2005年9月09日 荒武賢一朗さんと 建築あそび 講演記録 home
はじめに 江戸時代大坂の青物流通 都市と農村 幕末期
明治以降 おわりに 呑み語り1 呑み語り2
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江戸時代大坂の青物流通
まず一つ目の所からお話ししたいと思います。漢字ばかり並んでるんですが、簡単に野菜に関わる、野菜そものの研究も必要なんですけども、
野菜がどういうふうに運ばれて、どういうふうに売り買いされているか ということをまずお話ししたいと思います。
1)江戸初期から・・
江戸時代大坂の青物流通ということで、先ほども申し上げたように、青物という表現をしてます。ここでは野菜とか果物を
青物と言葉に言い替えているわけです。例えば江戸時代の最初の段階でいきますと、先ほど言っていた
大坂の町の中に、周辺の村からですね、たくさん野菜が入ってきて、
市場に入って・
小売りに流れて・
一般の人に入って来るというのが基本的なパターンなんですが。
江戸時代の初期段階は、外から入ってくる、農村から野菜が町の中に運ばれて、町のからは何を出すかというと
下肥を出すということですね。「
お金ではなくて物と物のやりとりをすると」というのが江戸時代の最初の段階です。
それが徐々に変わってくるのが、一つには市場が出来ることです。ここの書いてありますように、
天満青物市場、承応2年。西暦
1653年なんですが。
江戸時代が始まってだいたい50年。この時に市場が出来て。レジメにゴチャゴチャ書いてありますが、
天満というのは大阪城の脇の所なのですが そこに出来ます
ここは基本的には大坂の人々が消費する、食卓にならぶ野菜を全て、「
ほとんどをまかなおうと」いうことで設立されるんです。この背景には「
最初 物々交換やってましたよ」というのがあるんですが、
これでは太刀打ちできなくなった理由があるんですね。これはここに書きましたように、やはり
人口が増えてくる。最初は20万30万とうところが、承応になると
100万人近くの規模になってきたりと。
人口が増えるし、その人口が増えることで、周辺の村では「
米を作らなくても野菜を作ったほうが儲かるじゃないか」という論議が出てきます。そうすると物々交換だけでは対応出来なくなってきて「
じゃ〜市場を作ろうか」という話になってくると。括弧に書いてますが
お金のやり取りが出てきます。青物を売ってお金を得てということですね。農民にとってはそういうことですし、町人も市場から野菜を仕入れて、そのためにはお金を払うと。今までの物々交換とは変わってくるこということになります。
この時期には青物だけではなくって、全体的に、お米のやりとりでもそうですし、いろんな商品ですね、お金でやり取りをされると。これは我々一般的に「
貨幣経済の進展」という言葉で誤魔化しているところがあるんです。
今もそうですけども、今も皆さんお店に行って、皆さんお買い物されて その時は
お金を払われると思うんですが、こういうことが一般化して来るというのが、だいたい
西暦1650代以降だろうと思っています。
そういうふうな形で市場とういうものが出来て、物と物のやりとりから、
お金ですぱっと
ビジネスに変わってしまうというのが、この時期だということです。
そのあとに 「
天満の青物市場という所をだれが仕切っているか」というと。
ここに拠点を置く商人達なんですね。彼らは
仲間を作るんですが。これは西暦
1772年で、資料1と書いてありますが、飛ばしますけども、この市場を牛耳っているような商人達ですね。
彼らが何人か集まって、実際に
仲間を運営して。市場の野菜の値段とか、全ての所に彼らが口を出してくると。運営に一番力を持っている人達が居るということです。
それからもう一つ、中身として紹介するのはこの天満市場に 「
どういう所から青物が入って来るか」これだけは御説明したいと思うんですが。
資料の方のNO2の左上ですね。表丸一ということで、一寸 落書きみたいに書いてるんですが。出荷の地域、それから商品の名前を出しています。ここでは江戸時代の後半ですけども、大坂の市場にどういうものが入ってきているかというのが出ています。
一番上には、
美濃国というのは今の岐阜県ですね。美濃から入っているもの。その下は
尾張、名古屋ですね。それから
伊勢。
近江というかたちで、この地図には出てこないような、幅広い地域からものが入ってきていると。美濃から、4っ目の近江の国ぐらいまで、これは滋賀県ですが。ここまでは
遠隔地という、大阪から遠い所と位置づけられます。
美濃の国に書いてありますが、
細干大根とか大根の千切り干しとか。いろいろ商品が出ているんですが。遠い所なんですね。
船で一寸行って日帰りで帰ってくるとか、そういう距離ではないので、ここから入ってくる物については
日持ちのする商品ですね。直ぐに腐らないっていうものが中心になっています。
山城国とか
丹波国。丹波はちょっと遠いですが、山城の国というのは
京都なので、会場の地図の右上の方に
川がいってますが、この真ん中を通っているのが
淀川でして、淀川をズーット上っていくと京都に行くんですね。京都周辺が山城国なんです。このあたりから下は、だいたい
大阪に日帰りでこれる距離であります。
船で運ぶんですが、こういう所は
鮮度が要求される物ですね。こういったものが中心になります。直ぐ腐るような商品ですね。「
一日のうちに持っていかないと、商品として価値が無くなる」というような物が近場から運ばれて来ると。というのが
江戸時代の後半の状況かな〜と思います。
それからレジメの方に戻りますが、
近接 農村ですね。さっき言っていたような。中心からちょっと外側。このあたりでは特に
ナッパ類と言うんですかね。直ぐに畑から商品を引き抜いて、土が付いたまま市場に運んだりするんですが。そういった物が出ています。これは表2という、先の表1の横に出てますが、これは後でご覧頂いたらいいと思うんですが、近い地域は特にナッパ類、鮮度が要求されるものが中心になっています。
表の2に出しているんですが、
木津村とか
難波村とか
天王寺村というのが出てきます。もし御関心があればですけど、大坂の中心というと、「
梅田とか難波」とか。「北と南」と言っているんですが、そのその地域は
もともと村でして。ここに出てくる
難波村というのは江戸時代は青物の生産地として、非常に重要は拠点であって いろんな野菜を作っていたという地域です。
今は南海電車とか近鉄電車の発着のポイントになる駅になってまして、大阪でも有数の繁華街です。当時は広大な畑をもっていたという場所であります。
この難波とか天王寺とは「
畑場八ヵ村」という言い方としていまして、
この八ヵ村で沢山の青物が作られたりとか。この八ヵ村
でしか作れない、今・一般には
伝統野菜というふうに呼んでいます。そういった物が生産されて、
大坂の食卓には畑場八ヵ村というのは欠かせない地域になっています。それが江戸時代の後半の状況です。
もう一つですね
江戸時代の特徴というのは先ほどの「鮮度の問題」とか「日持ちをする」とかと言う話しをしたんですが、やはり「
流通手段の限界」というのがあります。
会場の現在大阪の地図に出ている
淀川。これは
明治25年に改築をしますので、綺麗な状態になっているです。おおよそ京都から大阪にずーっと大阪湾にめがけて流れて来る川があるんですが、こういった川を中心にとして
川船を
中心として野菜を運んできたりとか。
あるいは
町から村に肥料を運んだりとか。そういことをやっているんです。野菜の流通についても
川を上手く使いえない村は 置いて行かれるんですね。
川沿いの村というのは非常に流通の発達している村であって、
川からちょっと外れてしまうと、「
肥料も供給できない」し、「
鮮度も要求される商品も出荷できない」というで、
流通手段の限界という、そういう村の立地条件というか、
地理的条件に左右されるというのが江戸時代の状況でありました。
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