15 「渡辺菊眞建築展」体験記04 2019年 作成 佐藤敏宏

 ■ 親と子・二人の自邸 

 菊眞さんと豊和さん、それぞれが造った自邸を観ていくことで、関係の違いなどを整理し、次の聞き取り機会に、活かしたい。

■ 渡辺豊和さんの自邸 餓鬼舎(がきのや)について

 『文象先生のころ毛綱もんちゃんのころ』2006年8月刊行(p29より)

 「民間開発の住宅地を購入したが敷地はたった45坪。ここにまず木造二階建18坪の小住宅をつくり住んだ。・・・住んでから10年ほど経って・・子供が3人になった。物置が欲しいと妻に言われ増築を決意したが計画図を書いているうちに欲がでて、結局三階建、30坪、幅1メートル80センチ、長さ20メートルの廊下型住居をコンクリート打放しでつくった。建具一切なしの洞窟状空間である・・・・木造18坪はRIA調ではあっても稚拙そのもの。・・・そこで増築部分はこれとはまったく対照的に幻想に富かつ非日常な空間にしようとした。竣工してみて成功した自信はあった・・・」

 餓鬼舎に求めた機能は物置。空間は洞窟状。その最奥には太いコンクリート製の柱が立っている。柱には屋根に設えたトップライトから光がさしている。神の依り代として象徴的な柱を物置の最奥に立てた。それが渡辺豊和さんの自邸への思いである。
 一方、菊眞さんの自邸には日時計が内包さ設置し、以下のように記している。

「・・そこで、天空 を巡る大きな存在としての太陽を感じるために、日時計を 建築内部に設置する。日時計は太陽の軌跡を影で刻み時を 知らせる。影の移動はそのまま太陽の運行を示す。否応なく天体としての太陽を実感する。太陽の巡りを感じながら、 良好な室内環境に身を置く時、我々は自然の大きさと同時 に、その恵みの深さを噛み締めることができるであろう。」

 菊眞さんは、太陽や自然を神としてとらえ、恐れる姿勢は少ない。宇宙恒星や天空の動きとともに暮らすことの豊かさを感じ、生きようとする建築となっている。その思いの源は、1995年の起きた阪神淡路大震災によって始まった大地動乱期や、人の営みは無制限に行ってはならないという地球温暖化現象による、身の回りで多発する災害に対する、今の人人の素直な身構え方だ。





 同書内にある 餓鬼舎の柱 絵

 菊眞さんの自邸解説には、柱に対する記述がない。豊和さんの物置・自邸については柱につい書いてあるので読み返してみよう。その事によって二人の相違が際立っからだ。
 奈良県の田原本に家を造った豊和さんは、同時に古代日本史の坩堝の中に暮らすことになった。自宅周囲を体験することで『古事記』の世界から、神話以前の人人の暮らしに思いをはせるようになった。(註1)そのことは、敗戦後の日本人の心に残っている深層の敗戦の傷を治すための、間接的な治療行為のよにも思える。大和朝廷に追い払われた人々の姿と、米国に敗れた渡辺さんの少年時代の姿を重ねてたのかもしれない。
 なにわともあれ、古代人の建築感を訪ね、仏教が伝来し、慌てて編んだだろう古事記を脱し、神話以前の、縄文の人々への思いをはせた。彼らの失われた文化的営為を夢想・想像し、古の彼らの思を顕在化させるために、設計と執筆活動を盛んに行った点は、興味深い。

 菊眞さんは、地球温暖化にり災害が多発する21世紀初頭において、自邸を手に入れ下た。彼は、今後の地球上の人間の営みと、そこで生きている人のための建築を想い、対応を真摯に思考し着実に実践し、若者の教育も行っている。卒業設計は空に浮く幻想城と空想的だったが、今現在はおおきく変わり、建築家としてリアルな建築実践を行っていて、柱と同様、実建築においても、豊和さんと逆のベクトルの姿勢をもっている、その点も記しておく。

しつこいのだがさらに詳しく比較してみよう。まずは豊和さんの柱についての想いは振り返っておく。

 ■ 餓鬼舎の柱について1(渡辺豊和さん40歳作)

『神殿と神話』1983年9月刊行(p18より)
渡辺:ちょっと自己紹介のつもりで、今、手もとにぼくのやった建物の写真ファイルをもていますので、みていただけないでしょうか
梅原:(中内邸の写真を見ながら)これは縄文的ですな。
渡辺:なにせ暗いものが好きなもんですからね。
梅原:何かこう。気持ちのわるいものですな(笑)。あまり気持ち悪いなんて言うと注文がこんかしれんけど。おもしろいですね。
渡辺:これは郡山ですけどね。
梅原:これは普通の家ですか。
渡辺。そうです。
梅原:ちょっと神殿みたいですな。古代神殿みたいですね。環状列柱が地上に現れてくるような(笑)
渡辺:これは自分の家ですけれど。
梅原:柱というのが重要になりますか、あなたの場合は。
渡辺:そうですね。柱を光で照らすとか、そういうことなんですけど。
梅原:柱が非常に好きですね。
渡辺:ええ。
梅原:これは弥生の感覚とちがいますな。弥生の感覚ではないですね。秋田のどこですか。
渡辺:田沢湖近くの角館というところです。



註1『古代に眠る太陽の都』 P4参照












    絵:中内邸の列柱

餓鬼舎の 柱について2  

 『天の建築・地の住居ー空間のアレゴリー』1987年刊行 (p136より)
8章神々の世界。人々は祭礼の広場の中心に神の依り代である巨柱を起立することを覚えた

 往古より神の数を一柱、二柱と数えるのだが、これはどうしてなのかと不思議に思いながらそれほど真剣には考えてみることもなかった。しかし『古事記』をひもといてみると、まっ先に神の数称が出て来るし、どうもそのいわれとも思える。「天の御柱を見立て」云々、というところに出喰わす。
 要するに天の御柱を立て、八壽殿、すなわち巨大神殿を建立したとあるのだから、柱を立てて家にすることには違いないのだが、まず柱を立てることに重大な意味があったのだろう。というのも、柱そのものが神であり、判り易くいうなら神の依り代であるのだから、柱を立てることが神を呼ぶことになったからである。

 同 p138より

 神の依り代である巨柱、つまりこれは男根なのだが、この男根は大地から隆々と勃起起立し、宇宙に向かって射精する。すなわち地のエネルギーを天に向かって放射するのである。と同時に天降る神の通路ともなるのだ・・・・柱をいかようにして発見したのか・・・巨木がなにかの拍子に枝が枯れ柱状になった広々とした草原に起立している様に出喰わし、その威力に打たれ、そこに神の依り代をみたということにならないだろうか。
 神は超自然のエネルギーとしてみても、現象として自然から乖離したものは現実には存在しない。火山の爆発、噴火、大洪水、雷鳴、電光など、人々を恐怖のどん底に落としてしまう天変地異こそ神の力を感じたにちがいないのだから、神の依り代とは雷鳴轟き暗雲をつんざいて光る電光を受けて、一瞬に火の海とかする森の猛火、その猛火を発生させた雷が神であり、それを受けた樹木が依り代であるというように意識されたのかもしれない。

 菊眞さんは自邸についてこのように述べている。

「・・日時計裏の薄暗い瞑想的な場所は建築家のアトリエと して創作の場に。大樹の下に好きな場所をもとめて集うさまに、それは似ている。」

 豊和さんの柱への想いは、大樹が雷に打たれ枯れた姿になることで、神の依り代として認識・自覚である。それに対し、菊眞さんの大樹は人々が集い暮らすような、よき環境、身近で親しい自然、生きている樹下への想いである。緑の葉が繁る、大地から水を吸い上げ豊かにな生きている大樹として、建築を喩え、その中で営まれる人の暮らしの豊かさを讃える。












■ それぞれのアイデンティティ (どちらが縄文的人間か)

 渡辺豊和さんの語り 1981年8月刊行『地底建築論』p155より 

 縄文土器というのは古ければ古いほど精緻なんです。・・・日本文化だって・・・大和朝廷ができてからよくなたんではないんです。あれは別の文化が席巻したんですね。要するに私の祖先を坂上田村麻呂がきてぶんなぐったわけです。東北人というのは人間がいいから、だまされてばっかりです・・・・・私はウソだろうとは思いますが、うちの祖先からの言伝えを聞いていると、ウチは安倍貞任の子孫だと言うんです。・・・私は角館という小さな城下町の出身者ですが・・・わたしの近い先祖というのは山伏なんです。山伏はやっぱり縄文人なんです。これは間違いないんです。だから私は完全なる縄文人なんです・・・要するに敗者なんです。歴史から抹殺されていった人間たちです。
 ところが敗者たちの歴史というのは消されますから、勝者の歴史しか残らないわけです。「縄文て古いのに、後れた東北に高度な縄文があったなんて・・・」みんな思うでしょう。そんなことはないんです。・・歴史に対して憤慨しているわけです。

 菊眞さんの語り 2009年12月より
 (グローカル)
 田原本であろうが高知であろうが、ヨルダンにある村であろうが、ある地域に来ていますということからスータトする。地球の一点でもあるけれ、どこでも、いつでも一緒な気配を感じる。地域性がありながら、地球の一点でもあるという思考。ユニバーサルスペースじゃなくって、どこでもローカルでしかない、という二重の見方、を考えざるを得ない。・・・・田原本で育ったときに感じた、よそ者感や疎外感からスタートするのは、現代的な特質かもしれない。

 時を隔て、ふたりの語りを並べて分ることは、菊眞さんの方が体を使い他者と共に造るという姿勢によって、山伏的で縄文度が高い人間である。山伏でもあるかの様に地球を駆け巡り、世界各地に出向き土嚢建築を施工し完成させている。菊眞さんは、そのように具体的建築の実践を成している。
 一方渡辺豊和さんは『離島寒村の構図』をはじめ著作は多数あるけれど、自ら大地に円を描き体を動かし建築を作る行為は聞いたことがない。山伏のように野を駆け身を自然にさらし自然と交歓するようなことはせず、身体を動かすことが苦手にみえる。一人夢想し、紙上にその想念を定着し続ける。さらに戦前生まれなので、米との抗戦による敗戦の記憶を、大和朝廷に敗れた民(蝦夷)として重ね観ている可能性も高い。日本は米国の傀儡政権のようなもので、そこにある権力・政治の二重構造を無意識に誤読している可能性も高いように思う。
 脳も身体の一部ではあるけれど、より多く身体を動かしているのは菊眞さんである。21世紀に入っても、論を語り説く建築人は多いが、菊眞さんのように自ら身体を動かし、実・建築を獲得する者は極めて少ない。だから日本では極めて珍しい建築における山伏・縄文的活動者と言っていいだろう。菊眞さんは図らずも、日本における中世の宗教者にしてエンジニアである、行基や空海に接近している。(註1)
 冷戦崩壊後30年経つことで、一人勝ちだった資本主義をベースに考える人の活動自体が、地球の持続可能性を崩壊させ続けていることは、誰の目にも明らかになった。
 だが、ポスト・」キャピタリズムに代わる思想を人人は手に入れてはいない。それどころか、金を多く稼ぎまくる者が正義であり勝者であるという、時代錯誤の思想がうWEB地球も覆っている。その下に政治と行政が動き続けている。
 地球に起きている難問の解を求めるよう、菊眞さんには課せられていて、その応答として、細やかな一歩二歩ではあるけれど、21世紀における地球生命態レベルとがっぷり四つに組んで、アクチャルな建築活動をし続けながら、小さな答えを出し続けている人なのだ。
 菊眞さんの建築活動と実践はそのことによって、人人の暮らしを崩しても、いまだに資本主義の実践を信奉する、建築的輩からはまるで評価を受けない。

 そこで、もう少し菊眞さんの自邸 宙地の間について観ていこう。


































(註1)河原宏著 
『空海民衆と共に-信仰と労働・技術』参照



渡辺菊眞さんの自邸 宙地 (そらち)の間 2015年8月竣工菊眞さん44歳       
 (宙地の間、解説の一部と絵は 菊眞さんサイトPDFより)

宙地 (そらち)の間-日時計のあるパッシブハウス
  Home between Earth and Sky-Passive house with Sundial

 日時計が内蔵されたパッシブソーラーハウスである。パ ッシブシステムは、太陽や風などの自然作用を、機械によ らず建物そのもので制御することにより、夏涼しく冬暖か い室内環境を生み出す仕組みである。地球環境の悪化が深 刻な現在においてきわめて重要な技術といえる。 しかし、パッシブシステムによる太陽の受容と制御は、 ともすれば、太陽や風を都合のよい「空調機器」のように 感じさせてしまう。この感覚は畏敬すべき存在としての自 然を忘れてしまうことにもつながっていく。そこで、天空 を巡る大きな存在としての太陽を感じるために、日時計を 建築内部に設置する。日時計は太陽の軌跡を影で刻み時を 知らせる。影の移動はそのまま太陽の運行を示す。否応な く天体としての太陽を実感する。太陽の巡りを感じながら、 良好な室内環境に身を置く時、我々は自然の大きさと同時 に、その恵みの深さを噛み締めることができるであろう。・・・・

建築プロセス
1、標準型の設計 日時計(赤道式日時計)は半円筒を緯度の傾きに合わせ て設置し、そこに落ちる影で時間を計測する装置である。 今回の敷地は北緯 34.60°であるため、その緯度に応じた 日時計を設置する・・・
 2、大地への適応 日時計を機能させるために、建築を正確に南面させて配置する・・
、方位に応じた空間計画 建築中央上部に日時計が浮かび、その中心軸に緯度勾配 の直階段が走る。これが建築の空間骨格をなす。その東西 南北(前後左右)には、方位の特性に応じたさまざまな空隙が生まれる。その空隙の質に従い、居住者が各々の嗜好 に応じて場所を占める。日時計前(南)の明るい広間は居間や台所。朝の日差しがさす日時計西横は元気な青年の個室。日時計裏の薄暗い瞑想的な場所は建築家のアトリエと して創作の場に。大樹の下に好きな場所をもとめて集うさ まに、それは似ている。

21 世紀型の空間概念-Universal Locality=Universal Sun ×Local Earth
  「宙地の間」では、敷地の緯度が建築の標準断面を決定 する。これは緯度を媒介に太陽と地球と敷地の位置関係か ら建築が形作られていくことを意味する。次にこの標準型 を敷地状況へ適応させる。なお建築資材は現地材の吉野杉 を全面的に使用し、その架構に優れた技術を持つ地域の工 務店が施工を担う。個別で此処にしかない(場所的)存在 である大地が空間に具体性を生む・・・・・地球は天体の中に位置をもち、地上は具体性に満ちている・・・・・地球も建築も人間も具体性ある存在であり、そこを捨象して は存在できない。環境問題が悪化した今日、そしてグロー バル化の名のもとに世界各地まで視野が広がることで、皮 肉にもローカルな固有性を否応なく目の当たりする時、 Universal Spaceは変更を余儀なくされる。・・・・・一方、その地に目を向けると、そこにし かない地勢、素材、技術がある。その固有性が建築を豊か に肉付けする。Universal Sun×Local Earth=Universal Locality. 根源的な意味で至極「当たり前」なこの概念が、 今こそ有効である。「宙地の間」はこの概念のプロトタイ プでもある。

 天と地の間
  太陽の大きな巡りを日時計が語り、それを包むようにパ ッシブハウスがある。それが建つ場所に呼応することで建 築に大地性がうまれる。人は父なる空(太陽)の下に在り、 母なる大地の上で安らぐ。天と地の間に人は生きる。「宙地の間」の由縁である。








 絵:菊眞さん自邸の自室 





 左:北面   右:南面    





 地球における温暖化などの環境問題は国民国家という境界とそこに暮らす国民、政治システムによって解決することは不可能である。しかし資本主義も国民国家が継続する中で私たちは、小さな解を積み重ねることでしか、身の回りにある難問は解決出来ない。

 最初の問いに戻ってみよう。「渡辺菊眞さんにとって重要な「感涙の風景」に倣うこと、その風景は何か、さらに、今ここと遥か彼方を繋ぐ、とは菊眞さんにとっては、どういう意味をもつのであろうか」すでに書くまでもなく自邸によって示されている。

 体験記を書いてみて分かったことだが、菊眞さんによる「2019渡辺菊眞建築展」の作品を体験することと、途切れ途切れな内容であるが、聞き取り記録作ってみると、上記難問に建築的な応えを着実に実践していることが明らかになり、すがすがしく、また今日的希望の一例が示されることにもなった。


 以上で、2019渡辺菊眞建築展体験記はお仕舞です。最後まで読んでいただきありがとうございます。
 佐藤敏宏 文責・作成 佐藤敏宏 2020年1月 
 
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 体験記のための簡易年譜

 1972年 学生下宿 ー渡辺豊和さん1938年生 34歳
 1974年 吉岡医院 (1・1/2)
 1978年 餓鬼舎(がきのや)菊眞さん7歳
       10年ほど前に建てた敷地45坪 木造2階建18坪へ増築
        テラスロマネスク
       伊藤邸
 1979年 中野邸(標準住宅001)
 1980年 杉山邸
 1982年 西脇古窯陶芸館 (菊眞さん11歳)
 1987年 神殿住居地球庵(藤田邸)
       龍神村民体育館 建築学会賞受賞(青龍的建築)(菊眞さん16歳)
 1990年 ウッディパル余呉森林文化交流センター
       対馬豊玉町文化の郷(白虎的建築)
       菊眞さん京都大学に入る
 1991年9月 布野修司 京都大学に就任
 1993年 菊眞さん卒業制作する
 1994年 秋田市体育館 (玄武的建築)(菊眞さん23歳)
       加茂町文化ホール  
 1998年 渡辺菊眞建築展開催 27歳
 2009年 高知工科大就任
 2019年 第二回渡辺菊眞建築展 48歳
(年譜は 布野修司著『建築少年たちの夢』と『文象先生のころ毛綱もんちゃんのころ』参照に)