花田達朗
■2022年7月26日 「公共圏に吹く風」

21年前に宮沢賢治の詩「生徒諸君に寄せる」に託して「公共圏に吹く風」という題の一文を書き、発表しました。それをweb版で公開します。その最後に、詩の引用で「サキノハカ」が登場します。このサイトの名前の由来です。
初出は、「公共圏に吹く風」『InterCommunication』、36号、2001年春号、NTT出版、2001年4月1日、 98〜101頁。

(右の絵:サイト「サキノハカ」の表紙)



公共圏に吹く風
Winds Blowing in the Public Sphere


     諸君はこの颯爽たる
     諸君の未来圏から吹いて来る
     透明な清潔な風を感じないのか
         -- 宮沢賢治「生徒諸君に寄せる」

 「公共圏」なんて知らないなあ、とあなたは呟く。しかし、それはその名前を知らないだけなのかもしれない。名前は知らなくても、名無しのその存在は知っているのかもしれない。あなたはたとえば「市場」という言葉や「世間」という言葉を知っているだろう。そして、その存在をきっと疑わないだろう。見たこともないのに--。
 公共圏とは、社会空間の一つのカテゴリーであって、パブリックなコミュニケーションが行なわれる空間のことである。ドイツ語では「エッフェントリッヒカイト()」と呼ばれる。ユルゲン・ハーバーマスは1962年に『公共圏の構造的変動』(邦訳書では『公共性の構造転換』(未來社)と訳されている)を著した。そこで彼は近代黎明期における公共圏概念の発生、その政治的機能、それが発生した立地条件の構造的変動、そのことによってもたらされた公共圏の機能的変化と問題状況、そして公共圏再建のための方策を論じた。その概念を受容して、英語圏では1980年代半ばから「パブリック・スフィア(Public Sphere)」という用語が使われるようになった。近年、日本でも公共圏という用語が一部に受け入れられるようになってきたが、解釈はいろいろである。無論日常語の域からは程遠い。公共圏を論じてきた私の経験では、しばしば出会ういくつかの疑問文がある。本稿ではまず三つの疑問文に答えながら、公共圏とは何かを説明していきたい。その坂を登ったところで、次に公共圏・都市・建築という三つ巴の関係のなかに公共圏を据えて折り返し点とし、もと来た坂道を順番に、しかし別のパースペクティヴから下って行くことにしたい。





宮沢賢治 1924年
(Wikipedia)




1. 公共圏はどこにあるの?

 この問いは実は二つの意味の問いに分かれる。第1は「公共圏なんてものがあるのか」という問いであり、言外にそんなものはないという答えが用意されている。それは先のハーバーマスの書への批判としても行なわれてきた。そこには彼の立論の構造ないし方法が関わっている。彼は公共圏概念を西欧近代の歴史過程のなかから「理念型」として抽出し、それを〈言説の公開性〉(「言論・表現の自由」)と〈異なった他者との共同性〉(「寛容」と「連帯」)という規範が働く、新しい社会空間として定式化した。18世紀のコーヒーハウスやサロンや会食クラブなどが「文芸的公共圏」として、そしてその後のプレスを介した言論市場が「政治的公共圏」として概念化された。そこには「あるべき公共圏」と「現実の公共圏」の二重性がある。あるべき公共圏をどこからどのように導き出してくるか。彼は過去を分析し、あるべき公共圏をそこに発見し定式化し、それを用いて現在を問い直すという方法を採ったのである。それに対して、そのような規範的な場所は歴史的に存在しなかったし、また今日でもそのようなものがどこにあるのか、という反論を受けるのである。規範論と実態論の二重構造が理解されず、一元的実態論から批判されるのである。
 しかし、私はそのような無理解と批判に同調も同情もしない。イデオロギー概念を左手にキープしつつも、理念や規範を想像力の所産として認め、それらが単に架空のものではなく、人間にとってリアルなものだと考えるからである。
 けれども、彼とは別の立論の仕方も可能である。そこで私はアンリ・ルフェーヴルの手を借りた。可能態と現実態の二重性という戦略である。あるべき公共圏を過去からではなく、未来から導き出してくるのである。過去を分析してモデルを構築し、そのモデルで現在を問い直し、処方箋を書くのではなく、現在を「未来の地平から分析されるべきもの」として問い直し、現在を作り出していく、という方法である。公共圏は存在する。あなたが見ようとすれば、存在する。それはポテンシャルで、リアルな存在なのである。
 第2は「どこにどういう形で位置づけられるのか」という理論的な問いである。公共圏は国家や市場から自律した社会空間であり、その背後にある親密圏と結び付いていて、それに支えられている。公共圏は親密圏から、公は私から生み出される。整理して言えば、社会構成体は関係概念の水準では国家・経済社会・市民社会・私的領域〈state / economic society / civil society / private realm〉の四つに、空間概念の水準では行政機構・市場・公共圏・親密圏〈goverment / market / public sphere / intimate sphere〉の四つに分けて捉えられ、公共圏はそのなかに位置づけられるのである。公共圏とは、プライヴェート・ライフを源泉としてそこからパブリック・ライフへと打って出る場所であり、統治機構としての国家と生産機構としての経済市場にあい対し、それらと交渉関係に入る場所である。そのような理論的位置づけが経験的実在として認識されるかどうかは、パブリック・ライフの実践にかかっている。したがって、公共圏は存在する。それはあなたの行為と社会関係の実践にかかっている。









2. 公共圏は誰が作るの?

 この問いもまた二つの意味のレヴェルを含んでいる。第1は行為主体という意味での誰が、ということである。公共圏の担い手は誰か。ハーバーマスは時期によって言い方を変えてきたが、私人と公民、草の根組織あるいは新しい社会運動、そしてアソシエーションないし市民社会的アクターを挙げている。アソシエーションとは自由な結社であり、私人が自由意志で集って公事に関わるために作った団体のことである。最近よく使われるようになった言葉で言えば、「NGO(Non-governmental Organization)」や「NPO(Non-profit Organization)」はまさにこれに当たる。政府組織でもなく、営利企業でもないという否定形で示されているけれども、それらはすなわち市民社会という領域に属するアクターにほかならない。NGOやNPOと定義されなくても、さまざまのグループ、団体、ネットワーキングが存在している。もともと政党やメディア(プレスなど)もここに属するものであったが、日本および多くの国ではほとんど「N」がとれて、政党は「GO」となり、マスメディアは「PO」となっているというのが現実だと言わざるをえない。
 第2は制度主体という意味での誰が、ということである。公共圏は複雑化した社会にあっては媒介システムによって構築される度合いが高まる。マスメディアやコミュニケーション・ネットワークである。それらは公共圏を支える制度的な装置として発展してきたが、その発展の結果、そこに複雑な問題が発生する。媒介システムが行為主体から自立し、システムとして独自の論理でオペレーションするようになるために、行為主体と制度主体の間のギャップが広がるのである。社会的権力となったマスメディアを市民社会的アクターがコントロールするのは難しい。市民社会的アクターのイシューをマスメディアに乗せるにしても、そのシステムのロジックに迎合せざるをえない。そして、結局はマスメディアによって消費され、忘却される。しかし、にもかかわらずそれを決着の付いた事柄と見ることはできない。その行方は、依然として市民社会的アクターのポテンシャルにかかっているのである。


3. 公共圏はいくつあるの?

 一つの公共圏か、たくさんの公共圏か。この問いにも二つの含みを認めることができる。第1はユニヴァーサル/ジェネラル/パティキュラル〈universal / general / particular〉の軸である。単一の普遍的公共圏を想定するのか、たくさんの特殊な、あるいは部分的な公共圏を想定するのか。部分的な利害関心を討議を通じて止揚するためには一つの普遍的公共圏が必要だ、とある人々は考える。しかし、それを恒常的なものとして想定すると、実体化して捉えることにつながるだろう。社会関係の実践を通じて公共圏は生産されると考える立場からは、それはリアルではない。むしろたくさんのパティキュラルな諸公共圏が相互交渉を行なうなかから一般的公共圏が立ち現われると仮想した方がよいのではないか。
 第2の意味は、ドミナント/オールタナティヴ/オーセンティック〈dominant / alternative / authentic〉の軸である。公共圏を複数性のうちに捉えるとき、そこにはある階層性が認められる。メインストリームの支配的公共圏、そしてそれに対する対抗的公共圏である。こうした階層性は、公共圏実態のもつ排除の構造(たとえばジェンダー)、公共圏参入のために必要な資源の所有の不平等(教養、リテラシー、知識資本)、メディア公共圏の生産様式の支配力などを原因として引き起こされている。諸公共圏におけるヘゲモニー闘争の局面である。その闘争において重要なのは第3の公共圏、すなわちオーセンティックな公共圏だと言えよう。これを私は「当事者公共圏」と呼んできた。あるいは「発話の公共圏」「眼差しの公共圏」と対照して、「手触りの公共圏」と呼んできた。これは当事者たちの具体的経験世界から生み出されるものであり、メディア化されない公共圏である。重要な公共圏領有のやり方ではなかろうか。


4. 公共圏/都市/建築 〈public sphere / city / architecture〉

 さて、以上、公共圏について説明してきたが、思い当たる節があっただろうか。あっ、あれのことか、それなら知っていると、あなたが思ってくれたとするなら幸いだが、次にもっと既知なはずのものとのアンサンブルで考えてみよう。建築と都市の関係は誰が見ても密接なものだ。まずはマテリアルなものとして見れば、建築の集積が都市を作る。都市は住宅、寺院、オフィス、議会、美術館、居酒屋、工場、劇場、記念碑などさまざまな建築物と、道路、水路、鉄道、上下水道、電柱、広場、公園などのさまざまな建造物(インフラ)から成る。都市は建築の膨張であり、第2の建築である。しかし、建築が単なる物理的な器ではないのと同様に、都市もまた人々を収容する容器ではない。建築も都市も他者との出会いの場所であり、社会関係から物理的なかたまりへと転形したり、逆に物理的なものが社会関係のなかへ溶け出したりしている。建築も都市も人々の社会関係が実践される場であり、そのための空間であり、メディアだという点で通じ合っている。建築も都市も人々のコミュニケーション活動の場であると同時に、人々との間でコミュニケーション活動をしている。
 以上のような性格において、公共圏も変わらないのである。公共圏は都市から生まれたものであり、第2の都市である。不可視の都市だと言ってもよい。と同時に、公共圏は都市を飛び越して建築とも結び付いている。公共圏は第2の建築でもある。これら三つの空間が通底しているのは、メディア機能という共通の遺伝子プログラムをもっているからであろう。建築と都市の先にあるものとして公共圏を考えるならば、それはより分かりやすくなるのではないだろうか。


5. 空間/景観/場所〈space / landscape / place〉

 では、折り返し点から無縁坂を下って行くとしよう。
 建築/都市/公共圏がともに社会空間だとするならば、社会空間という一貫性をもって取り扱わなければならない。その一つの考え方としては、それらのいずれをも空間・景観・場所の三連項において捉えること、「空間の生産」(ルフェーヴル)の視点から捉えることである。空間とは、所与の容器ではなく、社会関係の実践を通じて生成される生産物(プロダクト)である。今日そこで見られる空間の生産様式からは空間の均質化、断片化、階層化が生み出され、相互に絡み合い、補い合っている。そして、それに対して抵抗したり対抗したりする意識と実践が常に存在する。
 以上の点は建築においても然り、都市においても然りだが、公共圏の場合を見てみると、次の三つのことに気づく。公共圏は言説と情報、記号と表象が流通する、フローの空間として生産されているが、情報コミュニケーション技術の発展とネットワークの増強がそのフローの空間の拡大再生産に大きく与かっている。次に、たとえばナショナルな公共圏に見られるように、他者の表象が提示される、その提示のされ方によって境界づけがなされながら、公共圏の造成が行なわれている。それは公共圏を見る人々に公共圏の景観として意識されるだろう。そして、公共圏は人々のパブリック・ライフの実践のなかにおいて人間の存在の意味やアイデンティティが問われる場所として立ち現われる。そこは「生きられる公共圏空間」であり、その獲得と領有が問題となる。それは、均質化と断片化に見舞われたフローの空間と、表象によって構造化された景観に対して、場所において存在の形を構成しようとする実践である。

     諸君よ、紺色の地平線が膨らみ高まるときに
     諸君はその中に没することを欲するか
     じつに諸君はその地平線に於る
     あらゆる形の山岳でなければならぬ
               --宮沢賢治







アンリ・ルフェーブル 1971年
(Wikimedia Commons)


6. 計画/デザイン/アート〈plan / design / art〉

 空間のプロブレマティークは計画/デザイン/アートの三連項を問わずにはいられない。建築においても都市においても、この関係は見えやすいものであったろうし、これまで自覚的に取り扱われてきたと言えよう。別の言葉に言い換えれば、空間の構想・設計・創造と言えるかもしれない。建築と都市はこの三連項の重なりとズレに悩んできたが、それはスペース/ランドスケープ/プレイスの間の相克と無縁なものではない。
 公共圏にとって、この三連項はどのように関わってくるであろうか。公共圏の空間計画は、たとえば地域情報化計画、放送用周波数割当計画、あるいは図書館や公民館や劇場などの配置計画などに見て取れる。また、地域開発政策であったり、放送政策であったり、文化政策であったりする。それらの政策の合理性に強く見られる傾向は、道具的・機能的合理性である。別の何かのために道具として立案され、ある機能の遂行を企図する政策であって、実は産業振興政策であったりする。実際に産業立地のロジックで考えられていることが多い。こうした上からの公共圏計画に対する対抗戦略として考えうるのは、公共圏をアートの方からデザインへ、計画へとさかのぼることではないか。公共圏のアートとは祭りと遊びだ。アートは創造的実践に委ねられたものであり、その裏側に秘密や悪や快楽や非合理を隠しもったものである。そこで期待されるのは市民社会的アクターであり、当事者アクターである。しかも、アートを瞬間的なものから持続可能な形にすべきであろう。クリエイティヴな公共圏のために、そのようなアクターが公共圏のデザインをともに描き、デザインにおける商品と作品の間の相克にコミットし、さらには公共圏の計画に参画し、管理と自律の間の相克にコミットする道が開かれる必要がある。

     新たな詩人よ
     嵐から雲から光から
     新たな透明なエネルギーを得て
     人と地球にとるべき形を暗示せよ
               --宮沢賢治





7. リアル/ヴァーチュアル/ポテンシャル〈real / virtual / potential

 スペースにおける別の三連項を考えてみる。リアルな建築、ヴァーチュアルな建築、ポテンシャルな建築。建築のリアリティ、ヴァーチュアリティ、ポテンシャリティ。それは都市についても言える。都市の炸裂は都市のリアリティへの内破と都市のポテンシャリティへの外破を繰り返している。
 第2の建築、第2の都市、つまり公共圏ではどうなるか。最初に述べたように、公共圏概念はノーマティヴとリアルのセットとしてスタートしたが、私はそれをリアルとポテンシャルのセットへとシフトさせることを狙ってきた。他方、今日の議論ではインターネットにおける公共圏の可能性という類のテーマの立て方に見られるように、ヴァーチュアルな公共圏に関心が向かっている。サイバースペースのなかの公共圏。物理的空間としてのコーヒーハウスから新聞に媒介された(プレス・メディエイティッド)公共圏への発展と、今日起こっているコンピュータ・メディエイテッドの公共圏の登場とはどのような関係にあるのか。コミュニケーションにおける行為空間の態様の違いはその行為の社会的意味にどのように影響するのか。
 問題は、公共圏における政治性、あるいは「政治的なるもの」の所在だ。公共圏は実体的に固定されたものではない。伸縮し、浮沈し、転形していく。内破と外破を繰り返している。コミュニケイティヴな行為と社会関係のポテンシャルがそれにエネルギーを供給しているのである。公共圏のリアリティは未来圏から送られてくる。

     サキノハカといふ黒い花といっしょに
     革命がやがてやって来る
     それは一つの送られた光線であり
     決せられた南の風である
               --宮沢賢治







参照図


参照記録2018年2月3日
花田達朗教授最終講義録を読む



HOMEへ