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福島第一原子力発電所の事故によって起きている様々な問題を勉強し始めました 勉強過程の記録をつくってみますご活用ください | |
福島県の復興計画の課題 2013年3月24日 福島大学にて e1 e2 e3 e4 |
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2011年3月15日民報紙面 参照 3月16日 民報新聞紙面 マスメディアは浜通りの市町村記者クラブから 撤退したと言われている |
02 (文字だけの頁へ) 実は 今回の原発災害が起きてすぐ、ドイツではメルケル政権が「ドイツに在る原発はどうしたらいいのか?」ということを検討してもらう委員会を立ち上げました。(アンゲラメルケル) 安全なエネルギーに供給に関する倫理委員会。なぜ?原発問題が倫理問題なのか? 日本人にはなかなか分からない。そもそも倫理とは何だろうか、ということが私たちの中で共通の認識に立っているとはとても思えません。 のちほどお話しますけれども、難波(謙二)先生と 9月の25日からわずか3日間だけ、わずか3日間ですけれどもこの倫理委員会の議長をやられた、先生の所に行って、そこいらの話し、あるいはその後のチェルノブイリの原発災害に対するヨーロッパにおける対応について 意見交換をして、それが切っ掛けになって、昨年(2012年)の4月から、国際共同研究所を始めることになりました。 それは後ほどご紹介しますし、僕が足りない処は難波先生がお話をしてくれることに、先ほどなりました。後ほどまたお話します。 いずれにしてもここに書いたような この社会全体が色んな(基本が)ぶれている時に、拠り所になるような基本的価値観が日本人には何かあるのだろうか? というぐらいぶれにぶれまくっているという状況の中でこの災害が起きたということをお話をしたかったわけです。 それで福島第一原発の原発災害の特殊性というのは、 イラストで示しましたけども。これは勝手に私がこんな風に思って居るだけで、皆さん共通理解得られるかは分かりませんけれども。 福島第一原発の災害は日本における原子力災害の三番目、世界における原発災害における三番目。この交点に福島の原発災害がある。僕は「世界史的に観ても、色んな意味で重要な 原子力災害だ」と思ってます。 この交点に在る福島の原子力災害を世界にどういう発信をするのか?この原発災害を我々経験してみて、大きな私たちの責務であろう。この矢印の方向をどちらにもっていくのか?。これは大きな私たちの責務のような気がします さてその福島原発災害の特殊性を大きく3つほどに括ってみました。これも 皆さん分かっていることなのではしょりながら話しをします。 福島の原発災害は地震津波災害に加えて、プラス原子力災害、さらに原子力災害のなかで福島は風評被害、最近では様々な 中で起きている差別の被害、嫌がらせの被害こういうことをもたらしています。トリプルとは言わないくって、もっ ともっとプラスアルファーがいまだに引きずりつつある。この原子力災害の特殊性だと、第一だと思います。 2つめ、これが私は凄く大きな、先ほどガバナンスの問題としてお話しました。初動期の悲劇というのがあって、政府の初動期の原発災害、それにともなう放射線の汚染の状況、これについてはほとんど政府から正確な情報が流れなかった。 そのことがここにも書きましたけれどもちょっと一言で言うと、それぞれの例えば双葉8町村、プラス飯舘村等が、どんな風に住民の避難をしてもらうか?どこに避難するのか?いつ避難するのか?みんながバラバラであります。 私はこれを首長の孤独な政策決定と言っています。よるべき情報が政府から示されなかった。 飯舘村はご承知のように高い線量の所でありました。ところが実際に全村避難を決めたのは1ヶ月以上経った4月の22日でした。全村避難を完成したのが8月になってからであります。 後ほどご紹介しますが、私は復興計画に関わっていたのは浪江町はですね。3月の15日まで浪江町の津島地区に町民が一次避難をしていました。3月15日の朝になって町長が「ここも危ない」って「全町避難をしよう」と。蜂の巣を突いたような住民が避難した経路はどういう経路だったか。114号線北西の方向に、福島に向かって逃げる訳です。ここに居る方はだいたいお分かりのように、その方向に放射能プルームがずーっと流れた。真っ赤なエリアです。浪江の人達はこの方向に逃げてる訳です。 (参照動画クラウドより) というようなことも、起きて。初動期の政府の情報開示のまずさ。こういうことを含めて 私はガバナンスのなさ、こういうことが起きてしまった。 もう一つここに、最近になって私はつくづく思うのは、国策による電力・原発。あるいは絶対安全だという安全神話。それらが・・たときに地域の人達は自治体の首長らは「何が何でも我々の古里に取り戻して欲しい」「まっさらな大地にして取り戻して欲しい」という意見が強かったのです。その声が実は除線という方向に換わりました。 しかし今2年経ってみて、段々だんだん除線の重み、除線の難しさ、こういうことを認識し始める。(第50回の原子力委員会定例会議 除染の取り組みについてを参照) チェルノブイリ災害のときは除線だけが唯一ではありません。あるいはヨーロッパの放射線防護の考え方は、除線はその放射線対策のワンノブゼムであります。要するに放射線防護は体に放射線が悪い影響を与えないために、どうやって距離を置くのか。避けるか。食物をどうやって安全なものとして管理するのか。こういう方法は沢山あるけども、大地、スクーング除線するというその内の一つの方法。場合いによっては厳しいということになれば、ここの地域は除線をせずに、時間で稼ごうじゃないかっていう選択肢もありうるわけです。 でも、日本の場合にはこの「とにかく除線。何がなんでも除線」こういう方向に行ってしまいました。 だからそういう意味で、仮置き場の特定の難しさ、色んな状況があり 除線がなかなか進まなくなってしまった。 その件につても様々な不信感などが、相互不安あるいは食の不安をもたらしているのは今日もずーっと。 それから 除線・・・法というのが違った部局で政府がやっていたたのに、被災者の人達がこれを全部統一的に捉えられない。というような状況で、あるいは地方自治体の場合いも、これを合わせてどうやって合理的なつながりで捉えるか。復興計画の中にどうい位置づけるか。こういうことが出来なくってですね、浪江とか双葉。後ほど双葉の話しをしますけども。そういう混乱が今でも続いてます。 2011年の12月の16日今でも忘れませんけども、野田首相は原発収束宣言をしました。このもっている意味を本当に考えされられました。 収束宣言というのは福島県民に関する限りまったく理解不能。にも関わらず、あの野田首相が収束宣言を出したってのは何だのか?翌年になって段々分かってまいりました。 2012年になると、大飯原発の再稼働の議論が始まっていきます。2012年7月には再稼働スタートであります。日本はベトナムに原発の輸出のプログラムをスキームをずっと持っていました。 それで、私は段々分かって来たのは、収束宣言が少なくっとも、原発問題、原発災害を福島県に封じ込める作用をもたらしたなーと言うふうに今でも思っています。 2012年の正月に沖縄に居る友人からメールをもらいました。「鈴木さんいよいよ福島は沖縄と同じ状態にさせられてるね」というような事を、沖縄の人は機敏に感じるわけで。 (右絵:福島高校卒 高橋哲也著) というような事を私はこの辺 収束宣言、もういちどキチッと歴史的に検証してみる必要があるし、そう考えると、ものすごい災害。 私たちがそんなにむすむししている訳にはいかないと事だと思います それと原発災害 重要なのは色んな人が言っています。もちろん長期化をし広域化し様々な災害が生活を破壊することも含めて、複合的な災害である。これは誰もが言っていることだと思います。 それで先ほど言いましたけども、初動期のミスを、ここでは詳しく説明していると大変なことですので、後で観てください。 要はガバナンスもまずさが自治体の首長の孤独なる政策決定をしたという 幾つかの自治体の時系列で、書けてみたんです。これは浪江町なんですけれどもこれも先ほど言いましたように彼らが逃げたのは3月15日の午後からです。 午前中に、ここで10時、全村、全域の避難指示命を発令した。もう災害が起きてからだいぶ経ってから。浪江町は全町避難を出します。 これが浪江ですあとは観ていただきたいと思うのですが。 飯舘村、飯舘村にはここに書いてありますように、ちょっとここだけ紹介します。3月30日、IAEA が放射線レベルが非常に高い、高いので避難基準の2倍に達したので、避難勧告の対象にすべきだと政府に勧告をしています。ところが、翌日政府はこのIAEA の勧告を拒否しています。 それで、実際にはその後京大の今中哲二さん報告(4月13日)とか 色んな人達が実際の放射線量を色々示して。 4月6日に妊産婦さん3歳未満の乳幼児の村外避難を決めたのは4月6日であります。全町避難を決めたのが実は4月22日の文書が示されてから5月9日。それから先ほど言ったように全村避難8月になってからです。 このような状況が よるべきのない状況の中で町村毎に様々な対応強いられてきた。という処が大きいかな−と思います。 先ほど浪江町の、ああいう避難の現象は結果的に 仮設住宅の直接供給した、仮設住宅の見通し、浪江町に関するかぎり、借り上げ賃貸住宅もどこに在るかを ここに掲げておきました。 観るべきものもここであります。 浪江町っていうのはここです。こちらの方向に逃げた。二本松とか福島だとか、こういう所に川俣町にも最初、 しかし浪江町蜂の巣を突いたように逃げたんで、結果的に浪江町は仮設住宅団地はここの地域 緑色ですが、28ヶ所にバラバラになってしまいました。 他の町と比べるても、これは大熊町、大熊町は非常に分かり易いのは会津若松ですね。もっと分かり易いのはこの葛尾村です(金谷副村長の報告録へ)。 二本松にほとんど集中的に避難して。そういう状況から比べると浪江町は28ヶ所にばらついてしまいました。コミュニティーもへったくれも無い。 最初はそう考えたんですもちろん、ところが色々放射線災害の厳しさからなんですから、小さなお子さんを抱える人、妊産婦が居る人から早く仮設住宅に住んで欲しい、というような優劣を付けたために、結果的にコミュニティー対応なかったんです。バラバラになってしまったのがこれが双葉町(浪江町)の状況であります。 先ほど言いましたように私は、3月20日。19日、ようやく福島に戻ってきて、3月20日に福島県庁に行きました。それで、その仮設住宅の建設計画は徐々に決まっているのをマスコミで聞いて。ひょっとすると阪神淡路大震災と同じことになりはしないかと思って。3月20日、日曜日だったと思うんですけど。 その日県庁に行って。仮設住宅の担当部局に「今どういう状況か?」といったときには既に1万4千戸の仮設住宅団地の配置計画が全部図面が出来上がっていました。案の定でありました。鶏小屋がびっちり!張り付いたような仮設住宅。 県の担当部局の人と話しながら、「本気でこんなものを作る気か?」ということでものすごい激しい喧嘩みたいなのをして、阪神淡路大震災の時の応急仮設住宅がいかに次の二次災害言われるようなもの、孤独死を含むですね、巻き起こしたのか。 居住環境としての質の悪さをもちろん、それが、さらに言うと、東北地方の気温の低い所であのプレファブ仮設を作ってどうするの?かと。やりとりして。県の側が私が始めて知ったことがある。「先生のおっしゃることはよく分かるけども、実はこれにはものすごいハードルがあるんですよ」僕もそれを知りませんでした。 阪神淡路大震災のあとに、47都道府県全部がプレハブ建築協会と応急仮設住宅の建設供給に関する協定を結んでいるんです。災害救助法の適応になって仮設住宅供給すると、もうストレートに、プレハブ建築協会に発注する仕組みになっているんです。これが47都道府県全部貫通している その e3へ |
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