大阪ことば閲覧2022 9月23〜10月10日 | 作成 佐藤敏宏(7月31〜8月3日) | |
「ことば悦覧」と称した活動は2008年から5年ごとに15年続けることを目標に始めました。途中に東日本大震災が起き同時に福島市にも放射能が沈着し、県内中混乱の極みとなり、その中で家人の狂気が大爆発し続けました。でも義援金などいただき様々活動を行い関西やいろいろ大学で被災地報告もしました。15年経ったので「ことば悦覧」活動は今年から来年でお仕舞にしようと考えています。 この機会に「ことば悦覧」が生まれた経緯など振り返り記録しておきます。 |
参照・備考欄 | |
「建築あそび」を失敗し続けることでうまれた「ことば閲覧」@2007年 「建築あそび」が家人の狂気の暴走で継続的に活動できなくなりました。2007年の5月のことです。2007年3月31日に開いた建築あそびのゲストは大島哲蔵さんの愛弟子である柳原照弘さんでした。(柳原さん講演記録を読む)その2月後、建築あそびを5月26日に開きました。開催のために準備した「刺身が原因」で家人の狂気がとんでもなく暴走しはじめ手に負えなくなるとは、5月26日まで思いもしませんでした。が、目の前で家人の発狂しだし、我が家での建築あそびは現在も休止中であり、柳原照弘さんとの建築あそびが最後の記録となっています。 家人が暴走しはじめた2007年その時の様子は5月26日の日記に記しています。ゲストは松本晴子さんで演題が 「アントニオーニ映画におけるローマの都市表象と東京風景」」と題しでした。女性を講師に招くのは希な建築あそびなのですが、いろいろ問題が起きます。その日の前後の日記を見直すと右の欄にあるように、私はその朝塩竃しまで行き、うまくて安い刺身を仕入れ仙台駅でmy長女と合流し家にもどったことが分かります。 翌日5月27日に家人の再び狂気が炸裂し、次男も軽く感染していたことがはっきりしてしまいました。ゲストの松本さんも心を病んでいたのかもしれませんが、後に記録を公開したものの「貴方のHP記録は多数の人が見過ぎている」との理由で公開を拒否を伝えてきました。 そのような状況で、内部と外部から「するな」と通告されたような形になりました。我が家での「建築あそび」はこれでお仕舞にせよ!と言われているような気がしました。親子二人が同じような発症してしまい手に負えず、長男、長女を招集し家族会議を開いて対策を練り、我が家の病に対する態度を決め(註2:家族会議レジュメ参照)、それを守ることにしました。 その当時は2005年に起きた耐震偽造事件を調べながら記録をweb公開していました。その記事を読んだのでしょうが『建築ジャーナル』の編集部から「アネハ事件」について記事依頼があった。しかし身辺が落ち着かず断ってしまいました。日記を読み返すとそのことも分かります。(アネハ事件は詳細に調べ知っている)。 さらに嫌なことですが、狂気炸裂してしまった「家人を絞め殺そうか」と思ってたことも分かります。それらの結果、私が選んだ対応は「家を出て=家人と離れて暮らす」ことだったのです。家人に対する殺意についてはこんなふうに書いています。 「・・・気候変動が激しい折 同居人のこころいささか穏やかならずにて 「しばらく離れて暮らすほうが良い」と思うも 銭無し 仕事無しの俺は実現できず 手も足も出ず 仕事場で寝たり、my長女の家に泊めてもらったり、サポータの皆様の軒下に寝たりしつつ 文学風味な暮らしをするかもしれない。 まぁ大臣のように自殺(註)をしてしまうのは簡単な自己処理だが 回りの方に与える悲哀が大きすぎるので 俺は 自殺を実践出来ても 実行しないだろう。・・・」 |
■ことば悦覧とは、他者が推薦する30才前後で無名の独立系建築家の聞き取りをし記録をつくりweb公開する活動。同時に「お前の家は俺の家」とぬかしつづけ多数の住経験を積み重ねることで日本の住の現在を知りつつ、星座型居住の実践は可能なのか?を考え続けること。 第一回ことば悦覧 48名 (仙台圏省略)(お前の家は俺の家) 2008年4月8〜16日東京ことば悦覧 (11名ー伊藤暁さん推薦) 4月28〜5月1日金沢ことば悦覧 (6名ー石川拓磨さん推薦) 5月12〜18日大阪ことば悦覧 (18名ー柳原照弘さん推薦) 2009年8月2〜9日京都ことば悦覧(13名ー魚谷繁礼さん推薦) ■2007年4月02日 曇り弱い日射しあり庭の木蓮散りはじめ 桜満開となる 31〜1日の2日にわたり大阪の柳原照弘さんを講師に建築あそびを開き無事終了・・・・・日記の続きを読む ■2007年5月26日のこと・・・9時の電車にて酒の肴を仕入れに塩竃に向かう。予算2000円/人円にてマグロ・ウニ・生蛸・シャコ・たらこなど買う。魚箱に氷をつめに梱包してもらも氷の重さがありおもたし。仙台駅にてmy長女と合流し帰宅。 家に着いくと・・静か〜?? my同居人ダウンして床に伏している!!。このところいささか張り切り気味で疲れが貯まっていたのが判っていて・・心配していたのだが 建築あそび当日ダウンとは・・トホホ・・・( ・・・当日の日記の続きを読む) ■註:松岡利勝氏2007年5月28日(第一次安倍内閣農水大臣)首吊り死 |
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「お前の家は俺の家」と叫び暮すしかないありさまでした。私の周りの狂気を包摂した日常から「ことば悦覧」生まれました。ことば悦覧活動をしようとした、それ以前も分裂病(後に改名・統合失調症)と共に暮そうと決め、失敗の連続で20年ほど経っていましたので、狂人の対応には慣れていました。だが、妻に対する殺意は彼女の症状悪化に合わせるように噴出してもいました。(安易な対処方法ですが、そのような心境になりました)殺意を止め、夫婦で生きることにとどまることは想像以上に困難なもので、人を人が殺すことはあんがい混乱した状態のなかで、咄嗟に実行してしまうでしょう。ですから「何で殺したのか?」それを説明できる人は殺人はしない。 私が自・他を殺人しなかったのは「父親が母親を殺した。私はその子である」という子供達に背負わせてしまう罪の大きさへの想像力だったし、それを言葉にしてから実行しようとしたためでした。(福島市には分裂病家族にたいする支援策はなにもありません) 宙ぶらりんな殺意のある暮らしのなかで、具体的に目の前にある狂気とどう共に生きるのか?それは家出して生活しつつ、身の回りにある狂気を観察しながらその狂気から時々離れる、あるいは狂気のある暮らしから出たり入ったりする。そういう暮らし方に変えることが可能だろうと思いました。いわば殺意をもちつっ実践しない妥協型の暮らし方を選んだことになります。 その具体的で分かり易い、若い独立系建築家の現状を広く理解することができると考え、その実践が「ことば悦覧」でした。分かり易く言いなおせば人の狂気から「ことば悦覧」は生まれた人間の狂気の行為だったと今は思うこともあります。全国各地で多数の俺の家を住経験をすることにもなりました。民俗学者の宮本常一さんは1939年から1955年までに千軒の百姓屋に泊り他人の家で千回飯を食べさせてもらったそうです(『東アジアの食文化』1981年刊行P93,94参照)から数ではまった喰届きません。 |
■狂人てなに?と問うたことがある 1991年頃家人の症状が悪化し、福島医大の精神科の医師に尋ねたことがある「人が狂うとはどういう状態ですか」彼は「皆が人を殺す戦争をしているときに人を殺さない奴は狂っている。そういう事だ」と言った。精神科の医師に任せて治療すると狂人にされると思った。 「医師にも分からないから共に生き続けましょう!」と言うべきなのだ。精神病を治せると思うのは気が狂っている、そう人が言うことだ。精神疾患の人を見て狂人だと思う者は狂人だと言っていいと私は考える。精神疾患の人は私とおなじ人であるからだ。 ■註2 困ったら問題を共有し語り合う 2007年6月30日家族会議レジュメの一部 |
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■ことば悦覧は蛸の刺身から生まれた (家人、再び発病する) 私が家人が精神疾患になったと思う事件が起きたのは1993年でした。突然我が家から家人が疾走をしました。電話の向こうで家人は「バスに乗って東京の実家に逃げようとした」と言う。しかし「バスの後ろから車に乗った先生が監視しながら追跡してきている。怖いから助けに来て!」と電話があり、救助に向かいました。着いて見回しても誰もいません。バス停に1人いた家人の言動はめちゃくちゃで、巨大な被害妄想の中に彼女の世界は包まれてしまっていました。 発病した真の原因は不明です。1991年から妄想気味の言動を発していましたが「単にこのごろ変だ」と思うだけで、分裂病が発症しているとは思いませんでした。(気が狂ったと思いたくなと考えていたのかもしれません)狂気が発症した因は今でも分かりませんし、追求しても意味がありません。そう今はそのように理解できます。1991年頃、私は「精神病は病気だから治せる」と勘違いし病院に行き治療させようとし続けました。そういう私の言動によって家人の被害妄想は肥大化しつづることになり、目は釣り上がり狂気おび続けるだけだったのです。どないもこないも手に負えません。次男が高校を卒業するまで、方々に相談するなどし模索を続けましたが分裂病(統合失調症)を抱えた家族は表に出さず、座敷牢などに隠してしまうので、患者の存在はとても分かり難いのです。 打つ手のないまま、ただ時間だけが経っていきました。でも、布団やソファーなどの家具に塩素系漂白剤をじょうろを使って撒きちらしようになりました。布団も椅子も水浸しで使えものにならず、手に負えません。とうとう、1996年第一回目の強制入院をさせてしまいました。その日は前もって段取りし、長男と長女と私の3人で捕まえ、手足を縄で縛り病院に連れていきました。ちょうどその日は母の日でした。私の両手には家人の抵抗の刻印である歯形花が真っ赤に血を噴きだしていました。最後に家人は自分の歯を武器に抵抗していました。カーネーションならぬ左腕の歯形花は今でも消えないままです。狂気の馬鹿力には誰も勝てません。 強制入院から一月後、退院させましたが死んだように寝ているだけの廃人になってしまいました。退院後の家人の様子は生きている人間とは思えず、このまま死なせたら困ると思い直し、2ケ月経って再度病院を変え1ヶ月入院させました。毎日面会に行って表情が少し人間らしく戻ったと思った段階で「自分で面倒見ます」と伝えました。担当の医師は「素人には対処は無理」と言われましたが退院させました。 生きた人間を廃人のようにしたのは治療薬が強すぎ、生きるために必要なあらゆるホルモンの噴出をブロックしてしまうためでした。(当時は分裂病と言われ対応には強い薬しかなかったのです。現在は病名も統合失調症へと変わり、マイルドな治療薬があります)本当にピクリとも動かない、動けない。食欲もない、睡眠欲もない、寝返りも満足にうたない、言葉も発せずただ呼吸し寝床で生き続けているだけでした。そのような暮らしが3年間は続きました。家人が死んだ人のように寝ている生活を横目で見ながら、家事はなんでもするしかないので身に付きました。 その間も発注された建築を完成させては「建築あそび」の場として完成した建築を借りるなどし活動し続けました。私もかなり殺気だっていてのでしょうか?時々発注者から顰蹙もかっていました。安易といいますが建築あそびを開いては家人を他者と交流させる場もつくることも目的で続けていました。家人は建築あそびに参加はするが人間の表情が無いことが数枚の集合写真から判ります。 1984年我が屋ができたときから開いている「建築あそび」ですがその当時の記録はほとんどありません。紙媒体で残すのはお金が掛かりすぎると思い込んでいたのが原因です。写真はほんの少し残っています。写真を見ると2000年は家人を再起させようと「建築あそび」を何度も開いていたことがわかります。(右:集合写真参照) 建築あそびのweb記録は植田実さんがゲストの5月27日以降から作り、公開しはじめました。私のweb日記は2001年5月24日の日から綴り公開しつづけています。2017年はほとんど日記を書いていません。その原因は放射能沈着によって家人が三度狂気を炸裂させてしまい、家中ガムテープ貼りまくり引き籠りを続けたため、対応に追われつづけ、何もできなかったからです。 少し話をもどしまして、 人生初web日記である2001年 5月24日 を眺めてみましょう。 「初めて書いた日記です。読まれるための日記なんてありなのか・・ 今日は2001年5月24日雨が降っています。 福島の今年の4月はほとんど雨が降らずカサカサで我が財布の音のようにないも無いよーカサカァーザァザーでした。5月に入っても降雨量が少ないので福島特産の果物の生長に悪い影響を与えそうですね。で久しぶりの雨は歓迎すべ・・でも手遅れなのかなー。 50歳間近の私は死んでもたいした 影響がないのですね。突然こう言うのも子供参人がもうすでに20歳を過ぎていて動物として種の保存をすませたわけですから・・そうなんですよ・・。でもオネイチャンが好きなのは動物の本能などと誤魔化すつもりはありませんが、子供時分の記憶に男がいないのです。・・そのせいかもしれませんね。すり込み効果なのかもしれませんね。オネイチャンが好きなうちは生きてましょうか・・・」 私は、7月生まれなので、50歳になる1月半ほどの前の日記です。・・・お姉ちゃんが好きなうちは生きていようと宣言していますね。 |
1998年冬ごろか?建築あそび ゲスト独立系建築家の山崎さん BOX13 2000年6月11日 記録無し 千万家にて 幸家さん 緋田 新居 大島さんと建築あそび 大島哲蔵さんとの更新記録 |
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(2000年の建築あそびからweb記録を作り公開しだす) 繰り返しになりますが、建築あそびは1984年我が家が出来た秋から始めました。建築あそびのゲストの条件は無名、他者推薦、30才前後、独立系建築家を条件に招待しました。足代のみで謝礼無しです。お金をもらって記事を作ることは一切禁止にしていました。記録は話したまま全て公開する、その条件でも引き受けてくれる人を探しました。 第一回目が毛綱モン太さんは福島の知人の友人でした。その後はゲストのことは忘れてしまいました。もったいないことです。いまでもそうですが建築家と呼ばれている人には興味が薄いのです、当時も同じでゲストの多くは建築系の人ではありませんでした。何度か建築あそびを開く中で私が設計した建築が1987年に完成し1階がギャラリーになりました。いろいろな活動や作家との交流はそのギャラリーに移動することしました。1989年5月には無名だった写真家の瀬戸正人さんのオリジナルプリントを10万円で買いました。1990年ぐらいまではそのギャラリーの尻馬に乗って活動していたことになります。 1991年からは大阪の大島哲蔵さんとの交流が始まりました。詳細は大島さんのFAXが文字にし公開していますが私が発信したFAXが大阪の関係者の家に保存されていることが2022年8月2日に連絡ありました。2022年10月の大阪での聞き取り活動でコピーしてもらう予定です。文字に変換し公開しますと1990年代の私の活動の詳細が判明します。(FAXの記録でも大阪から発見されたのは嬉しい) 書き出して思い返してみますと、webで日記を書きだす前に建築あそびの記録はつくり始めていたました。2000年5月27日の建築あそびは編集者の植田実さんをゲストに完成したばかりの千万家で開催しました。(右絵:集合写真)お題は「建築における私的領域の傾向について」(その記録を読む) です。内容の紹介は省きますが以下参考までに2000年から2006年までの建築あそび記録を羅列します。 2000年建築あそび 渡辺豊和さん (初期住宅を語る 八重樫直人さん (自作を語る) 山中新太郎さん (山中新太郎の現在) 植田実さん(95〜0までの住宅) 2001年建築あそび 五十嵐太郎さん (新宗教と建築) 田中浩也さん (情報技術環境など) 槻橋 修さん(リバース・ア−キテクチャ) 2002年建築あそび 続・八重樫直人さん (自作建築について) 続・花田達朗さん (公共圏とは2) 藤本壮介さん (藤本壮介の現在まで) 花田達朗さん(公共圏とは1) 2003年建築あそび 菅野裕子さん (建築と音楽) 寺田真理子さん (メディアとして建築を伝えること) 太田浩史さん(太田浩史の全体) 2004年建築あそび 堀井義博さん 0年前後のPC事情など 松田達さん(ヨーロッパ・パリ) 南泰裕 さん (パークハウスを語る) 藤村龍至+ベラ・ジュンさん (リサーチと建築) 石川初さん (街・庭自・然) 20005年建築あそび 植田実さんその2(真夜中の家) 小林聖明さん (建築の道を歩きはじめて) 2006年建築あそび 岡部友彦さん(コトブキスタイル 井上拓巳さん (阿武隈の船運) 荒武賢一朗さん (大坂の青物流通) 続いて2007年、柳原照弘さん 松本晴子さんとの二人となります。 それ以降、我が家での建築あそびは休止し、ことば悦覧活動に続いていきます。我が家での建築あそびの再開を狙ってはいるのですが、体力の減少と福島市内に暮しているサポータが亡くなるなど、その数が年々減少しつづけてしまいました。放射能の沈着人災はサポータも移住したり、また、若い人を呼びにくくし、交流を阻まれました。放射能があるのが分っていますから呼んでもほとんど来てくれませんでした。唯一ラウンドアバウトジャーナルの東京組が見舞いに来てくれただけです。その他の若い人は来てくれませんでした。しかたのないことです。 放射能のことなどweb記録公開した2000年には予想もしていませんでした。2011年3月、建築あそびへの新しい障害がうまれることになり、さらに数年後には放射能に怯えた家人が発狂したように引き籠りとガムテープアート制作に熱中してしまい、4年後の2015年6月7日には強制入院させてしまいました。 7年後の2022年8月3日彼女は何もなかったような普通のおばあさんに変わってしまいました。何がそういう普通のおばあさんにさせたのか?私には判りません。時々、近所のおばさんに会うと、「奥さん治ったね、あんたは偉い!」と褒められます。なにもしていないのに褒められてもなんだかむず痒いです。 |
2000年5月27日千万家で建築あそび ゲスト植田実さん(2列目左から2人) 2000年8月5日 山中新太郎さんと建築あそび ■2002年6月1日 藤本壮介さんとの建築あそび 左:藤村龍至さん |
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(ことば悦覧は蛸の刺身から生まれた) 先に書いたように家人の狂気が爆発したのは2007年5月26日でした。ゲストの松本さんを駅に送り届けると、庭に蛸の刺身をはじめ各種の刺身が地面一面に放りだされていました。さらに食器の多くも捨てられていてゴミ置き場のようなありさまになっていました。 そそれを見ても、何が起こったのかわからない。家人は部屋に引き籠り無言のまま、あるいはぷりぷり怒ってさえいました。その日から狂気は炸裂しつづけ、家の中にある大方の物は庭に放り出し尽くしまで続いきした。電話は鋏で切られ廃られてしまいました。布団や家具も家から放り出されてしいました。狂気は毎日、凄いエネルギーを発散しつづけます。家の中の妖しいと思われる品々、電線と繋がっていると思われるもはトイレ風呂の換気扇も含め、電気製品など全て捨てられてしまいまして、家が空っぽになるまで毎日捨て続けました。 狂気炸裂させたのは建築あそびで喰った盛りのうまい蛸でした。蛸トリガーは強烈でした。 家人が生まれた東京下町 家人は浅草で生まれました。彼女の家族は東京大空襲で家が焼けてしまい一時、隅田川の船上を家にし暮らしていたと聞きます。その後、北千住にある公設市場の傍に居を構えました。市場には青物にかぎらず魚介類もあり、そこで仕入れた刺身を喰って育った家人は刺身には目が無く、大好物です。毎日でも刺身を食す生活、毛ガニが入れば茹でて1匹食べる、そんな魚介類好きの少女に育っていたようです。 ですが、2007年6月ごろは、統合失調症の薬害で体重が10kgほど増えてしまい、ダイエット中だったらしいのです。禁欲的な食生活続けていた家人の前に突然多量の刺身類が出て来てしまい、喰いたいストレスが狂気の引き金になりました。錯乱し刺身をはじめ、食い物すべて外に放り出したようです。後々、そって聞いてみましたが、そのことはまったく覚えていませんでした。アンタが物を捨ててしまったといいます。そういうことにしておいたほうが平安なので、俺が必要な物も大方捨てつくしたんだと認めて暮らしています。 2007年は大混乱を続けましたが、俺の家は安定せず、何とかできないか?と考えた末に「お前の家は俺の家」という考え方に至りました。聞き取り活動しながら、他者の家を体験を積み重ねることができる、その効率の良さにも魅かれます。蛸の刺身は「ことば悦覧」活動の産みの親とも言えます。 2008年4月8日東京ことば悦覧を開始し、15年間続ける目標でしたが2022年度中に仕舞にできるか? こんな状況下で9月末から10月初旬は大阪で活動することにしました。放射能にも新型コロナにも遭いながら日本の民主主義崩壊続きの惨状もふれる15年間となりました。 以上が「ことば悦覧」活動が生まれた経緯でした。そして京都や大阪に暮らす建築関係の皆さんと交流する機会がうまれました。家人が厄介な存在なのか、私がそれなのか不明ですが、多くの人に出会うことで建築の面白さの奥行きは増しました。人生終わってみないとわからないのでテーマを変え活動し続ける予定です。 さて、冒頭にしめしました活動、来月末から気合を入れて(15年経った聞き取り「ことば悦覧」)大阪に行き滞在し休み休みガンバリます。その記録は2023年春までには公開する予定です。 「岡田栄造先生ご苦労様会」ひらき私を招待されました皆様に、ふたたび心より御礼を申し上げます。活動に節を入れることができました、ありがとうございました。 2022年8月3日 佐藤敏宏 |
大阪2022ことば悦覧 相関図 渡辺豊和さん、1987年出会う 1991年2週間泊まり初期建築を巡る ↓ 新田正樹さん ↓飯食う友たち 大島哲蔵さんと1991年 出会う、2002年6月6日没(54才) 1990代の往復書簡ふうFAXが発掘された(2022年8月2日) ↓ 柳原照弘さん 2007年3月31日建築あそびのゲストとして呼ぶ ↓ 2008年春 第一回大阪ことば悦覧活動 ↓ デザインイースト始まる 全9回で 休止中 ↓ 2022年10月15年目の大阪ことば悦覧 大阪市内在住者のみ) 連絡あり受ける者5名(柳原照弘 佐々岡周平 伊藤立平 家成俊勝) 2022年8月2日知らせあり。2000年以前の大阪アーキフォラムの動画テープを発掘しました(大阪在住の方の所有物) 下から2本目佐藤敏宏のレクチャー動画(笑) 多数の佐藤発のFAXも保存していると語る。さすが大阪!底力残ってました。 2022年9月16日岡田栄造先生ご苦労様会 満田衛資さん事務所にて 山崎泰寛さん 水野大二郎さん 森田一弥さん |
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