浅野翔さん篇  2026年8月21日夜 名古屋市緑区・浅野さんの自宅にて 作成:佐藤敏宏

 浅野翔さんと語り合う (その1) その2 その3 その4 

■京都で会ってから今日までのこと

浅野:岡田栄造先生の授業で2011年の3・11(東日本大震災)被災地に暮らす佐藤さんの話をきこう、ということで京都工芸繊維大学で語り合う機会がありました。


(2011年11月9日 岡田栄造研究室の学生さんと共に語り合う。 右から3人目浅野さん)

佐藤:お久しぶりです。浅野さんと最後にお会いしたのはフリーペーパー『鮪立』作成しているときです。鮪立は気仙沼市唐桑町にある漁港です。そこは3・11の大津波で被災した港で、昔、和歌山県から移住した漁師の末裔が多く住んでいる漁港でした。
「被災地に来て見てよ」と呼びかけましたら、大谷さんが現地入りし、レポートを書いて、岡田研究室の皆さんと『鮪立』を編集し刊行してもらいました。2012年2月17日が第一刷で人気があり、2刷りし配布しました(笑)。

被災地からの話合いを終えたあと、岡田研究室で編集した皆さんと会い語り合いました。大谷さんは家で作った八朔だったかな。みなで食べながらワイワイしました。あれ以来佐藤は大谷さんに注文し続け実家から八朔を送ってもらっています。

浅野:すげー。
佐藤:大谷さんは今年から和歌山県の山に引っ込んで食堂をひらいているようです。「大谷食堂」だったかな、そういう名前で柑橘類を送ってきています。
浅野:大谷さん食堂やっている可能性あるな・・・。
佐藤:間違えているかもですが、FB見た。彼女は食堂も営んでいるようです。
浅野:大谷さんは和歌山県出身だったからね。

佐藤:浅野さんと話合うのは『鮪立』の編集会議以来です。その前にお会いしたのは2009年12月12日(佐藤の日記へ)です。その日は川勝真一さんの家を借りて、京都の人々を聞き取りしました。最後の日に大勢、呼んで「建築あそび@川勝邸」を開きました。あの日が最初の出会いで(浅野さんの記録へ)色んな人が集まって来てました。

浅野
:きてましたね!

佐藤:松岡聡さんが山崎さんに絡んでしまって(笑)、建築編集者・山崎不要論をぶち上げて場を荒し始めました。建築家らしい発想なんだけど、よくない発言をしたので、それは間違いだと、建築編集者は建築家たちの応援団なんだから不要論はここでは要らないと言い静かにさせた。
あの日、最後の聞き取りが浅野さんでした。浅野さんはどうして、あの場に参加していたんですか(笑)。

浅野:もしかしたら岡田先生に誘われたかです。三条にあったギャラリーを見にいっていたりもしたので、川勝さんとも繋がっていました。川勝さんが運営していたRAD(Research for Architectural Domain)のオフィスがそこに在ったんです。本屋さんから徒歩3分ぐらいの所にそのオフィスがありました。建築家の菊池さんが展示していて、そこに初めて遊びに行ったのが川勝さんと初めて会ったタイミングだと思います。




   
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(2011年11月09日 佐藤の日記より) 
川勝さんの家で 午前中データ整理をする。
・午
后 川勝さんの家から歩いて10分ぐらいに在る京都工芸繊維大にいき岡田栄造先生の研究室に行き 研究生に「被災地からの報告」などを1コマ行う。 報告 新装なった学食を案内していただき 昼飯を喰らう。 その間岡田栄造先生もmy活動支援者の一人なので 動画を撮りまくり、動画データを保存する



■建築家を目指し京都工芸繊維大学へ入学

佐藤:今日まで分からない事ですけど、浅野さんは建築家を目指していて京都工芸繊維大学に入学したんですかね。そのあたりからお聞かせください。
       
浅野:元々は建築家を目指していたんです。出身が兵庫県という話は最初の聞き取りの時、話ました。
佐藤:1995年の阪神淡路大震災が起きた。神戸は2才まで暮らしていたので、覚えてないと言ってました。

浅野:1987年生まれなんです。1995年は親父の都合で転勤し名古屋に来ていました。阪神淡路大震災のとき8才でした。だから当時の記憶は薄っすらあります。崩れた家とか避難所に居る人たちを見て、ボンヤリと建築とか、お家とかを、こんなにもたくさんの人が守っていたんだな・・・と思い、一番最初に建築に興味を持った切っ掛けでした。

爺ちゃん祖母ちゃんの長屋も潰れて避難所に逃げた。その時は僕ら家族は名古屋に引っ越してました。僕らが神戸で住んでいたマンションは8階建てぐらいだった気がします。そのマンションは全壊し生存者一人だったんですよ。
佐藤:お父さんの転勤で、浅野さんの家族は大震災に直には遭わず済んだんだね。

浅野:その後、建築のテレビ番組とか、ビフォーアフターとか建築探訪のような番組を見て、建築ってすごいなー・・・とボンヤリ思い始めまして。中3の進路相談の時に「あんた何やりたいの・・」そんな話になって。僕は建築に興味があるから建築の仕事をしたいです・・・そんな話を面接の相談のときに言ってました。親父が建築に関する仕事をやっているとかではないです。


■両親のこと

佐藤:お父さんの職業はどんな仕事ですか。

浅野:父親は化学系の商社に勤めてました。材料などを売っている商社でした。
佐藤:お母さんも同じ仕事でしたか。
浅野:母親は専業主婦でしたが、家でパン作り教室をやっていたり、子供たちに教える塾の先生をしたりしていました。今日、佐藤さんが泊まっている部屋は塾になっていた部屋です。

佐藤:あの部屋はよその子供も来て勉強する場所なんだ!それはいいね。お母さんは外部の人を招いてワイワイするのが好きな女性なんだね。
浅野:そうですね。

佐藤:お父さんは家で化学の実験してたとかもありますか。
浅野:商社の営業マンなんです。家では・・・スポーツ好きなので、週末はゴルフの打ち放しに行って、ソフトボールのチームにも行ってました。ソフトボールなどの大会があるので、その審判もやってましたね。自分もプレーしてました。
佐藤:浅野さんが活動的なのは両親の血を受け継いでいるんだね。
浅野;そうかもしれないですね。
















■仙台ワイワイに来て

佐藤:2010年3月22日仙台のダメハウスで開いた、大室佑介さんの卒業設計、日本一位になった作品の説明を聴く会でも会いましたよ。名古屋から仙台まで移動してまで話を聴きに来る人なんだな・・・・と思いました。卒業設計を終えた年だったんですか?

浅野:前の年です、何で仙台に行ってたんだっけな・・・仙台の日本一展を初めて見に行ってたんです。で、その時はTwitterは元気だったので、呑み会とか参加学生たちの集まりとか、関西の仲間も日本一展には行ってた。皆でご飯食べに行ったり、呑みにも行こうという乗りになりましたね。その時大室さんの語り合いに、誰かが誘ってくれた。東北大の誰かの家、シェアハウスでしたよ。

佐藤:東北大の建築系の学生たちがダメ・ハウスと名づけたシェアハウスを運営してた。(笑)俺もただ泊まりして学生を虐めたり、いじったりしてた(笑)。
浅野:そこに大室さんも居た。

佐藤:東北大の学生が日本一展に対して、学生会議の主催なのに、大学の先生たちの支配になっていて、不平不満を吹いていた。
だったら、過去の日本一位はどういう効果があったのかを、日本一位になった人、全員に手紙を出して喋りに来てほしいと連絡させた。俺が電車賃だすから呼べ。そうしたら大室佑介さんだけ反応して、ダメハウスに来てくれたんです。たった一人ですが日本一位の大人が来た。大室さんは熱があるよね〜!学生と朝まで寝ずに語り合ってたよ。
大室さんの卒制に関する語りは文字にしてweb記録で公開したんだけど、その後の朝までの語りは、俺は寝てしまったので内容は知らないんです。(笑)

浅野:その後のワイワイの途中で書籍と電子書籍の話になって僕と喧嘩になってました(笑)。

佐藤:それもいい体験だね。俺はその時に初めて大室佑介さんと卒業設計の内容を知りました。その後、大室さんは棺桶を制作しギャラリーで個展を開いてました。建築の元は棺桶だという制作態度でした。それはそうだ、世界各地の古墳やピラミッドなどの遺跡をみるまでもなく建築だ。権力者サイドの建築。現代に棺桶つくり展示して、建築の源流を想うのはまともな行動・思考だと思いました。

その後は小さな家形のような美術作品をたくさん作り、方々で並べて展示したりもしてました。大室さんは美術作家になるのか、建築家になるのか、両方するのか分かりませんでした。

3・11直後でしたが連絡があり福島県内の被災地巡りを一緒にしてます。友達連れて我が家にも来たので、一緒に県内の一部を見て歩きました。
その後の交流は、福島県浜通りの被災地で開かれている展覧会を見るので、福島に行くから我が家に泊めて欲しい、と連絡があり泊まりに来ました。

大室さんは福島県浜通りで暮らして被災した安藤栄作という彫刻作家のファンなんだそうです。彼は奈良県に移っても斧で木彫している。安藤栄作が大好きなので観に来たようです。原発事故は収束してないけど、公営の伝承館施設には巻き込まれたくない人達で、私設・美術館ができました。「俺たちの伝承館」という名で現在も運営してます。

大室さんは被災地に公と私の美術館が二つある、そういう関係性も観にきたのかもしれません。現在は三重県の白山町で、私立大室美術館を奥様の中谷ミチコさんと共に運営しているので、昨年の初夏でしたが大室さんの家に2泊3日滞在して見学させてもらいました。(大室佑介入門=体験記目次へ)大室さんとも久しぶりで長い時間密着して観察させてもらいました。結婚してまして子供は小学4年生でした。美術館は庭園とアネックスも運営して充実しています。その時は別棟をアーティスト用の宿泊施設へと改修中でした。やる気十分で希な人ですから、若い人たちは注目すべき人の一人です。

今回はここに来るまえに、中谷ミチコさん「影とぽっこり」展@秋野不矩美術館を体験してきました。











 円内 浅野さん 2010年3月22日

■大学3年生のころ

浅野:ダメハウスにはどんな流れで行ったんだか忘れました。話を戻すと大学3年生の頃は僕らは研究室配属が決まるんです。建築をやりたかったから。京都工繊大は意匠設計がめちゃ人気があるんです。僕も岸和郎さんの研究室に行きたかったんです。、第八志望まで書くんです(笑)普通は意匠系、計画系、歴史系、構造系と選んでいくんですけど、絶対意匠系に行きたいと思っていたから 意匠意匠と全部(笑)書いた。岸先生に「君は学生らしからぬ案だね」ばさっと切られて、転げに転げ落ちて第7志望の町づくり系の研究室に行き。

佐藤
:計画案を岸先生に提出したんですね。
浅野:シザみたいな、幼稚園の設計案があって、それが一番褒められた案だった。「よし!これを持って希望を出そう」と出したら、「学生らしからぬ案だ」それでお仕舞。

佐藤
:シザの建築は観に行ったんですか。
浅野:観に行ってないです。案を考えているうちに先輩に言われて「こんなのもあるんだな」と思ってたんです。で、第7志望まで落ちて元気が無くなっている頃に、町づくり系だからフィールドに出て行く。学校にほとんど居ないから自分の製図台が設計系の学生の模型置き場になっていた。余計に居場所ないじゃん!で、プロダクトとかデザインの学生たちと仲良くやっていたんです。で、岡田栄造先生の授業は受けていたんだけど、再び話すようになったんです。

佐藤:岡田先生は建築系の授業も受け持っていたんですか。
浅野:1,2年生の授業は建築とデザインは分かれてないんです。岡田先生の授業をとったのもあり、建築でもプロダクトでも、何でも参加できるものがあり、僕はそっちにも参加してました。それで岡田先生と仲良くなって、久しぶりに再会することになりました。DE(デザインイースト)もそのころ(2009年)始まったんです。確か3年生でした。


 2009年 DE 00について語る 柳原照弘さん

■DEの始まりの頃

佐藤:DEの起動を少し話すと、若者のたまり場でもあり洋書店を営んでいた大島哲蔵さんが2000年に亡くなってから、大阪の若者の動きが少なくなった。活動停滞の底になった時期は2006年頃。で、2007年にデザイナーの柳原照弘さんを我が家に呼んで近況を語ってもらいました。(記録へ)でも何も起きなかったので、柳原さんに大阪圏の若い人を推薦してもらい2008年、大阪で生きている若者18人ほどを聞き取りし、記録を公開しました。柳原さんは聞き取りに付いて来まして、一緒に活動できる人を観てたんです。柳原好みの家成さんとか原田さんとか、大二郎先生はその時は大阪に居なかった。

浅野:後ですね。京都造形大に水野大二郎さんが来て、原田さんとも交流し始めた。勉強会のようなものに水野さんは参加していた。で、DEの話がでて合流した気がします。
佐藤:水野さんは、聞き取りで泊めてもらったみ江さんの記録を読んでしまい、み江さんに恋して結婚したんだ、と聞きました。でも、子供を産んだあと若くして亡くなった。聞き取りした人で初めて亡くなった。縁があるので結婚式には参加しました(笑)大阪のキャバレーだったかな!賑やかで盛大だった。返礼品・引き出物は馬券だった。(参照:2019年1月6日『たかぎみ江 作品集』)

そんなことで、いろんな人が集い2009年9月DE─00は派手にスタートした。10回でお仕舞と言ってたけど、もう終わったんでしょう。

浅野:実行委員の5人もそれぞれ忙しく、なかなか時間も合わなくなりDEやれる状況じゃないですと。そんな事もあって、しばらく開催は休んでました。

去年
(2025年9月19〜21日)久しぶりにDEは復活したんです。久しぶりの開催で、僕も忘れていたり不安もありましたが、フタをあけたら大盛況でした。僕は去年もプロジェクトマネージャーとして行ってきました。

佐藤:それはご苦労様です。名古屋からの参加はいいね。


その2に続く




 2025年9月19〜21 DE 07の様子


2009年9月18〜20日開催DE00


2008年大阪の若者たちに会う

2008年 5月17日 午後 靱公園にて
柳原さんと語り合う













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