映画鑑賞録 | 作成佐藤敏宏 | |
『大きな家』鑑賞録 2025・02・09 | ||
![]() フォーラム福島で今年2本目の映画『大きな家』を観た。映画館をでた夕方、簡単にFB投稿した。書き足りなかったので投稿内容をベースに加筆・修正し、調べる必要がある内容などを添え、鑑賞録を作成しました。 (はじめに) 養護施設で暮らす子供たちを対象に撮影し、編集した本作品は、その性質じょう各人に異なる事情と背景があるので、一つの物語として、眺めることはむずかしかった。職員から観た養護施設の1日でも、18年間でもない。また、短期取材のためだろうが、一人の10数年を追った作品でもない。 国内の、児童養護施設の内情は、虐待児が75%、児童精神科を受診者が40%、薬物治療をおこなっている子供35%だという(最下部にリンクあり)。で、入所児童の平均は4・6年で、在籍10年以上の児童が10.6%とあり、平成23年10月現在、施設数585、定員34,522人、職員29、114人だそうだ。 だから、映画『大きな家』はほんの一例であり、児童養護全体の問題を端的に表した映画ではないと、佐藤はうけとめた。施設と入所者のそれぞれが異なる問題を抱え、現在に至っているわけで、要・児童養護者の総体を想像すらできにくいように感じます。 そこで、佐藤の鑑賞録は、映画に合わせ箇条書きにした。通して読んでいただいても、単に、小見出しを見るだけで読み飛ばしていただいてかまいません。各・見出しの内容はそれぞれは未熟・不完全ですが鑑賞後に佐藤の伝えたいことです。児童養護施設について、あるいは家族とはなにか、そして一緒に暮らすことの困難と、それでも共に暮らす意味を、すこしだけ考えてみる機会になれば嬉しいです。 |
予告編 竹林亮 監督 企画プロデュース 斎藤工 |
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(FB投稿した内容+加筆) 映画『大きな家』を観る。─FB友、すくなくしている最中なのに・笑、大きな家を見ることは矛盾してる・・。─ 1ヶ月1本映画を観たいと思うが、統合失調症だと疑う家族の苦悩をまとめた、『どうすればよかったか?』の鑑賞録につづき、2月がきたので今年2本目を観て鑑賞録を書くことにした。 いつもの映画館に行くと、たくさんの作品があり目移りしてしまった。佐藤は建築系に生きていたので「家」という文字に反応してしまって、入館した。会場には40人ほど入っていた。 映画の舞台は、東京都心にある(下町だろうか)児童養護施設だが、男女別棟のようだ。それぞれの個室、洗面所、洗濯場、台所や食堂がその施設での主な舞台であった。同時に施設に暮らす男女のそれぞれ子供たちを追い撮影しているので、施設そばにある公園や河原、野山や大都市の移動施設に加え、学校などの教育施設でも撮影していた。 (顔を映さないこと) 映画では子供たちそれぞれの顔は少し映写されるのだが、ポスターは手描きの顔を選択している。絵は個別の人格として見ることはできないので好い選択だろう。予告編にも児童の影や後ろ姿は映し出されるが、正面からの顔だしはほとんど採用されていなかった。 通常の予告動画を観慣れているので、あれ?この予告動画、顔がすくない、ほとんど無いのはどうしてかな・・。全て顔が無くっても描き方で訴えたいことは伝わる。だが人格が端的に現れるのが顔なので、顔が無いとフィクションと区分けが付かなくなって、映画そのものの訴える力が弱まるのではないだろうか。ノン・フィクションで子供を描くには顔を外すことが主な要点になるのだろう。大きく映し出すためには成人前の深刻な事情を持った子供の人権に関わるので、デカく顔出しカットを採用するのは難し過ぎるか・・・・などと想いながら入館した。 (フィクションのように迫り、入所者がもつ背景を露わにできない事情) 登場する児童たちは、明かされないのだが、─ぼんやりとは分かる─、何らかの理由で親もとや実家を離れ舞台になった児童養護施設で暮らす、18才以下の男女数名をあらく追った作品だった。子供の次を想えば顔に切迫して撮影しにくいようにも想う。 理由は分からないが、養護施設を出て、一人暮らしを始め、大学での陸上競技100m走に挑んでいる、男子学生はかなり追って撮影していた。邪推だが撮影班は被写体の大学生と語り合い、了解を得たのだろう。彼の母の家の内部を撮影した絵もあり、母親の暮らしぶりが分かるほどのシーンが採用されていた。 (全体の印象) 座席に座っての想定より全体の仕上がり、言い換えれば鑑賞後の感想は「湿っぽくなかった」だ。是枝監督の『誰も知らない』を観た直後の、「あのぐったり」した気持ちは湧き上がらなかった。それは顔が少ないからだ。役者の表情が強い印象を鑑賞者に与えるからだろう。フィクションで映画を制作し描くほうが、幼児と子捨ての悲惨さを訴える。ドキュメンタリーでうつされるより、観客を不快にさせたり、こころに憤りににた感情を起動させるのではないだろうか。フィクションと、ノン・フィクションの違いを改めて考える機会になった。 フィクションであるから子供と母親の顔の表情があり観客に迫る 『誰もしらない』予告編 平凡な家族でも、子供を平凡な人に成人させるのは至難のわざである。それ以上に身寄りのない、あっても家に戻れない、戻りたくないなどの、それぞれにもつ多様な子供たちの困難を、施設で働く方々が引き受け支援し、母・父代わり(以上かも)のような育てかたをしていた。 他者同士が集い家族の核ができ子供が生まれても、その核家族が分裂しないとはいえない。考え方の違い、悪癖、病、離婚、死別・・・など予期せぬことが起きて無理に家族構成員を強く縛らず、ゆるい疑似家族解散ににたような常態にして暮らすことができれば、好転する可能性もあるだろう。バラバラになることもある。そんな事態に遭っても子供を平凡な人に育てようとする人々と、社会と児童福祉法にもとづく各種・仕組みがある。その一例を再確認できた。 映画の冒頭で支援者の男性が、施設を出てから、彼らの中には身を持ち崩す者もいる、と語っていた。施設を出た彼らが必ずしも平凡な大人になるわけではないが、平凡な家族からも必ず平凡な大人に育つとはいえない。そこで、鰥寡孤独(かんかこどく)になった人々を支える社会をつくることが、世間の乱れを防ぐ第一歩になる。それは江戸の世にあるお助け小屋や御薬園について調べれば分かることだが、生まれ来た者と統治者に課せられる課題でもあるだろう。 (大きな家について) 規模が大きいのか、構えかたや受け入れ態勢が大きいのか、それを支える仕組みが大きいのか、映画、『大きな家』では語られなかった。敷居が低い、出入りが可能、職員のかたがたの日常の献身などが「大きな」を採用したいと思うのだろう。 佐藤の生活に関わって思うことがある。それは統合失調症患者を「病院」ではなく、支援する者がいて、患者同士がともに暮らせる「大きな家」があるといいなと、常々思う。だが実情は映画、『どうすればよかったか?』の登場家族のように、否定したり、病を隠してしまうので、表面に現れず社会性をえる機会を失うことだ。人口の1%いるといわれる患者数だが、世間では居ないことになって、認識されにくい。そして社会全体で必要な対策が講じられず、患者は対応は遅れたり、人生を使い切ってはじめて対応されたりする患者は少数で、病院にぶち込まれたままで放置される。最悪な場合は患者と家族が共倒れになる。それが現世でもある。 せめて統合失調症とはどんな症状が現れるか、などは伝えていきたいので、佐藤はFBに投稿したり、知り合いに話したりしている。佐藤の知り合いは統合失調症について注意しているみたいだなと、分かる。そっと「実は家の家族もそうなのだ」と告白する人もいる。 家族の一時解散を、新しい病対応ととらえることも可能だと思う。それも無い。家族病を事前に予防する手立てを講じつつ・・・何度も書いてしまうが・・・病からうまれる多重な問題に対し、社会全体で対応・支援を継続できる『大きな家』ができ、患者が病識をもって暮らし続けることができる社会の到来を願っている。 願う理由は、それぞれが能力を発揮し、家族構成員の人々や他者を、お金主義とかコスパ主義、タイパとか、その視線で見てしまう、そういう人々がはびこらない社会になるといいのにな・・・と想像しているからだ。一人勝ちの世、お金を一人で集める世では全体が貧しくなるしかない、からだ。 |
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(映画『大きな家』 気づき) 1)東京大空襲でうまれた戦災孤児についてもおもいだしていた。たくさんの動画があるので参照してもらいたい。 2)養護施設に暮らす子供にかぎらず、どんな子供でも、平凡な日常生活を繰り返すためのスキルを身につけてから社会にでてほしい。掃除、洗濯、調理、料理の基本が身についてから世にでる、そのようになるまで、子供たちを支援し続ける。そういう家族と社会であってほしい。 3)この映画では男の子供たちが例年、数人のグループで立山だったかを3泊4日で縦走する、その登山の様子も映されている。登山は人格そのものが何の飾もなく露出してしまう、残酷な行為だ。佐藤は尾瀬にある燧岳や至仏を数年にわたり登山したが、最初にヘタルのは佐藤自身だった、今でも笑いのネタになっているほどに、登山は平等に困難を与える、その点を共に活動を目的にした行動をするための、教育として採用していて興味深かった。 古来、修験道などもそのような修行を選択しているので、養護施設の子供たちを登山に挑ませるのは、有効な手段だと再確認できた。登山したことない方は、これからでも山登りをしてみたらいかがだろうか、自然のなかで自分の能力が暴かれてしまいます。 4)平凡でも、欠いてはならない日々の暮らしに必要な単調な行為を身に着けさせることを最優先していた。顔を洗う、歯を磨く、洗濯し干すなどあたりまえだが丁寧な日常を支援している。 5)職員の方々は我が子のように時には泣いたり叱ったりし支援する。 6)規則正しい時間割に沿い暮らしている。 |
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(まとめ)大きな家とは弱者を支援する人間自体の中にある家で、それを実社会に構築できるか、それを問う作品だったと佐藤は受け止めた。〆歌が「トンネル」で、歌詞はこのように始まる。どこへいくのか分からない どこから来たかも分からない、ゆくも戻るも無い道を とまどいながら歩いている・・・と歌いはじめるが、佐藤はそれは違うと思った。映画「大きな家」鑑賞する。そのことを想うのは寒さの底の真冬に合っている。寒い!と知り受け止めたい。 2025年2月12日 佐藤敏宏。 |
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参照記事。児童養護施設の概要を検索すると、(児童福祉法)「児童養護施設は(乳児を除く、特別の場合は乳児を含む)保護者のない児童や保護者に監護させることが適当でない児童に対し、安定した生活環境を整えるとともに、生活指導、学習指導、家庭環境の調整等を行いつつ養育を行い、児童の心身の健やかな成長とその自立を支援する機能をもちます。」とあり、「あわせて退所した者に対する相談その他の自立のための援助を行うことを目的とする施設とする。」ともある。 虐待児が75%、児童精神科を受診者が40%、薬物治療を行っている子供35%だそうだ。 入所児童の平均は4・6年で在籍10年以上の児童が10.6%とあり、平成23年10月現在、施設数585、定員34,522人、職員29.114人だそうだ。(乳児院 129か所 、定員3,778人 職員2,963人) 〇児童自立支援施設は少年法に基づく家庭裁判所の保護処分などにより入所する場合があり、58か所 4,024人 職員1,548人。 〇母子生活支援施設の概要 母子寮 →母子生活支援施設 平成9年名称変更 261か所 定員5,404世帯 平成23年現在 3,850世帯 児童6,015人 〇自立支援ホームの概要 (児童福祉法) 82か所 504人 310人 自立援助ホーム(児童自立生活援助事業)は、義務教育を終了した20歳未満の児童であって、児童養護施設等を退所したもの又はその他の都道府県知事が必要と認めたものに対し、これらの者が共同生活を営む住居(自立援助ホーム)において、相談その他の日常生活上の援助、生活指導、就業の支援等を行う事業です。 ■ 児童福祉法 第一章 総則 第一条 全て児童は、児童の権利に関する条約の精神にのつとり、適切に養育されること、その生活を保障されること、愛され、保護されること、その心身の健やかな成長及び発達並びにその自立が図られることその他の福祉を等しく保障される権利を有する。 第二条 全て国民は、児童が良好な環境において生まれ、かつ、社会のあらゆる分野において、児童の年齢及び発達の程度に応じて、その意見が尊重され、その最善の利益が優先して考慮され、心身ともに健やかに育成されるよう努めなければならない。 A 児童の保護者は、児童を心身ともに健やかに育成することについて第一義的責任を負う。 B 国及び地方公共団体は、児童の保護者とともに、児童を心身ともに健やかに育成する責任を負う。 第三条 前二条に規定するところは、児童の福祉を保障するための原理であり、この原理は、すべて児童に関する法令の施行にあたつて、常に尊重されなければならない。 第一節 国及び地方公共団体の責務・・・・ |
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