花田達朗教授による公共圏 続編
2002年11月2 日の建築あそび の記録   秋 ー3 
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あれも非常に面白い言葉ですねー。言葉っていうのはよくよく考えてみると面白いことが沢山あるんでねー・・。なぜ余暇っていうのだろう・・それは労働が中心だからですね。労働というモノを中心にして考えるから労働以外の時間は余った時間となる。

               会場笑い
    
余りかつ暇な時間。

会場笑い・・リ・クリエーションという言葉もありますね・・

り・クリエション、これは再創造。じゃ何故 リ・クリエーションというのか・・

会場クリエーションに対応して・

労働の為に、労働する体をり・クリエーションする。労働する体を再びクリエートする。再び作りだすっていうことなんですね。ある面で非常に不遜な・・傲慢な言葉だと思いますね。

会場笑

ようするに労働中心主義。あるいは労働する人間がパブリックであり、それが中心であって・・その労働する人間がですね。再び明日もまた、労働できるようにリ・クリエーションするわけですね。

会場なるほどね・・

再び明日も労働出来るようにレジャー時間というものを持って労働時間以外の時間で・・・その時間で生産の為に自分の力を再生産するわけです。プロダクションするために、プロダクションする力をですね・・肉体的・知的な力を再生産 リ・プロダクションしないと翌日の生産が出来ないと。だからそういう生産をする場所が公の場所であって、生産の為に自分のエネルギーを再生産をするのが私事の場所だという切り分け方になっていくわけですね。

さらに生産消費という切り分け方になって行く。消費というのは家庭で行われる生産があってその生産物を消費する場所がある消費する場所が家庭、それは私事の世界。そういう切り分け方になってきているんですね。

 公共圏=ポリス =政治=国家=公事=生 産 =生産= オトコ
 私事圏=オイコス=経済=社会=家事=再生産=消費=オンナ


実はそういうふうな一連の切り分け方の中に・・ズーット変わらず付いてきた問題があります。それがその 上(公)の所を担うのは男であって、下(私)の所を担うのは女であるという切り分け方であり、その固定化ですね。これはズーット続いてますね。

政治をやるのは男であり、家計の切り盛り、要するにエコノミーをやるのは女。生産をやるのは男であって、家庭での再生産、教育を含めてですね・・生産をするために外に出掛けて行く男の為に食事を作り、衣服を洗濯をし・・家事労働ですね。コレをやるのは女であると。ということでズーット切り分けてきて・・公と私との切り分けが実は男と女の切り分けとズーット一体化してきて、それが固定化してきたというのが今までの歴史だったと

しかもその・・家事私事の世界において、それは全てレジャーか・・というとそうじゃないですね。レジャーだというのはあくまで労働する人間にとってのレジャーを言っているわけでね・・外にでかけて行って労働して家に帰ってきたからその労働する男にとっては家庭でのレジャー時間だと。自分の余暇時間だと・・。家事というものをずっと切り盛りしてりいる女にとっては決して家庭はレジャーの場所ではないですよね。

会場笑い

つまりもう一個ある見方の裏に控えているのは・・公の世界の労働というのは有料労働。それに対して私事の圏での仕事・・これも労働なわけですけれども・・家事労働。これは無料の労働であると。支払われないと。そういう区別が二項対立には含まれているわけですね。こういうカタチで公と私は切り分けられてきた。パブリックとプライベートというのはこういうカタチで切り分けられてきた。
   

繰り返せば、公と私という切り分け方はですね・・古代ギリシャもそうだし、それから近代世界もそうなんだけれども、男女という性差。社会的な性差ですね。生物学的な性差じゃなくて、社会的な性の違いによってズーット切り分けられてきた。そういう問題を孕んでいるということです。

ということはですね・・公共圏の理念・・と言った時にデスね・・誰でもが自由に平等に入ることの出来る世界。身分を越えた世界。そこで自由な討論が行われるんだっていうことが公共圏の理念だったけど、しかし実際の世界はズーットこれまでそうはなっていないということになる。何故ならパブリックな世界っていうのは男権・・男性社会であって、・・女性というのはあくまでプライベートな世界の住人にさせられていたということですね。

じゃ・・公共圏という理念と違うじゃないかということになるわけですね。これが公共圏という概念に対するフェミニストからの批判ですね。

会場 ふふぅ・・

ジェンダー論からの批判です。これには一理あるんですね。一理あるなんていうとフェミニストから「一理なんて失礼な・・

会場笑い

と言われると思うけど・・う・・まっとうな話なんですね。ジェンダー論の立場からすると公共圏論というのはその点において批判されてきました。

公共圏ないしパブリックな世界では身分を越えて誰でもが自由平等に、と言っているけれども、「実際の公共圏というのは家父長制的な世界であった」ではないかと。家父長制的っていうのは男性中心的な・・父親の権威主義の世界のことですね。

つまりパブリックな世界っていうモノはですね、自明の前提としてそこに存在しているというふうに決して見ることはできないというわけですね。・・じゃ・・どうしてそういうふうに言えるかというとですね・・公と私の切り分け方っていうのはですねー・・やっぱりおかしいと言えるわけです。そのスローガンが、そこに書いてある

The Private is  Politicalという言葉なんですけれども。私的なる事は政治的な事であると。

私的なる事は政治的だというモノの言い方。これは非常に・・なんていうかなー・・意味ある言葉で・・というのは普通は今まで・・私的なる事は政治的ではないというふうに考えられてきた。政治的なる事というのは常に公共的なんですね。公共圏あるいは公共的なる事、あるいは公なる事が政治的 なんです。ということは私的な事は政治的なことじゃないんだ、と言ってきたわけなんですね。

それに対してフェミニストは私的なる事は政治的なんだと、・・こういう風に投げかけてきてるんですね。これはどういうことだと。今までは私的なる事は政治的な事ではないと言われてきたけれど、実はそうではない。私的なる事こそ政治的なんだと。ということをこのスローガンは言おうとしているわけですね。これはどういう事か・

・・ながーい・・・沈黙・・・

あー・・卑近な例で言ったほうが分かりやすいですね。最近新聞の見出しにも出るようになった言葉ですけれども・・DV・ドメスティク・バイオレンスの略ですよね。別の言葉でいうと家庭内暴力ですよね。で・・・・家庭内暴力・・夫婦間の暴力ですよね。あるいは恋人同士でもいいんですけれど。ようするに男女のプライベートな世界の中における暴力の問題は、これまではそれはプライベートな問題だと片づけられてきた。

    

例えばですね、夫婦喧嘩して暴力沙汰になったと。それを警察にもって行ってもですね・警察は取り合いませんでした。コレまでは。どういうふうに言ったかと「それは夫婦間の問題だからプライベートだ」と。夫婦間の問題、あるいは恋人同士の間の暴力の問題はプライベートな世界の事だから警察は関わりませんと言ってきました

それに対して、ドメスティク・バイオレンスと言う概念が社会化されることによってどういうことが定義されていくかって言うと。ドメスティクなつまり家庭内での出来事は、それは決してプライベートじゃなくてポリティカルな問題ということですね。つまりそれはパブリックな問題になりうる。夫婦間暴力・恋人間の暴力っていう問題はプライベートな問題だっていうことで、当事者間の間だけで解決せよというふうに言える問題じゃなくて、これはパブリックな問題 だと。そういう主張になったのですね。

だからその・・プライベートな暮らしの問題は・・他にも様々な事例があります。別にその・・DVの問題だけじゃなくて・・今日我々がプライベートな問題だと思ってその世界の中にとどめ・・その世界から外に出してはいけないと思いこんできたことは実はそれはパブリックなもの・・というふうに再定義されないといけないということが沢山でてきまして・・・

 そういう・・これまで固定されて来たパブリックとプライベートっていう区別、その固定化をデスね、今言ったような話の中から揺さぶりがかけられて・・・この区別というのは決してそんなに単純なモノではなくて、むしろ入れ子状況になっている事柄なんだという認識が生まれ、かつ定着してきている

公と私の切り分けのその境界線がですね・・固定されたものでは決してなくて、モット非常に複雑であって、そこに大きな揺らぎやからみ合いが存在しているというふうなことですね。

それが一つですけど・・じゃーその揺らぎの中でですね・・どういう風に・・パブリックとプライベートというのを捉えたらいいんだろうかと言うとですね・・・。私は・・公共圏ということと私事圏

 佐藤笑う

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