13 「渡辺菊眞建築展」体験記02 | 2020年 作成 佐藤敏宏 | ||||
渡辺菊眞さんは、建築家渡辺豊和さんが33歳のとき、三人目(次男)の子として、1971年奈良県の田原本で生まれた。 布野修司著『建築少年たちの夢』(p206)によると、お父さんは
筆者が渡辺豊和さんに最初に会ったのは1985年、市谷である。毛綱毅曠さん(註1)が釧路市立博物館で建築学会賞を受賞され、祝う会が市谷の学士会館で開かれた、その会場であった。渡辺豊和さんは独特の秋田訛りでもって、最後に祝辞をのべ、熱く毛綱建築を語っていた。渡辺豊和さんも参加し、二次会は市ヶ谷駅傍の2階の居酒屋であった。渡辺豊和さん47歳で私は34歳だった。 その後、渡辺豊和さんの講演会が福島市で開かれた。日本の金余り時代を反映しのだろう、衛生陶器メーカーが津々浦々で建築家の講演会を開いていた。その一環の出来事で、1987年頃だったと思う。東北人に向かって激を飛ばす渡辺豊和さんの語りに、好感をもっと同時に、『芸能としての建築』(1983年)第一章「渡り職人考」に深く同意した。 小学生時分から、茅刈をし、茅葺きの現場を手伝ったり、地域の道路の補修に参加したり、村のお寺の改修を「結」にて行う、その現場に参加していたから、現場を仕切る職人達の存在はリアルだった。そのような現場経験を経た私は、工業高校受験日の数日後から入学するまでの一月ほどを皮切りに、休みの度に建築現場でアルバイト三昧し、建築を造ることの意味や、建築を共有する事の実態、そして渡り職人が各地を渡り歩く姿と技術や各種の情報を伝えているている、実際の姿を、建築を知識として学びとる前に、体験で知っていた。私は叩き上げの建築人間であるから、渡辺菊眞さんや渡辺豊和さんは大学で、建築を知識から入った人と私は違う人種なのだ。だが、似ているが違う建築人や、異なる建築的体験をもつ人にも、強く興味を魅かれるのだ。 渡辺豊和さんと知り合ってから6年後、1991年秋、渡辺豊和さんの自邸に(鉄筋コンクリートで増築した「餓鬼舎」(1977竣工))に2週間ほど泊めてもらた。餓鬼舎をベースに、渡辺豊和さんの初期作品を観て歩いては戻り、感想を述べた。渡辺さんを楽しませた(註2)。 ときどき餓鬼舎には私のような変な輩が逗留するらしい。それが可能なのは渡辺豊和さんと仲間の建築人を、こよなく愛する、奥様のお陰である。渡辺家や渡辺豊和さんの周りは、建築家などとの交流がとても盛んだった。奈良の田原本を訪ねることで「建築家は良妻賢母がなければ育たない」とうことを実感した。 餓鬼舎が「筆者の奈良の家」になりつつある日の朝 (註3) 渡辺豊和さんが「布野修司という、とっても優秀な先生が京大に赴任して、今夜、パーティーするから、一緒に行こう」と誘われた。渡辺豊和さん以外だれも知らない、私は「パーティーに行っても、退屈極まるだろう」と思ったが、新大阪傍のホテルの会場までついて行った。この日初めて聞いた名前の布野修司さんは壇上にあった。司会進行は平山さんという人だった。手荒な内容の歓迎ぶりだったと思った。歓迎パーティーが終わり、二次会は、狭いバーのよう場所だった。布野先生も渡辺豊和さんも参加したが、他は誰も知らないから、黙って水割りを呑んでいた。時々だれかが口論となったりして、ますます手荒な歓迎ぶりだ〜なと思った。私は二次会場にいた一番若い人に声を掛けた、彼は新田正樹という人で「関西のガウディーと言われている」と自己紹介した。雑誌を読み勉強もしていないので、建築家の名前にも興味もなく、もちろん彼を知らなかった。 布野先生と出会ったのは、私が40才、菊眞さん20才のときだ。だが菊眞さんと餓鬼舎で話した記憶が無い。餓鬼舎の壁に飾ってあった菊眞さん制作の油絵は数点観た。だから平面絵画を通して・作品から菊眞像を想ったのが先だった。シャガールより巧いが、ブルー系の色彩は似ていて、菊眞氏の深層・想念が定着した、想念異時同図だった 新田さんとは今でも交流が続いている。人はとかく噂話が好きだから、新田さんを介し、関西建築家系の相関を知ることになった。4年後の1995年豊和塾の打ち上げ後に、大島哲蔵さんに引き合わせてくれたのも新田さんだった。その時、大島さんは「うちに来る可愛い女の子は、宮島と道家に持って行かれる」と自分がモテないことを、しきりにぼやいていた。新田さん同様、女性には縁が薄く、大島さんの書店は関西の建築好きの男たちのための、梁山泊なんだなーと思った。 私は「お前の家は俺の家・主義者」で「誰の家にでも泊まる、そのことを良し」として暮しているので、大島さんの実家にも、彼の書店にも、新田さんの事務所の床にも泊めてもらった。泊まって空間を体験すると、その人の生活環境が寝ている間に浸み込んできて、あんがい交流している相手を深く理解するのに役立つのだ。 いつだったか思い出せないが、渡辺菊眞さんと共に淀屋橋の大島さんの書店の床・本棚の間に段ボールを敷いて寝た。菊眞さんは、鬱積する思いが多量にあったのだろう、2019年の展覧会の様子と比べると、口数がとても少なかった。その事は覚えている。 |
『建築少年たちの夢』2011年6月刊行(彰国社) (註1) 1984年に私は福島市に自邸を造り、竣工祝いとお披露目を兼ね、第一回目の「建築あそび」を開いた。その時のゲスト講師が毛綱毅曠さんだった。 (註2)餓鬼舎、1・/2、杉山邸、伊藤邸、神殿住居地球庵(藤田邸)、龍神村民体育館、杉山邸、西脇古窯陶芸館、おっぱいハウス、ウッディパル余呉森林文化交流センター、対馬豊玉町文化の郷、など (註3)布野修司著『進撃の建築家』によると 1991年10月18日ホテル大阪ガーデンパレス |
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「菊眞を聞き取れ」と私に推したのは2009年8月5日に聞き取りした、森田一弥さんである。「森田さんを聞き取れ」と推したのは魚谷繁礼さんだ。魚谷さんとの出会いは、このような機会だった。 京都で開催された、藤村龍至さん率いる「ラウンド・アバウト・ジャーナル」のデモンストレーション・イベント。その二次会場へ行く、バスの中の隣に偶然にも立っていたのが、会に参加した最も若い魚谷繁礼さんだった。私が聞き取る対象者は「若い人に推薦してもらうのが鍵だ」と考えているので、その場で京都に暮らす独立系建築家を紹介してもらった。 魚谷さんが私に推薦したのは門藤芳樹さん、岩崎泰さん、柳沢究さん、森田一弥さん、山本麻子さん、満田衛資さん、牧野研造さんだった。後に分かったことだが、多くは布野修司研究室出身者だった。布野先生が京都に赴任してから18年後で、これから伸び盛りの建築人で、魚谷繁礼さんの親しき建築家の仲間だった。 だがその時、魚谷さんは渡辺菊眞さんを推薦しなかた。それは菊眞氏が高知工科大に就任した直後で、京都に暮していなかったからだろう。バスの中での偶然の出会いによって、布野研卒の面々の親密で豊かな建築的人間関係の渦中に入っていたことに成った。 私と京都に暮らす建築的人人の交流の豊かさは、布野先生の教えの賜物である。筆者になぜ、このような幸運な機会が与えられるのかは、分からない。彼らは「布野研からアがカーン賞の受賞者をだすのだ」と語り合っている。日本建築学会賞を目指さない点、そこが面白い人たちだと思った。 |
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さて、2009年の菊眞さん聞き取りを、再び振り返っておこう。『建築少年たちの夢』(p209)によると、餓鬼舎竣工が1978年だから、菊眞さんが7才だったことになる。 菊眞さんは「家に居るのが好きではなく、外で虫を採ったり、魚を獲っとする少年だった」と語っている。中学校に入ると、陸上部にも入り、もっぱら800mとか1500mの中距離選手だという。高校に入ると、山岳部と美術部を掛け持ちした。子どもの頃から絵を描くことが特技で、誇りだった。平面絵画を制作していたが、中学から本格的に学校外でも習っていて「絵描きのプロ、ダリを目指していた」そうだ。大変貴重な証言である。菊眞さんの身体を脈々と流れている、深層を知ることもできる。大学3年から、絵を描くことはしていない菊眞さんだが、彼の画力は、同期の京大生に、多大な影響を与えたことが分るので、その語りを再度、振り返っておこう。 (以下 2009年12月の聞き取り録より) |
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佐藤:食料の危機を感じて虫採取かと 渡辺:ははは要は採って見て、またずーっと眺めるのが好きだったので。 佐藤:眺めてから本格的に描くと 渡辺:だから 虫採っていると平行して絵は、子供の頃からそれだけは、特技みたいな感じでしたので。で、高校の美術。陸上の方は中3まで頑張りましたけど、才能ねぇーなとはっきり分かったので。けど何も部活しないのも手持ちぶさたなこともあって。美術をするために美術部入ったわけじゃなかったんですけど。絵はまだ別に習ってましたので。 佐藤:絵はいつごろから習っていたんですか 渡辺:本格的に習ったのは中学校からです 佐藤:駆け足しながら絵も描いていたと 渡辺:そうですね。はい。 佐藤:美術は何をやってたんですか 渡辺:油絵ですね 佐藤:最初に何を描いたですか、虫ですか 渡辺:最初、何か変にませてたのか、ダリの絵みたいなものを、まねごとみたいなものを描いていた 佐藤:シュールリアリズムの絵をね 渡辺:はい 佐藤:世界が曲がったりとか(右絵 ネットより) 渡辺:そうですね、割とだから、 佐藤:夢の絵とかですか 渡辺:夢の絵とか、なんかそういう目玉みたいなものとか、空中に浮かんでいるとかそんなやつでしたね 佐藤:気持ち悪いですね 渡辺:気持ち悪い感じの絵を描いてました。はい 佐藤:気持ち悪い絵を描いて驚かそうってわけじゃないのね 渡辺:わけじゃない、そういうのに憧れていたんでしょうね。 佐藤:現実に見える世界じゃない、違う世界を描いてみたいと、そういうのにね 渡辺:はい。 佐藤:現実が、不満があったからとかじゃないんでしょう 渡辺:現実に不満があった訳じゃないですけど、ただ面白くない感じはしてました 佐藤:風景描写とか生物の写実はいやだと 渡辺:そうですね、中一ぐらいまでは普通に風景だとかを描いていたんですけど。何か、中二ぐらいの時からそれも嫌になって来て。そのぐらいからシュールリアリズムのまねごとみたいな絵を描いてて。 佐藤:油絵って臭くってたいへんじゃないんですか 渡辺:そうですね、はい。 佐藤:水彩では駄目だった、油絵だと 渡辺:えーと、どちらかと言うと今思えば、水彩の方が向いていた感じはするんですけど。何ででしょうね。なぜか油絵で描いて。 佐藤:描きにくいですよね 渡辺:描きにくいです。 佐藤:水彩とか鉛筆画の方が描きやすいよね 渡辺:そうなんですよ 僕も厚塗りをするタイプじゃないですから、どちかというと薄い感じなんです。 佐藤:下地をツルツルに仕上げてから描き出すんですか 渡辺:もうキャンパスそのままやってましたけど 佐藤:直に薄塗り、陰影でるから 分かりにくくなるんじゃないの 渡辺:そうです、薄塗りをシツコク重ねて。へんなボコボコは無くなるようにしてましたけど。 佐藤:今でも、その作品はあるんですか 渡辺:実家の田原本の方に置き去りにしてますからはははは 佐藤:置き去りって、今 描いてないってことだね 渡辺:そうなんです、それもだから画家を目指していて、建築やっているのは、やめたっていうことなので。高校2年ぐらいまでは、芸大に行くか、建築の方もちょっと有ったので。 佐藤:絵描いて めしくったろ〜と思っていたんだ 渡辺:絵でプロになりたかったんですが。 佐藤:建築より難しそうだ 渡辺:建築の方は、何ていうかな。環境的にはよく見知っているハズではありましたけど。ただあんまりそんな話もしないので。絵の方は難しのは分かっていたんですけど。ギリギリ芸大ぐらいには入れそうな気配はあったので。それでと思ったんですが、ただなんか 佐藤:この辺で芸大と言うと、どこへ行くんですか 渡辺:京都の市立芸大めざしていたんですけど。で、そういうのやっていたんですが。また陸上の時と似たような話もあって、それもし受かったにしても。例えば僕が憧れるダリみたいに。絵を描ききれるのかと言うとおそらく無いであろうと。あのとき気付きまして。 佐藤:ふふふふ早いね〜気付くの 渡辺:ふふはははは 佐藤:けっこう慎重なんだね 渡辺:そうなんですよ。ただもの凄いショックではあったんですよね。勉強ができはじめたのだいぶ後だったので。絵の方が誇りだったときに、それやめるのは、かなり何も無くなってしまう。・・好きだったけど 絵のことは別だったので。これしか無いと思っていたものが、駄目。僕もう何も無い 馬鹿な人じゃない。みたいな事になってしまって。で、そんときにう〜ん。 建築の世界、実は知らなかったですので、けど。芸術とかと無縁じゃないのは知ってましたから。突っ込もうということで。高二の冬ぐらいから、もう建築の方へ。 佐藤:中途半端な 領域へスライドしていって 渡辺:中途半端なははははは。まだ大学の1,2年の時までは、絵も描き、描いて。かつ建築もやるみたいな事はどうか、みたいな事は思っていたんですけど。やっぱり、一旦もう駄目だと思ってやめてしまった事もあったので趣味として絵を描くのは、ちょっともう絵に向けても失礼だなって思いがあって。 佐藤:真面目だね 渡辺:ならば、二度と描かないで、おこうとなって。絵は好きなんですけど。だからあえて描かないようにしてまして。だから大学3年生、最後に絵は描いてないんですけど。 佐藤:高校時代は絵ばかり描いてて、受験勉強はしてなかったの 渡辺:高二の冬ぐらいまでは 絵はそればっか描いていたりしてましたけれども。勉強まったくしてなかったわけじゃなかったですので。やめると決めてからは、勉強する比重を上げて、してました 佐藤:京大めざしたんですか最初から 渡辺:京大めざすのは建築とまったく関係なくですね。関西にいて、ある流れで。進学校の高校にも入ったものだから。やっぱり関西、普通に単にミーハーに京大に行きたいっていうだけだったんですけど。 (以上 2009年12月の聞き取り録より) |
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夢とか目玉だとか、さらに空間に浮かんでいる気持ちの悪い絵を描いていたという。高校に入り進路を想うとき、「ダリのような絵描きにはなれない」と断念したという。子ども頃から絵が特技で誇りだったので、絵描きを断念したときは凄いショックだった、と語っている。京大の建築学科に入ったのは単なるミーハーな気もちからだと言う。しかし京大に同期入学の森田一弥さんは2009年12月12日に、このように語っている。 |
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佐藤:では森田さん、渡辺さんを紹介してください 酒呑んで暴れていたとか 森田:酒呑んで暴れてたってのはあるんだけど。まずは、大学2年生のときの一番最初の課題かな。で、まあ、普通、建築まわりにそういう人が居たわけでもなし。何やるか分からない最初の課題。鴨川ホリーてやつだよ。 渡辺:休憩所のつぎの布野先生の課題じゃない 森田:布野先生の課題かね。どうやってやればいいのか分からない。布野修司に本当に家庭教師みたいな感じで、聞いてたいですよね。 そしたら何か凄いドローイング描いて持って来てる奴が居る!って人混みになっていて。ぱっと覗いたらそれが菊眞だった はははははははは 佐藤:ドローイング見て 同級生が みながショックを受けた。 森田:そうそう。何だろう?喩えるとどんなんかな〜。小学生なのに、月面宙返りやっている!ははははは ガヤガヤ 佐藤:やめて家に帰ろうと思わなかったですか 森田:なんない、あ、こういう事をやるんだと思って。みんな素人でね、みんな逆上がりやっている処で月面宙返り!やっている奴が一人居たから。ははあっははっははこんな奴が居るんだ!って 佐藤:なるほど、そうですか 本人は月面宙返りやっている気分はありましたか 渡辺:そうですね〜父親建築家であったこもあり、それは家では無いとはいえ、見る機会が多かったからでしょうね。自分としては素朴な、自分の中でも精一杯の事やっていたような感じやったんで。特に専門的な事をやっている気はほとんど無かったし。素朴な案なんで。ドローイングとかをやるっていうことが、そもそも頭に無いはずなんで。そういう処あったかも分からない。 そういう処でスタートしてしまったもんだから、3年生とか4年生のときもとかく何かごつい!派手な!模型作っては驚かしてしてるみたいな感やったんです かいじょう ははあはははは 佐藤:新・月面宙返り、やりつづけたと なもんでね 森田:ドンドン新し技繰り出して 会場 はあはははは 森田:友達がようやく蹴上がりが出来てろこと 背面で飛じゃって 会場ははあはっははは 森田:そのうえ鉄棒の上で 捻りも入れてるよ〜 面白かったですよ、その当時布野先生とか竹山先生が来て、ようやく設計が今までとちょっと違う、設計やろうっていう教育が始まった時期に!一人月面宙返りやる奴が居たっていうので。それで僕らの世代って、けっこう何か自分なりに、なんかやって行ける事を探そう!っていう意識があったかもしんないですね。 |
(2009年12月12日 右が森田一弥さん) |
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渡辺:大概上の人だよね。、後輩にっていうことはない 森田:梅林さんとやったんだ 岩崎:梅林さんとはやりましたね 渡辺:組み伏して、はははははは 江崎:梅林さんて しょうもないことしか言わないんです かいじょうははははははは 渡辺:あれ一部始終みてたもんね。向こうは逆に後輩に、威張っていたいタイプで。ちょっと洒落たようなもの言いをしてみようかみたいな感じ。内容は無いんですよ全然。それで偉そうにするんで、つい、切れてしまうじゃないですか。なかあれは春秋塾のあとにだった 岩崎:そうですね打ち上げかなにか 渡辺:組み伏したりなんだりしてたら。分かったから絵を描いて見ろみたいな話になったんですよ。それで判断するからみたいな話になって。 で僕はトンボかなんかの絵を描いて、梅林さん定規を当てつつ、フリーハンドで絵も描けない人なんですよね。大阪芸大出なのに。しゃっしゃーとやっってたら勝負あったみたなことになって。僕の勝ちになって。梅林さんしょぼんとして かいじょうははははははは |
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■ 続いて京大に入った菊眞さんが何を学んだのか再確認してみたい つぎに続く |
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