14 「渡辺菊眞建築展」体験記03 2019年 作成 佐藤敏宏

京都大学に入学する 

 菊眞さんは大学生になり、1年目は日本古建築と先生が建てた建築のトレースとパースを仕上げるだけと「単に綺麗に描くだけなので、一個も面白くなかった」という。
 2年目になると、休憩所のような課題が出され、存外に面白かったという。絵っぽくて、ド派手な立面で凝った形を提出し「わけわらない」と言われたそうだ。やりたいこと全部やってみたら「どれも面白くない」と言われ、柱だけになり、斜め柱しかない建物に辿り着いた。そこでようやく、ややこしいものより、単純化によって、摩訶不思議な状態を手に入れたことで、「絵とは違う手応えを感じた」という。

■布野修司先生就任する 
 1991年9月 菊眞さん京大で2年生の秋、布野修司先生が着任された。ここで「課題は出しっぱなしという、京大暗黒の時代は終わった」という。布野先生はどのように学生を導いたのだろうか。

布野先生が出した課題は「鴨川フォリー」で主な条件は以下の4点だった。
 1)機能のないようなものをつくりなさい
 2)図面を描く
 3)模型を作る
 4)売りポイントを7か条以上書くこと

 課題が完成すると、講評会が開かれ、皆の前でプレゼン・自作を発表ををすることになり、講評は毎回おこなったという。そこで学生たちは「ようやく京大が普通で健全な大学になった。だから、学生たち皆が、張り切り、おおいに盛り上がった」そうだ。

 同期の森田一弥さんは、その時ことを、面白い、たとえでもって語っている(先にも書いたが再掲する)


森田
:布野先生の課題がね、どうやってやればいいのか分からない。布野先生に家庭教師でもあるかのように、聞いてみたんですよ。そしたら「凄いドローン描いて持ってきている奴がいる!」って人混みになっていて。覗いたらそれが菊眞だった。はははは。例えると、小学生なので、皆は鉄棒で逆上がりやっている。そのときに、鉄棒の上で月面宙返りやっている! ああこういうことをやるんだと思った。

菊眞氏も得意満面だったようで


渡辺:そうですね、父親も建築家であったこともあり、観る機会が多かったから、でしょうね。自分としては素朴な案だけど、、精一杯のことをやっていたような感じやったんで・・・そういう処でスタートしてしまって、3年生、4年生のときは、何かゴツイ派手な模型を作っては、驚かしてみる、みたにな感じだった。

それに対いて森田一弥さんは


森田:ドンドン新しい技を繰り出して、面白かったですよ。布野先生とか竹山先生が来て、ようやく今までと、ちょっと違う設計をやろう、という教育が始まった時期に、一人月面宙返りをやるやつがいた。それで僕らの世代って、けっこう自分なりにやっていけることを探そう、という意識があったかもしれない。

 菊眞さんは、身に着けていた技を繰り出すことによって、周りから注目されたり喝采を浴びることで、建築家としては未熟だったその技に、自身が縛られ始めて行くことにもなった。喝采を受けた自らの技の呪縛は予想外に長い時間、菊眞さん自身を苦しめていくことにもなった。その術の呪縛から解放されるために、菊眞さんは、修士浪人1年、修士2年、博士課程1年を個展展示作品の制作に費やした。4年間も掛けてしまっのだ。
 どの界隈でも、早熟の者は、潰れて消えてしまうのは世の常だ。だが菊眞さん固有の、「ゲップのでるような」独特のしつこいさで、潰れ消えて行く状況から彼自身を救い出し、そこで、ようやく建築家の道へと、自身を載せることができたことになるだろう。
 技や科学文明が生み出すものは役立ちもするが、自身を破滅に導くものでもあるから、技を持つ者は他者評価承認に浮かれることは、慎むべきなのかもしれない。その厳しい実例が菊眞さんによって示されている。
 2019菊眞建築展で、彼の自邸「宇宙の間」のプロセスも観たが、やはりまだ、完全にその時の技癖のようなものは、抜け切っていなようにも見えた。彼自身の知性を乗り越え、自身の知性を肉体を通し消化してしまい、身体体験から湧きだし、作風に転換し消化展開できるのか、その点は今後の展開を観る楽しみの一つでもある。


卒業設計について

 京大生は、布野修司先生、竹山聖先生が京大に就任されたことによって、設計をやりたい者は竹山研に進み、設計と調査をやりたい者は布野研に進む道が拓かれたそうだ。もちろん菊眞さんは布野研に進み、今日の姿をつくる基礎を学んだ。そこのことも振り返っておこう

 まず卒業設計の菊眞さん語りが面白い点は、布野先生に駄目だしが出るまでは、敷地なしで、「風景の欺瞞を暴くための、幻想的な計画」だったという。「自分がやりたいテーマ、みたいなもの初頭は、空に浮かんでいる幻想城みたいなものを設計していた」という。ダリふうの要素や列柱が組み入れてあり、気持ちよく自殺が出来る場を設計していたようだ。
 布野先生に「敷地は宿命的についてくるのだから、場所を設定して、どこかに置けるようにしてくれ」と指摘され、11月までに出来ていた大きな模型を、菊眞さんはぶち壊した。一度卒業設計を壊してしまって菊眞さんは、幻想城を置しようとした東尋坊が無性に観たくなって、敷地調査というか現地に立ことを選択した。ようやく、風景が生まれる場を実体感することになった。そうして菊眞さんの想念の中に在った、空に浮かんだ幻想城が建築という現実によって、無理に敷地に定着させることを求められ、急場しのぎ的に一気に卒業制作を仕上げてしまったようだ。
 卒業制作は完成させたものの、急いだ余り、ファンタジーとリアルの間を急いで結合したことによる害が、菊眞さんを襲ったようだ。リアルな場をじっくり観察することによって、現場から幻視を、ファンタジーを湧きたたせ、それを組み立て建築化できなかった悔しさが残った。そのような卒業制作への消化不良感が残ってしまった。大学制度による提出期日に合わせて学生は制作を仕上げる、そこに含まれる問題もあろう、期日制限がなければ、いつまでも仕上がらないだろう。

 そうこうし、1998年3月開催の個展へと進んで行く。個展については先に書いたので、次に京都CDLについて振り返っておこう。

京都CDL活動に入る

 1998年3月の個展を開催するも、博士論文を手に入れぬまま、課程を終えてしまう。卒制のように幻想城から実建築まで時間が要るように、論文のテーマを手に入れ、菊眞さんの論文が、この世に成るのか、今は判断できない。
 しかし論文とは質が異なる著述行為は着実に行っている。布野修司著『進撃の建築家』によると、高知工科大に赴任まもなく高知新聞への連載を始めたとある。またweb高知市新聞・2019年0612には「地元・楠目を魅力発信 高知工科大・渡辺准教授「空間高知」2号ー多彩な風景を丹念に調査」という見出しがある。学生とともに、高知の楠目にある建築を介し、その空間の魅力をまとめた冊子を、刊行している。論ずる人ではななく、建築などによっれ生まれる景観を、身体を使い丹念に観察し続け、その魅力を言葉に綴ることが菊眞さんは好きなのかもしれない。

 森田一弥さんに、2019年12の今回の渡辺菊眞建築展の、感想をうかがった。


佐藤:森田さんの建築と比べてみると、どういうふうに見えますか、菊眞氏の実作はそんなに多くはないんですが
森田:無いけど、「言語化する能力が凄いなー」と思いましたね。あーそうか、そう言葉にするかーと。そういうふうに位置づけるかと。
 もうちょっと実物が出来てくれたら、いいだろうなーって。


 森田さんの予言は実現するように思う。それは建築の論文という形式ではないかもしれないが、一般の人々へ、広く建築がつくる風景の面白さと、魅力を伝える著述になるように想う。


■ 京都CDLの活動について

 2001年に、菊眞さんは論文を離れ、建築家の修行を開始しつつ、京都CDL(コミュティー・デザイン・リーグ)活動に入った。ここで京都CDLに、触れておかねばならない。

 菊眞さんの2009年12月の話によると、布野修司先生が「まちづくりタウンアーキテクト論」をだされたそうだ。意図は「町を面倒みる建築家を、細かい単位で日本列島の津々浦々にまで、付置するための前実践を、京都の6大学連合で 担当地域をもたせる。建築家を各研究室に読み替え、それぞれ京都の担当区域を割り与えてシュミレーションおこなったそうだ。
菊眞、その実行委員長、お前やれ」と布野先生に命じられたという。布野先生には散々迷惑もかけたことだし「1・2年やって、誰かに引き継いでいこう」と思い、京都にある6大学の学生と研究室を引っ張る、その役割を引き受けた、という。

 京都CDLの活動は行政との良好な関係を構築することには至らず、すこし煙たがられる存在となっていた、という。菊眞さんは紆余曲折する内情を粉飾しながらも『京都げのむ』だけは5、6年を、発行し続けたという。右の絵が『京都げのむ』のある号の表紙だろう。菊眞さんの絵画でお得意の「天空に浮かぶ城そのものであった」それは興味深い。
 天空のラピュタは、地球そのものであるけれど、菊眞さんは天と地の間を浮遊する存在が、心地よいのだろう。自分を深い所で思っている姿が、露出したのかもしれない。
 京都CDLが継続しなかったのは、布野先生がコミュニティー建築家を京都の建築学生と読み替えて点であろうか。大学生・各位は、大学制度という仕組みの中を、4年間で去ってく存在だから、継続する手法を練り込む必要があったのだろう。
 だが、京都CDLでの実践の欠点を補おうとしている菊眞さんの姿勢は、高知工科大学へ、こわれた任時の思いに、言葉を変えて、今も継がれて実践されていることは自覚しておきたい。高知工科大への意気込みを3つ語っている。

 1)自分たちの居る場所を中心に考え
 2)自分で自力で生きる職ぐらいつくろう
 3)ここでしか出来ないような生き方をしよう

 生きている大地から・地上のここから、人づくりり、地域づくり、地球づくり、宇宙づくりへの道の拓くのだという、菊眞さんの宣言そのもので、布野修司が思い描いた、京都CDLを引き継いだ実践教育活動だと受け止めることが、肝心だろう。先生から師弟へと引き継がれたタウンアーキテクトの道は、多くの建築人に共有された価値ではないけれど、21世紀初頭の建築実戦思想の一例とし記憶しておくべきだ。
 資本主義の終焉が語られ、1%の富裕層のためのキャピタリズムは99%人人に幸いをもたらさない。その事が事が明らかになって久しい。2019年においても、新自由主義者たちの跋扈によって、国民国家と民主主義の齟齬は解消されていない。菊眞さんの2019年までの建築的実践は、地球上に生きている人人の共有される、脱主本主義化を伴い成る。それぞれの地域での自立的行為であるから、社会情勢の変化によっては、菊眞さんの実践が挫折するだろう。しだとしても、その原因を突き止め、記録を残す必要が重要であると考える。

















 


 2019年12月渡辺菊眞建築展の意味を確認するために 2009年の聞き取りを振り返り、渡辺菊眞さんの現在を推測しながら、私なりの菊眞さんの横顔を描こうとした。そお思いは達成できたと考える。私が想う横顔をであるから、本当の菊眞さんの事ではない。さらにこの記録が菊眞さんにとっては、迷惑千万であり、読者に無意味な内容だろう。けれども、布野修司先生の1998年の京都大学就任時の思いを、確実に身につけ実践している菊眞さんの存在を示すことが出来た、と思っている。
 この事は、記録をつくりながら思い至ったことだが、それが福島市から高知市に行き、皆さんに伝えるべき内容の要点の一つだった。

 さて最後に記録しておくべきことが一つまだ残っている。それは餓鬼舎と宙地の間、菊眞さんの父であるの自邸建築における、関係について整理しておくことである。

  つぎに続く