2005年9月09日 荒武賢一朗さんと 建築あそび 講演記録   home  

 はじめに   江戸時代大阪の青物流通   都市と農村  幕末期   
 明治以降   おわりに              呑み語り1  呑み語り2 

 幕末期

続いてレジメの二枚目に 移りたいと思います。そういうような状況で大坂での野菜の流通というのは天満市場が中心で動いていたけども、実際には難波の百姓市のような形で、いろんなやり方で、多様なルートが出来て消費者のもとに届けられていくというのが出てきました。

が、幕末に入ってくると、この青物流通にもまた色んな状況が出てきます。上の方は飛ばしていきたいと思いますけど、天満の市場商人たちと大坂の周辺の農民達の争いごとが 沢山出てきますけど、非武装なんですね。対立構造はあるけど、喧嘩はするけど理論的に喧嘩をするという。

例えば話し合いにより解決を求めていたりとか、お互いに代理人を出して、通路人という代理人を出して直接話し合いをしないけど、代理人同士で協議をするとか。幕末の段階で出てきます。

これはですね、一つは先ほどポイントになりますが、大坂町奉行所っていうのが出てこなくなります。幕末になってきます。先ほど見て頂いたようにですね、大坂町奉行所というのは「これはイエス これはノー」は、ハッキリ直ぐに結論は出さないんですね。

そういうものにたまりかねてかというのと、幕末は幕府の力が弱くなっていますので、その政治に対して頼らないというのが 民衆の論理としてあると思うんですが、町奉行所を介さずにそういう訴訟とか調停とかではなくって「当事者間で話し合いをやろう」というのが幕末の特徴であります。

そんな中で一つ、これは私が注目してることなんですが、一つ●で書いてますが、摂津の国西成郡 稗島村(ひえしまむら)という所の西瓜取引の事例を出しておきたいと思います。

これはですね、これも資料の方のno2と書いてある・・地図が小さいので恐縮なんですが、この端の二つです。

図1、図2です、この稗島村というのは、今の大阪市の淀川改修で沈んだ所です。大体この辺になります。 姫島という当たりが、この稗島村の位置でここは尼崎市と言って、兵庫県なんですね。この川を渡ると兵庫県で、ここまでが大阪市の領域になります。

ここの稗島村というところなんですが、この図1で見ていただいても、西区とか北区とか東区とか、南区とか書いてるのが大坂市中です。江戸時代から続く大坂の旧来的な町ですね。ここから、距離的には10キロ以内の距離ですので そんなにな離れていない所に 稗島村というのがあります。

勿論 ここで、現代の地図になっていますが川が、河川が、川沿いですので、交通の便としては良い場所です。ここに拠点を置き西瓜の取引の中継者になるということになります。

さきほど説明した、難波村の百姓市であれば 難波村という一つの地域で 市場が出来て。これはちょっと推論も入りますが、他の所の商売人がやって来たりとかして、市場の様な商売をするんです。

が、稗島村の西瓜取引の事例を見ると、稗島村という地域ではなくって、そこに住んでいる商人たちが いろんな所に西瓜の買い付けに行ってですね、それで大坂の物運ん で行って、高い値段で売るか安い値段で売るか知りませんが、市場とは違う動きすると。

この商人達が直接 大坂の小売商に行ったりとか消費者に直接物を売ると。いうような事もやっていると。そこれを言葉で言いましたが、図式化すると、図2になあります。

西之宮というのは、阪神タイガースが拠点を置く甲子園がある、兵庫県西宮市ですね。
それから大和田村というのは稗島村の西側にある村です。近隣の村。千島新田というもの、近隣の村で、その他近隣新田というのが、図式の一番左側に出ているのが西瓜を作っている生産地の一覧ですね。

各生産地で出来た西瓜が稗島の商人に渡って市場問屋に行くはずなんですが、行かずに大坂市内の小売商の所に大体流れて行くというような事が起こって来ます。

新田というのは、砂地なんですね。図1は細かい字で幾つか地名を書いてあるんですが、ここは新田地帯で江戸時代の中盤にですね、新たに田圃として開発されて、もともと海だった地域です。ここは大体砂地で出来ていますので、西瓜の栽培に非常に適しているとうんで。「新田西瓜」というと大坂でもかっては 非常に有名なブランドの一つであったんです。

そういう所から稗島の商人たちが西瓜を買い占めてというか、買い取って自分たちの好きなように商売をしていたという事例があります。

ここをみてみますと地域がどうこう と言うんじゃなくって、商売をする担い手が、こういう稗島という所から出てきて。これは交通の便がいいということが一つあるんです。そういう者が出てきて、天満の市場というのを脅かして行く存在になるということです。

そういうことが大坂の江戸時代の青物流通の特徴かな〜と思っております。

  
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