんですよ。 これが宇治川ですよ。この辺が俺の家です。これは自衛隊だ。ついこの間、実家を売って引き払ったので、解体している、様子がでています。ふふふ。ここが俺の部屋でした。これが木津川でこれが宇治川ですね、この辺りが平等院。こんなところでした。 |
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佐藤:中学生になってクラブ活動はしてましたか。 石川:中学はブラスバンド部に入っていました。 佐藤:何を担当していたんですか。 石川:チューバです、一番デカイ楽器です。 佐藤:どうして。重たそうな楽器ですが。 石川:なんでか、俺は陸上部に入るつもりだったんですよ。長距離が得意だったので。だけど、何か魔がさしてブラスバンド部を見学に行ったんですよ。そしたら凄い面白そうだったのでうっかり「ブラスバンドに入ります」と言ってしまって。入っちゃったんですよね。最初パートを選ばされるんですよ、何の楽器をやりたいかと。ピアノはちょっと習ってましたけど、吹奏楽なんてやったことなかったので、スコアーを見せてもらったら、チューバが、譜面が一番、簡単だったんですね。単純で、バスだから。 佐藤:あんなにデカイのは入部、早々吹けないですよね。 石川:いきなりは吹かしてもらえないんだけど「バスがいい」と言って。そしたらあんなに大きな楽器だとは思わなかったですよ。でも楽しかったですよ。ブラスバンドは大変だったけど、楽しかったですよ。三年のときは部長だったですよ。 佐藤:バスの重量は10kgぐらいあるんですかね。 石川:そんなにはないですよ、中、空中なんでそんなには重くはないです、見た目よりは重くないですね。 佐藤:外で演奏すると風の影響うけそうですね。 石川:そんなにないです、空気が震えているだけですから、風圧はそんなにないです。まだ吹けますよ!俺。 佐藤:部長にもなってしまったと。 |
絵:ネットより |
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石川:中三まで宇治にいて、高校の時に山形に行ったんですよ。 佐藤:どうして?山形の高校に行ったんですか。 石川:山形にキリスト教独立学園という、修道院みたいな高校が在るんですよ。一学年26人という。 佐藤:全部で100人居ないんですね。 石川:70数名しか居ない。 佐藤:現在もある高校ですか。 石川:在ります。息子も行きました。 佐藤:前にフェースブックかで見ましたが、小国の方でしたよね。 石川:そうです、そうです。 佐藤:山形、新潟、福島の飯豊山の北側ですよね。 石川:そうですよね。 佐藤:やたらに山深い所ですよ。 石川:やったら山深いところですよ、ここが山形ですよね。 佐藤:イザベラ・バードさんはそこには行ってますよね 石川:さすがですよね、イザベラ・バード(註1)が通って行きました。 佐藤:通りましたか。 石川:ここが福島で小国はここですね。福島と山形の県境ですね、これ飯豊山。この辺です。 佐藤:福島市から村上市内の海に海水浴に行くとき通ります。今ごろだと山菜取りに行くんですよね小国に、蕨とりですね、好きな人たちは。 石川:ここだ、これですね。 佐藤:京都の都会からいきなり山奥小国の高校に入れられたら・・。 |
青丸福島市の我が家 冬の高校 |
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石川:これが講堂です、これが大教室で、これ男子寮ですね。これは畜舎ですね牛飼っているんですよ。こっち側に女子寮が在って。 佐藤:共学ですか。 石川:共学です、13人13人です。 佐藤:コンクリートの建物も在るし邑っぽいですね。 石川:コンクリートの建物も在りますけれど、農村です。一番近い無人駅まで7kmぐらい。 佐藤:無人駅まで7kmじゃ歩いて1時間半じゃ着かない要2時間だね。 石川:こういう所です。 佐藤:なんでまた、山奥の小さな高校へいく事になったんですか。 石川:割と有名なんですよ。キリスト教のコミュニティーでは。これを創設した鈴木 弼美(すけよし)という人が、俺がここに入学したときは、ご存命で校長をやっていたです。内村鑑三の弟子なんですよ。晩年の弟子なんですけど。「晩年に山形とかの山奥とかに行って、まだ純粋な日本の文化が残っているような所で、伝道学校を開きたいと若い頃思っていたけども、年取ってもう〜その夢も叶わないんだよね」、みたいな事を言ったのを真に受けて、「私がやります」と言って。当時、東大を出て物理の助手だったのを辞めて家族で引っ越して伝道所をつくったんです。それが始りで、戦後、新制高校になって。でも小人数の塾みたいな方針はぜんぜん曲げないで、ずーっと全寮制でやっていたんですね。 佐藤:食べ物もぜんぶ自分たちで作るんですか。 石川:全部自分たちで作ります。修学旅行がねー、19泊20日で北海道に行くんですよ。 |
絵3枚 WEBより |
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(絵:基督教独立学園高等学校 HPより ) 佐藤:19泊20日って、とても長い修学旅行ですね。 石川:牧場に4人ずつ散って、一週間実習したりとか、途中・途中で寄る所があるんですけどね、なるべくお金を節約して。修学旅行費は1年のときから積み立てるんです。駅泊とかしましたよ。みんなシラフ持っているんですよ、それで途中で駅泊とかキャンプとかしながら、北上して行って、北海道へ。俺たちは利尻島まで行きました。利尻島まで行って登山して戻ってきたです。途中で牧場に寄ったりして。 佐藤:過酷な生活に見えるけど、高校生でも泣いちゃう子供はいないんですか。 石川:合わないと大変ですよね。辞める奴も居ますよ。俺たちのクラスは幸い、全員コンプリートしまして卒業しましたよ26人。 佐藤:京都からいきなり山奥に行って暮らすって頭混乱しちゃいますよね。 石川:でもなんかねー、皆で行くような高校に行くんじゃなくて、どっかに行っちゃう感じだったですよ。 佐藤:石川さんは家畜の世話したことないでしょう。 石川:家畜は世話しませんでしたよ。俺は畑係だったんです。 佐藤:それは選べるですか。 石川:それは選べます。 佐藤:私は農家で生まれて、山羊も羊も牛も兎も鶏も豚も飼っていたから慣れていますけど、動物は臭いもきついしね。 |
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石川:高校はかなり、あれでしたね。26人なんだけど、男女半々じゃないですか。親戚というか、従妹みたいになるんですよ、卒業する時に。 佐藤:従妹、私もたくさん従妹いますので、従妹感は分ります、なるほど。 石川:なぜかコーラスがめちゃめちゃ盛んで。入学すると、音楽の時間って歌しか歌わないんです。四声部に、4パートの分かれさせられて、声によって。俺はテナーだったんですけど。ずーっと合唱してましたね。卒業するころにはレパートリーが100曲とかになるんですよ。 佐藤:今でも歌えますね。 石川:今でも歌いますよ、最後にはけっこう凄い曲歌うんですよ。パイプオルガンの伴奏で。マタイ受難曲、ヨハネ受難曲の終局曲とか歌いましたよ俺たち。 佐藤:聞いた事ないですね。 石川:26人でふふふふ。 |
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佐藤:聖書は小さいときから読んでいたということですか。 石川:小さい時から読んでましたよ、家はクリスチャン・フォームだったので。毎週教会にも行っていたし、未だに毎週・教会には礼拝に行くんですよ。子供達も。 佐藤:別の名前を持っているんですか。 石川:それはカトリックですね、カトリックは洗礼ネームがあるんですけど、家はプロテスタントなので洗礼名とかはないです。 佐藤:石川さんはテナー担当で合唱ができてしまうと。 石川:合唱できますよ。 佐藤:こんどYouTubeに上げてください。 石川:俺の単独ではないけど、家の学校の学生たちが独立学園のコーラスってちょくちょくありますよ、探すと多分。 佐藤:慶応大学SFCでも見たり聞いたり話したり、プラス、歌うというのも加えたらどうですか。 石川:慶応は別にそういうのありますからね。 佐藤:ギターを抱えて歌う絵があったので、石川さんは歌も、うたうのかなーとは思ってました。石川さんから送られて来たランドウォークブックの中にあったかな。 石川:それはおれじゃないです、俺ギター弾けないし。 佐藤:ギータを弾く人の隣でマイクもっていた絵がありました。 石川:それ覚えてないや。 |
landwalk book 2 (63頁より 歌っているか?) |
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佐藤:高校は山形県の山奥の小国に行って。 石川:高校は受験勉強をさせない高校なので、受験勉強しないですよ。それで大学は指定校推薦みたいな、推薦で取ってくれるところに行くか。浪人して自分で1年掛けて受験するという、そんな感じでした。俺の頃は。 佐藤:石川さんは受験勉強は一切せず 無縁で。 石川:しなかったです。 佐藤:素晴らしい。 石川:一切しなかったですね俺は。 佐藤:いいねーふふふふ。 石川:ふふふふ。 佐藤:今時珍しいですね。 石川:それで、農業に興味があったんでけど。農村でね、超田舎で。冬に4mぐらい雪積んですよ。冬は忙しいんですけど。農繁期になると、学校が休みになって、村へ生徒が2、3人ずつ手伝いに行くんですよ。 佐藤:稲刈りだけですか。 |
絵:WEBより 2.5mぐらいの積雪 |
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(絵:基督教独立学園高等学校 HPより ) |
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石川:稲刈りもありますし、田植えもあります。そんなのもあって、学校もこういう感じなので、農業にちょっと興味があって。「農業を勉強したいな」と思って祖父に相談したんです。俺の母方の祖父は俺が入る前に退官したんですね。造園学科の教授だったので「造園にしたら」みたいなこと言われて。「造園学科として入っても、もし、ほんとに農業に関心がそのまま持ち続けているんだったら、後で転科とかすればいいかなー」と思って。それで造園受けたんですよ。学校が推薦してくれたんで、推薦枠で受験したですよ。 佐藤:すんなり受かってしまいましたか。 石川:すんなり受かりました。高校の成績は割と良かったので書類はたぶん問題なくて、12月に農大のキャンパスに入試に行きました。小論文と、あとはデッサンというか、硝子のコップに椿、ささっていて「これをスケッチしなさい」みたいな、それが入試で。デッサンはよく描けました。面接では祖父の話が出たりしました。 共に笑う 佐藤:そりゃ試験官もたいへんだよね、今スケッチの話がでましたけれど。石川さんが大学に行かれてスケッチブックを私もらったですけど。今までの話だと絵を描くという話が出ませんでしたけれど、どこで描いていたんですか。 石川:えーとね、それは高校の時、絵はなぜか、なんとなく好きだったですけど。自己流ですね。ちゃんと習ったことなかったんです。高校の時に絵が好きな連中と一緒に、長く休部状態だった美術部を再興して、風景画とか描いていた。 佐藤:水彩ですか。 石川:水彩ですね。美術部、たのしかったですね。スキー部と美術部でした。 佐藤:小国にスキー場ないですけど。 石川:スキーしかやることないですよ、冬4mも雪降ると。 佐藤:新雪滑るの難しいけど、野っぱらで滑ればいいか〜。 石川:まずスキー履いて、裏山の斜面をスキーで踏みながら登って行って、ゲレンデを作んですよね。 佐藤:なるほど、なるほど。 石川:歩いて上って滑るみたいなのをワイルドなスキーなんだけど、やってたんです。 佐藤:体、鍛えてますねー。 石川:高校の時は体めちゃめちゃ鍛えましたねー。それで、そんなのもあって、造園だとデザインもあるみたいな。そんなこともちょっと考えて、造園に行ったんですよね。 絵:『思想としてのランドスケープ』247頁より石川さんのスケッチ |
石川初さんのスケッチ2004年講演より |
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佐藤:今でも推薦枠で入れるんですか。 石川:知らないです、もう、超昔ですよ。30年以上前の話ですから随分変わっていると思いまけどね。でも当時から、それなりに腕に覚えのある奴も来ているじゃないですか、来ているんですよ、造園だとね。大学に入ったら誰も「石川君、絵上手」とか言ってくれなくなりましたけどね。 佐藤:思っても言わないですよね 石川:農大って、農家の子弟を育てる、農家の後継ぎに農業教育をするっていう事が農大のミッションである、という伝統があって。今もそうかどうか知らなんですけど、俺の時は願書に実家の農地の面積を書く欄がありましたよ。 佐藤:石川さんの家、農地無い。 石川:無いですよ。だから、自分の願書には、その欄は空白、0反部と書いて。ふふふふふ。何町歩とか書いてある、ゼロゼロゼロ。 佐藤:私の建築発注者で農大出た人が居ます。田圃がやたら広い何ヘクタールもある。 石川:なので入ると、半分ぐらいは造園屋の跡取りなんですよね。俺のときは、今はもっと少ないと思います。 佐藤:じゃー、すでにプロみたいなの入って来ちゃうんだ。 石川:そう、だから、家の仕事やっていた連中ですよ。 佐藤:建築仕事より造園仕事は小さいときから関われ、家の手伝いできそうだし。 石川:そうですね。 佐藤:造園屋やったら中学生ぐらいから既に仕事できちゃうだろうから、入学時には一人前の庭職人に成っっちゃいますよね。 石川:俺みたいな、実家も造園と関係ないけど絵が描けるみたいな学生は、製図やデザインでは活躍するんですけど、実習とかね、木の名前を覚えるとか。 佐藤:奴らは、造園のイロハ既に知っているだろうしね。 石川:そういの全然歯が立たない。 佐藤:そういうバランスいいねー。 石川:これも当時カリキュラムがあったんですけど。今はあるかどうか分らないんですが、作庭実習というのがあったんですね。それを1年掛けてやるんですよ。前期、後期合わせて。で、4年生のときに5人ぐらいのチームが出来るんですよ。そこに施工系の連中と設計系の連中混ぜてチーム作らされるんですよ。 佐藤:先生、組みあわせ上手だね。 石川:それで俺のチームも、俺を含めて何人か実装力はないんだけど、絵が描けるような奴と、あとは現場経験者みたいな連中とが混ざってて。 佐藤:ずいぶん好い組み合わせですね。 03へつづく |
東京農大 造園科実習 WEBより |
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(註1)イザベラ・バード 『完訳 日本奥地紀行2 新潟ー山形ー秋田ー青森』より 1878年(明治11年)5月横浜に上陸し 12月横浜から離日したイザベラ・ルーシー・バードさんの旅行記 第22報 苦痛の種 牛に乗ってより (小国周辺の記述 7月12日)一部抜粋 女将が言うには、沼では異人さんを見るのがこれが初めてということで、どしゃぶりの雨がまだ降っていたのに住民は早朝からざわざわしていた。私がしゃべるのを聞きたいということだったので、皆がいる前で伊藤(鶴吉・日本人通訳)に指示をあたえた。昨日(7月11日)は本当に大変な一日だった。ほとんど一日中二重、鷹ノ巣、榎という峠をつまづきながら上ったりすべるように下ったりした。どの峠も森に覆われた山中にあり、そこを木立にすっぽりと包まれた峡谷が深く刻み、雪をかぶった会津の峰々の一つが時折姿を現し、一面の緑の世界の単調さを破った。馬の草鞋(沓)は一度結んでも数分ももたずに解けてしまい、1時間かけてたった1マイル(1.6km)しか進めなかった!そして今日はとうとう、玉川という小さな村「集落」にある「代わりの馬を得ることができる」見込みの到底なさそうな所で、「馬から」降ろされた。案の定、ここで聞かされた、話は、ある米商人が三日間待って近郷の馬をすべて手に入れてしまいまして、ということだった。そのために2時間交渉してようやく荷物運びの人夫「背負子」をひとり確保し、荷物お一部は農耕馬に載せた。私は鞍つきの馬のかわりに、ままる肥った愛らしい小さな牡牛があてがわれた。この牛は私を乗せて、雄大な大里峠を無事越え、回りに水田が広がる小国町へと下っていった。雨が降りしきっていたが、ありがたいことに雨宿りでき、数人の人夫とともに焚火にあたって、荷物を運ぶ牛がもう一頭用意されるのを待った。その後は、水田が続く中を歩いて進み、次いで再び低い山に入り黒沢にいたった。ここに滞在する心算(こころづもり)にしていたところだった。しかし宿はなく、旅人を泊める農家もマラリアにかかりそうな池の端にある上に、薄暗く、目がちかちかする煙が充満し、しかも、おそろしく汚い上に、動き回る異様な生きもの「蚕」がうようよいたので、疲れ切っていたものの先に進まざるを得なかった。だが外はどんどん暗くなっていったし、内国通運会社継立所もなかったし、初めてのことだったが「牛のひく」住民「牛方」がわずかながら料金を吊り上げてきたので、伊藤は思案に暮れた。農民は暗くなってから外に出るのをいやがった。幽霊が出るかもしれいし、どんな化物が出るかもしれないと怖がるのである。晩遅くになってから無理やり出かけされるのは大変だった。 休めるほどの清潔な家が一軒もなかったので私は石の上に腰を下ろし、一時間以上の間、この地の人々いついて思いを巡らしていた。しらくも、<疥癬>いかかった子供や目のだたれた子供が大勢いた。女性は全員が背中に赤ん坊を背負っていたし、子供も赤ん坊を背負える年齢の子は全員がたどたどしい足取りで同じようにしていた。木綿のもんぺの他に何か着ている女性は誰一人いなかった。・・・・ 以上抜粋 図『イザベラ・バードを歩く』より |
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