種田元春 『立原道造の夢みた建築』 感想 あるいは誤読 
 01はじめに  02「序 一枚のスケッチから」 
03 第一章 「出会った建築、焼き付けた風景」について感想のようなもの    2021年02月〜 作成 佐藤敏宏
(1)立原道造の暮らしぶりを想うために   (2)結核について    (3)立原道造を包んだ公共圏ふたつ

■(1)立原道造の暮らしぶりを想うために
 
 ・・・書けないかも・・

  はじめに 

 第一章には立原道造の24年間の短い人生における多彩な人間関係や豊かな暮らしぶりなどが簡潔にまとめられている。その中でとくに気になったのは、立原の感情は常に「ここに居るけど、ここに居ない」その矛盾だ。何かへ向かいせき立てられ続ける感情は精神の病から起きるものなのだろうか。才能が評価された「詩作」に集中せず、世俗の欲望にまみれ切ることで成る建築に移行する。その姿は理解しがたい。さらに恋人との時間をすこしでも長く生きようとせず、東へ西へ旅しつづけ、体力を消耗させる。離れていることで恋の手紙を書きまくる(SNS・中毒みたいなものかも)。自分の心休まる位置を定めようとせず、彷徨いつづける彼の一貫した感情は不思議な人の領域の一つなのかもしれない。「リアルを見つめ続けることでアンリアルと共に豊な領域が広がり続ける」と思い込んでいる私。だから彼が身に付けていた「現実の幸いから離れ当てなく漂い移動し続ける」その姿勢に興味が向かってしまう。
 立原の恋心も「男女7歳にして席を同じくしない」という世にあって、戦前の凡庸な男の恋心を想い描いていては理解できそうもない。かといって現代的かというとデートの目的地が墓地だったりするので、快楽をもとめ幸いをインスタグラムで撒いて多くの承認を得ようとする姿でもない。

 この章を理解する手がかりがないのだ。さて困った、どうしよう。家人の両親は戦前の浅草で暮らしていた。立原道造より7歳ほど年長で東京大空襲に遭い家は焼失した。その時、家人は空襲を逃げ回る母親の胎内にいた。家人の母はB29による空襲に遭い猛火に追われ続けた。大空襲では隅田川に行かず、上野の山に逃げのびたことで命を守ることができたそうだ。

 数年前までの家人の常軌を逸した言動と狂気の源は、東京大空襲によって作られた、あの生き地獄の戦渦を逃げ延びる時に子宮内にい続けることでて浴びせられた、特別な胎内恐怖ホルモンの仕業だ(大空襲も研究してもいる長男はそう言う)。
 家人は胎内で特異な体験をしたことで生まれ持った「極度な不安性だな〜」とは私はほとんど自覚しせず暮らしていた。だが東日本大震災が起き直後から福島に沈着した放射能に怯えすぎ、以前から悪化していた精神に追い打ちを掛け、精神疾患の症状は激しさを増すばかりだった。そんな家人の症状に対し、私の手には負えず家人の手足をガムテープでくくり強制入院させた。2021年現在正常な暮らしのできる人に戻った。災害時の恐怖は胎教を通じて子供に移植・継承されるのだという実例を体験していた。

 空襲前に家人の両親や兄弟が暮らしていた家屋敷には、他人が小屋を建てて暮らしていて追い出すことが出来ず、仕方なく一時は墨田川の船上に暮らしたという。その様子、船上のスナップ写真が残っている。

 家人の家族と付き合うことで分った事は、父に聞かされていた「関東は怖いところというのは真っ赤な嘘だ」ということだ。福島県人の多くは「え」と「い」をうまく発音し使いこなせない。東京の下町で暮らした家人の家族は「ひ」と「し」発音の区別が下手だ。極めて優しく、若い娘婿にも転ばぬ先の杖を差し出すような配慮が隅々に行き渡る、そんな気配りのできる人たちだ。

 私の父は昭和恐慌と東北の凶作時に、困窮した近所の友達が関東地方に売り飛ばされ、佃人(耕す下男)となり、飯はジャガイモばかり食わされた様子を聞いていたから関東地方に偏見が植え付けられたのだと知った。

 東京の下町育ち家人の家族は何がといえば顔を見合わせ微笑む。あいさつ代わりに微笑む家人と家族たち。イザベラ・バードが横浜港におり立ったとき、背丈が150pほどの小柄な男たちは、ぴょんぴょんよく働きながら、お互いに声を掛け合い大声で笑い合う。イザベラが不思議がる、あの「謎のほほえみ」を蓄え働く人々の様子を記録している。今日では失ってしまったかのような、あの微笑み。明治初頭から関東にあった「下町・アルカイック・スマイル」は家人の家族の間にも引き継がれていた。偶然、東京下町でそだった女性と結婚したことで、私は福島に暮らしながら東京・下町の日々の暮らし方・文化や人情・気質を今日でも肌で感じている。

 『立原道造の夢みた建築』を読んでいて、あの下町のアルカイック・スマイルの風を感じることができない。それはなぜだろうか。そのあたりを手掛かりに立原道造の暮らしぶりを探っていくことにする。





 2016年  鹿島出版会刊行










 とっても違う! 戦前と戦後の世間 

 世間の空気に少しでも近づくのがよさそうだ。県立図書館にある立原道造の生まれた大正3年7月30日、および昭和14年3月29日亡くなった日の東京朝日新聞をコピーし眺めてみた。現在の新聞紙面とは大いに異なるのでそれらの紙面の一部を右欄に貼っておく。

 大正3年7月30日の新聞。全8面。一面は雑誌の広告。『実業之日本』、『婦人之友』『中央公論』などで雑誌の広告埋め尽くされている。購読料と広告費で賄っている新聞といえ現在のトップページとは違いすぎる。それだけ当時の世間は雑誌、言論に飢えていた証かもしれない。二面〜五面までは戦況報告記事が主だ。六面に新聞小説あらわれる。「大逆事件の批判文を載せよ」との石川啄木の進言を夏目漱石が検閲に掛からぬよう、伏せ書いたと言われる「心」98回「先生の遺書」編が目に付く。その他も戦争に関する記事が多い。雑誌広告のほか美顔石鹸がめにつく。ほか意味不明な広告もある。紙面は文字勝ちで絵はすくない。

 昭和14年3月29日の新聞。全12面。各紙面にわたり写真が掲載されている。「南昌戦略感激の万歳」など戦争に関する記事で埋め尽くされる。戦争記事は客観的姿勢を保った記事というよりは感情に訴える情緒的で戦争を煽る系ばかりにみえる。戦況を検証し批判しないで垂れ流す姿勢は、2011年に起きた放射能災害や、2020年に起きた新コロナ禍下の現在も同じである。
 新聞小説は吉川英治の「宮本武蔵」384回、林芙美子「波濤」96回と新聞で小説を読む社会だったことが分る。世間ネタでも谷崎潤一郎の一人娘・鮎子さんと佐藤春夫の養子佐藤龍二さんの婚約との記事が目立つ。
 映画広告もあり日米開戦前なので洋画の特別試写会『我が家楽園』・Yuo Can Not TakeWiht Yoyl 入場料1円均一。広告では山葉ピアノの御入学御進学の祝いに、月賦の便法ありなど、当時の世相や経済状況そして市民の主な欲望が広告にも紙面全体にも顕れている。広告では「日の丸音頭」「上海ブルース」や「花散る肯定」「兵隊さんありがとう」のレコード広告も目立つ。


戦前・戦後の世間を架橋する 『暮らし方の記』

 私は2021年の今日、福島市に生きている。37歳年上の『立原道造の夢みた建築』に関する感想を書こうとしている。新聞をみると戦争が日常生活の多くを覆っていたことは確認できた。憲法の質が違うので現在のような戦争批判姿勢で理解しても誤ってしまう。

 帝国憲法は天皇一人の主権国家。明治天皇が一人でこつこつ法文を作成したわけではなく、伊藤博文や枢密院の議員たちが書き上げた。明治憲法は「天皇、あんたが主権者だ」と命じた。成立まで22年間を要しているので明治天皇もその間成長しつつ、その機運に乗って帝国化を演じたのかもしれない。憲法をつくった彼らは天皇より上位に居て天皇へ指示した人々の存在は面白い。美濃部達吉による天皇機関説などを含め、その帝国憲法の産み出た本質の構造はほとんど知らない。

 現在の日本国憲法の主権者は国民一人一人。だれでも知っているから、今更感はある。が法文を印刷した本を本棚に一冊持っている家族は少ない。三権の長の氏名を言える人は居ない。時々の総理の悪口を言い続け庶民の興味を煽り本質に迫ろうとしないマスコミは商売熱心だ。主権者が選んだ総理と議長たちだからと、マスコミと歩調を合わせるような正義中毒気分に浸る者は主権者としての権利放棄と同じで、無責任者であることは明らかだ。その無自覚ぶりは笑えるものであるが、自分たちが選んだ議員たちの無能によって、若者が酷い暮らしぶりに置かれたままの社会になっているとは思わない。主権と言論の自由が憲法で保障されているとはいえ主権者は社会づくりに参加せず、選んだ議員の悪口を見聞きして怠慢極めているだけか。 

 今、大半の老若男女は日々IT機器を持ち歩き、情報を瞬時に交換し合い便利に暮す。100年ほど前、15年戦争以前の情報交換は紙媒体と風聞のみだろうから、情報環境に関する立原道造の暮らしぶりは分らない。そのことは当然としても、過去の若者の姿を想像することも、おもったよりも難しい。

 さらに日常に溶け込んでいる電化製品・白物家電の有無も、生活物資も異なるので、立原道造のその日その日の、暮らしぶりを想うことは難しい。

 「手がかりが何もないのか。ここまで来ても「第一章の感想文は書けない」と思い込んで・・・中断気味だった。ある日、我が家の本棚から西山卯三著『住み方の記』(初版1965年)がポロリ、目の前に落ちた。余震効果。彼の年表を見ると、西山卯三は立原道造より3才年上であった。大阪の(淀川河口)下町の西九条で育った建築学者であり、東の丹下健三、西の西山卯三と称される建築界の著名人だ。いいタイミングで目の前に現れてくれたものだ。

  西山著『住み方の記』には西山の幼少の頃から徴兵制下の学生時代、徴兵と入営の暮らしぶり、そして1965年高度成長期に至るまでの西山自身と家族の暮らしが、住んできた家の詳細な平面図解とともに、そこで営まれた暮らしの気付きなどの文字記録も克明に描いてある。

 だから立原道造の生きた当時のことを想像するのには全く都合のよい本であると思った。本の頁をめくると西山の「生涯体験した家全てを記録する」と決意したのだろうが、一貫した姿勢は揺るがない。その詳細な記録は類をみないし、質で圧倒されて読み込んでしまう。
 その本に描かれている西山自身が暮らした家(建築)は、その時々には何の変哲もない日常の記録なのだけれど、時を経るほどに何でもない記録は威力を増して現われ続け止まらない。西山が生活の全体を暮らしぶりと共に詳細にセルプジャーナルし続けた(・・・後書きかもしれないが・・・)姿勢は見習うべきだ。今でも建築界においても稀な姿勢だ、西山は建築界の宝の一つであることが分る。

 東京と大阪の違いはあるが立原・西山ともに大都会の下町暮らしを経ることで建築家、あるいは建築学者となっているので『住み方の記』を開くことは敗戦前の建築学徒の生活ぶりの一端をなぞり知ることになる。西山の暮した世間・社会が見えるような気がする。
 
ここで、ようやく立原の暮らしぶりが想像しやすくなった。本とは不思議なものだ。読者が未体験の世界であっても記憶回復してしまう力がある、ありがたい装置なのかもしれない。

ぐたぐた書いてようやく第一章感想の構成が浮かんで来た、



 大正3年7月30日一面


 昭和14年3月29日 一面








 20世紀末から使っているIT機器
 以前は無料記事も読めたが2020年後は購読料・広告料も減りつづけ有料記事が多くなり、新聞記事はリード文ぐらいしか読めない。動画配信は各領域でゆーちゅーばーが登場し今もっとも人気ある情報ツールの一つとなっている





 1965年 文芸春秋社発行
紙製箱の表紙絵は1942年「十帖を科学する」という題で発表した渋谷の代官山の国民住宅の様子

3web頁にしよう

 第一章の感想文は3web頁に分け順に記すことにする

 (1web頁)一番目は西山卯三の暮らしぶり『住み方の記』を読み込むことで、大日本帝国憲法下の男子、若者の暮らしぶりの一端を知った気になって、立原道造の暮らしぶりも明らかにできそうだ。だから、おおいに参考にしたい。
 書には戦前の若者の暮らしぶりが西山の身体を離れることなくリアルに記録されている。特に「寮生活」44頁には立原道造が嫌った「高校生の寮生活の実態」と、「兵営」96頁には乙種不合格となって立原が経験することがなかった「下っ端、懲役・兵士の暮らし」の一端が読み込めるような気がする。
 それらをなぞることで、立原道造の当時の姿にすこしでも近づいた気分で、彼の暮らしぶりなど逆に照らせ出せたら・・・などと想像してみたい。記録は一人一人の感情に沿うものだが、当時の事実を記録することは誰においても、不可能なことなのを承知で、知ったような気に成りたい。それは、僧が今さっき会ってきた釈迦とハグしたばかりで、釈迦の体温がまだ胸に残ってるような・・・そんな嘘をついていみたいのである。

 (2web頁)二番目に立原の暮らしと行動にかぎらす、当時の人々に多大な暗くて重い影響を与えたであろう、「不治の病」であって、明治以降の社会に長らく蔓延していた「結核」について詳しく学んで、復習しておきたい。昨年おきた新コロナ現象とコロナ禍の私の暮しに似ているかもしれないからだ。

 (3web頁))三番目に立原道造の記録・記憶が保存・継承されてきた理由などの総体ふう事態を想うために「公共圏」という概念を用いることにしたい。私なりに想う「公共圏の概念」を紹介し、立原道造の短い生が2021年の今日まで伝えられている事実の基盤に思いを馳せる糸口としてみたい。そうすることで今日の私たちが立原道造と共に生きた人々から受け継ぐべきもの、参照すべき事態・内容などを確認することで、現在・大切に思う人の記憶の保存、あるいは建築界として保存継承すべき記録と記憶について想ってみたい。

 近頃「うっせい」というJポップが1億ビューに接近していて、興味深い世間の反応がある。あれは30代のサラリーマン崩れの音楽お宅が、バブル世代を皮肉って造っている楽曲だろう。が、新自由主義に則って派遣労働者にしかなれない高校生を代表したかのような、小賢しい歌詞と絵作りに、すこし呆れてしまう。だが、見え見えの世論誘導の悪たれソングに反応する人々の顔を想って、制作者(ユーチューバー)達は「この路線!こりゃ儲かりそう〜」と顔を突き合わせ、ブラック・スマイルしている姿を想う。その姿こそ現在そのものだ。

 立原道造が生きた家父長社会では年上の者に悪たれを吐くことは許されなかっただろう。男女7歳にして席を同じくせず、見合い婚が大半だそうだ。男女は学校も別。そのようなシステムで教育された戦前の男性が、なぜ、多量な恋文を発信し続けることになったのだろうか。恋文分析にもすこし関わってみたいような気もする。どんどん枝分かれして尽きないので、止め時がむずかしい。

 人間立原道造も、建築家立原道造も「未完の建築家、あるいは未完人」であるがゆえに興味は尽きない。




 西山卯三似顔絵
 
 1927年・高校生の寮暮らし 懲役による入営後の暮らしぶり 
■17歳、立原道造が1年半ほどで耐えられなくなった(21頁)一高全寮制の寮生活はどんな様子だったのだろうか。一高の資料は無いので西山卯三著『住まい方の記』によって高校生の寮生活と兵営での暮らしのおもな点を書き出してみよう。(図はすべて『住まい方の記』より)

西山卯三16歳

 1927年西山卯三16才、第三高等学校に入学。(男子のみの高校とは断りは、あたりまえすぎて記載されていない)全寮制ではないにもかかわらず西山が寮に入った理由。「経済的であるし、本当の高等学校の生活を味わえるだろう」そう思い西山は「寮に入る」ことを主張とある。 

 自由寮 平面図

 戦前は男・女7歳にして席を同じくせずなので、当然のこととして男だけの寮。そこは、いったいどんな様子なのか。汚さそうだし四方八方から出入りできそうだし、監視が効きそうもない平面。コソ泥も入り易そうだ。何が起こっても仕方がない平面図にみえる。

 第三高等学校の寮全体の平面は右の絵のようなもの。

 木造2階建てで痛みがはげしかった。西山が退寮のちの1934年、室戸台風に遭い傾き二階は取り払われて平屋にされたそうだ。

(右絵:寮の1階平面図)

 1階の番号がふってある部屋は8人用の部屋。9坪ほどの自習室。2階の生活する部屋と対で使っている。

 1階・自習室の半分ほどの浴室が見える。200人の寮生に対応できるのだろうか。狭そうだ。寮生は風呂に入らず汚い者が多いのかもしれない。
 
 南・中・北の3棟をつなぐ渡り廊下は壁がない吹きっさらし。冬は京都盆地の寒風に寮生は晒されるのだな。西南の角に炊事場も食堂もあり運動場に面していて使い勝手がよさそうだ。

 2階平面は南棟の食堂部分も寮になっていて、部屋の並びは北寮と同じだという。1部屋8人で寮生が寝る、寝室専用だとある。

 『住まい方の記』は戦後刊行されたので西山の記憶をもとにしており、全体をはっきりとは復元できないと断りがある。西山の記憶違いもあるだろうが、寮・全体の平面構成は分る。


1854 辰野金吾うまれる〜1919
(明治)
1868 明治維新
     戊辰戦争
1877 西南戦争
1879 永井荷風うまれる〜1959
1886 谷崎潤一郎うまれる〜1965
1889 帝国憲法公布 
     徴兵義務 男子20歳3年の兵役
     室生犀星うまれる〜1962
1890 帝国憲法施行
1892 芥川龍之介うまれる〜1927
1894 日清戦争〜1895
1901年 昭和天皇うまれる〜1989
1904 日露戦争
     堀辰雄うまれる 
1907 中原中也うまれる〜1937
1908 家人のう生まれる
1909 家人の母うまれる
(浅草で暮らし関東大震災と東京大空襲体験一時 隅田川の船上暮し 子たちは隅田川あそび ) 
     まどみちお
(石田道雄)生まれる
(大正)
1911 西山卯三 生まれる〜1994
1912 生田勉 生まれる
1913 杉浦明平 生まれる

1914 立原道造 生まれる〜1939

     小場晴夫 生まれる〜2000
  第一次世界大戦〜1918
  大戦景気 成金誕生 日記の時代

1918 スペイン風邪感染拡大
1923 関東大震災
1925 三島由紀夫生まれる〜1970
     my父生まれる

(昭和)
1927 北杜夫生まれる
1929 昭和恐慌 大戦バブル崩壊
    世界恐慌 福島生糸暴落
     デフレ 農産物価格崩落
     福島内でも子女身売り
1930 昭和農業恐慌〜1931
1936 226事件帝国憲法違反の内覧 
     君側の奸 高橋是清惨殺
1937 日中戦争
1941 日米戦争
 
1944八幡製鉄所空襲
    106回の東京大空襲 
    罹災者100万人・死者10万人
1945 敗戦


高等学校の全体配置図

 ここまで書いて・・・学校全体の配置図もあると、高校生の寮と教室の関係が分って、より一層、彼らの暮らしぶりは想像しやすそうだ。

 斜線で黒く見える位置が寮である。北側正門をへだてて対面するのは京都大学。右側にある東西の矩形が教室棟。寮と教室棟の間にある南北矩形が図書館だ。図書館は寮に接続するかのように接近配置だ。常時開館していれば学生にとってはこのうえなく便利だろう。
 寮の南北に運動場が在る。東・西にも門がある。自由に出入りできそうだ。門限がなければ、京都の町を呑み歩き深夜戻ることも可能だろう。

 配置全体を見ると学校に住み込んで勉強ができそうだ。先輩から悪い事をふくめ教示されるが、質問もでき、直伝式であふれかえり便利そうだ。それに通学時間は無に等しい。寝坊しても遅刻はしないだろうが、近すぎて先生にたたき起こされるかもしれない。授業をサボって昼寝する奴もいそうだ。

寮の内部をもう少し詳しく

 1部屋の広さは3間(5.4m)四方だという。自習室・寝室ともに18帖ほど。どちらも8人部屋なので、1人当たり2帖ていどだ。2階(寝室)の部屋の真下の1階は昼間の居間であり自習室だという。

1階 自習室

 右の西山が描いた絵は夏の自習室の様子だ。自習室の窓側下に2本のパイプが通りスチームのラジエターとなっていて暖房機器だという。窓の腰に2本のパイプが描かれている。一人一人に古ぼけた机と簡単な本立てと、椅子が当てがわれている。自習室も部屋も8人部屋。絵には6人が描かれているが、他の2人は図書館に行って勉強している時の絵だという。
 夏場は夜でも暑いので窓・硝子障子を外して右隅に立てかけてある。裸電球が吊り下げられていて、蛾など虫が寄ってきただろう。若い者は蚊や室内灯に寄ってくる虫は気にせず自習したのだろう。人間の大きさにくらべると、机は広くて大きく見える。各自本など、本棚から取り出しにくそう。

2階の寝室 (部屋)


 入口は片引き戸で、その隣に通風用硝子窓がある。むろん自習室と同様、プライバシーはない

 板張りの下足ぬぎ通路で履物をぬぐ。一段上がると畳が敷いてあり、万年床が乱雑に並んでいる。(絵は単なる例)

 寝具など一切は家から布団袋に入れ送ってきたもの。

 布団袋と書いて、急に思い出した。1970年3月、19歳で西宮のゼネコンに入社した私も一月ほどだったが、3人部屋の寮暮らしだった。寝具一組は福島市の実家から送ったもの。東北と比べ西宮市は暖かくって、分厚い福島市仕様の布団では寝汗がでるほどだった。1ヶ月のジョブ・トレ-ニングのあと恵比寿駅前にあった東京支店に配転となった。会社のビルの6階にあった6帖の2人部屋が社員寮で、そこに入る。私の夜具は福島から、西宮、そして東京渋谷の恵比寿へと、私に合わせ移動した。当然のように引っ越し貧乏に遭い、寝具はよれよれの薄汚れた、それに代わった。

 西山さんの学生寮に戻ろう。

 学生は毛布なしで、木綿布団上下一枚ずつ持参するものが多かった。布団は畳の上に積み重ねたが、時には服を着たままもぐりこむ者もいた。碁を打つときは敷布団が座布団代わりで、他人の布団を手荒に扱って汚しても平気という者も多く、そういうことに拘るよでは大成せぬという気風だったそうだ。所有の自由も、プライバシーもないようだ。清潔好きに見える立原道造さんには耐えらえない、そんな高校生だちの暮らしぶりが見える。

 8人分の万年床が並ぶ部屋

 寝室の左に示されている「棚」は上下に8組の布団用の押し入れだそうだ。が「吊り押し入れとして使っているのを見た事がない」という。朝になると敷布団の端をつかんでヒョイと折り畳むのがせいっぱい。で、一枚ずつ折ただんで片付ける奴などいない。折りたたむこともせず万年床になる。部屋は碁を打ったりするほかは寝るだけなので、万年床でもなんのさしつかえもなかったという。吊戸押し入れは寮生の荷物置き場に変わっていたのだろうか。

 万年床とゴミだらけの部屋の様子 

 寝床が敷き流してあり、タバコの吸い殻!・・・・当時は16歳でタバコを吸って酒だって呑んでいたんだね。ナンキン豆のカス、紙くずなどが踏み込みのところにもちらばっていた。オヤジ顔が多かったようで、これが高校生かと思う髭づらの男がたむろしている。「この汚らしいところで、これから先、毎日くらさねばならぬか〜」と思うと西山は少々心配になって来て、寮を志願したのを後悔したという。戸締りもなにもない部屋に、荷物を置いてもいいのか・・・と心配にもなったそうだ。










 入寮初日の手荒な歓迎儀式 ストーム あるいは人工地震 
 
 入寮した日の最初に散歩に誘われ約7キロのコースを引き回される。途中どこかによってアルコールを呑まされ、大声をあげて寮歌を歌う。

 またも思い出した。私は高校生1年から土方バイトにあけくれていた。現場で土方のオヤジと共に日本酒は呑んでいた、呑まされていた。「西山は呑んだ」とは書いていない。

 入寮初日に7キロの夜遊びというか強行歩行軍の後、一同寮に帰り寝床にはいって「これで新生活の第一日が終わったか・・・ふーっ」と息をつく間もなく、「新入生歓迎ストーム」がある

 夜半、突然、部屋に上級生が押し寄せてきて、下駄を踏み鳴らし、バケツ、金タライを叩く、寮歌を歌う・・・など、はちゃめちゃなことを行い去って行く、先輩寮生によるストーム。ストームは次々と部屋を訪問する。25室回るだけでもそうとう時間がかかる。ストームがでやって来るのは水をぶっ掛けられた時の用心だという。いろいろな型があり、一番悪質なのが「寝室ストーム」といって、酒などをひっさげて来て、枕元にへたりこみ、長々と口説きに来て寝かせない。そして酒を呑ませようとする。時にいかがわしい酒もあるので、うっかり呑めない、と語る。

 これらの手荒な寮生・歓迎行事は立原道造には耐えられそうもないな。やり自宅の二階で天体観測したりガラス戸に詩を貼ったりする生活ではない。

 さらに「モグリ寮生も2、3人住んでいたようだ。西山は「他の連中には迷惑になるが、こういう連中と寝起きをともにし、経験を豊かにするのが寮生活の一面」と書いている。豊かな感受性をもった立原とは異なり、彼らは粗い感受性の持ち主でポジティブで逞しく受け止める。そんな若者がごく普通の高校生だったのだろう。


 寮の飯 

 高校生になると、酒を呑んで、タバコも吸っていた。その事は分かった。万年床で部屋の掃除はしないとしても、「三度の飯」はどうしたのだろうか。

 食事委員が賄いを雇う。カロリーは外食に劣ってない食事だという。
 食費は1日55銭 (賄い費10銭、材料費45銭)
 外食は朝15銭、昼25銭、夜25銭 計65銭 10銭高いようだ

 朝飯: 飯、味噌、漬物汁 で、飯は好きなだけ食べられた
 昼と夜:  飯と漬物だけ

 書いていないが、この食材配分で栄養のバランスが取れていたとは思えない。・女工哀史にあるという、12時間超の強制労働時間が無いので寮生は病気に罹らなかったのか。カロリーについては書いてあるが栄養のバランスについては見当たらない。漬物と飯だけでは、タンパク質は不足してそうだ。


 便所

 吹きさらし廊下を渡り廊下の外側に設置されている。寒い冬の夜中など寝床を出て吹きさらし廊下を通り、便所までいくのがつらい。面倒だろう。そこで生まれたのが「寮雨」のようだ。寮雨は2階の寝室の窓枠に立って足す。小便小僧ならぬ小便高校生の姿のようだ。「面倒くさいと思ったら、朝おき抜けにも寮雨を降らせた」西山はあまりやったことがないとあるので、1度や2度はそうしたのだろう。
 1階の自習室の目の前を小便・寮雨が降る。被害をこうむったという話は聞かないそうだ。

 自由寮 (正式な名か、知らないそうだ)

 自由は三高の指導精神だという。内容は寮の運営は自治制。消灯時間などの校則もなく寮生を厳しく取り締まる「舎監」などいなかった、という。門限はもちろん無い。寮が学校の構内にあるというのは「学習と生活の一体化」と「一つの高校生活」というものを作り出す点で大きな意味があったのだとういう。あまりに自由過ぎて寮の存在を疑問にする読者もいるかもしれないが、西山は、この世の常識から隔絶した高校生活があったとみるなら、存在価値は否定すべきでない、と言い切っている。
 
 繰り返しになるが、自習室と寝室はいずれも全く個人的なプライバシーをもたない。だから「個性的な生活をしようとする者にとって寮は適当な住様式と言われない。それは確かだ」ともいう。でも選択肢はあった。「一人で勉強したい者は図書館の閲覧室に駆け込んだ。空間にプライバシーがなくても思念は自由に深い瞑想を楽しむことが出来た。外の野山も広かった」という。野外が個室という解釈はほとんど野生人の思考に近づいているかのようだ。共同生活をする者にとって柔軟性を豊かにするための解釈のひとつだろう。そうして西山は「共同生活を通して、重要な訓練をうけたことは確かだ」という。
 
 3年間寮生活をするものは少なく、西山も2年の寮生活だったという。

 寮生活は共同生活であるから、みなが自分勝手に生活するにはかなりの制約が加わり、そのことで必然的に生活様式がうまれる。それに耐えられないものは寮生活はできないともいう。その後、西山は下宿生活をへて京都大学の建築学科を「正課には絵画実習があることに、心ひかれ入学。兄と二人の仮住まいをした」という。


(すこし寄り道して社会にでた若者の部屋を見ておこう)

1936年 大学卒業後の社会人が借りている部屋

 右の絵は西山の友人の部屋の様子だ。大学を卒業して3年目、1936年ごろの独身男の様子だそうだ。小さくて分かりにくいが、絵の左下に小さな全体平面がある。東西に中廊下があり南面と北面に6帖ほどの個室が並んでいる。絵の部屋は2階建ての南東の一室の事例だ。

 2021年・現在のワンルームマンションなら、トイレ洗面が備わったユニットバスと小さな台所は設えてあるだろう。80年ほど前の単身者の住まいはそれらが備わっていない。食事は近所の食堂で。食後はパーラーで雑談する、若いサラリーマン独身者の住みかの例だ。内部の様子を見ると布団を敷いて、ベットではなく万年床かもしれない。洋服用クローゼットは無さそうだ。

 「夏は部屋に帰ると直ぐ裸になる。食堂にも裸で行くような、すべてがノンビリした気のおけない原始生活だった」とある。


 私、佐藤は大阪市此花区西九条に友人がいる。13年前になるが大阪の人々の聞き取り(ことば悦覧)活動してたおりに、友人の家に10日間ほど泊めてもらった。その時は思いつかなかったのだが、70年後であったが西山の故郷の空気を吸い続けたことになった。
 西九条の食い物は安くて美味くて品ぞろいが豊富な店が多かった。客は気さくであけっぴろげでステテコにランニング姿で飲み、店を梯子して歩きそうな下町の雰囲気の店が多く、庶民には暮らしやすそうだと思った。友人には「ステテコの町やな」と言ったが、その都度、笑ってもらった。
 友人の実家は西九条の駅の傍に3階建のビル持ちであった。1階が自営スナック、2階は私が与えられた私の一時住みか兼仕事場。3階が貸し事務所だった。だから大阪の河口の町、下町の朝から昼を体験した。それから夜は1階のスナックに招かれ、老人がおおかったが、大阪の下町の客たちと交流した。西九条の人々を観察していた事にもなった。

 淀川と安治川に挟まれた河口の下町なので、夕方になると川面の方々に鯔(ぼら)だそうだが、空気を吸うために飛び跳ねる、川面が生きたつ大阪の下町の美しい風景を体験した。そんな思い出がある。





兵営 (軍籍に編入されて軍務に服すること)

 1934年 一大学生の兵営にたいする思い

 男は20歳で徴兵検査を受ける義務について。西山卯三は大学を卒業するまで猶予され、卒業後、此花区役所で素っ裸で品物のように扱われたのち、甲種合格となる。
 小学校以来、体は弱いと思っていたのに、ボート部で鍛え立派にしたのがいけなかったのかと。「弱ければいかなくていい兵役に行くことに成ってしまった」と後悔の情を吐露している。さらに「15人あまりの同級生のうち現役でとられたのは私だけだ」とも付け加えている。帝国憲法によると日本人は天皇の赤子・臣民であった。天皇のためにある臣民だったけれど、本音で「天皇の兵士にはなりたくない」と多くの大学生は思っていたことを、西山の記述で知ることができる。(戦後になり一層その思いが強くなり筆してるのかもしれない)

 監獄につぐ隔絶した生活

 23歳になった西山卯三は1934年1月20日大阪城の東に在った第八歩兵連隊に入営。兵隊生活というのは「監獄」につぐ一般社会から隔絶した一つの生活が待ち構えていた。入隊のときはふんどし以外のものは下着まで官給のもので賄い、実家から持って来たものは荷造りして送り返したという。家庭生活臭を一掃する感じだ。

 監獄生活をしたことがない私は代わりに映画『パピヨン』『大脱走』、『アルカトラズからの脱出』『ショーシャンクの空に』を鑑賞して監獄を体験した気に浸れる。スティーブマックインとダスティフォフマンが好演した『パピヨン』のラストシーンや、クリント・イーストウッドの『アルカトラズからの脱出』のラストも海だった。ともに島流しふう監獄暮らしを描いている。汚い監獄と当然のように美しい海に包まれた孤島が主な舞台が描かれる。

 また建築関係者ならベンサムのパノプティコンの構造と、パノプテコンによって囚人の内部に自己監視システムを植え付ける、見えない監獄で縛るという仕組みを生産する方法は知っていることだろう。明治の監獄の平面を少し眺めたことがあるし、ジャズピアニストの山下洋介さんの爺さんが鹿児島刑務所の設計者だと山下さんから直聞きし、ネットで検索してあれこれ思ったこともある。監獄についてもその程度の知識だ。

 西山卯三のいう「監獄につぐ一般社会から隔絶した生活」というのも想像しにくい。しかし西山卯三が残したスケッチを見ると、兵営してからの部屋=内務班の人道を外したような非情・過酷な暮らしぶりは想像できてしまう。それは、長年建築の絵に携わって来た建築者に備わる力のせいだ。私も西山が描いたような内務班で数日暮らすのは苦痛だ。もしかすると1日の時間が永遠の苦痛で満たされたかのように思い悩むかもしれない。当然、立原道造なら兵営の空気を吸った瞬間に卒倒して気があちらの世界に行ってしまうことだろう。そんな事も想像できて西山スケッチと自伝的な解説の併記は心底、ひとの記憶保全には欠かせない好記録のメソットも万載なのだ。














 さて、西山の暮した内務班、薄暗い内務班と呼ばれる兵の居住室に暮らすことになった(平面やベットの様子絵有)その暮らしぶりをみてみよう。

 泥棒集団

 兵隊は兵器を使う「機械」になるように訓練されるという。例えば「生活様式も日々の生活も、動作のしかたから 兵営、備品、そのた一切が一定の規格をもち、兵はその型を習熟し、型通りに動かねばならない(規格主義)・・・」と。かなり窮屈な形式だ。初年兵が兵としての一切合切を会得しするまでの時間も要るように思うが。

 軍紀は「軍隊の命脈」 その要素は服従で上下関係の確立、敬礼の厳正さ、「軍人精神」は勅諭の暗誦力で確かめられる。という徹底した人間兵器・機械づくりの方法が確立していたようだ。「理屈よりも機械のように動く「習性」をたたきこむのが軍人教育の本旨。で形式主義・規格化・標準化をつくりだしていた (現代文明の大量生産と敗戦前の規格化はつうじ合う)」
 そのように戦後に刊行した『暮らし方の記』を介し表している。『モダン・タイム』は大量生産の哀れを表していたが、日本兵士の製造の哀れを映画化したのを見た記憶がない。

 機械になった兵であり夫としての妻に対する愛情に葛藤・苦悩する人間の、戦渦の姿が描かれた好い作品の一つとして、立原道造の弟達夫と同年の大連生まれの五味川純平(1916〜1995)の原作がある。1300万部をこえたベストセラーは、主演仲代達矢による小林正樹監督トリロジー作品『人間の条件』。DVDはもっていないけれど「観たな〜」の記憶がある。戦後のモノクロ映画で、物資の少ないなかで制作された映画だから色調や背景は殺風景なのだが、人間が機械になってしまった兵士たちでも揺れ動き、人らしさをはなれることができない兵士、一方には機械に成り切った人間たち。両者の心理が巧みで克明に描かれている。そこで戦争・戦場における悲劇と惨状の一端を知ることもできる。
(人間の条件YouTubeに3時間ものが落ちている

 西山卯三は兵営内のパワハラと暴力をこのように表している。

 「びんたは愛の手といわれるが教育というより威圧のために用いられた。暴力を恐れるようでは殺し合いの戦争ができない意味での教育効果をねらっていた。

ひどいもんだな〜

 暴力は公然とみとめられ 「気合」をいれるたびに「軍人精神という物質が少しずつ体にめり込んでいくような幻想のうえに行動が組み立てられていた。血の通わない国家権力組織の道具である軍隊では、素朴な封建的世界の親分子分の関係の情実さえなかった。「天皇のために命をささげる」ということを絶対善とシンから信じてでもいなければ、何ともいえぬ空疎な関係しかそこにはない。兵士たちは小学校以来「皇国思想」を叩きこまれてきたものの、その後の実生活の経験でどうやらそれらは馬鹿正直なお題目であり、ガメツクやらねば、してやられる社会のからくりを薄々と感じとってきている。 形式とはうらはらの要領が芽生え横行する。

 軍人精神とは何か忠節 礼儀 武勇 信義 質素・・・天皇の名によって下される命令にしたがって戦場で機械の如くうごく兵隊の精神である

 現・憲法は主権者による政治権力者をふくむ権力者への命令書だ。西山の表現によると帝国憲法は天皇主権の名のもとに、人間を機械化し教化するための暴力・虐めが、平然と日常化する口実になってたようにも思える。







『人間の条件』より仲代達矢の狂気じみた目力が威力を発揮し鑑賞者を納得させてしまう



 またこのように言う。「戦前の日本社会は家では家父長制家族制度で、 オヤジの権力が絶対。 オヤジを頂点とするタテの秩序の世界・・・君は臣にめぐみをほどこし(御恩)、臣はそれに対して尽くす(奉公)。

 御恩に対して尽くすための施設が下のような兵営(居室)であり、右に兵士の兵営での暮らしを示す透し図、それから個人に与えられる品々の管理した絵もある。プライバシーはまったくない。初年兵の西山が寝起きしていた位置はベットに星印がある位置だ。



 プライバシー確保できた空間は便所のみ

 「唯一プライバシーのあるのが便所。 消灯後のベット中は時々の巡察や不寝番がやってきる。ベットの中だけが自分の心をとりもどせる空間である。日本人の義務、兵隊生活を一年経験して「わたしはそのひどさに呆れた・・・・」と西山はいうが、私は平面図と透視図スケッチを見ただけで、一泊せずとも一瞬で非人間を生み出す、そして暮らせるこの空間の酷さと、人間を機械にしてしまう巧妙さの設計思想を理解してしまう。さらに西山はこのように付け加える。

 「兵営は400m四方の監獄で、殺し合いの戦場に望んで、機械のごとく動く人間をつくる。そのために、天皇の名で上長・古参の暴力を正当化し、上には絶対服従し、鬱憤は下に申し送り。人間は一銭五厘の消耗品とみられ、内容よりも形式・員数を尊び、起居の間にも長いものにまかれて、処世する要領を学ばせる別世界で。兵隊は1日も早く上級・古参になろうとし。人間は一日も早くここから出ることをのぞむ」・・「私は兵隊生活が隅々で設計されている、そこに建築家として非常な興味をひかれた」とも西山はいう。

 「お米が充分食べられて・・日本の戦前の貧しい地方では兵隊に行くと、とにかく食い物の心配がなく、夜も毛布にくるまってたっぷり8時間以上寝られるということで入営を、ありがたがるものがあったという。地方にあった家父長的・奴隷的な人間関係がそれらの地方の人々を苦しめたからこそではなかろうかとも加えている。

 2021年現在も貧困を社会が生み出す社会基盤つくりを、政治家が修正せず。主権者の一部である若者の多くは暮らしも精神も貧しいままで放置されている。人を機械に変えた西山の兵営体験は相似を成している。そんな気もする。現在の派遣労働者を生み出すシステムは、現代の人間機械づくりとして機能している。20年来の総理や関係官僚たち。さらに身内の民間企業とで成る、私的連合体制は自助という名の、政治や行政の私物化が目的だった。

 今日、自助とは税金を私的に存分に使えるような仕組みを整て、私的関係者で税金を思うままに使い、私腹を肥やして、一切の道義的責任は負わない。政治家は倫理を失くした内閣主権国家に見る。

 そのうえ政治システムの私物化を正すため機能するはずだった言論空間を守るためのジャーナリズムは20年前から死んでいて、主権者が不正をただすための言動の糸口を与えることが少ない。正常なマスメディアが大半を占める社会はしばらくは望めない。そんな状況を逆に照らし出し教える働きを果たす。腑におちると思える実例の一つが西山の兵営に関する記録であった。 憲法の内容によって人は機械にも人間にもなるとの教えは伝え広めること。それは大人の義務の一つなのだ。






 ベットの周りの様子。中廊下、部屋の仕切り壁に棚 は銃と軍靴棚。中央に机とベンチ。両側に窓2つ。 
 寝台はわら布団、ていどの悪い毛布6枚 敷布2枚が冬の定番



戦下の権力者の暮らしぶり ドイツの地下壕研究者

 敗戦前の高校生の暮らしや徴兵され兵営の暮らしを西山卯三の記録で見て来た。天皇主権国家の天皇はどのような部屋で暮らしていたのだろうか。それも気にかかる。昭和天皇とヒトラーにに関する2本のDVDがあるので鑑賞してみた。

昭和天皇の暮らしぶり

 敗戦前後の昭和天皇の日々の暮らしぶりを描いた作品が『太陽』。事実かどうか不明だが、昭和天皇は地下壕にある居宅で暮らしていたようだ。地下壕の居宅から地上に出て、生物を研究するため、研究所(地上)と地下壕を行き来する。敗戦後マッカーサーへの謁見(えっけん)や、海外の記者との交流の様子なども描かれている。
 作品をつくったのはアレクサンドル・ソクーロフ監督(作品『太陽2006年日本公開)。主演はイッセー尾形。御前会議の議事進行の様子も描かれている。一生物研究者としての研究ぶりも。天皇にも臣民にも欠かせない、食事や着替え、寝室内での暮らしぶりも細かく描かれている。描き方は日本人がもつような湿った演出でなく、ドライ・淡々としいている。日頃、天皇ニュース映画に慣れていた私には物足りないほどだった。そのように静かに昭和天皇の日常を追っている。直截な描きかだである。正直な感想を言えば40歳半ばの天皇なのだから、若々しく見る役者にしてほしかった、というぐらい。帝国憲法の構成じょうの宿命だろうが、主権者・天皇の孤立し続けた姿が印象に残る作品だ。

自死直前のヒトラーの暮らしぶり

 日本と同盟国のドイツから生まれた独裁者ヒトラーの最後の12日を描いている作品で、絶対権力者の暮らしぶりが少しわかる。オリヴァー・ヒルシュビーゲル監督作品『DER UNTERGANGーEXTENDED EDITION』(ヒトラー〜最後の12日間〜エクスエンデッド・エディション)という作品だ。脚本はヒトラーの個人秘書だった、トラウドゥル・ユンゲさんの証言をもとにつくられているようだ。主演のブルーノガンツの好演は圧倒的である。地下壕での敗残兵士たちの崩れゆく姿も目を開いてみるべきものの一つなのだ。
 敗戦が濃厚のドンづまりの独裁者と、存立する基盤が無くなるのを知った部下の動揺と裏切りなどのも含まれている。地下壕暮らしだ。狭い地下壕に狂気をもつ緊迫の絵作りに貫かれている。
 自殺直前、政治的遺言と私的遺言をユンゲさんに口述筆記させたという。彼女の証言が生々しく詳細だ。彼女は第三帝国最後の数日を過ごし生き残った数少ない生き証人。ヒトラーの死後55年経ってカメラの前に立ってもまだ生々しく思い出す。人は衝撃的な事実を消化し他者に語るためには多量の時間を経る必要があるのだ。

 ヒトラーが自死した地下壕の平面図は歴史的資料として残されている。


 総督地下壕平面(『DER UNTERGANGーEXTENDED EDITION』より)

 地下の建造物を記録研究する団体のディートマー・アーノルトさんはベルリン地下協会理事長で彼のDVD用インタビュー記録は興味深い。ドイツには地下壕研究者がいて、歴史学者と共に総督地下壕を調査記録しているという。
 
総督地下壕の特徴は他の地下壕より天井厚3.5m、壁厚3.1m、基礎厚2.5mだそうだ。ベルリンは地下水位が高いそうで全体を高さ9m以下に抑える必要があるという。床や天井のコンクリートを厚くする必要があるため、使える高さがせばまり天井が低くなったという。厚さ18センチ鋼でつくられたT型梁が天井の中におさめられていて、直撃弾を想定した頑丈さだという。
 頑丈な地下壕ではあったが直撃弾を受ければ、壕に居る者は鼓膜がやぶれたり振動で即死するだろう、と研究者は語っている。

 ヒトラーは女性の人気を保もち維持するために結婚せしていない。だが、愛人エバと自殺直前に結婚する。その様子も描かれている。急遽、設えた彼女と総督の暮した地下壕部屋の位置も判明している。上記の平面でみることもできるが拡大した絵も右に掲載しておく。。

 日本には古民家や神社仏閣などの古建築を研究する者はいるが敗戦遺構やそれに類する負の遺産、例えば昭和天皇の地下壕を研究した人がいたのか。そのことも私は知らない。










 フランス映画『ショア』と対で鑑賞するのが好ましいように思う





ヒトラーとエバの暮した地下壕の平面拡大図
部屋は地下壕全体の左下の6区画に相当する



権力者は 自分と自分の仲間だけ守る 

 公共放送ふうに言えば立原道造が生きた20世紀は「戦争の世紀」だ。たしかに日本をはじめ、世界中の人々は戦争するための生き物だった。そう言えるような世紀に思える。
 戦争の世紀で権力を行使する者は地下壕をつくり我が身を守ろうと備える。その例が総督地下壕の平面だ。たった一人のための地下壕だが、生き残ったとしても地上から食物の供給がなければ、生き続けることができない。いったいヒトラーは何を守るために、この総督地下壕をつくったのだろうか。空襲から身を守れるかも知れないが、吸気口から毒ガスを噴霧すればもろいはずだ。

 日本に生きた臣民の一部はB29連隊の空襲に遭い、逃げ惑うしか対応する力がなく、東京では今日になっても空襲で亡くなった正確な人数は分らないままだ。数十万が焼け死んだという。政府は現在も同じで、3・11原発事故人災によって福島から避難した人の数を把握していない。戦前では臣民が死ぬのは気にもとめなかたのかもしれない。兵営で兵士機械にされた西山は「私たちは一銭五厘の消耗品だった」と明かしている。

 放射能人災をおこした東京電力幹部の一部は、3・11後日本を出し海外で暮らしているという風聞がある。が、敗戦前の当時の権力者も逃げる。帝国日本から出て行く自由はあったのだろうか。ないので自国の地下壕で暮らすのはモグラに成って生き延びることにしようとしたのかもしれない。

 ヒトラーは地下壕から出る自由を手に入れことはなく家族と自殺。地下壕から出ても仲間や他の国の人を殺害し続けたことだろう。権力者は自分のために生きているというのは、21世紀初頭から2021年までつづく。政治や行政の目にあまる私物化を見聞きするに、戦前の時間と今の時を重ねてもみてしまう。権力者の欲望は変わらないと言える。

 真実は分らないままでいいとは思わない

 映画『羅生門』は1950年に公開された敗戦直後の名作だ。脚本は芥川龍之介の『羅生門』と『藪の中』を合わせたもので、黒沢明と橋本忍によって編まれた。モノクロでとても美しい映像を見せてくれるのは宮川一夫。主演は黒沢が大好きだった三船敏郎で、三船のモンキーダンスに似た激しい動きと、彼の若々しい肌がキラキラと白黒でも輝き映える。そんな絵作りがなされている。

 内容は人間が事実を他者に語り同意することの困難かもしれない。事実を他者が手に入れることの困難さを、登場人物に語らせている。結論は次世代を語り継ぐため、捨て子を大人が育てることにした、というものだ。

 つまり次の世代に続く者たちこそ事実を必要とする友事者・共事者、当事者であるという視点をつくりあげている。そのような地平に立った思考を示した映画作品だと受けとめてみたい。


























ガラスの牢屋 と 身体の監獄

 旧来の価値が壊れる社会の中に生きた表現者たちの心情、例えば芥川龍之介堀辰雄を介し 立原道造の思う主な点が、映画『羅生門』が示した最終地点にあるとの思いに至ることができた。

 友事者たち意識や、当事者たち意識の連携で生き続けること。その意図に近づいてきている。感想を書きだした時の数多いモヤモヤした、分からなさが、兵の監獄的暮らしを見ることで、少し繋がり可視化されたかのように思う。

 立原道造は権力者ではない。一銭五厘の消耗品に成れるほどの身体を持って生まれてこなかった。ではなぜ立原は「ここではない他所をめざし続けたのか」。どうして水戸部アサイと生きる、共に生きる事にとどまらなかったのだろうか。

 立原道造は高校寮生活を完遂したわけでもなく、監獄に似た兵営体験もない。立原道造『筑摩全集5』の中にある田中一三宛てた書簡がおさめられ、そこには勤めていた設計事務所を「硝子の牢獄」と表現してるそうだ。システム帝国憲法が作り出した、家父長制による家庭生活をはじめとし、兵営までを、大雑把にみると一種の監獄が隅々まで構築された世間だったようにも見る。昔の話ではなく、現代社会においけるサラリーマン生活ぶりも、都会の缶詰+ガラスの牢屋にある。さらに身分階級が固定しているので兵営に近い暮らしと言えるような、そのような暮らしぶりは似ているのではないか。

 天皇やヒトラーのように権力を手にし自在にシステムをつくりだし社会を運営することは、状況が反転すると権力者自らが掌握していたシステムも反転し、究極の自由である孤独へ導いてしまう。

 人は身体から離れて生き続けることができないので、脳が作ったシステムと身体が反転する機会が、おとづれるとその矛盾を明らかにし、個人という人間は自殺などの手段をもって体を崩壊させる。その点はとても興味深く面白い点の一つである。
 
 また頑強な身体を望み続けた、市井の人である立原道造のように、会社・設計事務所というシステムである「硝子の牢屋」から脱獄したとしても、自らの身体という牢獄からは離れられない。リアルな社会に適応できないナイーブな、弱い心身を持った者は常にその矛盾のおおきな問いを抱えてしまう。無次元の空間に永遠に続くかのような身体がつくる監獄。それを突き付けたのは立原道造の結核に冒され潜伏期の身体だったのではないか。発病すると、その矛盾は一層強まり、自身の身体監獄から脱出したいとの潜在的な思がふきだし、居たたまれなくなるのは想像に難しくない。

 彼の心を「ここではない他所へ」と魂を誘い続けた、立原自身も心身共にシステムがつくる、そして彼の身が作る「監獄」から脱し、自由な世界へ移動したかったのだと仮定し、03 (1)立原道造の暮らしぶりをお仕舞としたい。


 づづいて立原道造に身体の牢獄を思い知らせた「(2)結核について」へ移ることにする。


(2)結核についてへつづく 
追記:西山卯三は 1940年11月29歳で結婚した。それは立原のような恋愛によってではなく、「姉が娘時代に通っていた割烹学校の先生の紹介でお見合い、10歳違いの娘さんと甲子園ホテルで正式な見合いを経て結婚。

(参照データ) 事例: 戦前の異性にたいする感情

 父親より5歳下の野坂昭如さん 敗戦時14歳 当時異性にたいする=セックスをどう考えていたのか?その記事を発掘したので貼っておきます。

野坂昭如 「孤独の中で知る女の芳しさ

 14歳といえば、僕の身の上に大変化のあった年で、つまり空襲で肉親を失い、急に世間の荒波へほっぽり出されたのだが、これを性的な面でのみながめると、焼け出され逃げこんだ先に、2歳年長の美女がいて、ぼくは、生まれてはじめて異性を身近にし、一人ぼっちの孤独やら、行先の不安などものかわ、ひたすらめくるめく日を送り、その短い思い出のみが強烈に残っている。

 ぼくは一人っ子で、いや妹は二人いたが、いずれもはじめての誕生前後に死んだし、もとより男女7歳にして不同席の世の中だから、それまで女性と言葉をかわしたことがない。女学生のセーラ服にあこがれを寄せる年ごろではあったが、さらにお国のため、どうすれば男らしく死ねるかと、決して具体的ではないが思いめぐらせ、めぐらせることで異性からことさら目をそむけて来たのだ。性的には早熟だったと思うけれど、14歳になってからは、夜を日に継ぐ敵機襲来で、とても妖しい妄想に手すさびを行うゆとりはなく、、そして、昭和20年6月5日、ぽつんと自分一人生残り、思いがけず勤労動員がいやで仮病つかい、所在ない時を送る美女と、ほぼ二月暮らすことになって、今考えても、僕自身の性的な燃焼は、あすこでつきたのではないかとさえ思う。

 夜は、二人枕をならべ、、もとより僕はゲートルを巻きつけたままだし、美女ももんぺを着用し、いつ頭からふりかかるかわからなぬおびえから、無理に目をそらせ、戦前のおいしい食物の名を限りなく数え合い、昼は断水だから一つバケツを二人で支えてもらい水、また人目を忍んで野荒しを行い、炎天の下で、一個のトマトをかじり合う。遠い炎上の火をながめ、美女は、日にやけてむけたわが肌を、おもしろがってはぎとり、こっちはうたたねする美女に団扇で風をおくり、ある時、火を起こすように、口をとんがらせ息を顔に吹きかけたら、ふと目をあけてて、まじまじと僕をみつめた、首一つこねてこちらににじり寄り、たがいにくちづけなど思いもよらないが、そのままの姿勢で、息を吹きあったのである。

 その時は、恋を意識せず、また性的対象としてなど考えられなかったが、なんとなく女というものはかぐわしくまた弱々しい存在であるかと、この時なら、ぼくは美女のために喜んで命投げうっただろう。美女のために死ぬことで永遠の生命が得られるような実感がはっきりあったのだ。(作家昭和5年うまれ)


(コメント)
 わたしの父や爺さんたちは異性とどう付き合いしてたのか、聞いたことがなかった。自分のラブラブ物語は書いておきたいので勉強しよう。この文章を読むと爺さん世代よりもっと前の永井荷風、谷崎潤一郎は他の男性からはるか遠くにぶっ飛んで、恋していたことが分かる










今夜も夕飯後の似顔絵 晩年・野坂昭如さん

(メモ)
・野坂昭如さんの火垂るの墓 アニメじゃなく本はおすすめ。ま、アニメの方が有名かも44歳、野坂昭如自作の黒の舟唄YouTubeにあった (1974年ライヴ) 
アニメ 火垂るの墓 動画

(2)結核についてへつづく