早稲田大学
ジャーナリズム研究所

J-Freedom
 2015/07/04 早稲田大学8号館
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「ジパング」の権力とジャーナリズム

   - ガラパゴスからロドスへ -

花田達朗 (早稲田大学ジャーナリズム研究所設立記念イベント基調講演録)










  
     【絵:ガラパゴス陸イグアナ】


戦後70年という節目の今、私たちはジャーナリズムがのっぴきならぬ危機に立たされていることを目の当たりにしています。この戦後の時空間においてジャーナリズムは発達したのでしょうか、発達に失敗したのでしょうか。自分をどう展開したのでしょうか、何か別のものに乗っ取られたのでしょうか。この危機はどこから来るのでしょうか。原因はどこにあり、そこから脱する処方箋はあるのでしょうか。


チャールズ・ダーウィンは20歳代に、1830年代前半の5年間、測量船ピーグル号に乗船して、南半球を航海し、動植物を観察しました。そこから後に「自然選択説」の思想を紡ぎ出しました。その航海の途上、ガラパゴス諸島に滞在し、ガラパゴスゾウガメやガラパゴス陸イグアナに興味をもちました。大陸から隔絶された、その島々では独自の進化を遂げた固有種が多く見られ、特異な生物相を示していました。そこには天敵になるような大型の哺乳類が存在しませんでした。
 【絵:チャールズ・ダーウィン】
 
                     







      
      【絵:ツノナガコブシ】
(カニの一種であるツノナガコブシは、外敵の危険を感じるとひっくり返ったり、逆立ちをしたりして死んだふりをすることがある




現代の観察船ピーグル号がその航海でジパング本島に立ち寄り、そこの社会を観察したとしたら、ほかの環境世界には見られないある固有種に興味をもつのではないかと思われます。その種の学名を「ジパングマスコミ」と言います。これはジャーナリズム種と部分的に似ているので、よく間違えられやすいのですが、しかし別の生き物です。「ジパングマスコミ」はちょっと変わっていて、天敵リヴァイアサンに出会うと逆立ちをして生き延びようとします。そしてそれに慣れて今日では常時逆立ち歩きをするようになりました。その眼からは、天敵リヴァイアサンとの関係は反転し、本来とは逆様の情景として見えるのです。こうした事態はリヴァイアサンにとっては自分の天敵であるジャーナリズムが不在となるので、大変好都合なことに違いありません。「ジパングマスコミ」は世界から隔絶した環境のなかでこのような擬制で延命をはかり、種の保存を何とか果たして今日に至っています。 【絵:逆立ちカバ人形】
                                             


  
   【絵:パネル討論の様子】  
   
    
    原寸大のチラシを見る

こうした事態はその環境が当たり前となってしまった当の生物「ジパングマスコミ」の眼には見えてきませんが、外部からの旅行者の視線、その観察眼からすると、この社会的生物は地球上では非常に珍しいもの、珍種として映ります。
たとえば、今日この後のパネル討論に登壇されるマーティン・ファクラー氏(ニューヨーク・タイムス東京支局長)が東日本大震災のあと、2012年に出された新書『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』は現代の「ピーグル号航海記」として読むことができます。これは「ジパングマスコミ」の生態の観察記録だと言えます。「あとがき」の最後のページで、この観察者は次のように書いています。

「記者クラブメディアの本当の被害者は、私たち海外メディアの記者ではない。日本の雑誌・ネットメディア、フリーランスの記者たちは自由な取材を阻害されている。大手メディアの若い記者は、ジャーナリズムへの志があってもやりたい取材ができない。だが、一番の被害者は、日本の民主主義そのものだ。『権力の監視』という本来の役割を果たしていない記者クラブメディアは、権力への正しい批判ができていない。」(注1)
「なぜ日本の大手メディアはもっと怒りの声を上げないのだろう。報道を見ていると、批判はしていてもどこか他人事だ。メディアが権力を批判し、社会に議論を起こさなければ、健全な民主主義は生まれない。」(注2)

これは、「ジパングマスコミ」がジパングリヴァイアサンに対して取っている行動の、的確な描写と評価です。ここで特に注意を払いたいのは「批判はしてもどこか他人事だ」という観察です。これが、実は、逆立ち歩きの姿勢から来る、「ジパングマスコミ」の興味深い習性の一つなのです。

他方、外部からの別の観察者は、ジパングリヴァイアサンの最近の常軌を逸した行動パターンを記述しています。ドイツのフランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング紙の東京特派員カーステン・ゲルミス氏は5年間の特派員生活を振り返った手記”On My Watch”を外国特派員協会のホームページに残して、今年4月初めに日本を離れていきました。その手記を見てみましょう。

「フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング紙は政治的には保守、経済的にはリベラルで、市場志向型と言っていい。だが、安倍首相の歴史修正主義に対しては常に批判的な報道をしてきたと言われれば、その通りだ。ドイツでは、リベラルな民主主義者が過去の侵略戦争で起こったことへの責任を否定するなどというのは考えられないことなのだ。だから、もしドイツにおいて日本への親近感が薄らぐようなことが起こったとしても、それはメディア報道のせいではなくて、ドイツ人のもつ歴史修正主義への嫌悪から来るものなのである。」

そのように自分の置かれた立場と環境を説明しています。けれどもゲルミス氏自身は外務省の官僚たちやある日本のメディア関係者たちから「日本バッシャー」と呼ばれたそうです。そして、あまり経験したことのない珍しい経験を語っています。

「5年前にはあり得なかった新しいことといえば、外務省からの攻撃に曝されるようになったことだ。私が直接攻撃されるばかりでなく、ドイツ本国の新聞本社の編集部への攻撃もあった。私が安倍政権の歴史修正主義に批判的に書いた記事が掲載されると、フランクフルトの日本総領事が、新聞本社の外交担当のデスクを訪ねてきて、『東京』からの異議を伝えた。中国がこの記事を反日プロパガンダに利用していると抗議したのだ。事はもっと悪くなった。冷え切った90分間の会談の終わりに、デスクは総領事に記事が間違えているという事実を証明する情報を求めたが、それは無駄に終わった。『金が絡んでいると疑わざるを得ない』と外交官は言った。それは、私を、デスクを、そして新聞社全体を侮辱することにほかならなかった。そして、私の記事の切り抜きが入ったフォルダーを引っぱり出しながら、親中国のプロパガンダ記事を書く必要があるとは、ご愁傷様ですなと続けた。私がビザ申請の承認を得るためにその記事を書く必要があったと考えていたようだ。」 (注3)

つまり、ここにはジパングリヴァイアサンが「ジパングマスコミ」を逆立ち歩きにさせているように、よその土地から来たジャーナリストも恫喝して逆立ちにさせ、ジパングのルールに従わせて去勢しようしているということが記録されているのです。私たちはジパングリヴァイアサンについて甘い幻想を持たず、それが十二分に悪質で、どんなことでもやるのだということを徹底的に知らなければなりません。

         
    【絵:『リヴァイアサン』原書』         【絵:『リヴァイアサン』翻訳書】

以上二人の外国の観察者から特異なものに見えるジパングの生態とは次のようなことだと言えます。まず、「ジパングマスコミ」は天敵リヴァイアサンとの対峙を逆立ちすることで回避するたびに、それがだんだん板についてきてもはや逆立ち歩きをしていて、そしてそうしていることさえも気がつかず、自分の姿、そして自分と外界との関係を幻想のなかでしか見ることができないということ。これはおそらく戦後の1960年代の高度経済成長期に形成され定着した生態であって、日本語という壁をもって世界から隔絶した環境を構成しえたこと、人口の多さに対応した適度のサイズのマスメディア国内市場をもつことができたこと、つまり閉じた環境にあったことを条件としています。そこで、特異な進化過程をたどり、特殊日本種としての「ジパングマスコミ」となりました。

政治的には1960年の「七社共同宣言」がエポックではなかったかと考えられます。日米新安保条約承認議案が自民党による単独強行採決で可決されたあと、それに反対して国会周辺を取り囲む大規模なデモ隊と警官隊が激しく衝突し、そのなかで一人の女子学生が死亡しました。その2日後の6月17日、在京7社(朝・毎・読・日経・産経、東京、東京タイムズ)が朝刊1面に「共同宣言 暴力を排して議会主義を守れ」という共通の社説を掲げたという事件です。それまで強行採決を暴挙として非難していたのですから、突然の方向転換でした。これは言わばプレスの集団的転向事件と言ってもよいでしょう。こうしたなかで新安保条約は国会で自然承認、そして岸内閣退陣、池田内閣成立、「所得倍増計画」の経済路線へと移っていきます。その舞台で新聞社や放送局などマスメディア企業はいわゆる「マスコミ」として花形産業へと成長していきます。ビジネスとして成功し、「一流企業」としてのステイタスを獲得し、エリート社員をリクルートしていきます。それに反比例するようにジャーナリズムへの可能性は減衰させられ、いわゆる「マスコミ」への道をひたすら走っていきます。


  
   【絵:Liviathan】

次に、今日、ジパングリヴァイアサンは大方の天敵を逆立ちにさせてしまい、その傲慢さを隠すことさえせず、横暴な振る舞いを欲しいがままにするという事態になってしまいました。どうしてこうなってしまったのか。天敵がほとんど居なくなったからです。ジパングリヴァイアサンにとってはそれだけに一層目障りなのはジパング本島の南にある琉球諸島に生息する二つの新聞なのです。その二紙、琉球新報と沖縄タイムスは逆立ちすることを拒否し、「権力の監視」「民衆に寄り添う」という本来の立ち位置をキープし、ジャーナリズムの種族としてリヴァイアサンの天敵であり続けようとしているからです。2015年6月に自民党本部であった、安倍晋三首相に近い自民党国会議員の勉強会「文化芸術懇話会」で、二紙への偏向批判のなかで「沖縄の二つの新聞社は絶対つぶさなあかん」という発言まで飛び出しました。ジパングリヴァイアサンは言う事を聞かない者は排除し、叩き潰し、喰ってしまうという怪獣リヴァイアサンの本性を露にしてきました。

政治学的に言えば、権威主義的政権の成立と言ってもよいでしょう。市民社会と国家の間の社会契約説や国家を理性によって縛るという立憲主義の原理さえも理解せず、できず、それらを否定する政権なのですから。もはやこれまでの保守政権とは異次元の政権だと言わなければなりません。戦後70年にして合法的に権威主義的政権を生み出してしまったこと自体、選挙民の意識の投影であり、そのような社会意識の醸成を許したこと自体、一方で「ジパングマスコミ」の効果と成果であり、他方ではジャーナリズムの力不足と失敗の結果にほかなりません。理性と啓蒙の挫折と言えるのではないかと思います。バブル経済のころから理性と啓蒙をバカにして自分だけいい気持ちになるゲームが流行りましたが、その風潮のツケが回ってきたと言えるのかもしれません。





































 【右絵:2013年9月20日安倍首相facebook】
(明日は、私の五十九回目の誕生日。総理番記者の皆さんから、お誕生日プレゼントを頂きました。いくつになっても、嬉しいものです。) 
https://www.facebook.com/abeshinzo/posts/410640509059398:0 





 
  【絵:2015年6月24日安倍首相動向拡大】


「ジパングマスコミ」の逆立ち歩行と言ってきましたが、その現象形態を局面バラバラに順不同で列挙しておきましょう。詳細は省略します。

  • 先に引用したファークラー氏の指摘にあった記者クラブ制度の存在:公的情報の伝達過程における参入制限と癒着
  • 編集権は経営者にあって編集局現場の記者にはないという日本新聞協会「編集権声明」:その冷戦の産物が冷戦終結後もいまだに廃止されないこと
  • 編集と経営の機能未分化
  • 自主規制という名前の自己検閲:自己検閲を自主規制と平気で言い換えるごまかし
  • 上司や会社トップや政治家や米国などの意向を思いやり、気遣い、推測し、先取りするメンタリティないし人格構造「忖度」:「お上」に逆らわないという従来から存在する社会意識のバリエーション
  • ジャーナリストの倫理をジャーナリスト集団が自分たちの手で決めて担保せずに、業界団体が権力の意向を忖度しつつ上から決めてきた倫理綱領:「業界制定倫理」
  • ジャーナリズム上の問題の判断・判定を第三者機関という部外者にアウトソーシングして平気な文化:当事者外し
  • 会社中心主義(新聞社員なのか、新聞記者なのか)
  • メディアのなかにフリーランス・ジャーナリストのスペースがほとんどない景観
  • 危機においてジャーナリズムよりもマイ会社の温存の方を選ぶ編集局構成員のメンタリティ
  • 調査報道におけるジャーナリストの主体性、表現行為の主体の意味を理解できない人々、特にメディアのなかの人々
  • 調査報道を強化していくと読者に紙面で約束したのに、実際には調査報道は掲載されず、訂正欄が増強される新聞紙面
  • 取材記者による独自の調査報道はまず見られず、記者クラブ発表物とレトルトパック原稿とアウトソーシング原稿(外注原稿)の占める割合がますます高まる新聞紙面
  • できる記者を集団で排除しようとする、できない記者たち:出る釘は打たれるという典型的なムラ社会
  • 記者や番組制作者などジャーナリストを守らず、その名誉を傷つけ、切り捨てる会社/組織、そのトップ
  • 言論・表現の自由はお題目のように何度も唱えるけれども、ジャーナリストの自由と自律については口を閉ざす独特な文化
  • 政権に迎合し同調するメディア、与党化するメディア、連立政権と連立するメディア
  • 首相にバースデーケーキをプレゼントする女性の番記者たち
  • 首相とアフターファイブに連れ添って飲み屋談義をする男性の編集経営幹部たち

        【絵:2015年6月24日安倍首相動向 朝日新聞より転載】
  • さらに付加すれば、「ジパングマスコミ」から伝染したものと思われる現象形態として、ジャーナリズムを対象としてメシの種としており、しかしジャーナリズムというイズムへの当事者意識を「持たない、作らない、持ち込ませない」コメンテーター、評論家、有識者、「ジャーナリズム研究者」「マスコミ研究者」などの種族
これらの倒錯した現象、倒錯した文化は一言で言うと何なのでしょうか。
一言でまとめれば、ジャーナリズムというイズムの担い手であるべきジャーナリストの疎外状況だと言えます。つまりジャーナリストがジャーナリズムの主人公であるべきなのに、主人公の位置から徹底的に外されているという状況、そしてその結果ジャーナリストではなく「マスコミ人」という種族となっている人々が自らの矛盾と向き合うことなく、その問題を避け、自分を誤魔化している事さえ見えないという自己欺瞞の状況、です。



では、その疎外状況から回復する処方箋はあるのでしょうか。少なくとも一つはあります。いや、おそらくこれしかないでしょう。「ジパングマスコミ」の特技である逆立ち歩きをやめて、直立歩行に戻り、幻想ではなく現実の視界をもてば良いのです。そしてジパングリヴァイアサンの天敵であるという名誉ある地位を目指せば良いのです。それが自己回復の道です。つまり当事者になることです。「批判はしてもどこか他人事」ではなく、ジャーナリズムの当事者として、つまり我が事として、権力批判という近代世界の歴史的な役割を引き受ける当事者意識を獲得できるかどうかです。そこにアイデンティティを築くことができるかどうかです。そのためには、ある種の人々の場合には権力というものに対する単純で、無邪気な、だまされやすい、甘い、幼稚な考え方、世間知らずの、おめでたい考え方、すなわち権力へのナイーブな考え方をかなぐり捨てるべきでしょう。また別の人々の場合には権力に迎合して、いくばくかの分け前に預かろうという俗物根性をかなぐり捨てるべきでしょう。そして、ともに職能的プライドをもって、矜恃をもって正々堂々と権力と対峙すべきでしょう。

「ここがロドス島だ、さあ跳躍してみろ」というイソップ寓話があります。「法螺吹」というタイトルが付いていて、大言壮語でなく実際に事実で証明してみろという話ですが、今ここで跳ばなければ、一体いつどこで跳ぶのだという意味にも使われるようです。ジャーナリズムの信条が「今ここで言うべき事を言う」(新井直之)ということであるならば、日本のジャーナリズムには今こう言えるでしょう。ここはガラパゴスではない、ロドスなのだ、今ここで跳べ、と。逆立ちしていてはオリンピック選手のように覚悟の跳躍はできません。

        
    【絵:走り高跳び】          【絵:跳躍】

今、いわゆる「マスコミ」の枷を外して、「個」としてのジャーナリストに脱皮して、横の繋がりを作り出し、言葉と討論によるコミュニケーションによって自己組織化をはかっていく以外に道はないのではないでしょうか。そして、リヴァイアサンがやるように自らに決して権力を求め集めるのではなく、無権力を目指し、権力活動の結果により不利な立場に置かれている人々の側に立って、事実を糧にして真実を追求していく実存的な行為者となるべきではないでしょうか。そのためには仲間が必要です。鉄壁で強大な相手と対峙するからには、闘う記者を孤立させず、お互いに助け合う、職能的連帯が必要です。その連帯を担保し保証する組織が必要です。そういう機能組織が無いことも世界的にみて、ユニークです。


 
ここに開設されたジャーナリズム研究所は天敵に生まれ変わるための処方箋の一端を担おうというものです。できることは限られています。ジャーナリズムの改善、ジャーナリズムの自己革新を展望しつつ、ジャーナリストの自由と自律のための具体的な小さな一歩一歩を進めていきたいと思います。
 (その後の活動内容は─2023年4月現在─花田達朗先生のサキノハカ )



注1)マーティン・ファクラー『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』双葉叢書、2012年 、220-221頁。
(注2)前掲書、221頁。
注3http://www.fccj.or.jp/number-1-shimbun/item/576-on-my-watch.html(2015年7月4日閲覧) 

                           【絵:跳躍 】

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