サンチャイルド2018入門@福島市のための基礎資料 02
 寄贈された瞬間  2016年11月17日
2018年 作成 
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■ ヤノベさん原型模型を寄付する

A館長:僕に話せと、振られましたので(話します)。ヤノベさんの(作品)展示の前に、小原かずまさんのチェルノブイリの写真展をやっていました。その中に写っていた、とっても美しい女性がこちらに来てくれて。ここでトークをしたんです。その時、彼女は「自分の魂を込めた作品です」ということで小さな絵を寄贈してくれたんですね。(その様子)それを見て、楽屋裏で「ヤノベさんにも何か寄贈してもらおうか」って誰か(K学芸員)が言い出したんですね。僕は気が小さいものですから、(ヤノベ作品の中の)そこにある小さな写真でも一枚いただければいいなーと思って、「ヤノベさん」と言って、誘おうと思ったら、うちのスタッフがこれ(原型模型)を指さした、これが欲しい。で僕は申し訳ないような気分で、ヤノベさんの顔を見たら「OK」頂いて。ヤノベさんって、目、全然笑ってないんですよ。「本当に、お願いする時には心からの、ストレートがいいんですね」。と思いましたけども。この写真ではなくこれになりました。「これを寄贈していただける」って、その場で即決をして。とっても気持ちのいい瞬間でした。何かを分かち合ったというか「(ヤノベさんと基金で)信頼関係をこれからも作っていくだろう」と、そういう予感も頂いたような、瞬間でした。補足です。


:僕も、社会的な活動もしているんです。ある意味プロフェッショナルな(現代彫刻)作家としてアート・マーケットの中でも活動してましてい。(アートマーケットの)一連というのが評判よく。たぶん10年後には(作品が)とんでもない値段になるだろうなーと(思っています)。でもねー、考えたら、この作品が存在し得たのは、(福島第一原子力発電所の事故)この出来事と、きちっと向き合うことができたからで。(原発事故と向き合うこと)それをさしてくれたのは、(県美の)荒木さんを始め、皆さんの関わりがあってのことだと思いました。
 今後もそういう、関わりを、きっと、この人たちとなら、(共有できる)思って持ち続けていけるだろうな、というのが直ぐに理解が出来たのです。これは、(フクシマ)ここに置かしてもらうのが、一番作品にとっても、未来にとっても、いいなと思ったというのがありますね。


A館長:ありがとうございます。繰り返しますが我々が預けられただけで、どこか福島の、どこかに落ち着くと思います。(福島)県立美術館の(学芸員の)Aさんから、実質的にも、ヤノベさんを福島にお招きした最初(の方)ですよね。色んなエピソードを聞いてますけども・・・。
■ ヤノベケンジさんと福島県立美術館

A学芸員:へへへへ、さっきヤノベさんの方からも、お話がありましたように、事の切っ掛けというのは(福島県立美術館の)展覧会で、ご出品を頂いたということがご縁の始まりなんですが。(県美)そこには「ラッキードラゴンという(絵画作品の所蔵)があって、ふふふ。本当にそうなんですよ (壁に展示しているヤノベさんのラッキードラゴンは)あそこに一番大きな写真で、火を噴いているドラゴン。それが2009年の大阪ですよね。出品されていて。うちにはラッキードライバーのがあって。ラッキードラゴンてもしかして、あのラッキードラゴンっていうふうな、ところから。展覧会におこし頂くというような事になったんですけれども。最初はあれを持ってこようかなーと

ヤ:
船の上に造形物ですよ。首が上がったり下がったり。火を噴いたり、水を吐いたり。とんでもない作品なんです。


 (絵:表記無きものはすべてネットより)

A学芸員:とんでもないですよね。(ラッキードラゴン)最初は船で(福島県に向かって)太平洋を来て。(途中夢の島の)第五福竜丸にも寄って、そこから海で阿武隈川を上って来るか〜・・・みたいな話を。私もなんととてつもないことを(妄想しました。)

ヤノベ:こんな学芸員いているーって。どんな誇大妄想をされる人かなーと最初はね。(思いました)

A学芸員:当然無理な話だったんですね。結果として、ヤノベさんの方が「そろそろ落としどころの話をしませんか」はははは言われて。当然無理だと分かって。それで、あそこの壁の下の方に(ある写真のように)龍のドラゴンの上のところだけを、宙に浮かせて天井から吊るすというような(展示の仕方)、そういうイメージに落ち着いたんです。
 その時にはベンシャーンのラッキードラゴンも一緒にコラボレーションして、展示をしていただいた。ラッキードラゴンの絵の。ベンシャーンはアメリカ人ですから、たぶん精一杯の事件に向き合い方というのがあったと思います。ヤノベさんはヤノベさんで全く違うスタンスでの、ラッキードラゴンの向かい方。
 時代も違うし、日本人とアメリカ人ということも違うと思うんですけれども、「向き合い方」ということで、見ていただくことが出来たかなーと思っています。

 実は(ヤノベさんの)ラッキードラゴン構想模型というのが船なんです。それを(福島県美で)展示したんです。(ヤノベさんの構想模型)それを福島県美術館に預けるとといことで、寄託をしていただいていたんです。美術館では預かっている。

2011年そんな(原子力発電所の事故)ことが起こるとは夢にも思わず、その作品をお預かりして持っていたわけです。
 東日本大震災が起きて、美術館としては2011年4月26日に開館をするという事でした。あのときは酒井館長だったんですが、館長が判断しまして、常設展示もオープンするわけですから。
 その時に「何を展示したらいいだろうか」って、皆で考えたんです。その時のタイトルが「古里に祈り再生」っていうタイトルでした。で、作品を選んで展示したんですね。ヤノベさんからお預かりしていた、ラッキードラゴン構想模型というのを、ここで展示したいと。ガイガーカウンターとか付けているトラヤンも居たんで、その時に話しましたよね、ヤノベさんと。「本当にこれを展示していいのかなー」っていうことも一緒に話をして。でもこれは全体としてのストーリー、そこだけ取ってしまうと、違う見方をされてしまうかも知れないけれども。全体として大きなストーリー(核被曝の惨劇とアート)があって、その中のトラヤンという位置づけだったし。
「それを見てもらいたい」とでみんなで考えて、作品を展示しました。(ヤノベさんは)その時に駆けつけてくださったんですよ、(2011年の)4月の末にね。

 (福島県立美術館に)作品を並べて、あの船の中には一杯人形が、たくさん乗っているんです。ヤノベさんがそれまで作られてこられたものがたくさん乗っていて、それを並べていたんですが。ある学生が「この船で私の縫いぐるみも乗せてみたいなー」と、言う人が出て来て。「それもしかしていいかもねー」っていうことになったんですよ。「これもしかして箱舟なんじゃないのー」っていう事になって。トラヤンの箱舟大作戦と(いう)、プロジェクト始めようかと。とっさに決まった感じがするんですが。
 あのとき皆で、不思議とガテンがいって、「じゃーここに縫いぐるみを乗せる、プロジェクトを呼びかけて、しよう。しよう。」ということになったんですね。呼びかける手段がないですよね。別に雑誌も作るようなお金も急なことで無いし。その時には実は図録(ブログ)もできていなくって。何となく口伝えにというか、色んな形で、縫いぐるみを集めたんです。
 だから色んな事が、動きながら考える、みたいな形で、あの時に色んなことが進んでたと思うんです。夏休みに子供たちが美術館に来て、放射線量も低かったですからね。「子供たちが集まってもらえる場所にしよう」と、色々考えてたんです。その中でこの作品も、縫いぐるみ集めるプロジェクトもしてましたし。



 で、夏休みが終わっったところで、「この船これからどこに船出するかー」。「どういうワークショップ最後にやろうか」という募集をしたいですね。皆で「この船がどこに旅立つのか考えよう」っていうような事も募集をして。
 今日、どういう経緯だったっけなんていうのをふふふふ。思い出しながら、調べていたんです。あの時は慌てて、記録にちゃんと残ってないんですけどね。プロジェクト始めた5月だったよねー。今、大場さんとも話しをして「そうだったよねー」と話をしたんです。最後の締め括りのワークショップも募集をして、考えて。結局は。「空飛ぶ箱舟プロジェクト」っていうことになったんですよ。

 この船を浮かばせようって。実際はもちろん浮かぶわけないが。そういうコンセプトで、「空飛ぶ箱舟プロジェクトでワークショップやろう」ということになったんです。
 それも実はヤノベさんから私たちにお題を投げかけられたっていう感じなんです。「どうやって飛ばすのこれ」で、一杯預かった縫いぐるみに「風船付けて浮かばせよう」っていうことに成ったんです。こんなに楽しいワークショップに成ったんです。
 それはそれは大変な(ワークショップでした)。ヤノベさんと一緒にやると、色んな困難を乗り越えなくちゃならないので、いつもそうなんですよね。で、あの時も近くの、福島ガスという所から「ヘリュームガスを買う」っていうことになって。ヘリュームガスを風船に吹き込んで、それを幾つが風船を繋げると縫いぐるみが丁度いい具合に浮かぶのか。まー大変でですねー。なかなか中空にこ浮かぶのは出来なくって。ひゅーっと上に飛んで行っちゃったり。ひゅーんと下がっちゃったりとかして。凄い大変だった。上手く、写真は撮ってますけれども。



 みんなで四苦八苦しながら。楽しいワークショップだったかなーと思います。最後皆で記念写真を撮ったんですけども。楽しかったですよ。あれは凄く楽しかったし、何かやったなーっていう感じがしました。

 もう一つご紹介したいのが、「何で空飛ぶ箱舟プロジェクトになったのか」みんなから募集したのもあったんですが、ヤノベさんがその当日、素敵なものを書いてきてくださった。トラヤンの大冒険という絵本があったんですよね。その絵本は前年の展覧会の時にも展示したんです。『トラヤンの大冒険』の絵本のアナザーストーリー、もう一つの最後、終わりというストリートいう事で、船がぷかぷか浮かぶ。この絵本の一番最後の処は、これなんですよね。こういう最後で終わるんですが。この船が浮かんで、一杯の子供たちが太陽を手に持って、その太陽の力で浮かび上がる、そういうストーリーで絵を描いてきたくださったんです。



 それを、子供たちに見せて「じゃこの世界を皆で作るんだ」よって。黄色い風船たくさん浮かべて、浮かび上がって。明るい未来に飛び立とう、そういうストーリを打ち立て、このワークショップが実現した。それはお伝えしておきたいんです。
 そんな形で美術館には関わってくださって、この作品は私たちは時々まだ展示をします。

 実は去年一昨年(2004年)か、高校生たちと一緒に「美術館のコレクションの展示室を考える」高校生たちに展示室を一つアレンジしてもらうっていうプロジェクトをやりました。その時に高校生がこの作品を選んで。自分たちでも展示し、子供たちが来てくれたんです。ヤノベさんも来てくださって、展示をしたんです。

 その高校生は今大学生になりましたので、その内の一人が山形の芸工大に行っていて、ヤノベさんと会って。「あのとき実はわかなかったんだけど」そう説明を求めて「いやーそうう事だったんですねー」みたいな事で納得して、えらく感動したというような、展開があって。繋がって行っている。その時の高校生たちは必ずしも、この作品の意味、深い意味というのは解らなかったかも知れないけれども、そうやって何か繋がって、ヤノベさんの思いが色んな所で、まだ芽が吹いてくるっていうかね。「そういうことになればいいなー」というふうに思っています。私たちもそういう美術館としてヤノベんさんの思いだったり、ヤノベさんを支えている人と関わる人たち色々な思いを受けながら、繋がってきたいなーと思っています。

 ヤノベさんの作品は大きいから、いろいろな人が関わらないと、展示が出来ない。私たちも色んな人にお手伝いをしていただいて、いろんなプロジェクトをやらせていただいて。その時だけで終わらないで、繋がっていくっていうか、人のつながりが自ずと出来ていく。そういうのがヤノベんさの作品のもう一つの特徴というのかな。それをひしひしと感じます。

 こうやってこの作品が、こういう形でまた引き継がれていくという。あの風船のプロジェクトをやったときに、あの船に乗せるために作って持ってきてくださって、今、県立美術館でも預かっているんです。またこのような形で繋がっていくというのは美術館としても「嬉しいなー」と思います。




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■ ヤノベケンジ 水都大阪2009