聞き取り 御両親に辻琢磨さんの生い立ちを聞く 記録作成:佐藤敏宏
聞き取り オンライン2024年6月16日

はじまる

 オンライン入場に手間取っている佐藤
:きたきた、どうも!
佐藤:うまく繋がらなかったです。
:いつも使っているじゃないですか。
 今日はよろしくお願いいたします。
佐藤:お父さんお母さんはどこにいるんですか?初めまして!
父:初めまして、お世話になります。

佐藤(父の日を忘れている)日曜日のゴールデンタイムにお呼びたてして、息子さんの話を語っていただこうとする悪いやつですが、よろしくお願いいたします。
父:とんでもないです。
佐藤:僕は福島市に住んでいる72歳・・あれ、自分の年がわからなくなったぞ・・・
   会場笑い
あ、7月になると73歳になります。

:そうなんですね。
佐藤:建築の仕事をやっていましたが、今世紀に入ってから仕事はしてなくって、人の話を主に聞いていいる、ただそれだけの者です。

両親:へー。

佐藤:たまたま琢磨さんとは20年ほど前にお会いしました。21世紀に入って建築に携わる若者はどのようになっていくのだろうか?興味があったものですから、追っかけていろいろお聞きしておりました。
2年前の2022年10月7日、大阪からの帰りでしたが11時13分に新幹線浜松駅に降りました。雨降りの日でしたが初めての浜松体験となりまして、辻さんの作ってきた店舗などを見せていただきました。夜は琢磨さんの家に泊めていただきまして、翌日は保育園の運動会に連れていってもらいました。
2023年6月15日には2泊3日で、我が家に来ていただき、事故があった東電福島第一原子力発電所の現場に入って、見学したりしました。いろいろお付き合いさせていただいておりました。


2023年6月16日東京電力 元・福島第一原子力発電所 1号路廃炉  中央辻琢磨さん



2022年10月7日辻琢磨さんの家にて


新型コロナ下の保育園運動会。2022年10月8日お母さんはお仕事でした






2023年6月15日佐藤の家にて


辻琢磨入門を書くのに聞き取る

:そうなんですね。

佐藤:琢磨さんに入門するのか・・・わからないですけど。今年中には書き終わらないんですが、琢磨さんに関するこれまでの事柄をまとめて書いておこうと思ってます。第2回のテーマは「生い立ち編」です。琢磨さんは生い立ちは自分で分からないだろうから、お母さんやお父さん、あるいは友達を紹介していただいてワイワイしよう・・・そう提案しましたら、ご両親になりました。嫌なことを聞くかもしれないんですけど、その時はノーコメントで対応していただいて構いません。

琢磨:別にないです。

佐藤:
そういうことで私が質問していきたいと思います。よろしくお願いいたします。お父さんとお母さんのことを先にお聞きします。


辻琢磨さんのお父さん

佐藤:お父さんは、どこで何年にお生まれになりましたか?仕事は何をやっているのか・・・などお願いいたします。

父:私は今年(2024年)66歳になりまして、生まれは、ここは浜北区於呂ですが・・天竜の山の方で生まれましたので田舎者です。昭和33年(1958年)生まれです。
男、二人の兄弟で、兄がいましたけど、17,8年前に亡くなりました。「あたご」という所に生まれたんです。今、琢磨が住んでいる於呂に─私の親父は亡くなりましたけど─高校3年ぐらいの時に、於呂に家を建てたので引っ越して来ました。

申し遅れましたが辻恒彦です。今の仕事は建築業界ですけれど。息子の同業者というか、なんていうのかな「計装」と言いまして空調の自動制御ですね。サブコンさんの関係とかですね。会社は温度とか湿度ですね、圧力の自動制御でコントロールするようなシステム会社です。プラントの仕事もやっておりますが空調をメインでやってますね。

我々の業界はなかなか説明しにくいんですよ。今はコンプライアンスで五月蝿く、いろいろやっています。

(おじいちゃんのこと)

佐藤:恒彦さんのお父さん、琢磨さんのお爺さんです、何をしていたかですか。

:私の父親は農協、JAで働いていましたので団体職員ですね。農協で働いていたので農業の関係の仕事でしたね。いろいろやっていたことは聞いたんですけど、当時は家電とかも売って歩いていたと言ってました。

佐藤:担当の農家の方々に何でも売って歩いたということですね。農協は商売、たくさんしてて金融もやってますし。
父:そうですね。


(恒彦さんのお母さん

佐藤:恒彦さんのお母さんは何をなさっていましたか、専業主婦でしたか。

:そうですね、専業主婦です。けれども、当時は電話の交換、交換手ですかね。母親は若い頃はそれをやっていました。電話の応対とかスムーズにやっておりましたね。母親は郵便局の交換手ですね。

佐藤
:郵政省の交換手ということで、大きな組織の支所というような所で働いていた。両親はお見合いですか、恋愛結婚でしたか。

父:恋愛と聞いていました
琢磨:ははははと笑っている。

大恋愛結婚だったみたいです
父:家の格が違ったみたいで・・・昭和の初めで、恋愛結婚ですね、父が昭和2年(1927年)と母は昭和4年(1929年)生まれです。


(静岡大学機会工学部へ)

佐藤:ご両親は、日中戦争から太平洋戦争へと、その時は15歳から18歳ぐらいかな。恒彦さんは今話していただいている於呂の家で育ったと。高校まで暮らしたんですね。

:私は静岡大学に入学しました。機械工学部に入学しました。機械いじりが好きだというわけではないですけど、そこに入れば学費も少くって済むということでした。浜松に校舎があったので於呂から大学に通っていました。

琢磨:文系が静岡市にあって理系は浜松市にあるんです。

:いろいろありましたけどね。そこそこ遊んでおりました


お母さん

佐藤:恒彦さんは大学入学まできたので、次に琢磨さんのお母さん、お願いいたします。
母:よろしくお願いいたします。章代(あきよ)といいます、初めまして。
佐藤:初めまして、では章代さんの人生を語っていただきましょう
 会場 微笑む

母:お話できるようなことはないんですけど。

佐藤
:琢磨さんからは現在は医療事務をなさっている。そうお聞きしておりました。それ以前は専業主婦だったですか。

:そうですね、結婚して仕事を辞めたので、専業主婦でした。

(おばあちゃんのこと)

佐藤
:章代さんのお父さんとお母さんのことを少し紹介してください。

母:私は天竜市で生まれました、主人と一緒の土地です。天竜市の、ちょっとした町の中で生まれました。
佐藤:シティーガールと山で育った物静かな青年が結婚したんですね。
父:静かですよ。

佐藤:お母さんの家は町の中で何屋さんだったんですか?

:我が家は和菓子の製造をしてたんです。和菓子とかお餅とか作ってました。

佐藤:今は和菓子屋さん少なくなりましたけど、いいですね和菓子作り!

母:実家も廃業したけれど、お団子とかも柏餅とかも作って売ってました。

佐藤:機械屋さんと饅頭屋の娘さんが結婚したんだと。ご両親は和菓子屋さんを切り盛りしてたんですね。

母:そうです。商売人の娘です


(琢磨さんの、両親の馴れそめ)

佐藤:恒彦さんとはどこでラブラブになってしまったんですか?
琢磨:ははははは。

母:高校の同級生なんです
佐藤:あ、そう!!それでは何から何まで、お互い知ってて結婚されたんですね。

母:何も知らないんです。
佐藤:なんで?高校生、時分には恒彦さんに興味は無かったんだと・・。

母:興味なかったし、話ししたことなかったんですよ。友達の友達という関係だったんですね。私は大阪の短大の英文科に行きまして卒業して直ぐ帰ってきたんです。大阪では寮生活してました。


(1年間、パパ放浪する 両親が出会う)

佐藤:ご両親の人生は急ぎ足で、大学まで来ました。恒彦さんは大学も実家から通学していたので、一度も実家から出たことがない・・・っていうことですか。

父:1年、放浪の旅というかね。東京の友達の家とか訪ねて。

佐藤:親父うっさいから家出したっていう感じだったんですか。

父:その頃はいろいろあって、遊んでましたね
母:不良だったんです(笑)

佐藤:不良とは程遠い顔ですよ。ぷち不良したこともあるんだと。恒彦さんと章代さんは友達の友達だったが、急接近した原因はなんだったでしょうか?

母:原因はですね、はははは、
佐藤:ぼんやり結婚しないでしょう、あれいつの間に一緒に暮らしていた・・・それはないでしょう?大恋愛して恥ずかしくって言いたくないとか?

両親は笑っている

父親:子どもの前で言ったことないですよ、本当に

佐藤:子どもの前で初めて馴れそめを語る・・・いいですね!大恋愛したとか?

母:人並みに・・はははは。

佐藤:私の世代も琢磨さん両親の世代も連絡方法が無い。そのときはラブレター交換でしたか?私は下手くそな字と文章で手紙を書いてましたね。

母:多少、手紙で書きましたね

佐藤:まだ手紙、取ってあるかな・・携帯電話無い世の中ですよ、ラインありません。手紙ですよね。

父:連絡は家の電話ですね
母:あの頃は携帯が無いのでね。

佐藤:どちらから電話したんですか、恒彦さんがしつこく電話したんですか?

父:覚えてないですよ。
:最初はお兄さん。思い出しました!わたしたちの馴れ初め。お兄さん!

父:貴に、嫁さんを紹介しようと思ったんですよ。何が間違ったか知らないけれど、僕とくつっくいちゃったんです

佐藤:小説になりそう(笑)兄貴ぐずぐずしているから・・・弟がいいと。

二人:よくわからないです。

佐藤:お兄ちゃんと、お二人は知り合いだったんだね。

:一緒に居たものな・・。

佐藤:まさか、章代さんの妹さんとお兄ちゃんが結婚した・・そうじゃないですよね?
私は妹いませんから。兄が一人います。

佐藤:琢磨さんのご両親はともに、二人兄弟、少子化は始まっていたんですね。私は静岡県も浜松市もしらなかったんです。琢磨さんの家に一泊させていただいて、平らで南に下り開けていて、太平洋の海風と天龍方面からの山風があって、風通しのいい海抜30mぐらいの場所ですね。浜松市は海抜6mぐらいだから。

琢磨:大きい扇状地みたいになっているからね。

佐藤:お兄ちゃんに嫁さん紹介しようとしてたら、自分が結婚しちゃったと。結婚するときの、決め台詞・・・あると思うのですが・・お聞かせください。

 大笑いしている。

:仲人さんいましたよ。
母:仲人は二人の父親の友人だったんです。
佐藤:それは話が早いね。
母:そうなんです、父親の友達がとりもってくれたみたいな感じです。

:こちっち(章代)の親父とお袋さん、僕の素性を調べられたんですよ。
佐藤:さすが商売人のパパママだね。饅頭屋さんは厳しいチェックを入れたんだと。で合格できたんですから、いいですよ。
父:その仲人さんが取り持ってくれて、「あの息子だったら一応OKだよ」っていうことでいらっした。

佐藤:恒彦さんのお父さんは「饅頭屋の娘じゃだめだ・・」なんて言ってたんですか。
父:ぜんぜん言わないですよ。

佐藤:恒彦さんはお父さんに似ているんですか、お母さん似ですか。

:どっちなのかな。年取ってきたら「親父に似てきた」ってよく言われました性格はおふくろかな。
母:そうですね。そうかもしれない。

佐藤:恒彦さんと琢磨さんは仲良さそうだね。
父:仲、悪くはないですね。まさか結婚当時のことを聞かれるとは思わなかったですよ

佐藤:それで章代さんは恒彦さんのここがいいな!って箇所です・・性格いい感じするんですけどね。
母:けっこう硬派っていうか。硬派だったんです

佐藤:学生運動とかやっていた?
父:それはないです。女子とあまり話したこと無かったんですよ。
佐藤:回りに女性が居ない暮らしだったので、口下手だけだったんじゃないかな。
父:それもありますね


琢磨の由来

佐藤:琢磨さんは1986年生まれです。琢磨という名の由来ですが、どうして琢磨とつけたんですか?

母:切磋琢磨からきたんですよ。響きがいいなと
父:思いついたのは切磋琢磨というので、それがいいなと。それなりに私も切磋琢磨してきたつもりなんです。

佐藤:2代めの切磋琢磨だと!
父:切磋にしようかなとも思った
琢磨:切磋は面白いな・・。
母:琢磨は1986年の1月に生まれました。静岡でも冬はまあまあ寒いですよ。
父:雪は降らないけどね。
母:3000gちょっとで生まれました。

(兄妹何人? パパ猛烈社員か?)

佐藤:琢磨さんは兄弟何人ですか?
母:3人です。姉、琢磨、妹の3人です。小さいときは仲良しでした。琢磨は熱とかは出してましたね。女の子よりは熱は出たかもしれないですね。姉と琢磨は年子なんです、だから育てるのはたいへんでした。妹は4歳下なんです。母乳でましたけど、途中から男の子は足りなくって、ミルクも飲ませていました。

佐藤:私はサラリーマン時代、21歳で結婚して給料もらうと即!粉ミルクを1ヶ月分買って家に帰りました。粉ミルクでも育つもんですね。
:そうですよ。粉ミルクでも大丈夫です。兄妹で喧嘩はあまりしてなかったと思いますね。
佐藤:お父さんイライラしない、どっしり派だから回りの家族は喧嘩しないですよね。硬派なパパだったけど、お子さんにはガンガン厳しく言ったりしなかったんでしょう?

:言わないですね。仕事が忙しくって、ほとんど家にいなかったんです

佐藤:「亭主元気で留守が良い」の見本ね!
父:その通りですね。忙しくってね、夜中、家に帰ってきて朝早く出ていく。それを繰り返していましたんでね。今だったら引っかかりますけど、仕事に集中してましたね。

佐藤:土・日もなく働いていましたか?
父:日曜日は、なんとか休めてましたけどね。家のことは嫁さんに任せっきりで・・・今は反省していますね。

母:わらっている。
佐藤:子供が小さいときはお母さんにお任せで、パパは経済的に支えるのがいいように思います。お母さんは子育て中に、この子はこう育てようと考えていたんですか?

母:全然考えていなかったですね。何も考えていなかった(笑)年子はうんと大変で、忙しくって、あまり記憶にないんですね(笑)なにかとても忙しかったですね。夜中に帰ってきたりしてたし。
父:そうですね、だいたい10時、11時帰宅だったね

佐藤:過労で倒れなくってよかったですよ。
母:当時は若かったから。

:若かったから、今はボロボロです。だんだん駄目になってきましたね。大学を卒業して最初はですね、工作機械の会社にはいったんですけど、5年ぐらい勤めてそこは辞めました。そして今の会社に・・・まだ行ってます、常勤でいってます。いやね、横の人が「まだ働け」と言うんです。

佐藤:笑)そんだけ働いていれば恒彦さんは家の中で掃除・洗濯・料理はできないんですかね?
:できないです!
  大笑いしている 
父:3年間は単身赴任でした。この5月に戻ってきたんです。単身赴任と言っても静岡市でした。隣の市に3年間単身赴任でした。自動車でも通えるんですけど、夜遅くなるもんですからね。


佐藤
:時々放浪、パパは家を出るのが好きみたいですね、これからは奥様を大切にしてくれないと困りますね。なんで俺がこんなことを言っているんだ。
 会場お笑い
退職後の旦那さんは仕込みがいはありますね、掃除洗濯、料理、後片付けと、メニューたくさんありますよ。旦那さんは機械得意ですから、料理なんか直ぐできちゃいますよ!琢磨さんは料理して、私の朝飯作ってくれましたよ。

母:琢磨は結構やりますから。今日もね・・・ご馳走してもらったんですよ

佐藤:それはナイス!パパの日。建築家系の若い人で料理しない人は少なくなりましたね。イクメンとして語られる世代だから、料理つくるし子育てもする。料理は面白いです。

琢磨:お父さん働くだけ、そういう時代だったんだ。
母:そういう時代だったのよ。
琢磨;休みには、どこか連れて行ってくれた記憶があります。逆に言うとそれしかないかな。

佐藤:食べに行くってことですか?
琢磨:どこか遊園地じゃないな・・・あれはどこだろう。1,2回、デズニーランドにも。旅行とか川とか・・・・愛宕川で遊んだ。佐藤さんと見に行った反乱した川は二俣川です。

佐藤:秋野不矩美術館の足元で河川氾濫して橋が落ちているのを見に、連れていってもらいました。

母:あそこは私の実家の近くです
佐藤:いいところでしたよ。

母:良いところですよ。
佐藤:ミカンはなるしね、山と川があり、町にもさほど遠くないしね空気がいいし。それでお父さんは単身3年間して、今はまた戻ってこられて数ヶ月、空調システム会社の現役であると。お母さんは何歳まで働けと言っているんですか?

母:70歳まで、ですね。今は70までは全然、だいじょうぶかな(笑)
佐藤:お父さん退職しちゃうと急に行くとこ無くなって淋しくなって、お母さんの尻について歩くと嫌がられますよ。

父:それはちょっと考えなきゃいけないな・・・と思ってます
佐藤:今から準備して!
父:そうですね、考えなきゃいけませんね。

佐藤:いつも妻を笑わせる・・それがいいですよ。私は職業柄どういう家にどのように暮らしているのか、泊めてもらって、聞き取りしているんです。その中のひとりでした、85歳ぐらいかな・・「妻とどうやったらうまく暮らせるか・・」って真剣に聞かれたこともありますよ。今から準備するといいですね。・・雑談してしまう佐藤・・息子は切磋琢磨さんだと、で、お嬢さんたちの名前はどうですか。


:〇〇です。下は〇〇です。おじいちゃんが名付けたんです。本人はどう思っていたか?
:気に入っていたんじゃないの。
母:あまりない名前なので気に入っていた

佐藤:琢磨さんは上下の女の子に挟まれてすくすくゆったりと育ったんだ。勉強しましたか?
:勉強しましたよ、中学ぐらいからかな・・・高校受験ぐらいかな。
琢磨:真剣に勉強し始めたのは高校受験からかな。
:勉強しましたね。言わないのにしてましたね。
父:「勉強やれ」って一言も言ったことないですね。

佐藤:先生とトラブるなかったですか。

母:一回だけちょっとあったね。部活のことで悩んでいたんです。中1?
琢磨:中1。

母:そのときだけ、ちょっと。幼稚園のときは、お姉ちゃんにくっついて、女の子と一緒に遊んでいましたね。

佐藤:辻さんは女性に囲まれた家でそだち、女の子と遊んでもいたと。

母:中学になると、お姉ちゃんから離れ、小学校からサッカーをやっていたんです、少年団サッカークラブみたいなのがあって、私は送り迎えとかしたりしてました。

佐藤:お父さんは子どもの成長も知らずに、仕事一筋?
父:サッカーの試合とか、練習とか見に行きましたよ。日曜日ですけどね

琢磨:小学校と中学校とはサッカーやったんだけど、練習がきつくってやめた。で中学校のときはテニスを頑張って。高校からはまたサッカーして、そこから今までずっとサッカーですね。


両親、家を建てる

佐藤:ご両親はおじいちゃんから離れて、家を建てたとお聞きしてました。

:中学のときかね。転校したのですけど、家は遠くないですよ。
佐藤:お父さんはなぜ、ここに家があるのに、よそに建てたんですか?

父:亡くなった兄貴が、東京へ行ってたんですよ。「長男だから戻ってくる」という話になっていて・・・・ここに自分たちは住んでいたんですけどね。そういうタイミングが出てきて、亡くなった親父も、「それはありがたい」と言ってました。そしたら、兄が死んじゃったんですよ。兄貴は、ここにちょっと住んではいたんですけどね。

佐藤:両親が家を建てた、その直後にお兄さんは亡くなった?
母:もうちょっと後かな。
琢磨:6,7年後だったかな。
母:50歳?
父:51のとき亡くなりました。原因は酒の飲み過ぎとタバコ吸いすぎですね
母:あれは飲み過ぎですね。
琢磨:朝からウイスキー呑んでいたもん。
:アル中に近かったかもしれないですね。
佐藤:優しい人が落ちやすいアル中と聞いたことある。
:なんですかね?・・・。
母:東京にいたので、苦労はしたかもしれないですね。
琢磨;アル中ではない。

:食道癌だったんですよ。酒の飲み過ぎとタバコの吸いすぎ。我が家の家系は癌の家系じゃないんですよ。やはり「そこがきっかけじゃないか・・・」と先生にはっきり言われましたね。

佐藤:私は前立腺がんになってます。お父さんは健康診断やってますよね。
父:やってますよ。ぼちぼち肥大してますのでね。
佐藤:早めの予防的治療で元気に暮らしていただき、「琢磨おまえ元気にやっているか?」と一声掛け続けていただければと思います。お父さんはこれから5年ぐらい働いたら奥様の手入れをする、良い旦那さんになるね。
会場笑い
父:メンテナンスをね


その2へ続