鈴木達治郎先生 1990年代を語る 20240726 | 作成:佐藤敏宏 2024年7月 | |
その02 日本に戻る | ||
■電中研と原子力未来研究会 佐藤:国際エネルギーフォーラムに呼ばれ、電力中央研究所に呼ばれ、MITの先生がたにも鈴木大丈夫なの、と心配いされつつも、日本での活動を始めました。 鈴木:依田さんはそういう意味では原子力に反対する人がいても、研究所だから呼んでもいいんじゃないのと。彼はトリレンマという、エネルギーと環境と経済成長の三つの目標を達成する、そのエネルギー環境戦略を電中研の売りにした。 佐藤:企画部長流石の語力でまとめた。 鈴木:その時にレスターブラウンとかも呼んで、省エネルギーもやらなきゃいけない、環境にも優しくしなければいけない、という。そうすると電力会社から嫌われる。私を雇ったから、みんなビックリしちゃって。でもその時、依田さんは原子力委員会の非常勤になったんです。95年の次だから2000年の長期計画を作る貴重な、有名な原子力委員です。大変重要な役割になるので、依田さんにインプットする。2000年の長計の、そのために原子力政策室をわざわざ作ってくれた。そこに私も入れられ、好きなように議論しよう、と言われた。そうして議論を始めた。 佐藤:東京電力がもっとも資金提供が大きいのでしょうか。 鈴木:もちろん。売り上げに比例してます。 佐藤:依田さんが声をかければ、他の電力会社は従う。 鈴木:理事長ですからね。お金は売り上げの0.3%だった。当時は自動的に入ってきたんです。今は入ってこない。原子力政策室を作って、そこで議論をしたんです。へビアーな推進論者がいっぱい居るんです、さすがにちゃんと議論すれば、これは無理だね・・、というのは分かってくれた。ただ六ケ所村の再処理は必要だという人は多かった。だからとりあえず、何か提案しなきゃいけない。でも電中研では提案できないので、原子力未来研究会を作った。 ■日本で研究活動が始まる 佐藤:本格的に日本での研究にはいって、米国から家族一緒に日本に戻ったということですか。 鈴木:そうそう、96年に子供が10歳と9歳でした。帰ってきた時は大森の家は貸していたので、目黒に借家です。家内の生まれが目黒だったんです。目黒だったら土地勘がある。子供たちの小学校も目黒の小学校にした。いい学校で海外から帰ってきた帰国子女を一所懸命受け入れてくれて、国際デーを作って、海外から帰ってきた国、インドネシアから帰ってきたらインドネシアデーを開いて、帰って来た子供たちが喋る。大使館員を呼んだりして。 佐藤:小学校でできる国際交流、賢い学校ですね。 鈴木:この小学校ならいいかなと思って入学させた。 佐藤:未来研究会設立は97年と書いてあります。 鈴木:原子力政策室で議論してたんだけど、なかなか埒が明かないので山地憲治先生たちと相談して、依田理事長に直訴したんです。我々の言いたいことは政策室では書けない。匿名で研究会を作ってだしてもいいか、とお願いしたら、やってみなさいと。 佐藤:太っ腹ですね。 鈴木:そのかわり、絶対、電中研とバレないようにしなさい、ということでした。 佐藤:匿名で原子力研究室で連載とありますが、そのような経緯ですね。 鈴木:匿名で出した、これが大ヒット。 佐藤:すぐ、ばれちゃうんじゃないですか、そうでもなかったですか。 鈴木:ばれない、全然わからないです。我々は原子力未来研究会しらないよ、とか言っていた。山地さんだけ公式に名前をだしていた。鈴木さんじゃないですかあれは・・、と。とぼけるのは簡単ですよ、なかなかいいこと書いてあるよね、とか・・はははは。その研究会には実は今は偉くなった電力会社の人もいたし、さすがに経産省の人は途中で抜けたんです。シンクタンクの人も居たんです。彼は私の大学の親友だったので、最後まで残った。もちろん経産省や文科省から資金提供受けているから。電力と役所とシンクタンクの人が外から来て、あとは電中研の研究者が3人、全員匿名です。 本を出すときに初めて電中研の人は名前を出した。『どうする日本の原子力』という本です。 佐藤:98年ですね、どうする『日本の原子力─21世紀への提言』ですね。 鈴木:連載を集めて本にした。それがエネルギーフォーラム賞をとった。 佐藤:9のテーマですね。 鈴木:1冊で9個のテーマの本を出しました。9回連続した討議を一冊にしたんです。山地憲治先生は東大の先生で元・電中研です。 専門家しか買わないので、ベストセラーにはならなかったけど、日刊工業新聞社にしたら、ものすごい反響があった。原子力関係の人たちが一杯います、まさかエネルギー・フォーラム賞をとるとは思わなかったです。エネルギー・フォーラムという電力新報社という出版社なので、そこが出しているエネルギーに関する書物。 佐藤:題名、「どうする」が効いてますね。本のタイトル重要ですね。で、その98年にパグウォッシュに参加されています。 |
FBR 1.FBRは「選択肢の一つであり、現在の実証炉計画は白紙に戻し、FBR開発は「技術継承」と革新性を重視した開発戦略に転換すべき 2. 使用済み燃料貯蔵と直接処分: 貯蔵は重要な選択肢、直接処分の研究開発を始めるべき。 3. プルトニウム問題: 核軍縮・不拡散問題と密接に関係。プルトニウム削減のため再処理 計画を再考すべき。 4. 放射性廃棄物: 特別扱いせず他の有害廃棄物と整合的に扱い、民主的プロセスを重視す べき。 5. 規制緩和; 競争力を高めるためにバックエンドの切り離し。経済リスクには政府が一定 の責任を負う制度を。 6. 立地プロセス: 制度疲労に陥っている。地域支援寄付金制度の創設など、新たな立地体 制を検討すべき。 7. 原子力外交: 核軍縮・不拡散でリーダーシップを。 8. 核融合: 基盤研究を充実させ、科学的研究として再構築を。 9. 意思決定プロセス: 新しい原子力政策の方向性は、総合エネルギー政策の下への統合、 政策決定の透明性の確保、地球的視点からの長期ビジョンの提示に整理できる。 |
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■パグウォッシュ会議に参加 佐藤:パグウォッシュ会議に参加されました、これはどういう経緯でしたか。 鈴木:それもプルトニウムです。パグウォッシュ会議はテーマによってあちこちでワークショップをやるんですよ。98年に北東アジア。 佐藤:アジア太平洋地域におけるワークショップと年譜にあります。これですね。 鈴木:エネルギー安全保障のワークショップがあったんです。そこでプルトニウムの話をしてくれ、と言われて行った。 佐藤:パグウォッシュ会議に呼ばれだんですね。 鈴木:パグウォッシュ会議は招待されないと参加できない。 佐藤:それはいいですね、国会に招致は全党が合意しないと招聘されない。にてる。 鈴木:自分が出たい、と言っても参加できないの、招待されないと。パグウォッシュ会議にはカウンセルがあって、今、私はそのメンバーです、そこが合意しないと出来ない。結局はワークショップの場合はワークショップを企画するグループが決めればいい。 佐藤:パグウォッシュ会議では、鈴木さんの何のことを見て存在を知ったのでしょうか。 鈴木:それはMITのレポートとかサセックスのレポートとか見てますので。 佐藤:90年代からプルトニウムの研究では目立つ科学者、注目される研究者になっていたということですね。 鈴木:そのころは、海外、英文で書いて海外で、フランクフォンヒッペル先生とかウイリアム・ウォーカー先生とか皆知っているので、だれか日本のプルトニウムについて喋る人いないか、となったら、私か高木仁三郎さんしかいないんですよ。もう一人は推進派のほうが鈴木篤之先生。3人しか名前が出ない。 佐藤:兄貴、鈴木篤之先生が推進派だった。 鈴木:その頃篤之先生も一杯書いてました。同時に私と二人で出た会議は一杯あります。 佐藤:おふたりの鈴木先生は役割分担してたんでしょうが。 鈴木;そう、役割分担。ビック鈴木とスモール鈴木と言われてた。 佐藤:篤之先生バスケで長身だと、裏話はバスケの試合を観戦したついでに、いろいろ情報交換しあった。 鈴木:ははははは。そうそう、意見は違っていても、仲良かったですよ。98年から、97年だったかな、東大の客員助教授と書いてませんか? 佐藤:書いてないです。 鈴木:使用済み燃料の中間貯蔵の話を書いてありますか。 佐藤:年譜PDFから写し間違いてるか、書いてないですね。 鈴木:ハーバード大学の共同研究は。 佐藤:書いてないですね。1999 Rustenburg, South Africa 世界大会に初参加。科学者平和誓約運動(Peace Pledge, Japan)を開始、とは書いてあります。 鈴木:レポートは2000年かもしれない。97年に東京大学の篤之先生のところに、日本原子力発電株式会社が寄付講座を作るんです。 で、原子力社会工学と呼んで、原子力と社会についての研究する2年間のプロジェクトを寄付講座でした。それに「来い!」と言われて、客員助教授で赴任するんです。「テーマ、何にしようか?」と。六ケ所はだめですよね、触れませんよね。ちょうどハーバード大学の私の友人だった、マシュー・バン(Matthew Bunn)がマネージング・アトムを始めたんですね。篤之先生と仲良かったのがジョン・ホールドレン(John Holdren))先生で。その後、彼はホワイトハウスのサイエンス・アドバイザーになるんです。 当時はパグウォッシュ会議の執行委員長かなにかで、パグウォッシュ会議。ジョン・ホールドレン先生とマシュー・バンが相手役で、篤之先生と私が日本側で相談をして、テーマを何にしようかと。結局、最初はプルトニウム処分の話をしようと、議論してたんです、けど、電力会社に関係ないじゃないですか。それで、それをやめて、次のテーマとして選ばれたのが使用済燃料の中間貯蔵。 で、再処理をする日本、再処理をしないアメリカ、どっちにしろ中間貯蔵は重要ですよね、というレポートを2年間で書いた。これが大ヒットした、レポートなんです。 実は篤之先生はそれが批判されるとは思っていなかったんです。これまた朝日新聞が一面で紹介しちゃった。提案のなかに、レポートの最初には再処理しようがしまいが、再処理路線についての是非は問わない、と書いてあるんです。再処理しようがしまいが中間貯蔵は重要だと、中間貯蔵についてダーッと書いてあるんです。 ところが再処理しようがしまいが大事だという一言だけで、篤之先生は批判された。というのは、新聞記事の書き方が、核燃サイクルを重視している鈴木篤之教授が、再処理しなくってもいいような報告書を書いた、そう朝日の記者が書いた。 佐藤:切り取りの仕方にやられましたね。整理部でしょうね、記者自身は見出しは付けないですが。 鈴木:そうなのよ。私に半分責任がある。その頃、私は朝日新聞と話をして、結論が出たら送ります、と送った。その解釈については、私は一生懸命説明した。このレポートは再処理を否定するものでもなければ、どっちがいいというわけでもなく、どちらにとっても使用済み燃料の中間貯蔵施設はだいじなんだ、というレポートなんですよ、と説明したんだけど。朝日新聞の方は再処理を推進しなかった、そういう見出しになってしまった。 佐藤:編集長か整理部が見出しを、そうしたんでしょうね。 鈴木:たぶんそうだね。それで篤之先生は可哀そうなことに。 佐藤:真逆の見出し、付けられちゃった! 鈴木:そうなの。先生は朝日新聞に抗議の電話をして、この記事はレポートの趣旨と違うのに、こんなことを書いてけしからんと、抗議した。そしたら科学部長がやってきて、謝ったですよ。 佐藤:謝ってもらっても困る、同じ紙面の大きさで訂正記事を載せてもらわないと、誤解は解けないですね、そうなると。 鈴木:おっしゃる通りです。その記事を書いた人は左遷された。気の毒に。 佐藤:書いた記者は左遷ですむけど、篤之先生は誤解の渦に落とされちゃった、大変なことが発生しますね。 鈴木:噂ですけれど、それが切掛けで原子力委員長の席をとれなくって。原子力委員会の委員長になる、と言われてたんです。なれなくって、原子力安全委員会のほうに回されちゃった。それで近藤駿介さんは原子力安全の専門家だから、近藤さんが原子力安全委員会の委員長になるのが順当だったのが、代わりに原子力委員長になった。 佐藤:朝日の記事で政府人事が入れ替わってしまった。しかし気の毒ですね。花田先生はマスメディア研究者ですけど、取材に応じないですね。囲み取材も受けない、原稿依頼だけに書く、それでも手直しされるので、もめてましたね。 鈴木:ああ。正直言うと記事の内容自体は正確なんですよ。見出しがまずい。 佐藤:見出しは記者は付けないですからね、整理部が見出しつけますからね。 鈴木:そうなのよ。見出しでやられちゃった。私が見た限りでは書いてる記事はそんなに酷い記事ではない。だけど見出し、鈴木教授再処理否定、それにかなり近い、そういうニュアンスの見出しでした。その記事の日付はわからない。 佐藤:朝日の記事、県立図書館には検索エンジンが整っているので、見つけ出せるかもしれないです。 鈴木:あんまり読みたくないけど。東大・ハーバード大共同研究だったかな。 |
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佐藤:だいぶん脱線しました。バグウォッシュ会議はゲストで招聘された。最初から今日のような関わり方をしたい、と思って参加されたんですか。 鈴木:パグウォッシュ会議、分からなかったです。日本に帰ってきて、日本のパグウォッシュ会議のリーダーをやっておられたのが、小沼通二(みちじ)先生。 彼に呼ばれて、報告してください、と言われて報告した。パグウォッシュ会議に気楽に参加したんです。そしたら、翌年に南アフリカで パグウォッシュ会議へ参加。─1999 Rustenburg, South Africa 世界大会に初参加。科学者平和誓約運動(Peace Pledge, Japan)を開始─ そのころは毎年、大会をやっていた。それに参加するか、と言われて。面白そうだから、南アフリカに行ったこともないので行くことにした。聞いたら、交通費自分で払わなければいけない。パグウォッシュ会議の原則はそうで、自費参加。そのかわり、向こうに着いたらホストがぜんぶ面倒を見てくれる。 南アフリカまで、えっちらおっちら行った。その時にパグウォッシュ会議は初めて参加だったんです、もう大変なメンバーでした。ペリーさん(国防長官)んが来てしゃべる。リチャード・ガーウィン(Richard Garwin)さんが核兵器作った人、マクナマラさんも来ていた。すごいメンバーが揃ってて、これは面白い!そう思って、参加することにした。 そのころ99年、ピース・プレッジ活動を私が始めていた。科学者平和誓約運動、それを始めたので、その話をパグウォッシュ会議でしたんです。これが受けた!アルゼンチンの女性物理学者がやってきて、これは面白い!と。原子力学会の倫理規定・行動規範はいっちゃったので、それを是非我々もやりたい、と言って。アルゼンチンの物理学会にそれを入れてしまった。 同じようなプレッジ(誓約)やっている人がアメリカにも居て、アメリカのプレッジ活動の人たちとも話をするようになった。ロスアラモスに勤めていた科学者が、サインをした科学者で、自分がやっている研究はどういう研究なのかと、調べ始めたら。軍事核兵器のプログラムに使われていた、そのことが分かって。それでプレッジしたもんだから、ロスアラモスを辞めちゃうんですよ。そんな人もいたんですよ。ロスアラモス・スタディー・グループ、自分のNGOを作って日本にやってきて、「いや、よくやったねお前!」と。「俺は仕事なくしちゃったよ・・。」と言ってた。そういうエピソードもあります。 プレッジ活動を当時やっていたのでパグウォッシュ会議としては、大変有意義な活動だ、そのように、でっかい会場の中で紹介してくれた。それで注目されちゃったもんだから、これはやめられないなと、ははははは。 佐藤:鈴木先生はきわどいところを歩いていたけれど、肝心なときに戻してくれる人が現れますね。一気にパグウォッシュ会議の方に引き込まれていくわけですね。 鈴木:そうですね。そこでプレッジ活動をやったのが大きかったかもしれない。 佐藤:50歳にちかづいても身のこなし方は柔軟ですね。で、今日の活動に続いている。だいたい1990年代はこんな感じですかね。 鈴木:終わりましたね、だいたい。 |
1999年8月23日朝日新聞 拡大して記事を読む 2014年6月の鈴木先生による長崎大学核廃絶センター着任とうじの科学者の平和誓約運動への思い。記事をみる |
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■90年の世の中。 献血運動 佐藤:1990年代も社会の出来事はいろいろありました。湾岸戦争も阪神淡路地震も起きました。その時は核兵器関連で湾岸戦争は話題にならなかったんですか。 鈴木:これまたエピソードがあります。89年ですよね。クエートがイラクに侵攻されて大変なことになって。あれは国連安全保障理事会で決議され。国連軍じゃない、有志軍が結成されてクエートに行きます。日本は行かなかった、当然、お金で解決した。憲法9条があるから。お金をどーんと寄付した。 佐藤:2兆円ぐらいだったかな、(90億ドル) 鈴木:ところがですね、ウォールストリートジャーナルが、日本の政府高官が、日本は石油調達でチャーターできるから経済は大丈夫だ、というコメントを経産省のかたが出した。これが日本バッシングの始まり。 他の国はクエート侵攻でイラクを批判してたとき、日本は自分の国のことしか考えてない、と。私も、びっくりしたんです、たしかにそう言ったらしい。 実は外務省はちゃんとイラク批判の声明だしているんです。ところがウォールストリート・ジャーナルは外務省のイラク批判は報道しないで、経産省のコメントを載せた。その後、日本パッシングでたいへんだったですよ。日本国憲法9条のこと、何も書いてないんですよ。 どうしたらいいか、とアメリカ人に相談したんです。まず憲法9条の話を一生懸命したんです。そういう制限があるならしょうがないね、戦後の日本はそういう、しかもアメリカから言われたことだし。それをなぜもっと説明しないんだ、と言われた。政府は説明してるはずだと、そう言うけど聞こえて来ない、と彼らは言うわけです。憲法9条のことを初めて知った、というかたは結構いました。 佐藤:日本の平和憲法を知らない、そうですよね。 鈴木:とくに若い人は知らない。どうしたらいいですか、と聞いたら、お金じゃだめだ、と言う。血を流せって言うんだよね。血を流すってどうしようか、と考えた、考えたのが献血運動です。 佐藤:なるほど。 鈴木:真面目に献血運動をやったんですよ。日本人のコミュニティーに声をかけて、ワシントン、ボストン、サンフランシスコ、ニューヨークと、主要な都市の日本人コミュニティーに全部声をかけた。献血活動をやったんです。私もボストンで声かけた。ジャパンソサイティーは各都市にありますので、そこに連絡して、献血運動をやりましょう!と言って、やったんです。 そしたら新聞記事になって、日本人は市民が献血で貢献しようとしている、と。グットウィルといってボストングローブにも出たし、ワシントンポストにも紹介されたし、ワシントンはすごかったですよ。政府のプロジェクトじゃないので、市民が始めたので赤十字社が協力してくれて。ジャパン・アズナンバーワンに近かったので、大変だったですよ、ジャパン・パッシング、もともとジャパンパッシングが酷かった所でしたから。 佐藤:91年、日本のバブル経済は崩壊したとはいえ、日本人にやられたという米国人の記憶は残っていたでしょうから。 鈴木:献血運動だけで、ジャパンパッシングが無くなったわけじゃないけど、少なくてもアメリカに住んでいる日本人に対する圧力は和らいだ。その時に新聞記事にしてもらう時に、私もインタビュー、ラジオとか新聞インタビューされたんです。憲法9条の話は盛んにしたんです。 佐藤:なるほど。 鈴木:なんで日本人は人を送られないのか、と。こういう憲法があって、ディフェンスしかできないんだ、と言って、憲法上自衛隊は外に送ることはできないんだ、と。そのなかでどうやって協力するか、と考えたのが、お金なんだ、という話を一所懸命したんです。それを説明すれば、あんまり理解できないけど、まあしょうがないよね、みたいな感じの雰囲気は漂ってくる。 佐藤:米国を中心にした連合軍によって日本国憲法9条ができたこと、アメリカ人は知らないんですね。 鈴木:知らないですね。もちろん、学者や専門家は知ってますよ。 佐藤:修正条項は知っていても、日本の一般人はアメリカ憲法読んだことないし、米国の人だって日本の憲法を読んでないので知らないですよね。日本人だって隅から隅まで読んで理解してないし、よその国の方は、日本の平和憲法知らないでしょうね。 鈴木:知らない。我々だって他の国の憲法知らない。戦争が起きて初めて平和憲法の意味が、こういうところに日本は参加しないことに意義があるんだ、ということを説明したんです。今、日本は、平和憲法はどこかに行ってしまったので、今はもうだめですよね。 佐藤:総理率先して武器輸出しようとしてますので、平和憲法踏みにじっている首相ですからね。 鈴木:今、ひどいですね。敵基地攻撃能力などと言っているようではもうだめ。日米韓の軍事演習しちゃっているし。 ■ソ連邦崩壊 佐藤:その話を続けると大変なことになるので、90年代語りに戻します。ソビエト連邦が崩壊しますね。 鈴木:90年ですね。 佐藤:その時は鈴木先生の研究には影響なかったんですか。 鈴木:すごかったですよ。湾岸戦争のときも、国の雰囲気ががらっと変わったんですよ。ビックリするぐらいに変わりました。1月の後半だったと思うんですけど、戦争始めるかも知れないといっていたら、CNNで、戦争が始まった、となった。 大学にいた連中がみんなシーンとしちゃった。大変なことになっちゃったと思っていて。戦争はベトナム戦争以来ですね。皆、家に国旗ですよ。私もびっくりしたんだけど、、考えてみたら当たり前なんだけど、話をしている、と家の隣のご家族の息子が明日からクエートに行くんだ、とかね。 佐藤:戦場に行くと死が待ってますからね。 鈴木;そうなのよ、そういう話が聞こえてくると、お通夜みたいな感じ。で、アメリカンフットボールの試合も中止になったり、雰囲気がガラッと変わった。日本の3.11後の雰囲気のようでした、みんなパーティは無し。それで、(帰りを待ちわびる)イエローリボンがあちこちにでて、初めて戦争に参加している国の雰囲気というのを体験しました。 通夜までは暗くはないんだけど、はしゃげない。冬ですから野球はやってなくって、アメリカンフットボールの真っ最中。ホッケーとかバスケっとはやってました。覚えてないんですけど大きな試合は中止。 冷戦が終わったときは、もちろん大ニュースですよ。 |
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■冷戦終了と包括核実験禁止条約 佐藤:わたしは、これからは核弾頭が飛んでこない世になるなと思って安心したんですけど。 鈴木:そんな感じでしたよ。ただクリントンの登場の時に、その前はパパ・ブッシュが、核兵器を韓国から全部撤収するんですね。アジアにはもう核兵器は無い、と宣言する。まったくロシアとの交渉なしで、自分たちで撤去しちゃったわけです。それが皆に評価されて、ブッシュ大統領は偉い、と。それを引き継いだクリントン。 クリントンは日本の産業政策を勉強して、日本もアメリカも競争力を、と。当時は日本にやられていたから、競争力強化のために、と言って。今まで軍事に携わっていた国立研究所、核兵器の人たちを皆、民生転換しましょう、と。そういう提案をします。 競争力強化のためにアメリカも産業政策に入る法案を出した。保守派がけっこう多いですから、そんなことしたら日本と同じことやっちゃうからダメだ、アメリカはちゃんと自分たちで、実質中間的なことをやるんです。アメリカの大学の特許ができたら、ベンチャー会社をしたときに特許。それまでは大学に属していたのを個人に属するように法律改正した。バイドール法と言って、これが後に日本に逆輸入される。 個人のイノベーションを促進する法律を作る。それまでは産業の研究開発に政府が支援するのは御法度だったんだけど、その頃からマッチング・ファンドと言って産業界が提案をして自分たちで開発、審査が通れば政府が応援します。政府がイニシアチブとってやるんじゃなくって、産業界のイニシアチブに政府が支援する、そういう形を作った。 核兵器を作った国立研究所4つ、ロスアラモスなど、これを平和に転換しようとし統合しようとしたんです。大改革しょうとしたが、潰されちゃった。 ■CTBT 核問題で言うと包括核実験禁止条約。CTBTはアメリカが提案してアメリカはすぐサインするんですけど、批准で議会が反対するんです。議会の反対を覆すために、保守派の人たちにおもねるために、わかった、核兵器を維持するプログラムを作りましょう、と。核兵器管理計画、ニュークリア・スチュワードシップ・プログラム(Nuclear Stewardship Program)を作って国立研究所維持です。それから安全性や信頼性を確保するための、核実験はしないけど、未臨界核実験、いまやってます。そのためのナショナル・イグニッション・ファシリティー、でかい研究施設を作ることにした。これが核融合研究に使われる。そこが今も未臨界核実験としてやっています。 そのプログラムを作ることで、CTBTの批准しますよね、とやったんだけど、それでもCTBTは批准されなかった。それが今も続いています。 だからクリントンは冷戦直後を利用して、アメリカも軍縮をし、先ほど話したロシアに支援するプログラムも作ったり、いろいろやっていたんです。95年ぐらいまではうまく進んだんです。 佐藤:銃規制も廃止できないし、核兵器は手放したくない、軍縮したくない米国人の心情は理解できます。 鈴木:今、思えばですけど、核兵器だけじゃなくって、ミニタリー・インダストリアル・コンプレックスは巨大です。実はMITの最大のスポンサーはマサチューセッツ州にレイセオン・テクノロジーというミサイル会社があるんです。 佐藤:米国は軍産複合体国家ですからね。 鈴木:しょうがないです。世界一の軍事国家ですから。 佐藤:生産した兵器を使わなければ生産は続かないし。 鈴木:湾岸戦争の時にミサイル、CNNが撮っていて、イラクが打ってきたミサイルをアメリカのミサイルが打落とした、という話がありました。それを全部詳細に分析したらほとんど当たってない。そういう論文をMITのテッド・ポステル先生が報告書を出した。レイセオンから、ケチョンケチョンですよ。それで大変だったんです。 レイセオンからMITにスポンサーしないと言われ、MITのプレジデントが慌てちゃって、ちょっと待て、待てと言って、テストポテトルにちゃんと注意しておくからと言った。そしたらテストポテトルが怒ってしまって、お前なに言っているんだ、俺の研究に邪魔するな!と。彼はそれでIMTと喧嘩したんです。それでスタンフォードへ逃げたというか、退避というかな。批判を避けるために、MITに迷惑をかけちゃいけないと言って、自分はスタンフォードに行くと言ってました。で、レイセオンとMITの関係は丸く収まった頃に、また帰って来た。 佐藤:いったん避難し冷却期間をとって復帰する、賢い。 鈴木:彼と何回も話していただきましたけど、カンカンになってMITは、けしからんと。俺の研究をなんだと思ってんだ、と。科学的に正しいものは正しいと言え、と言っていた。 佐藤:アメリカにも骨のある科学者はいるんだ。 鈴木:います、骨のある人います。 |
1998年4月17日 記事を拡大して読む |
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■95年日本の世 佐藤:日本で、も軍事研究に関する研究費のスポンサーについては、ときどき耳にします。それはさておき、日本では1995年いろいろ起きました。阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件、ウィンドーズ大ブレークなどありました。先生はまだ帰国してないです。 鈴木:どちらもアメリカのニュースを見ました。大変なショックでした、阪神淡路大震災の時は私の実家、大阪の豊中ですが地震で瓦が飛んだり、庭の灯篭が倒れたり。石の灯篭が倒れたんだからすごいなと。怪我したりしませんでしたが震度4、豊中で震度4は無かったので、大阪の人はびっくりしたと思います。 佐藤:95年の地震から大地動乱の時代は幕開けました。敗戦後から95年まで地震活動、宮城沖など時々ありましたけど、大都市内で起きていなかった。ですから不意打ちのような様でした。 鈴木:静かすぎたよね。本当にびっくりした。高速道路が倒れて、ニュースで何回も見て。 佐藤:高速道路の支柱が根本から数キロ連続で折れ、紙面一面を占めましたし、火事も発生し、自衛隊の出動も遅れました。で、その後の地震対応には生かされましたが、今年の能登地震は放置され続けてますね。 鈴木:オウム真理教のサリン事件もたいへん。あれはアメリカではテロリストという扱いでした、日本でバイオテロが起きた、そういう報道の仕方でした。 佐藤:地下鉄サリン事件が起きたときに、サリンのことも、犯人のことも、オウム真理教の人たちが起こしたことも分からなかった。ケミカル兵器の一つだと言うが、サリンなど聞いたこと無かったですから。大騒ぎ。 鈴木:ケミカル・テロ。 佐藤:富士の裾野の教団のサリン工場に、カナリアを持って警察が捜索にはいりました。ソ連製のヘリも見つかったりして、日本の若者がサリンを地下鉄にまくとは、たいへん驚きでした。 鈴木:大変な報道でしたよ。その後12月8日にもんじゅが事故を起こした。 佐藤:もんじゅナトリウム漏れ、ニュースになりましたね。 鈴木:日本で初めてリスクという言葉が使い始まった、そう聞いてます。 |
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■パグウォッシュ会議 佐藤:鈴木先生の90年代の活動は濃いですし、研究活動と広がりかたがいい感じでしたね。 鈴木:40代ですからね。一番あちこちに行っていろんな報告書を書いたり。でも研究などの選択に迷ったことは無いです。やることは一杯あったので、それをこなすので精一杯。 佐藤:パグウォッシュ会議に呼ばれた、そのことはすごい転機になっているように感じますが。 鈴木:そうですね、それもそんなに珍しいことではない。あちこちのワークショップに呼ばれていた、それは、プルトニウムのペーパーを書いていたので、あちこちに呼ばれていました。ワンオブゼムのつもりで行った。 佐藤:そしたら、今日まで活動が続いてしまった。 鈴木:そうそう。その後の南アフリカの大会に出たのが、すごい印象でした。すごい人が参加してましたから。 佐藤:相互の争いは、人のもつ知性でしか乗り越えられないんだなという気がします。 鈴木:ふふふ、南アフリカ大会のキーロート スピーチしたのが元・デクラーク大統領。あとでマンデラとともにノーベル平和賞とった。唯一、核兵器を解体廃棄した国の大統領。彼の話は本当に面白かったですよ。そういう話を生で聞けるんだったら、これは毎回でなければいけないキーノート、と思いました。 佐藤:自腹プロジェクトです、けれど行かねばと。 鈴木:こんな貴重な会はめったに無いな、と思いました。 佐藤:毎年基調講演などのレポートは出て公開されるんですか。 鈴木:そのころは毎年レポートを出してましたね。ワーキンググループのペーパーなども最後は公開されて、本になって出ていたんです。もうお金が無くなったので今は出してない。 佐藤:今も、参加者の心意気で活動は続いていますが、全体は広がっているんでしょうか。 鈴木:2000年頃はまだ冷戦直後で、軍縮がまだまだ希望があったころです。だから参加者も多かったですし、スポンサーも一杯ついていた。で、南アフリカの会議は楽しかったですよ。その翌年が南カルフォルニア大学、アメリカ開催でした。これは大学で実施したので、大学の寮に泊まった。貧しかったんですけど、でも楽しかったです。その次ぐらいから中止になったのかな、2001年にテロがあったから中止になったので、だから行けなかった。 佐藤:2001年、民間航空機を乗っ取りテロでしたから。イラク戦争も始まってしまうし。それは次回に語っていただくとしまして。 つい最近広島に行かれ、会議で、議論されていたようですが何か御聞かせください。 |
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■2024広島 鈴木:1週間前に広島ラウンドテーブルという藤原帰一さんが主催している広島県のプロジェクト。広島ウォッチという提案を8月5日に発表することになっています。 今日の広島行きは、80年なのでNHKの来年のためのスペシャルプログラムを作る。・・ 制作内容を説明し語っている・・・来年の一月に公開になります。ありがたいですよ。 藤原先生のほうはアメリカ、ロシアの専門家と、中国、オーストラリア、日本、韓国、イギリス。フランスがいなかったですね。だいたい20人ぐらいで2日間、議論しました。新しいことはそんなにない。広島県知事がずっと座っていました。 佐藤:1990年代語りは1時間50分程です。満ちた40代から大人になっていくという感じでした。 鈴木:はははは。 佐藤:勉強期間は終わったぞ、という感じです。 鈴木:今日は映画の話も野球の話もしなかったですね。90年代は阪神タイガースは最低の暗黒の時代でした。全然だめ、92年にヤクルトと優勝争いして、もうちょっとで優勝できた。それを逃してしまったら、あとは全くダメ。90年代の映画は何があったかな、あ、マトリックスだ。 佐藤:見ました、マトリックスはめんどくさい映画でした。映画の話は次回でいいです。 鈴木:はははは。 佐藤:今日は私が知らないことばかりでしたが、いい感じの内容になったなと思います。鈴木先生が一人立ちするというのも変だけど、ここからは若い人たちを導く役割に転換していく、そういう予感をもった役割になっている。事態の困難さを自覚しないと若い人たちに伝えようとする発想は生まれないと思うんです。プルトニュウムの問題の困難さは、この1990年代の10年間で骨身に染み肉体化してしまったですよね。 鈴木:そうですね。 佐藤:そこで一人で、もんもんと活動しているよりは─献血運動もそうですが─鈴木先生の違ったよい一面が開花し前面にでてくるようで面白い1990年代語りでした。 |
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■東海大学とのコラボ 鈴木:一つ重要なことを忘れてました。95年にMITでレポートだした。その後です、フランクフォンヒッペル先生たちが、日本でプルトニュウムの会議をしよう、と。日本で誰か相手探さないかと言われた。 で、金子熊夫さんと言って外務省のOBです。東海大学の教授してた先生がいて。私は親しくしていただいたのですが、原子力推進派です。金子先生に相談したんです。金子先生は分かった、やろう、と合意してくださって。95年だったかな、東海大学で2日間のシンポジュウムをやることになった。 いよいよフランク・フォンヒッペル先生と、日本の金子先生の間で話が始まって、私はあまり関わらなかったんです。参加者リストを作るんです。日本側が言ってきたのは、当時、反核団体の親玉、日本のプルトニュウムに大反対している男がいたんです。ポール・レベンソールという男です、彼を入れるな、と言ってきた。それで、フランクフォンヒッペル先生が怒っちゃって、何言っているんだ。アメリカの参加者は俺たちが決めるんだ。逆にフランクフォンヒッペル先生が高木仁三郎が入ってないから、入れろと。 佐藤:それはすごくいいです。それなら面白くなりますね。 鈴木:それで金子さんから返事が来て、全部私経由でいく。高木仁三郎は入れない、だったら会議しない、とフォンヒッペルが怒って言う。しかもポールリメンスたちと一緒に東海再処理工場を見学したいと申し込む。そしたら、動燃事業団からポールリメンスはダメだと言ってきた。ポールリメンスはカンカンに怒っちゃって、何言ってんだと。フランクフォンヒッペルも、そんなことを言うのかと。やっぱり駄目だな日本は、と。 で、本当に中止にしようとした。そこで、フランクフォンヒッペルは別途のシンポジュウムやるぞ、と言って朝日新聞に声かけた。今、長崎大のセンター長の吉田文彦先生ですが、彼はインタビューされていたのでよく知っている。彼に相談して朝日新聞で出来ないか?と相談します。朝日新聞は分かったやりましょう、と。初めて日本で公開のシンポジュームを朝日新聞の主催でやることになって、フランクフォンヒッペル先生と当時の科学技術庁の役人が対談することが実現した。 佐藤:それは柔軟な対応でいい身のこなしですね。 鈴木:それで東海大学はどうしたかと言うと、最後は折れた。日本側の参加者は日本側が決める。アメリカの参加者はアメリカが決める、高木仁三郎さんも入れる。ポールリメンスも入れることで合意をして、そこは私も一生懸命交渉していました。彼を入れても大丈夫なんで入れたほうがいいですよと。それでワークショップを実施したんです。それは本になってます。本と言っても報告書なので売ってはいないですけど。日本のやつは非公開なんです。フランクフォンヒッペルが非公開じゃやれない、と言って朝日新聞に公開シンポを申し込んだ。その時、帰国した時、「お前は国賊ものだ」と言われた。 佐藤:狭量なことですね、どうして同じ意見じゃないと排除すしようとするのか、足腰弱いですかね東海大サイド。一緒のテーブルで議論しないと反対派の真意は理解できない、噂ていどで流れてしまっていいのか。その問題は常に起きてますね、(特にSNS内は酷い) 同じ考えの人だけ集めて快適にする、当時も、今のSNS的幼児性がありましたね。 鈴木:本当に怖かったですよ。ホテルに一人で来い、と呼び出されたんです。そこで一対一で、お前はなんなんだ?いつまで日本の原子力をダメにするんだ、そんなことをやっていると、お前は国賊者として酷い目に遭うぞ、と脅かされた。 佐藤:本当に脅しですね。 鈴木:有名な先生で、右翼政治家とつながっている。後で原子力産業会議の人に相談したら、「鈴木さんそれはあぶないですよ、彼は本当にいろんなことやりますからね」、と。 高木仁三郎さんはしょっちゅう嫌がらせされていたんです。家に注文しない物が届いたりとか。車で危うく引かれそうになったりとか。鈴木さんも気をつけたほうがいい、と。どうやって気をつけるの?か。私は書くのはやめられませんから、仕事ですから。じゃ、早くアメリカに行ったほうがいいんじゃないかと、アドバイスされた。ふふふふ。 佐藤:全く異なる人が集まる会議、その場が少なすぎますよね。国会の議論も政府もそうなってしまったですね。反対意見を聞かない姿勢が横行し、政治家の劣化と議論する体力が無くなっています。 鈴木:ほんとうですね、選択肢は一杯あるわけですから。必ずしもイエスとノーだけではないわけですからね。我々の提案書もサセックス大学の論文もMITの論文も、全く否定はしてないんですよ。再処理も高速増殖炉も全く否定はしていない。 佐藤:作ってお仕舞は日本のお家芸ですかね。次回は、いよいよ2000年代、戦争が始まって、どうなっていくか。 鈴木:2000年代、またもひとつ大変な再処理工場があります。 佐藤:鈴木先生、円熟する50代です。 鈴木:この時に六ケ所再処理工場の闘いがあります。これが今も引きずっています。また次回にお話します。 佐藤:文字にして送りますので、お待ちください。 鈴木:今日も長い時間お付き合いいただきましてありがとうございました。 佐藤:こちらこそありがとうございました。鈴木先生のような人間がなぜ日本に一杯いないのか、それは最初から思っていることです。 鈴木:私はラッキーだったですよね。親、家族にも恵まれて、親にも恵まれて、アメリカに行かしていただいたし。 佐藤:鈴木先生は偏らないですね。こいつにくっ付いて行くとうまい汁吸えるからという判断はしない、ゴマもすらない。そうすると現状に流されて楽に生きられそうだけど、その道は選択しないですね。 鈴木:それはないですね。 佐藤:そこが、科学者としての背骨、筋がしっかりある。で、ぶれませんね。日本の国家保守主義のような世では、先生は、なかなか難しい生き方だと思います。 鈴木:恵まれていたんじゃないですか、仕事はうまくいくし。 佐藤:1990年代、仕事の見つけ方も凄いですよね。 鈴木:ははははは、全部ラッキーですよね。 佐藤:素直に球を打ち返しているから、それを見ている人が居るんですね。 鈴木:ありがたい話です。 佐藤:いい球を打ち返して、それが後々効いてしまう。人生を語っていただいていてその点は興味深い一つです。必要な時に必要な人が現れてくるし。 鈴木:本当にそうですね、それはラッキーだと思います。 佐藤:最初は家族や両親だったり、おじいちゃんだったりすうんだけど、人に恵まれて生きることも実力の一つですからね。 鈴木:今も長崎大学に10年も、いさせてもらって本当にラッキーだなと思ってます。 佐藤:なるほど、身近な人にも恵まれていますね。力、でますね。では次回2000年代語りもよろしくお願いいたします。 ともに、さようなら。 |
2001年3月7日夕刊記事を拡大して読む |
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