花田達朗教授 最終講義録 その1 (早稲田大学15号館02教室) 2018年2月3日 曇り 作成 佐藤敏宏


花田:みなさん、こんにちは

  会場 こんにちは

こんなにたくさんの方々を目の前にすると、だいぶプレッシャーを感じてしまいますけれども。早稲田の伝統だそうで、これから最終講義というのをさせていただくことになりました。タイトルですけれども、外の看板には三つの言葉が並んでいます。「公共圏、アンタゴニズム、そしてジャーナリズム」。だだこれは単語三つを並べただけで、本来のタイトルは次のようなものです。(板書し始める)

看板に入らなかったので、三つの言葉だけ看板には書いてありますが、これからお話したいことは「公共圏におけるアンタゴニスティックな文化的実践としてのジャーナリズム」で、これが私の付けた今日のタイトルです。
最終講義という場で何をお話するのか。お話をするときにはスタンスというものを決めなければなりません。それはどういう人々に向けて話をするのかで変わってきます。


(絵:笹島康仁さん提供)

では、この最終講義ではどのような方々を前にしてお話をするのか、と考えました。決して一様ではなくって、多様な方々であろうと。つまり的が絞れないなというふうに思いました。ただ私に何らかの形で関わりのあった方々が来られている、来られるであろうということは確かな事で。そういうことをいろいろ考えておりましたら、何を話したらいいのか分からなくなってしまいました。授業の講義でもありませんし、学会報告でもありませんし、学術講演会でもありませんし。そこで三日前に考えました。

みなさんの間では、おそらく単純に、大学から引退する最後に、お前の話を聞いてみようではないかと。こういう共通の関心事だけがあって、それ以外ではみなさん方は多様なバックグランドと関心を持っておられるわけで、そういう方々を前にして、結局私は我が仕事について語るという、そういうスタンスでお話をすることにしました。

普通講義ではそういう話はしないものですけれども、今日は例外とすることにします。講義というのは普段、私は大人数の講義ではパワーポイントを使い、手元にマニュスクリプトと言いますか、原稿は持たないで、パワーポイントだけでお話をする、そういう講義をしてきましたけれども。ドイツの大学での講義というのはフォアレーズング(Vorlesung)って言うんですが、学生の前で読む。何を読むかというとマニュスクリプトを読む。原稿を読むんですね。

ですから、ドイツの大学の先生っていうのはここ(壇上)で淡々と原稿を読みます。そして質問を受け付けずにサッと帰って行く。これがドイツの大学の伝統的な、最近少しは変わって来てますけども、そういうスタイルなんですね。
今日はフォアレーズング、みなさんの前で原稿を読むというスタイルでしたいと思います。普段の授業のようにパワーポイントは使いません。原稿なしでしゃべると、今日は何かヤバイことをしゃべってしまうかも知れませんし(会場爆笑)、それを防ぐためにも事前に原稿化してきたものをもとに、お話をすることにしたいと思います。 





    
 (絵:花田ゼミ卒須藤英一さんFBより)
  

  ゾチアールビッセンシャフトラーとしての我が仕事

我が仕事について語るということで。ではその仕事なるものはどのような属性の人間によってなされてきたものなのか。つまり自分の仕事について話しをする「お前は何者なのか」ということを片付けなければなりません。

私は自分を研究者とか学者とか呼ばれるっていうことについては大きな違和感を持っています。自分からはそういう言葉は使いませんし、そもそもピッタリ来ないんです。私の自己認識はビッセンシャフトラー(Wissenschaftler)、あるいはゾチアールビッセンシャフトラー(Sozialwissenschaftler)であって、このドイツ語が私には一番ピッタリとします。訳せば、科学者、あるいは社会科学者ということになるんですが、語感がちょっとずれます。

どうしてもそれをドイツ語で言わなければならないのは、私が20歳代後半からドイツで過ごした11年半の内に、私自身の自己認識をドイツ語によって獲得したからです。日本を片道切符で脱出して、主観的にはドイツに「亡命」をして、日本に帰る場所も無く、ドイツで自己形成していくしかなかったからです。今でも私の頭のある部分はドイツ語によって占められていますし、それで動かされているところがあります。結局私はビッセンシャフトラーであって、私の仕事とはゾチアールビッセンシャフトラーとしての我が仕事だということになります。






  公共圏という概念  


私の理論的バックボーンはドイツのフランクフルト学派にあります。それに魅力を感じてドイツに渡ったのですから、当然のことです。のちに事情あって日本に帰って、それからしばらくして、私は公共圏という概念に関わる論文を書き始めました。
1991年の論文「空間概念としてのエッフェントリッヒカイト--ハーバーマスにおける公共圏とコミュニケーション的合理性」、この論文がほぼ最初で、その後はあたかも「注文の多い料理店」のようになって、注文に応じて公共圏関連論文をどんどん生産していきました。
それらの既発表論文を収録して1996年と99年に単行本を出版しました。この仕事、つまり私の公共圏論というものは、1990年代のほぼ8年間で終わりました。もうそれ以上新しく書くことがなくなったからです。

この公共圏について書き始めた動機には次のようなことがあります。ドイツでは日常的にも、メディア上でも、あるいは学術的にも頻繁に使われる言葉、そしてそれなしには語りを構成できないような言葉であるエッフェントリッヒカイトという言葉に相当する日本語が日本ではあるのか。ないのではないかという疑問でした。日本語ではそれに相当する言葉、あるいはその概念なしにどうしてやっていけるんだろうか。その概念がないことによって、どういう作用があるんだろうか。
もちろんこれには逆のことも言えます。日本語の「世間」とか「情け」とか、あるいは「無常」とか、こういう言葉はドイツ語にはほとんど翻訳不可能です。

ゾチアールビッセンシャフトラーとしての私は、そのエッフェントリッヒカイトを空間の概念であると捉え、それに公共圏という訳語を与え、その概念を装置としてメディア、コミュニケーション、情報、ジャーナリズムなどに関わる社会現象を観察、理解、説明、解釈、記述していくという、そういう仕事をしてきました。

その際私の関心にあったのは「パブリックなるもの」、その発生と存立ということでした。それはプライベートな領域ないしは生活世界における私人、プライベートパースンズ達のインタレストから出発をして、それが権力との交渉関係に入るときに形成されてくるもの、浮上してくるものを「パブリックなるもの」と捉え、その「パブリックなるもの」が行為として、関係として展開される舞台、すなわち空間を公共圏と捉えました。

したがって、公共圏は国家に向き合って対峙しているという構図の中に描かれます。その交渉関係の中で公共圏では、国家に対する言論表現の自由の要求、そして他者の言論に対する寛容な態度、これらの規範が掲げられていくことになります。

私にとってハーバーマスの議論で印象的だったのは、「システムによる生活世界の植民地化」という命題でした。これは1981年に私がまだドイツに居た頃に出版された『コミュニケイション的行為の理論』で打ち出されたもので、現代世界の矛盾が発生する基本的な構図を説明しようするものでした。配布資料の図をご覧くいただくと、分かり易いかも知れません。


『公共圏という名の社会空間』(木鐸社)、171頁より

なぜ現代社会の矛盾が生まれるのか。ハーバーマスはまず現代の社会構成体を、一方に国家行政組機構と資本主義市場からなるシステム、他方に私的生活領域(または親密圏)と公共圏からなる生活世界という二元構造で捉えて、それぞれに異なるそれぞれの合理性原理を説明していきます。
そして、それら二つの行為領域が、つまりシステムと生活世界が、無媒介的に存在しているのではなく、システムの側の合理性という価値が、権力とお金に乗って、つまりそれらをメディア(媒介物)として生活世界の中に入り込んで行き、そこに存在する別の合理性の価値を侵害し、侵食し、破壊していく。その結果、生活世界の中に様々な病理現象が生まれるのだと、そういうふうに説明をします。そのような事態を、彼は「生活世界がシステムによって植民地化されている」というふうに表現したわけです。

では、植民地化の事態をどうするのか。彼の処方箋は公共圏と親密圏の力を強めて、植民地化圧力を押し返そうというものでした。それを担うべき公共圏の主役はアソシエーションだと。つまり個人の自由意思に基づく連合組織であり、当時登場していた「新しい社会運動」、そのNGOやNPOということになります。
メディアが改革される展望が立たない中で、権力化したメディアや広告産業のビジネスと化したメディアには、もう公共圏プレーヤーを期待することは出来ませんでした。






 
公共圏という名の社会空間―
 公共圏、メディア、市民社会』1996年



『メディアと公共圏のポリティクス』
 1999年














Distinguished guest lecture by Jurgen Habermas at KU Leuven

























ハーバーマスと筆者。2012年9月ハーバーマスの自邸にて撮影

  ベルリンの壁が崩壊


この植民地化命題は、繰り返しになりますけども、1981年のものです。その本は日本では1985年から翻訳が開始をされました。それが書かれた1981年以前、それはまだ東西冷戦の真っただ中で、欧州ではパーシングUとSS20の核ミサイルが向き合って発射台に並んでいた、そういう時代です。核戦争5分前などという時計が掲げられていた時代です。そして、予想外なことに1989年のベルリンの壁の崩壊がありました。私がドイツに暮らしていた86年まで、ベルリンの壁が崩壊するなどいうことは夢にも思いませんでした。

歴史とは大変不思議なもので、予想しない事が起きます。そしてその壁の崩壊を勝利だというふうに捉えたいわゆる「西側」は、それ以前からの新自由主義の傾向をさらに強めて、新自由主義のグローバル化を進めて行きます。その状況の中で植民地化命題に立つならば、アソシエーションによる脱植民地化闘争と呼ぶべき闘争が必要だっただろうと思います。あるいは植民地解放闘争と言っても同じことです。押し返すというのでは受け身で弱すぎます。なぜならシステムはそのまま放置されて、無傷だからです。対抗的な力でシステムを変えていく戦略が必要でした。

しかし、私は、90年代の私の公共圏論の8年間で、そのような明確な戦略を持った公共圏論も書くことはできませんでした。今から振り返ってそう思います。







 (絵:ネットより)


The fall of the Berlin Wall in 1989

   カルチュラル・スタディーズ  


他方、1986年チェルノブイリ原発事故の直前、2,3日前に西ドイツから帰国をして、それからしばらくして私は英国の学術界との関係を持ち始めます。ウエストミンスター大学のニコラス・ガーナム教授と知り合ってから、彼によって英国のメディア・スタディーズの人々に次々と紹介されていきました。
ガーナムは英国においてエッフェントリッヒカイトの概念を基にしたパブリックスフィアー論の先駆けであって、サッチャー政権下の英国におけるパブリックの危機を問題にしていました。ドイツ語でハーバーマスやハイディガーを読み、フランス語でブルデューを読んでいました。

私はガーナムのお陰でカルチュラル・スタディーズの人々とも知り合いになりました。途中を省略して飛躍しますけれども、1995年3月にロンドンでスチュアート・ホールに会って、東京に来て欲しいと説得をし、1年後に東京でシンポ「カルチュラル・スタディーズとの対話」を開催するという同意を彼から得ました。私はその後、1年間の死にもの狂いの準備で、何とか開催に漕ぎつけました。スチュアート・ホールを入れて6名の英国のスカラーを成田空港で出迎えをして、シンポは開催へと至りました。4日間行われました。

しかし、そのシンポの結果は私の思い描いていたものではありませんでした。また参加者からは私は批判も受けました。で、私はそれが終わった後、「少なくても日本では二度とカルチュラル・スタディーズには接触をしない」と心に決めました。もうこりごりだと思ったからです。


 



   
所長の伝言 2014年2月13日 「未完の対話」参照
下部掲載 「未完の対話」へ
 


The Stuart Hall Project (2013) を観る
 
  公共圏の工作者・耕作者  


しかし、私自身はカルチュラル・スタディーズから離れた訳ではありません。深く潜航した、潜っただけのことです。種明かしをすれば、そのカルチュラル・スタディーズの看板を立てずに、カルチュラル・スタディーズを実践することにしたのです。ライティング・カルチュラル・スタディーズではなく、ドゥーイング・カルチュラル・スタディーズということです。どうしたか。文化的実践者あるいは社会的表現者としてジャーナリストを捉え、その養成という実践をカルチュラル・スタディーズ的にやっていくということです。

私はそれ以前から、ジャーナリストを諸力の錯綜し葛藤する公共圏の耕作者、そして工作者として位置づけていました。(板書をする)発音が同じ漢字なので、文字にするとこうなります。一つは耕作者、もう一つは工作者。

もう一つ、私をして、いわゆるジャーナリスト養成教育へと向かわせた要因に制度論者としての帰結ということがあります。長らく日本のメディアやジャーナリズムを制度論的に分析してきましたが、その機能不全の原因にプロフェッショナリズムの欠落があるということが分かった時に、どうするのか。首飾りにミッシングリンクがあるから、繋がっていないのだということを知ったときに、どうするのか。指摘しただけで放置しておけばよかったのに、その欠落したものを作り出そうと考えてしまいました。

どうして、そう考えてしまったのか。それはカルチュラル・スタディーズからの声が聞こえてきたからです。もちろん、それは日本のカルチュラル・スタディーズではなくって、私の頭の中のカルチュラル・スタディーズです。で、文化的実践者を育成するという文化的実践、そのものへの誘いです。同時に、それはパブリックなるものを生産する公共圏プロジェクトの一環でもありました。

このように私の場合、制度論とカルチュラル・スタディーズの合流した所にジャーナリスト養成教育は成立をしたのです。こうして平たい表現で言えばジャーナリスト養成教育なるものに参入をしていくことになりました。







 (絵:笹島康仁さん提供)









   トロイの木馬作戦
 

そして、やがて、ある人の他界が理由で、その人の遺志を継いでジャーナリスト養成教育をやって欲しいと、早稲田大学に呼ばれることになりました。それは2005年秋の出来事で、2006年4月から私の早稲田での授業という12年間が始まります。
独立したジャーナリズム大学院を全学一致態勢で作るという構想を大学執行部に提出しましたが、その構想は残念ながら結局のところ挫折をし、私はそこから手を引きました。しかし、学部学生を対象とした全学共通副専攻ジャーナリズム・コースの仕組みづくりの方は首尾よく進んで、カリキュラムを継続的に改善し、ティーチングメソッドを実験・改良し、教科書や事典の出版もしてきました。

私は学生たちに、「これはトロイの木馬作戦だ」というふうに話をしてきました。この人材育成教育は日本独特のシステムである、いわゆる「マスコミ」への人材供給のためでもないし、ガラパゴス化した「マスコミ」の延命に手を貸そうとした訳でもありません。ジャーナリズムとは何か、ジャーナリストとはどういう職業か、このことを実践的に理解し、そのミッションを引き受ける覚悟のある人間を、木馬に乗せて、その木馬を城門から通して「マスコミ」にプレゼントし、城内に入った彼ら・彼女らが夜木馬から出て、その城内を作り変えていき、やがて連帯してそこにジャーナリズムを実現するという、そういう作戦。

そうした若者によって、ジャーナリストの疎外形態としての「マスコミ・システム」を作り直し、ジャーナリストが主人公になるシステムを形成するという作戦、日本の公共圏をジャーナリズムによって活性化するという作戦、ということでした。

で、今こうして会場を見渡しますと、このトロイの木馬の戦士が何人もこの会場にいらっしゃることがよく分かります。果たして、みなさん方、この間お元気だったでしょうか。送り出した身としては、そこが大変気になるところです。

しかし、この作戦も今日では以前より大きな困難に直面をしています。明らかに曲がり角ですし、あるいは「すでに曲がり角を曲がった後だ」と言えるかも知れません。つまり、この作戦の有効性そのものが疑われる状況なのです。一つは、学生を送り出す先のメディア企業の状況が一層悪化していき、「もはや有為な若者を送り出すには値しないのではないか」と考えざるを得ないような段階に来た、ということです。

送り出した学生諸君はメディア企業の矛盾した現実の中で大変苦労をしています。志を持っているからこそ、逆に軋轢を感じて苦労しています。そういう卒業生たちと話をしていると、メディア企業、メディア組織、その現場は人間破壊工場ではないかと、そう思うほどです。





 

『エンサイクロペディア 現代ジャーナリズム

 

 レクチャー現代ジャーナリズム






  学生のジャーナリズムへの関心低下  


もう一つが学生のジャーナリズムへの関心低下です。私たちが授業で呼びかけ、語りかける母集団の数が激減してきたということです。これについては私の印象論ではなくって、データでお見せしたいと思います。お手元の表(右欄)をご覧ください。

これはジャーナリズム概論というコア科目の履修者の数の変遷です。私が早稲田大学に来た年、2006年の履修者数は150名でした。ただし、いわゆる選外、この大学で言っている、「受けたいと思ったけれども、定員オーバーだったので、受けられなかった」という学生、これを選外者と呼んでますが、その数が51名。その後、定員を300へ、さらには500へというふうに増やしていきました。選外になる学生が気の毒だと思ったからです。2009年から登録履修者数は400人台、多い年になると561名。
この履修者数のだいたい75%が毎年、単位を取得していきます。つまり合格していきます。2012年も定員500だったと思うんですが、それより多い561名を取っていますね。この数字が2016年、17年になって突然がっくんと減るわけです。200を切りました。500のオーダーの関心が示されていた科目が、ついに200を切る関心状況へと大きく転換したわけです。
この場にはジャーナリズム概論の授業を受講されて卒業された方々もいらっしゃる。少なくないと思いますけれども。この激減には何が影響しているのか。去年、2017年の春学期に行ったジャーナリズム概論は定員300で行いましたが、登録した学生は101名。この激減の理由は何か。
私にはこの理由ははっきり分かりません。分からないんですが、一つ言えることは、こういう事です。ただ、それが今に始まったことかと言うと、それは疑問なんですけども、学生たちにとってジャーナリズムの現状は魅力的には全然見えていない。ワクワクしたり、スリリングなものを感じたり、そういう対象ではない、ということです。 

現にメディア・プロダクトの現実、つまり新聞紙面やテレビ番組やそういうメディア・プロダクトの現実の中に、そのようなもの、ワクワクさせたりスリリングであったり、そのようなものを感じる機会はほとんど無く、斜陽産業や記者クラブなどの問題ばかり指摘される状況なわけです。ですから、これは仕方ありません。学生のこれだけの関心低下というものは無理からぬことだと思います。

こうして、トロイの木馬作戦は大きな限界に達しました。私は個人的には今までと同じことをやっていくことの意味はあるのか、ないのではないか、と考えるに至っています。

丁度その時に、私は大学を去る年齢に達し、自動的にこの作戦から離れることになりました。昨年春学期に行ったジャーナリズム概論が最後でその科目の歴史に幕を閉じ、廃止することになりました。それなのに、今年の1月、この科目はティーチング・アワードを受賞しました。つまり大学から褒められたわけです。廃止を決めた後で褒められるっていうのは何とも不思議で、皮肉なものです。どうせ褒めてくれるなら、もっと早くして欲しかったです。(会場ほほえむ)いずれにしても新しい状況に対応した何らか別のものが必要なことは明らかです。


  講義 その2へ   









2005年度までの科目名称は「ジャーナリズム-理論と実践」

2006年度以降の科目名称は「ジャーナリズム概論」




2015年度「ジャーナリズム概論」学部別履修者数



 
2014年2月13日     「未完の対話

 ステュアート・ホールが2月10日(月)に亡くなった。その日、その悲しい知らせを私は受け取った。享年82歳だった。英国に行けば、まだ会えると思っていたのに。

 The Guardian紙のネット版にDavid MorleyとBill Schwarzによる彼の死亡記事が掲載されたが、その見出しは「ステュアート・ホール:影響力ある文化理論家、社会運動家、『ニューレフト・レビュー』の創刊エディター」となっていた。その記事によれば、彼は人工透析を受け、さらには腎臓移植も受け、体力がかなり失われていたという。

 私は彼の大きな手とその温かみをいまも思い出す。最初に会って、握手したのは1995年2月20日午後、ロンドンの大英博物館に近いラッセル・ホテルのロビーでだった。彼はステッキをついて、玄関をゆっくりと入って来た。厚手のコートに身を包み、大きな体に見えた。握手したときに、目が微笑んでいた。そのとき、なぜか私は交渉の成功を理由なく楽観的に確信した。交渉とは、東京で開催するシンポジウムのために東京に来てくれるかどうかであった。ロビーの横のカフェーで向かい合って座った。彼はこの場所が好きらしかった。ガラス越しに冬の柔らかい日差しが射して、その一角は暖かかった。話が本題に入ると、しかし、彼の態度は厳しかった。東京に行っても仕方がない、イタリアでのシンポはひどいものだった、この間南アフリカまで行ったけれど飛行機の旅は体にきつい、オープン・ユニバーシティの教科書制作で忙しくて時間がない、などなどネガティヴなことばかり、剣もほろろの態度。私は最初の楽観を根拠に、よし、説得するぞと意を決して、説得にとりかかった。東京にとってそのシンポジウムにどのような意義があるか、なぜ彼が東京に来る必要があるか、それがカルチュラル・スタディーズにとってどのような意義があるか。1時間半かかって、彼の態度は多少軟化し、興味を抱いてくれたようだった。私はやっとスコーンをひとつ、口に運んだ。彼はジャケットの内ポケットから手帳を取り出し、カレンダーを見た。教科書制作のスケジュールとの調整が可能かどうか、調整してみようと言った。可能性のある訪日日程もいくつか挙った。あなたが1週間後にまたロンドンに戻って来たら、連絡をほしい、それまでには結論が出せるだろうと続け、目が微笑んだ。会ってから2時間が過ぎ、交渉と会話を終えて、彼はまたステッキをついて、大きな体を揺すりながら、ラッセル・ホテルの玄関から寒気の街頭へと出て、夕闇のなかに見えなくなった。私の手には彼の手の温かさが残った。ただ、彼の健康は不安定そうに見えた。(注)

 私は彼の書く英語も好きだが、彼の太い声も好きだった。もうその声を聞けなくなったと思ったら、昨年9月にJohn Akomfrah監督によって“The Stuart Hall Project”という映画が作られたそうだ。バックに流れるのはマイルス・デイビスだ。いつこの映画を観ることができるだろうか。そこではまた彼の声を聴くことができるだろう。

彼の死をごくパーソナルに私は悼む。


)このシンポは実際、1996年3月15日から4日間にわたって行われた。その準備のため私は疲労困憊し、疲弊した。ホールを含めて6名が英国から同じ飛行機でやって来た。このシンポの記録は『カルチュラル・スタディーズとの対話』(新曜社、1999年)として出版されている。シンポとその後の推移は私がラッセル・ホテルで思い描いていたこととは別のものとなった。

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The Guardian紙のネット版にDavid MorleyとBill Schwarzによる彼の死亡記事が掲載された