大室佑介入門  私立・大室美術館訪問記 篇 2025年5月16〜18日   作成:佐藤敏宏
2025年5月16日 羽田〜彦根市〜津市 漫遊

羽田へ
■ my長女を見送る@羽田空港

(5月16日早朝のこと)

5月2日から帰国していたmy長女は5月16日羽田8時45分発の飛行機を予約していた。
my長女は福島に2日の夜もどり、3日に家族会議を済ませ4日は札幌へ飛び観光地を訪ねあるき7日から都心の民泊に滞在していた。my長女が帰国するたびに都心に民泊を確保しているので、泊めてもらい東京で私的活動するようにしている。今年の5月は10日から16日まで東京メトロ・東西線「早稲田駅」そばにある民泊に潜り込み都心の公園や文学館、歴史資料館を訪ね調査活動した。実に興味深い場所ばかりであったが詳細は、私立・大室美術館体験録を仕上げたあと記すことにする。

my長女が帰国する16日は午前4時に目覚めた。窓を開けると薄曇り空で町はまだ眠りこんでいて、前面道路の環状3号線の路上には、人影も荷を運ぶトラックも見えなかった。

宿を引き払うため15日から備え付けの冷蔵庫に保存していた食材を食べつくす、朝食を済んだあとは何もなくなった。my長女が不意に「敏ちゃん、うまい!」とそのことを褒めたのか、朝飯が美味いと伝えたいのか分からなかったが声を発した。my長女が朝飯を食っている間に俺は歯磨きと髭剃りを済ませた。その後、津市での活動に必要な荷物をバックに詰め、洗面所も空っぽにした。

my長女は15日午後から、登山用だろうか大きなキャリア付きバック2個に買い集めた土産などを詰め終えていた。一個20kg以下の重量制限があるので、携帯計りでチェックしていた。それで、バックは破裂するのではないかと思うほどにパンパンだった。それに手荷物が1つあるので総重量で50kgはありそうだ。これらの荷物をかかえ深い地下鉄に乗るため階段を下りることは難しい。前日に改札へ降りるエレベーターの位置を確認していた。

宿を出る前は、朝飯用の燃えるゴミは残っていたので、玄関傍のゴミ置き場に捨てる。宿から早稲田駅までの間には起伏があるうえに緩い登り坂になっている。東西線・早稲田駅のホームの最後尾から1両目の位置までは160mほどだが、荷物が重いので300mの距離があるように想えた。老化し歩く速度が年々遅くなってきている。「ドイツ人は体が大きく歩幅も広いので、通勤で鍛えられ早足になった」と長女は笑っては振り返り俺を待っている。体の小さい娘は早足が身に付いていて、坂道で荷物を2つ引いているにも関わらず、俺は置いてきぼりを数度くらい早稲田駅に着くと50mほど離されていた。エレベーターは直ぐに乗れた。予定どおりホームに降りることができた。

早稲田駅のエレベーターの位置は日本橋駅に向かって最後尾にあるので宿からも遠い。日本橋で乗り換え羽田を目指すのがもっとも移動が楽。早稲田駅のホームにおり電車を待つ時間をつかって一番前の車両に早稲田駅のホームで移動する必要がある。その点を外してしまうと、他の乗客にも迷惑をかけることになるし乗り換えも苦労する。電車が来る前にホームの最後尾から一両目までガラガラと響かせながら二台のキャリア付きバックは移動していく。早朝なので客は数名しかいないし迷惑は掛からないだろう。

事前計画の通り地下鉄・日本橋駅から羽田飛行場第三ターミナル駅行きの直通列車に乗る。フラットの乗り換え通路を通過しただけで乗り換えられたので、ほっとした。大きな荷物を背負った父と娘にとって、移動負担がちいさい経路と通路を事前調査するのも恒例になった。







荷物を抱えた者には早稲田駅から羽田第三ターミナル駅までは日本橋乗り換え京急便が体に負担がかからない。

(5月16日羽田空港 )

羽田空港には6時半ごろついた、連休後だからだろうか旅行客は少なく、娘は搭乗手続きをあっという間に済ませたので、中二階の無料休憩所に行き一息ついた。休憩所から見下ろしても搭乗手続きをする人は去年の客の半数以下に見えた。

7時46分my長女は出発口を通過した、その姿をデジカメに収め別れた。俺は第三ターミナルのバス乗り場から新横浜駅行き8時10分発バスに乗った。

このバスは首都高速湾岸線を西に進み、大黒ふ頭にあるインターから北上し、生麦事件で著名な岸谷生麦を通過し高速道を下り、日産スタジアムの外観を眺めながら新横浜駅に着く、そういう体験したことのない道を通過していた。

バスの両車窓からは日本の兵站基地を突っ切るので、巨大な冷凍庫、輸出よう車両とそれを運ぶ船などを眺めることになった。日本人の胃袋はこれらの基地なしには生き続けられない、そんな気がした。

初めて、で客はガラガラだったが新鮮さ満載の体験をしながらあっという間の1時間弱の遊覧で新横浜駅に着いた。



羽田からロンドンまでの空路図(乗り換えてドイツへ


羽田空港から新横浜駅までの経路図


■羽田空港から彦根市を目指す

彦根市から二駅先の河瀬駅へ

羽田空港駅から東京に戻らず、湾岸線初体験をすることは新しい喜びを得た気分だった。新横浜駅に着くと修学旅行にでかける高校生の一団が行き交っていて混雑していた。近頃は春先に修学旅行を実施しているようだ。他には体の大きな外国人ツーリストたちが大勢いて、東京駅の人混みとさほど変わらないように想えた。東京都下にある西山手丘陵地域の人は東京駅にいかず、新横浜駅を活用しているのかもしれない。

福島市から名古屋駅までの往復乗車券は事前に手に入れていた。往復を買うと10%引きとなり、加えて大人の休日倶楽部割引も可能なので合計4割引き。で12,320円となる。差額はお土産などに当てられるというわけだ。my活動には毎年この乗車券を活用している。後半の活動は彦根市〜津市へと鈴鹿山地を横断するダイナミックな移動になるので、戻りは近鉄あるいは、松坂からJRを利用したいと思っていたので、彦根駅までの往復券を手に入れなかった。
とりあえず名古屋駅まで往復券を買った。それでも福島からは600km以上なので、チケットは10日間有効になる。東京と津市での活動は5月10日からだったから19日まで予定していたので、彦根と津市での活動にもJR往復割引券で対応できた。名古屋駅までとした。そのの先をふくめて購入すると割高なきもするし、乗車券に拘束されるのも折角の遠出なのでいやだった。名古屋駅まで割り引いてもらえば充分だと思った。名古屋から先は漫遊そのものだ。

新横浜駅

当日券JRチケット売り場は混雑していたが、販売員が多いのでスムーズに指定席券を手に入れることができた。9時18分発名古屋駅10時43分の「のぞみ223号」。名古屋から米原までは「こだま707号」となり米原着が11時10分予定だ。米原駅からは快速明石行きにのると河瀬駅は2駅先だ。12時前に河瀬駅に着くだろう。

滋賀県立大学でこの春から教壇に立っている大室佑介さんに「河瀬駅に12時前に着く」とメッセージを入れる。「了解です、12時半ぐらいに終わるので日夏町周辺で合流しますか」と新幹線のなかで返信を受け取った。「河瀬駅についたらうろうろするのでヴォーリズ建築で合流ですかね」と再度メッセージを送る。

2025年5月の東京活動の後半、彦根市から津市での活動目標を羅列しておこう。

@彦根市にある故建築・日夏里館(ひかりかん)ヴォーリズ建築の活用の現況を体験すること。
A琵琶湖傍にそびえる、海抜300mほどの荒神山(こうじんやま)の頂上から琵琶湖の湖面を見下ろすこと、行基が開いたという荒神山神社を御参りすること。
B蒲生氏郷に関する土地を通過すること。
C大室佑介さんが暮らす津市白山町の自宅と地形をドップリ体験すること。
D私立大室美術館をまるごと体験すること。

5項目をあげたが、本来の活動目的は大室さんの家に泊めてもらい津市の日常を経験することだ。10年ほど前から津市白山町に暮らす大室佑介さんの活動を終日観察し「大室佑介入門」の基礎を固めたいという思いが最大の目的だ。運のよいことに、計画を立て「16日に訪ねたい・・」と、大室さんへメッセージをしたら「4月から滋賀県立大学で毎週教壇に立ち講義をおこなっている・・・」と応答があった。

好いタイミングで津市行きを計画したことになる。福島市からは遠い、彦根市から津市までは気軽に訪ねることはかなわない。滋賀県立大学には福島原発事故後、「DANWASHITSU(ダンワシツ)」に呼ばれて、そこで学生さんたちと二度も語り合っている。あの時は佐和山城と井伊直弼のお墓をたずねた。二度目は彦根城をたずねた。旧・日夏町と町にそびえる荒神山から琵琶湖を眺めてみたい、と願っていたが3回目の彦根訪問は機会がなかった。

福島市の福島駅には「日夏」という饅頭屋が店をかまえている。物知りの者に聞いたことだが、現在は二本松市に本店があって、会津から二本松に移ってきたのだそうで、祖先は遠い昔、彦根市の日夏町からやってきた近江商人の末裔であるだろう、という。たぶん秀吉の奥州仕置きの結果、蒲生氏郷が国替えになり、一部の近江商人たちも会津若松に移住してきたのだろう。その一人または家族が饅頭屋「日夏」の祖先だろう。

また日夏町にはヴォーリズ故建築が「夏日里館」と名をかえ活用されていると聞いていた。日夏里館のJR最寄り駅が河瀬駅なので新横浜駅から、のぞみ、ひかり、各駅停車を乗り継いで河瀬駅に初めて立った。駅からは西へ徒歩15分ほどの距離に想えたが、道になれていないのか、足が遅いのか50分ほどかかった。

大室さんからは「15日初めて職員用宿舎に1泊し、講義が昼の12時半ぐらいに終わる・・・」と連絡が入っていたので、「河瀬駅に着いたら日夏里館に向かいます!ここで合流しましょう」とメッセージしていた。


彦根市 日夏村役場 )

■ 河瀬駅から日夏里館をめざす

河瀬駅、滋賀県立大、 荒神山、日夏里館(ひかりかん)の位置関係をweb地図で確認し、話をすすめることにする。

JR河瀬駅から見ると滋賀県大は北より、荒神山は西にそびえその麓に日夏里館があり、荒神山の山頂から見ると北〜東にかけて日夏町がこじんまりと山裾にあり起伏は無いので、駅の2階通路の突き当りの窓から荒神山は見える。



荒神山について彦根市のweb案内による 「 彦根市のほぼ中央にある標高263mの荒神山は、古くは平流山とよばれていました。奈良時代、東大寺領覇流村があったからです。地名の由来は、荒神山神社が山頂にまつられたことからはじまるといわれ、毎年6月30日には「水無月の千日詣」でにぎわっています。
荒神山は昔から郷土の人によって、朝夕仰ぎ親しまれてきた山ですが、中国大陸や朝鮮半島からの多くの帰化人が、この山を目当てとして、湖北の港から湖上を渡ってきたと考えられます


河瀬駅前 11時42分撮影


河瀬駅をでて日夏里館を目指すと、途中にある滋賀県立河瀬中高の生徒がぞろぞろと下校し河瀬駅を目指している。通常の下校なら12時前は早すぎるので、中間テストでもあったのだろう。すれ違う女子が多いのはこの地域の特徴なのかもしれない。

荒神山をみながら琵琶湖あたりを目指して歩く。写真を撮る(下図)


 荒神山 この裏側に琵琶湖がある

道は思い出したようにしか車は通らない。陽射しが背中にふり刺し5月にしては暑い。背中に背負った荷物が重いせいもあり、途中木陰で休もうと思うのだが、木陰はない。しかたなく陽にあぶられながら、スマフォ道案内を片手に日夏里館を目指す。

ヴォーリズ設計(小川裕三さん担当)の故建築活用の日夏里館(ひかりかん)なのだが、さほど地域でも建築界でも注目されていないようで、web地図で検索しても表示されない。だから一本北側の通りまで行ってしまった。日夏町保育園や日夏町公民館は表示されるもののスマフォに案内表示が現れない。昼時だからだろうか、一人として道をウロウロする者も見当たらない。「さてこまった・・・」地域の人に「日夏里館はどこですか」と訪ねたいのだが、路上でしばらく待っても人も車もあらわれない、荷物は重いし舗装道は暑いし汗が噴き出た。


  休日なのだろうか?日夏保育園には人の気配がなかった

仕方なくあたりを漫遊しようと歩き始めた。webで観た日夏里館に似た建物があった。遠くから見ても看板を見つけることができないので、玄関らしき場所へ歩をすすめた。


 (築90年を経た旧日夏村役場と産業合同庁舎の現在)

左側の1階は増築したのだろうか、背後の建物の窓枠の細工とはだいぶ味わいが異なり、安普請に見える。バス停でもあろが時刻表の看板が立っている。増築らしい玄関に近づくと古びた木板に日夏里館と手描きの文字が見える。 右となりの出入口らしい壁にはブロンズ製の『日夏村役場』が掛けてあり、その下に文化庁の登録有形文化財(2013年3月29日登録)の看板が壁に埋め込んであった。

ようやく日夏里館を見つけた。外は暑いので入り口の扉を開けて入館した。この写真データを見ると12時29分とあるので、河瀬駅から日夏里館まで50分ほど掛かったことになる。老人は歩くのが遅いのだろう、着いたとたんに大室佑介んさんとの待ち合わせ時間になっていた。


webによる彦根観光ガイドブックには以下のような紹介になっている
旧日夏村役場と産業組合合同庁舎として、昭和10年(1935年)に建設された建物で、昭和25年に日夏村が市に編入合併された後、平成13年までは建物の一角にJA東びわこ日夏支店が入っていました。閉鎖以降は取り壊される方向で進んでいましたが、日夏地域の歴史を後世に伝える活動をしている団体が保存活動を行い、日夏町自治会館として使用されてきました。現在は1階にカフェが出店しています

日夏村役場と産業組合 昭和10年4月19日落成記念(2025年5月日夏里館で撮影)



すぐ上の左右2枚の絵は日夏里館に展示してあったものを佐藤が撮影したものである。(写真所有者は日夏寛二さんとある)

竣工式記念写真を見ると、向かって右側が日夏村役場の入り口、左側が産業組合入り口で落成式の日なので日章旗が掲げられている。関係者は正装に身をつつんで厳かに写真に収まっている。これらの掲示写真資料を丹念に見ると、総額が1万9578円で、建築費が1万7409円 設計費644円、管理費107円と分かる。建築士はヴォーリズ建築事務所の小川祐三、現場監督は原仙太郎とある。日夏村村長 寺島傳吉 日夏産業組合長 疋田由次郎とある。

完成時には北側の日夏産業組合の売店が道路側に突き出ていて、真ん中に組合事務室、道奥に物置と作業場がついていたことが分かる。

元・日夏産業組合の玄関が改造改修され、2025年現在はアルミの障子が建てられていて組合事務室はYeti Fazenda COFFEEという店舗になっている。日夏村役場の玄関はまま保存されている。内部の村役場の事務室も当時の雰囲気を残していて、好感がもてる保存活用の在り方の一つをしめしている。掲示されている写真を見ると2014年に耐震改修されていた。


港区の歴史資料館は巨大な古建築の再生・活用継承の事例だったけれど、地方にある小さな古建築においても同等の価値のある古建築はこのように活用しつつ継承する、という見本であった。地方の方で古建築の保存活用継承を考えている所有者にはぜひ彦根市にある「日夏里館」を見学して地域の人々と連携活用のため参考にしてほしい。日夏里館は現役の建築そのものであるから、古建築と冠を与えるのは失礼だとも思った。




 竣工時平面 オレンジ斜線部分は現存せず



 大室佑介さんも合流し館内を撮影。

大室佑介さんと合流 日夏里館を観る

話が前後するが、大室佑介さんは12時半ごろ日夏里館にやってきた。その時、月一回の句会をしにホールに来ていたご婦人に質問していた。質問はこんなかんじだ、「今日のお題はなんでしょうか」とうかがうと「新緑、こどもの日、矢車」だという。

田植えがすすみ農家の庭先に鯉のぼりが泳ぐ、ポールの先では賑やかに矢車が回る絵を想いうかべた。子供がすくすく成長する姿を眺めながら庭先で柏餅をたべているような気もした。見渡せば辺り一面新緑の世界である。今頃の新緑は日々色彩をかえ鮮やかでそれぞれの木々の個性が葉に現れる。新緑の葉は見飽きることはない。

句会の先生は、身じかな自然を喜び再確認するよう、3つのお題を与えたのかもしれない。俳句の好きな人々が3句ずっ清書し持参する。そうして先生立会いのもとでワイわいガヤガヤとこの季節をめで合う。なんと豊かな日本の文化を日々実践している地域なのだろう。加わって一句ひねってみたくなっていた。その時に大室さんが登場したので句作をやめて、館内外を案内してもらうことにした。案内人は句会の世話役をされている同世代の女性だった。

句会の責任者であるご婦人に、「福島市からやってきた者です。福島市にも日夏という饅頭屋さんがあり、会津若松は蒲生氏郷の故郷でもあり、この地域ともご縁があるんです。荒神山に登りこの一帯をながめたり日夏里館を体験しにやってきました」とここに至った経緯を説明すると、「それでは、二階も案内しましょう」と快く応じてくれた。「写真撮影もよい」ということだった。

彼女によると、「この日夏里館は、個人のかたが退職金を元手に購入され改修工事もされ。地域の人に活用してもらっているのです」と語った。改修費用はどれほど掛かったのでしょうか」と気になることを訪ねると、「なんでも退職金3000万円ほど、との話ですよ」とのほほ笑みをともなった言葉が返ってきた。どのような経緯で退職金を改修費にあてることになったか・・と詳しく追加の問いを発しなかった。館内のホールにはパネル日夏里館の歴史を詳細に展示してあったので、断って写真を撮り、そのあとでお聞きすればいいと思った。

ご婦人に案内されるまま、現在の句会を行う場所でもあるホールの扉を押すと、そこには旧・日夏村役場がまま保存されていた。ガラス戸で客の寄り付きと事務室が区切られていた。高い(1mほど)カウンターがまま残っていた。昭和十年代の小さな村の役場の機能としては充分なのかもしれない。佐藤が生まれた山郷にも職員が5名ほどの同様な支所があったことを思い出した。

「裏庭にはきれいな水が湧き出ているので、見ていってほしい」と案内をしてくれている。日夏里館の東側、つまり道路の裏手にでた。確かに澄んだ綺麗な水で美しい水草も揺らいでいて、そのまま飲めそうな気がした。裏手は駐車場になっていて、俳句の先生が車から降りてきて、ご婦人と挨拶をした。


琵琶湖の水

高度成長期に琵琶湖の水が家庭などから流入する生活排水が主要因となって富栄養化し赤潮が発生していた。盛んに全国ニュースでもながれていた。琵琶湖生協では合併浄化槽の販売を推進し琵琶湖水質浄化作戦を展開していたので、1991年の秋、朝日新聞福島支局のK記者と共に琵琶湖生協の理事長さんを取材に来たことがあった。
取材目的は阿武隈川に放流するという、福島県北広域下水道の問題を深堀りし、長年の住民と行政の争いを掘り起して問題点を連載記事にしてもらい、公益下水道の問題を再確認することだった。同時に全国の上下水に関する問題も大雑把に勉強した。淀川水系の水質の悪化でトリハロメタンによる癌の発生の多さなども明らかにしていたので、記事はけっこう反響があったし、行政手法の問題も理解することになった。

その後、琵琶湖生協や各家庭の努力もあって琵琶湖の水は蘇ったように思う。がweb検索すると琵琶湖の水下にある水質は改善されていなような記事も目についた。関西圏の水瓶である琵琶湖の水質は滋賀県だけの問題ではないことは、当時でも確認できた。また福島原発事故を経ると、関西電力の原子力発電所が過酷事故を起こせば、琵琶湖にセシウムが降り注ぐことになる、そのことも現在は確認しなければならない要点になっている。

日夏里館の足元からこんこんと湧きで流れる水面をながめていると、そのことを思い出した。(右欄の記事:1991年12月14日朝日新聞福島版、記事のタイトルは「水を洗う」で見開きの大きな紙面で報じてもらった)
    

日夏里館の東面を見ると 北側の産業組合の倉庫と作業場が解体され、駐車場に置き換わっていることが分る。日夏村役場の東面は竣工当時のままであった。

透明で澄んだ水を眺めた後、ご婦人に案内されるまま木製階段を二階に登った。正面に備え付けのホワイトボードには「5月28日落語のおじさん」と書き込まれている。、窓側に板敷が回り、簡単な本棚と3人掛けの座卓が積み置かれていた。真ん中が畳敷きの大広間は現在も地域の人たちが多種多様に活用していることは一目瞭然であった。
旧・日夏村の現在も、日常生活のなかに住民のかたがたが気負わず淡々と、それぞれの活動にあった文化に関する営為を続けていることに感銘を受けない建築系の者はいないだろう。地味な活動こそ建築の地力を端的に示すことだからだ。

1階に戻ると年4回発行の『日夏里館だより』が38号から2025年4月1日52号まで無料配布されていたので一部ずつ頂戴した。発行者は日夏館運営団体の会となっている。
自分たちがセルフ・ジャーナリストとなり、日々の歴史と記録を発行している。簡単なようだが地域の会がおこなっている事例をしらなかった。大方は行政の下請けである印刷会社などがおこなっている定型化された広報ものがおおい。
日夏里館たよりの内容は1面が地域への提案や行事の案内、2〜3面が日夏の歴史と文化で、継続的に古文書を読みといていることが示されている。本格的な日夏の歴史記録にもなっていた。4面は皆の茶の間というページで、地域で行われる3ヶ月間の主だった行事の案内が記載されていた。

SNSの登場で、個人の主張を簡単に多量に発信できる社会に変わってきたが、地域の人々に合わせた情報を、住民の方(運営団体の方)が自主的に発信する事例は知らない。このようなささいで尽きない活動こそが、旧日夏村というコミュニティーを生きつづけさせている原動なのだ、と確信できる紙面の数々であった。

旧日夏村役場の活用をながめていると、大室佑介さんは津市の白山町で既存建築群と家屋敷を改修し「私立大室美術館」として活用している表現者であるから、「日夏里館」の見学は釈迦に説法に似た体験ではなかっただろうか、とも思った。


日夏里館で大室佑介さんと合流したので、次は荒神山に登ったときの様子を記します。

 荒神山へ続く 


 (2005年11月16日に刊行された『日夏の歴史』をご存じの、お持ちの方がおりましたらどんな本なのか教えていただければ幸いです)

  





月に一度の句会をするために現在のホールに集まった男女。15人ほどで句会を運営しているのだそうだ。
赤○壁には日夏里館の歴史がパネル展示してある。



旧日夏村役場、右が出入口、左が事務所と仕切り戸がある役場事務室。床は人造大理石研ぎ出し仕上げ。天井は貼り替えられたようだ。


日夏里館の東側よりくみ上げられる水は生活排水はもとより多様な使われ方をしているようだ。


くみ上げられた水質がよいことを示すような水草のゆらぎ



1991年12月朝日新聞福島版より



日夏里館東面(道路面の裏側)
中央に立つのご婦人が案内してくれたかた
右は俳句の先生