種田元春 『立原道造の夢みた建築』 感想 あるいは誤読
 01はじめに  02「序 一枚のスケッチから」  
03 第一章 「出会った建築、焼き付けた風景」について感想のようなもの    2021年02月〜 作成 佐藤敏宏
(1)立原道造の暮らしぶりを想うために   (2)結核について    (3)立原道造を包んだ公共圏ふたつ
■(2)結核について

結核って

世界 三大感染症

 立原道造が生きた世にあっても、市井の人々を悩ませただろう重たいはやり病は「結核」かもしれない。立原は4歳から6歳までの3年間に通称スペイン風邪(インフルエンザ)の世界的感染の災禍のなかにも生きていた。さらに関東大震災、世界経済恐慌の中でも暮らした。当時の世相は今日のそれに似ている。

 エイズ(後天性免疫不全症候群)、湾岸戦争からイラク戦争へ。21世紀早々、9・11テロが起き、日本のバブル経済崩壊のあと追うごときに、2008年には大恐慌・りーマンショックで熟年男性が自死した。2011年はこの国が天地動乱のただなかにあることを人々に知らせた、東日本大震災と放射能人災の複合災害が東日本各地を覆った。その10年後、昨年は新コロナ感染による世界パンデミックの出現など。たび重なる、そして続く災禍の中を生きる私たちの暮らしぶりに、立原の生きた世界は似ている。いつの世の人・人も日々、生活環境の変化によって多種・多様なストレスを抱え暮らすのが常である。闘うばかりでは脳がなく、くたびれ果てるだろう。

 立原道造の暮らしにも多様な困難が待ち受けていたはずだが、当時の記録を読み込んでいないのでわからない。しかし結核菌による感染症の広がりが最もおおきな影を落としていたと思われる。そこで、この感想03(2)では「立原道造を囲んでいたと思われる「結核」に焦点を絞り、結核の歴史なども復習しておきたい。そのことで結核が与えた立原のストレスを追体験してみたい。


 現在、世界の三大感染症は結核マラリアエイズだ。エイズは私が独立系建築士として働きだした1980年以降、治療法が開発するまで、不治の病として恐れられた。公共放送の人間大学は1993年に畑中正一・京都大学ウィルス研究所長による『ウイルスとの闘いーがん・エイズは克服できるのか(平成5年4月1日発行)の講義を放映した。それほど差し迫っている感染症と受け止めた人が多くいたのだ。私もテキストを購入しエイズ・ウイルスなどについて、ニワカ勉強に挑んだほどだった。
 エイズは私たちに不可欠な生殖行為によって感染拡大する。この病の出現は、多くの人に生殖の意味を問い、強い不安とストレスを与えた。そのなかで異性・パートナーをもエイズ感染の源と見るような、倒錯した視線を当時の人々は持ち、そのことを口にした。それらは「人にとって世界が拡張するほどに困難な病も多数出現させる、そしてその中を生きけなければいけない」と教えていた。


■ 結核について復習

 ここでは福島県立図書館所蔵の青木正和著『結核の歴史』を参照に、結核の主要な点を書きだしつつ、日本人の結核に対する心境や暮らし方などもふりかえってみたい。

 日本の結核死亡率の推移と題したグラフに赤●で、立原道造が生まれた1914年と、亡くなった1939年を示した。下図の通りだ。立原道造は結核蔓延拡大期に生まれ、安定期、戦時高度蔓延期に生きていたことになる。だが立原道造にはその事を知るすべはなかった。(注:死亡率、東京は10万人に対して 337.5人で最も高い地域だった)

 この本には、「現在、結核は途上国の問題と考えるのも正しい(13頁)」とある。私は1951年生まれで青●をグラフに入れ読み進むと、1953年当時30人に一人が結核を発病し、10万人あたりの死亡率は80人ほどであったことが分る。
 感染者の78.4%の人が「自分が結核である」ことに気付いていなかった。1953年の調査でわかったという。

 結核感染に無自覚で暮らし感染を拡大させる。その状況を打開するため「結核予防法を再び改正し、全国民に年一回の検査を義務とし、防御強化に乗り出さざるをえなくなった」そうだ。現在でも結核菌は地上からなくなることはない。だから結核は遠い昔の病ではなく今日の地上に存在している三大感染症なのだ。 



 1953年(昭和28年)、「ようやく戦後の混乱から脱し、全国の保健所もおおむね整た」という。そこで「厚生省は日本人に何人の結核患者がいいるのか明らかにするために結核専門家を動員して、サンプルをとって5万人分の胸部レントゲン検査など必要な検査をした。・・・・・この結果、全国の結核患者総数は実に292万人津々浦々の老若男女の30人に1人が結核を発病しており、その中でも78.4%は自分では病気に気付いていなかった」、そのことが明らかになった。

 無自覚で感染者数が292万人ほどと蔓延していた。が8割の患者は感染しているが自覚がない。多彩な情報にあふれる現在だったらパニックが起きるだろう、当時、大騒ぎになったとの記述はない。

 次に 調査の後5年再調査では事態は改善したのだろうか。

 「1958年第二回結核実態調査が行われ、減った結果が待たれたが、さらに増え、全国で304万人と推測。75%は結核にかかっていることを知らず、改善はまったくみられなかった (12頁)」とある。

 1958年は私が小学一年生になった年だ。当時、日本は結核患者は12万人増え304万人になっていた。幼児ながらも私は結核の話を周囲の人々から「誰、誰は肺病だ」と聞かされた。そんな思い出をもっている。結核菌は肺をおかすだけではないのだが。多くの人は「肺病」と言って忌み嫌った。

 途中の経緯はとばし、日本におけるその後の結果を見る

 「おおよそ50年後の2001年末には治療中の患者は36、288人と、1/84になった。29歳以下は1/200になった。結核は過去の病気と考えるのは当然のことだ」とある。

 2021年現在、結核を気にかけ暮らしている人はほどんどいないだろう。新コロナも結核のような経緯をだどるように思う。

 結核は1944年ストレプトマイシンが開発され、そこから一気に死なずに済む病となった。だが残念なことであるが、立原道造の人生とストレプトマイシンが重なることはなかった。立原道造の暮らしぶりを想いつつ結核の歴史についてさらにみていこう。
 
































青木正和 1953年 東大医学部卒 インターン終了後。(財団法人)結核予防会結核研究所勤務 第二研究部長 副署長などをへて。(財)結核予防会理事 2000年より会長














■毎年3万人の 35、489人患者が発生している (2019年結核死亡者2,088人 10万人に対する罹患率は11.5% 2020年人口12、71万人→1万4千人)
・2001年 結核患者が多いのは高齢者、大都会の住所不定者、フリーター、外国人、抵抗力が弱っている人。日本は、旧ソ連の国々とともに、結核罹患率では最下位グループ、結核が多い。
立原道造が亡くなった当時 医師の結核認識

 (細身やせ型 天才?医学的には腺病質、虚弱型)以下枠内は村上忠雄著『結核と闘った天才達』(白林社)全221頁、序より。序は昭和14年(1939年)12月1日(立原が亡くなったころに書かれた) 式場隆三郎による

(・・・は中略を示す)
 ・・・病弱な天才が多いところから、天才というものは一種片輪者だという見方がある。身体的にも精神的にも片輪者ほど天才の素質に富んでいるというのだが、こうした見方は、今日では科学的には認められない。天才にもそういった偏った者があるというにすぎないのであって、不具や疾病から天才が生まれるのではない。
・・・・病患とか片輪とかが必ずしも天才の原因ではないことは言うまでもない。・・・・・文学者など天才の人たちの体格を想像すると、いかにも虚弱な、無力型、俗にいえば細長型、やせ型というのが非常に多い、このような人は医学の方から言うと腺病質な、虚弱型ということになる。したがってそういう人は結核に冒されやすいのである・・・・・頭のいい人は無力型が多いが、そうかといって、結核に罹ったからといって必ずしも頭がよくなるものではない・・・・

 結核に冒されると身体的なことはあきらめねばならぬために、精神的な意気込みは一段と燃えさかることは事実である。身体は段々蝕まれる、寿命がもういくばくもない、ということを自覚した場合、病者の頭は非常に鋭敏にな、生への執着にしろ、人生との闘いにしろ、悲壮なまでに熱中的になることによって、自分の仕事が輝かしく立派に成るということは事実である。

 
しかしそのためにかえって自己の体を一層傷つけ、生命を犠牲にしてしまう結果におちいりやすい・・・・生命と仕事をとりかえっこしたということになる・・・結核に罹ったために、罹病前とその仕事の出来栄えが各段の差を示したということは明瞭に認められる。特に芸術家などにおいて、その表現が繊細になったり、感受性が鋭くなったり、身体の影響が、その人の作品に現れたり、仕事に現れたり、することは否定できない事実である・・・・・ひたむきに病気に抵抗するために天才が自らの寿命を縮める場合が多い・・・


 立原が亡くなった頃の世間では、文学的天才は虚弱で、やせ型で、細長型という風聞が流布していたのだろう。結核に冒されると精神的な意気込みは一段と燃えさかり、頭が非常に鋭敏になり生への執着などは悲壮なまでに熱中的になる。そのことによって仕事が輝かしく立派になることは事実だ、という。

 ある種の脳内ホルモンの過剰分泌によって、集中力が増し彼の仕事を立派にする、という。立派な仕事を成すために集中力が不可欠だという認識があったのだろう。いかにも戦前の日本人的な思考だと思うが。永井荷風は例外としても多くは、戦争に集中して暮しいたようだ。社会全体(臣民たち)が、ある種の狂気的集中をもって敗戦まで突き進んだ・・・のだろうか。
 マスコミの世論誘導が効いているように思う、市井の人・赤子、天皇主権国家にあっては市井の人が穏やかに暮らすために必要な冷静な知性は求められないようだ。この偏った情報の不幸をも立原道造は生きていた、そのことも確認しておきたい。

(西山卯三の記録をみてきてが大学生は兵になのをさけていたとも読める。一部の人は翼賛報道に流されず冷静だったことが分る。冷静な人がいても声がかき消される。そのことは福島第一原子力発電所の設置初頭の反対運動を振り返ってみても分かることだが・・)

 一方結核病室で闘病中の人々はこのような心境だったと当時の医師は伝える。


 若い男女が家族、社会から突然切り離されて、将来に不安をもちながらいつまで続くか分らない孤独な療養生活を送る。消灯時間になると家族を想い、健康だった時の毎日を思い出して涙ぐむ患者を何人みただろう。退院したあとの社会復帰 、再発不安をもちながら1日も早く退院できる日をねがってひたすら安静に励む毎日・・・

・・・現代(昭和13)生活における結核患者の悲劇は、予防法が徹底していないというくらいでは済まないのである。

すでに病気に罹っている人が、生活のためになお働き続けなければならないという事実こそ一層大きな問題である。精魂尽きて病気に倒れてしまってからでは既に働く能力も失い果たしたあとのこととて、どうしても治療力が充分でない。罹患した初期の治療力の高いときに治療するならば、結核などはそれほど恐るべき病気でないと考えられるのである。

・・・若い男女が家族、社会から突然切り離されて、将来に不安をもちながらいつまで続くか分らない孤独な療養生活を送る 消灯時間になると家族を想い、健康だった時の毎日を思い出して涙ぐむ患者を何人もみただろう・・・

 退院したあとの社会復帰や、再発の不安をもちながら1日も早く退院できる日をねがってひたすら安静に励む毎日 ・・・










1854 辰野金吾うまれる〜1919
  明治時代
1868 明治維新
     戊辰戦争
1877 西南戦争
1879 永井荷風うまれる〜1959
1886 谷崎潤一郎うまれる〜1965
1889 帝国憲法公布 
     徴兵義務 男子20歳3年の兵役
     室生犀星うまれる〜1962
1890 帝国憲法施行
1892 芥川龍之介うまれる〜1927
1894 日清戦争〜1895
1904 日露戦争
     堀辰雄うまれる 
1907 中原中也うまれる〜1937
1908 家人の父生まれる
1909 家人の母うまれる
(浅草で暮らし関東大震災と東京大空襲体験一時 隅田川の船上暮し 子たちは隅田川あそび ) 
1912 大正時代
1911 西山卯三 生まれる〜1994
1912 生田勉 生まれる
1913 杉浦明平 生まれる
1914 立原道造 生まれる〜1939
     小場晴夫 生まれる〜2000
  第一次世界大戦〜1918
  大戦景気 成金誕生 日記の時代
1918 スペイン風邪感染拡大
1923 関東大震災
1925 三島由紀夫生まれる〜1970
     my父生まれる
1926 昭和時代
1929 昭和恐慌 大戦バブル崩壊
    世界恐慌 福島生糸暴落
     デフレ 農産物価格崩落
     福島内でも子女身売り
1930 昭和農業恐慌〜1931
1936 226事件帝国憲法違反の内覧 
     君側の奸 高橋是清惨殺
1937 日中戦争
939 立原道造亡くなる 3月29日
1941 日米戦争
 
1944八幡製鉄所空襲
    106回の東京大空襲 
    罹災者100万人・死者10万人
1945 敗戦 

立原道造 の体型 (東京紅団より)
17歳169p45kg
(10キロ少なし) 

「予防か経済活動優先か」そのことで船岡に登るさまをていしている2021年現在。 新コロナに感染し隔離闘病された生活者のおおくも「仕事はうしなうのか、治療もすすめねば」と多重な不安をもち闘病していることだろう。新コロナ感染が起きたことで私も結核に感染し医療術が発明されるまでの結核患者を含む周囲の人々の心境を推測し易くなった。他人事ではな。放置すれば現社会は崩壊してしまう。感染患者を含め多くの人々へ公的支援の手を差し伸べる必要を痛感している。

 結核患者の悲劇は、予防法が徹底していないというくらいでは済まない・・・という教えは、現在の政治では活かされていない。貴重な結核感染症の知見を生かすことなく、主権者に救いの手を差し伸べず自粛要請ばかり連発ししている。西欧のコロナ禍における文化の担い手に対する手厚い支援策も聞こえては来ない。「まずは自助」と公言する総理の下に展開された日本の新コロナ対応策を眺めるとサブカル文化輸出に血眼になっていた政府は手のひらを返したようだ。彼が海外へ輸出しできた文化、それを担う人々へ手を差し伸べる数が少ない。支援策がつくられたとしても「手続きが面倒でわかりにくい」とアーティストに不評である。素早く表現者やそれを支える人々への生活支援に思いが至らない。

 新コロナ禍でリモートワークに切り替える領域が多い。しかし通信量も使い放題で、自宅で働き続けることが出来る者はごく一部だろう。現場に出て人に会い作業をせざるを得ない人も多い。その環境で働らかざるを得ず、感染リスクを知りながら働く人々も知っている。また人のために人による現場にいきる労働者の心労と働き過ぎは蔓延しているようだ。
 たとえば教育現場、そして医療や介護の現場、宅配もふくむ物流の現場。公共交通の現場、サービス業の現場など、それらは感染リスクが高く、従事者はストレス・フルで生きている。
 公的な場に目を移せば、この20年間の「官から民へ」との制度改革(公務員叩きも激しかった)が災いし、人手不足が常態化している。(保険所など)公的機関も非正規公務員で賄っていたのだろう。この10年間に数度入院して体感していたが、医療現場も非正規従事者が主になっていて、やがて看護師も派遣になるだろ(もうなっているかも)医療と介護現場の分業化によってアウトソーシングが進み放題で専従者による手厚い人によるサービスの低下は明らかだった。

 そのなかで福島県では最大のクラスターが大きな病院で発生した。また3月23日、自衛隊福島駐屯地でも12人のクラスターが発生した。(自衛隊員も非正規労働者なのか)。クラスターが発生すると感染者数を数え上げるだけで、本質に投光しないのはマスコミの常だが、報道の多重過剰によって、現場の彼らにはさらにストレスが加わり働き辛さが増すばかりだ。

 私は知らぬ間に社会全体の免疫力が低下することに目が行ってたようだ。新コロナ・ストレスで、鬱病などに患ってしまった人も多いことだろうが、まだ表面化してはいない。

式場隆三郎さんの警告「 患者は予防が徹底してただけでは済まされない」という結核がおしていた教訓は、今の政治に活かされてなかった。このことを確認し次に結核の歴史などをみていくことにする。

結核ってどんな症状・病気 復習・箇条書き  ( )数字は頁を表す

 結核は古くは、エジプト、アダイマ遺跡から脊椎カリエスの女性の骨(紀元前6500〜5100年)エジプト、中東、ヨーロッパでは紀元前から結核があるていど広がっていたことはたしかだろう (59)どんな症状を起こす病気なのだろうか 


 結核 人型結核菌におって起こる伝染病

 人型結核菌によって発症する病。(牛型アフリカ型もある)重症患者は1日に205億個の結核菌を出す。咳の中のしぶきに含まれる「しぶき」は冷暖房で空気がかき回され遠いところまで飛ぶ。

・現在はDNA分析によって、菌の菌株を確定できる。結核は会話をするほどの距離で接触したときに感染する。

結核菌は肺の奥の気管支壁に繊毛がはいていないところまで到達しないと感染しない。インフルエンザや麻疹に比べると感染はずーっと起こりにくい。菌を出している人と接触しても感染しないのはこのためである

結核は全身病 肺結核が85%と多い。他人にうつす全身病である。にもうつる。胸膜炎13% 脊髄カリエス0.8% 膀胱結核にもなる。結核が大腸にうつると治りにくく下痢を起こし全身状態は急速に悪化する。肺結核から咽頭結核腸結核を併発して食べられなくなり高熱下痢が現れると1、2ケ月、数か月で死んでいくのが普通である。脊髄が結核で侵されると骨は脆弱になり圧し潰される。身体を動かせば苦痛が走るので仰臥したままとなる。

感染しても発病するのは20%ぐらい。発病しないのは共存あるいはお互い無視し20年以上もじっと生き延びている 

結核という病気は感染と発病を分けて考えなければ
ならない 

年齢 社会・経済状態によって違う。人それぞれがもっている免疫力が働いていて菌の増殖を抑えるからである。糖尿病などで免疫が衰弱すると突然結核菌が増殖し、はじめて発病することがある。高齢者の結核発病 結核菌はしぶとい菌である
・エイズと複合感染すると急速に死に至る  

薬がなかったのに自然治癒する患者も珍しくなかった 

・全身にいろいろな臓器の結核があるし、経過も緩急様々で予後も数か月で死に至るものから自然治癒するもものまでいろいろ、一つの病気と理解するのは容易なことではなかった。(17)

・全体像を正確に理解できたのは1920年代になってからのことである


 結核菌は体の各器官で生きつづけ、何らかの切っ掛けで増殖し発病に至るまで時間がかかるようだ。PCR検査の不徹底で分からないのだが、新コロナに、感染しても自覚症状もなく、発症もせず無自覚に他者にウイルスをまきちらしてしまうようだ。自然治癒する者もおおいと言われる点も似ている。重篤になり死に至る者は少ない点も似ている。しかし新コロナは重篤になってしまうと回復するまでは高度な医療を要し人手も日時も多く掛かるようだ。

日本の結核史 箇条書き

結核菌日本へ

・天然痘は紀元前202〜紀元後220年 西方から中国にもちこまれ、日本には735年に筑紫に。結核菌はポルトガル人の種子島漂着した1543年以後のこと
・梅毒は1510年に広東方面から海賊によって琉球に持ちこまれ、琉球を経て伝来 1〜2年のうちに近畿、関東に拡がったと推定されている。

結核の起源研究。1980年 岩崎龍郎(1907年〜1997年)に日本結核の歴史お報告を求めて来た、立案者は急死したためシンポジュームは開かれなかった。西岡順二郎(1909年〜1991年)研究がある

人目を引きにくい政治社会の問題となりにくいので記録が残っていない

天武天皇 についての岩崎論文。天武天皇は慢性の疾患に患していた 軽快と悪化を繰り返していた。精神の衰えなく死亡している。皇子も病弱で20歳で死亡していることなどから結核の疑いありとしている。

鈴木隆雄の研究。故人の骨を2000体以上検索した、5体の脊髄カリエスと考えられる骨を確認。3体は古墳時代のもので千葉県小見川町城山古墳から出土した。腰椎結核をみとめる。壮年男性(6世紀)宮崎県旭台地下式横穴の熟年男性の胸腰椎結核 6世紀 大田区 50歳女性 6〜7世紀 

鳥取青谷 5000体をこえる大量の人骨 弥生代後期 縄文時代には一例も発見されていない。脊髄カリエスは弥生後期そして古墳時代から。年間1000人以上の渡来人は稲作文化などの進んだ大陸文化をもたらしただろう。

 江戸時代の結核  結核が一つの病気として統一的に理解されたのは1916年 (大正5年)になってから

・元禄の頃は労咳の病を患う者。若い女性の肺結核の症状が記載されている(87)川柳にも詠まれるようになる。
白拍子(遊女)で性的に不満を解消するなどの余裕のある家庭の子女が結核になることがおおかった 原因は遺伝 感染、性的不満 あるいは過多 心労の四つと考えるのが一般的だった(90)

(参考:中国のこと)
・諸葛孔明 233年 結核であったと言われている。中国では5、6世紀にはかなり拡がっていたことはまちがいない(72)

・日本で結核死亡率がもっとも高かったのは1918年(大正7年)で10万人にたいして257.1だった(73)


日本の近代化と富国強兵が 結核を日本各地に蔓延させた

富国強兵と女工の結核
 (1868年明治維新 1873年藩籍奉還 1871年廃藩置県 1873年徴兵制公布 1873年地租改正)

・1872年10月富岡製糸場 フランスの技師を招いて開業 産業革命の第一歩 
・1880年から民間に払い下げられ始め資本主義の経済育成が強力に進められた

 明治36年までの26年間での達成率。綿糸産業 391.7倍に 米麦の指数は1.5倍 または0.9にとどまった。農村はむしろ活力を失った。この結果貧しい農村から産業革命の担い手として労働力 特に若い女性労働者が多く容易に得られることとなり、その上にたってわが国の近代化、富国強兵が推進された

民営化によって悪化した労働条件

 士族の子女を中心に決してわるくない労働条件で働かせていたが、1880年の官業払いさげ以降、働く人の労働条件は急速に悪化していった 女工哀史の始まり 賃金は安く ほとんど賃金を渡さない 女工の70%が狭い寄宿舎に収容され12時間労働のため昼夜交代で働かされ、同じ布団を使う  女工の1%は12歳未満  7.5%は14歳未満 およそ60%が20歳未満 労働に耐えられず、病気になって帰郷するものが少なくなかった。1年以内に退職するもの40%を占めるほど  

・食事も満足に与えられず  朝菜汁 香香 昼そら豆 香香 夕 焼き豆腐 香香 という献立が毎日づづいた (101)

・体重は減り 消化器病 脚気 感冒で休むもの、受診するものが絶えることがない 

 

 日本では2000年以降の官から民へという構造改革によって、さらに現在は自助、共助、公助という。その政府は東京オリンピックを強行しようと企てている。それは先にも記した。富国強兵下の官業払下げ以降の肺結核感染拡大の様子を見比べながら再確認しておくべきだろう。

 このままの状況、自助を中心にした新自由主義的の対応のままであれば、新コロナの感染は天井を打つまで拡大しつづけ、多くの生活苦をふくむ多様な犠牲者を生み出すと予想できる。そう覚悟しておくべきなのだろうか。

 2021年オリンピック強行開催と政府の愚策が新コロナを各地に拡大させた。そう歴史に記されることになろう


どこの国でも結核は産業革命とともに爆発的に広まったように 東京オリンピック優先が新コロナの感染者を撹拌させ変異種を多数発生させ続けるのだろう。
 

徴兵 女工たちが全国に広めた その点をさらにみていこう

 明治末期に把握された 女工の結核の実態 石原修(18885〜1947) 『衛生学上ヨリ見タル女工ノ現況

・婦女および14歳未満の者の夜間労働禁止など労働条件の改善要求を貴族院、衆議院の議員全員に送付した
・女工の結核問題は 家族、同僚、経営者、故郷の人々にとっても重大問題だった
・男子工員の結核

軍隊の結核 

・軍隊での集団感染  徴兵制が結核を全国に広げた(112)集団感染という概念はなかった。打診でレントゲンもない 故郷に帰っても療養する施設がないので二次患者の発生もさけられず 

都市の結核問題も決して小さくはなかった 熟練工から若い人への感染
・都市の貧困層を中心に蔓延した (113)

■1902年の都道府県別結核死亡率

 東京は10万人に対して 337.5人 最も高い 秋田 76.2人がもっとも低い 大阪 319.6 京都312.4 福井252.9 滋賀 242.8人 

・都会の貧困層の人々の生活の様相は 『日本の下層社会横山源之助著 に詳しい。同居家族は5〜6人、6帖の一部屋で生活しているのが普通だった。コレラ天然痘 赤痢などの急性伝染病の発生も続いた

結核の犠牲は小児 、1903年の結核死亡率を見ると0〜4歳の結核性髄膜炎死亡するは実に2538人にのぼっており 死亡率は10万対42.4という高い値であった。感染率8% 15歳までにおよそ70%が結核に感染し、他人への感染源となる 罹患率は10万対440人と推測される、当時の人口は4600万人だったので、全国には患者が約20万人いたことになる(115) 


03−02 結核について小さなまとめ
 医療に関してほとんどわからない。書き連ねた内容も不正確だとは思ったが、立原道造と結核いついては記しておきたいと強く思ったのでお許し願い、間違いがあればご教示ねがいたい。

 立原道造は日本いおける結核蔓延拡大期、さらに結核死亡率がもっとも高かった東京に生まれてしまった。立原の生まれた1902年の東京は10万人に対し337.5人と結核死亡率が全国一高い地域であった。

 東京は1918年(大正7年)10万人あたり257.1人の死亡率であった。立原道造は4歳であったので、結核菌を吸い込んでいて・・・と仮定しよう。彼の肺の奥の気管支壁に繊毛がはいていないところまで結核菌が到達する、それまでに20年か掛ったと仮定してみよう。24歳になった立原は「硝子の牢屋」で働くことになり、精神力と体力を衰えさせてしまい、結核感染者の85%が罹る肺結核菌が活動し、結核を発症させてしてしまった。これはあくまでも私の仮説である。

 立原道造が生まれるまで、結核菌を日本各地に蔓延させた原因・源は日本帝国の旗印であった。具体的には近代化富国強兵よる徴兵制と殖産興業だ。続く官業払下げによる民間経営者による、幼い女工たちの酷使、与える食物と栄養の貧しさ。お労働者の生活環境の酷さは女工哀史になっているほどだ。そのことは『結核の歴史』を読むことで確認することができた。
 
 2021年現在、新コロナ・パンデミック渦中にあるが、この間、日本政府対応は泥縄・場当たり的だとは周知の事実だ。過去の結核の歴史に学んでない対応だということも理解できた。なぜなら結核をコントロールするまで日本人が辿った対応策とその後の医療の多く学び生かしてないと考えざるを得ないからだ。当面の政治的目標は東京オリンピック開催だ。だがそのためにどれだけ無益な行い(女性差別などを含む)開催のための進展のまずさは、新国立競技場の設計者選択を思出すまでもなく酷い有様だ。問題が起きれは対応は稚拙さの連続だ。そのことを日々、世界に晒し続けている。

 マスク不足は中国産に依存した、国内販売はある政党の利権となっていたことも福島市で明らかにされた。自認新コロナ治療対応は海外の医療技術とワクチン開発に依存しようとしている。自国では何もできない、みっともない国であることを確認した。政府は結核を下に想っても以下の要点に注力することを怠ったようだ。

1)検査によって不徹底した感染者数の把握
2)国内のワクチン開発に対しての政策や支援
3)治療施設の拡充と分業、適切な人員配置のため政策


 2021年オリンピックが新コロナを各地に拡大させる因の一つになるだろう。そのことは市井の人々から能力と士気を奪い取る他方の要因にもなるだろう。21世紀にあるべき社会へ到達できない原因をつくりつづけ止まない。


立原道造が夢みた建築』の感想を書きながら結核について復習することで、現在の政治精神の貧しさと愚かさに思い至るとは思いもしなかった。

 立原道造が生きた社会は彼の死後もつづいた、日本各地に焼土をもたらしつつ敗戦まで突き進んでいった。貴重な人命と国力を失ってしまった。新コロナによって21世紀の日本は何を失ういつつあるのだろうか。そのことは今後も引き続き観察記録することで明らかにし、この記憶を引き継ぐことも、義務の一つだろう。

このように立原道造とは無関係の思いに至ったのだが、感想文を書き続けるということはたいへん面白いことだとも気付いた。。


 さて、『立原道造の夢見た建築』の感想文作成はままだまだ続けていくが 第一章03(1)では、「ここにいるけどここにいない」立原道造の早すぎた晩年、彼が旅に向かう心情を「結核を患っている自分の身体からの脱出」あるいは「別な身体を獲得するための現われ」と捉えてみた。病に患った身体の脱出を急ぎ過ぎるかのように東北から九州の連続した旅を強行したことで、立原道造は保養を得、健康な身体を取り戻す機会を逸してしまったと考えることもできた。結核に冒された天才は常にそのようにふるまい夭折するとも知った

 そのことは結核患者を多く診てきた医師の言葉にある「悲壮なまで自分の仕事に集中することでかえって自己の体を一層傷つけ、生命を犠牲にしてしまう結果におちいりやすい、・・・・ひたむきに病気に抵抗するために天才が自らの寿命を縮める場合が多い・・・」との言葉によってだ。

 03(3)では身体の回復を育む機会を失い夭折した立原だったが、立原道造は異なる形で永遠に生き続けることが可能になった。そ点は、名も思い出されることのない市井の民の多くとは異なる。その点に注目し「立原道造を包んだ2つの公共圏」を考えながら『立原道造の夢みた建築』の感想を続けることにする。


 (3)立原道造を包んだ公共圏ふたつへつづく 

わが国初の結核療養所の歩みのあらましも記しておきたい

・1889年(明治22年)須磨浦寮病院 鶴崎平三郎によって接立された 127 1万坪の敷地に病床46  入院費平均月80円 非常に裕福な子女だけが入院できて 看護婦の給料3〜6円 
・1892年 明治25年には鎌倉病院も開設された

■早速とりよせられたツベルクリン 1891年3月わずか2グラム。 回復する患者もあったが副作用もかなり強かった 官立府立病院に限って使用許可 成績の報告をもとめた  

1902年秋田(明治35年)北里柴三郎  もっとも苦心して闘わなければならなのは肺結核、レプラ、梅毒の みっつ。北里はコッホのもとで研究し 破傷風菌の培養に成功 ジフテリアの抗毒療法を開発 (135)

1938年 昭和13年 結核死亡率は年間 15万人をこえますます厳しくなる 
        厚生省 保険所、療養所などが整ってきた 
・ 1939年(昭和14年 皇后陛下から結核予防と治療の施設資金」として50万円
(2003年で2億2500万円)が下賜(かし)され、いっそう結核予防に努力するように令旨(れいし)がくだされ 財団法人結核予防去会を設立
・結核予防対策の調査研究 ・適正な予防の基準案提出 ・啓蒙と普及・ 結核予防の模範区域の設・定
昭和14年小児結核保養所の設置
     同年 結核予防生活指導要綱の発表
・昭和15年国民体力管理制度の発足 
(15歳以下の男子に毎年体力検査 とツベルクリン検査およびx戦検査も
昭和17年結核対策要綱の閣議決定 

・昭和18年 死亡者数は増加をつづけ 奨健寮の建設  

・昭和19年(1944) 全国保健所の運用開始 
   公立健康相談所 簡易保険健康相談所 小児結核予防所が統合
1953年(昭和28年)日本人に何人の結核患者がいいるのか明らかにするために結核専門家を動員して、サンプルをとって5万人分の胸部レントゲン検査など必要な検査をした。・・・この結果、全国の結核
患者総数は実に292万人津々浦々の老若男女の30人に1人が結核を発病しており、その中でも78.4%は自分では病気に気付いていなかったことが明らかになった。

 二回目の調査
 「1958年第二回結核実態調査が行われ、減った結果が待たれたが、さらに増え全国で
304万人と推測。75%は結核にかかっていることを知らず、改善はまったくみられなかった (12頁)」


BCG接種の有効確認

 1925年 大正14年 志賀潔がフランスからBCGを持ち帰って動物実験が行われた。BCGは動物に進行性病変をつくらず 人にも安全で結核ワクチンのなかでは最も優れたものであるが 結核免疫は本来絶対的なものではなく、結核細菌による免疫より弱いので、BCGの効果には限界がある

・本格研究は昭和13年から 1938年 全国から34名の委員に委任して研究が行われた

・1942年(昭和17年10月から国民学校終了後 就職する者を対象にしてBCG接種が始められた 以後次第に接種対象が広げられた。


2021年 現在 は生後6か月に至るまでに接種することになっている
(3)立原道造を包んだ公共圏ふたつへつづく