編集者と建築家について語る 記録 03 | 文責 作成佐藤敏宏 | |||||
語り合い編その2 | ||||||
佐藤:雑誌の話から建築家の仕立てれかた、作られ方などに変えたいと思います。で、田舎で、一人で出来ることだけ活動するとと決め暮らしてきました、私の建築造りの体験からの印象を語りたいと思います。ご批ください。 地方で建築士として暮らしていてる者から見える有名キャピタリズムの問題は、独立した時から考えてたように思います。雑誌社がつくりだす有名建築家とは関係なく、田舎ふう建築を造りつつ、ド田舎で楽しく暮らして生きるのは当たり前なことだと思ってました。行政が言う設計業者にもならず、それは県の設計協同組合い入る努力をしないという事です。そうことで建築士の談合に参加せずに暮らす。思ったより簡単でした。 施工会社の株主になって自分で仕事をつくったり、直接注文を受け下請けと業者扱いされる仕事をしないと決めたんです。そうすと現代社会のシステムに巻き込まれる事を極力防ぐ暮らしを手に入れることができました。小さな事業、といって10〜20億円ほどの事業規模ですが経営コンサルの仕事も受け交渉費用を頂いてました。そううい立場に身を置くと事業全体をコントロール、マネージメント出来る。設計料だけで生きようとすると、動かせる金額が事業費なかの建築工事費の5%〜10%なので扱う金額が少なすぎるんですね。設計料だけで建築家が図面だけ描いて20世紀末の時代に暮そうとするのは時代錯誤で馬鹿なやり手法だと思いました。 建築家として有名になりたい人が居るのは、それで構いません。田舎では雑誌読んでる人がばかりなので、雑誌内有名になる必要がないんです。 有名建築家になる過程を見聞きしたのは安藤さんのプロセスでした。70年代の事ですから彼の初期の頃です。関西のゼネコン設計部の東京支店に所属してた私は仕事の打ち合わせなどで、関西と東京を日常茶飯事とし行き来してました。ですから安藤さんの情報は設計部の仲間から聞かされ、彼の処女作あたりの、えげつない風聞などに接してました。会社にも講演にきてました。関西ゼネコン設計部の私の仲間は、安藤さんの事務所に会社から派遣されてました。私の月給が3万円時代、安藤さんは関西にある10社の顧問をなされ、各社月5万円の顧問料を受けていて「俺は、仕事をせずとも月50万円の収入があるんや、俺の設計で施主が気に入らななら俺が買い取ってしまう」と彼が買い取り自社ビルにすると豪語してましたので社内では誰もが知ってました。。建築家の不動産屋化ですかね。興味が無かったので、何件そうしたのかは知りません。 彼は大阪の社会の財界の人たちをから支援を受けていた、少なくても私が所属している会社からはそうです。まことに賢い人だと思いました。所属してたゼネコンの社長の息子が安藤さんに惚れ込んだという噂でした。当時、私たち設計部員は、他の有名、無名を問わず、設計事務所に(私も何度も)派遣されました。派遣先にはゼネコンから派遣されてきたドラフトマンが所員の数より多かったという笑い話もありました。ですから安藤さんの事務所にだけ、設計部員を派遣するのでありません。1970年代のゼネコン設計部内では常識的手法だったのです。 また、毛綱さんはこんな風にも語ってました「不景気になると所員をよその事務所に貸し出して、経費節減してるんだ」と。ですから建築家たちの所員も、貸し借りするのが一般化しているんだなーと、私は受け止めてました。 ただ安藤さんは人使いが荒くって私の仲間は安藤さんの奴隷でもあるかように、こき使われていましたね。私が派遣された設計事務所では定時で退所できましたが、彼の事務所では、年中無休不眠不休だったよ〜、と愚痴を聞かされてました。後に学会賞の図面を見ましたが元設計部の者が書い図面だと思いました。ゼネコンは仕事を取るために、有名・無名を問わず設計事務所へ無償で貸出ます。そうしてでも工事を受注するんです。これも業界の常識だと思いますが。もちろん貧乏な建築士を対象に金貸しもして恩を売り受注に結びつけようとします。営業行為の一つですからね。 安藤さんに対して「残念だなー」と思う点は一つだけあります。関西の建築仲間が維持してた環境にも育てられたと思うんです。ですから、彼が関西の若い建築家を育てるための土壌を整備し運営しようとしなかった点です。若い人たちが寄りつき難いのかもしれません。村野藤吾さんは「村野塾」を、それを西澤文隆さんと継承し、のちに渡辺豊和さんは一人で「豊和塾」を開所し、若手社会人建築士を鍛える場を作りつづけました。渡辺さんの耳タコ話によると第一期豊和塾の第一期塾生は安藤忠雄さん、高松伸さん、平山さんなどだったそうです。渡辺家訪問いらい、私は4期生に加えてもらい時々、豊和塾に参加してました。「お前らが、もっとも出来が悪い」と常に言われましたね。当時も渡辺豊和さんの事務所に安藤さんは、しょっちゅう通いチラチラとアイデアをいただき、例えば渡辺さんの「宇宙卵」の発想などですね。「みなに世話になっていたのに独学で売るやつちゃー、大阪の商人根性だな」と渡辺さんは豪快に笑ってました。村野藤吾、西沢文隆、渡辺豊和と続いた関西建築家界の育成の場をつくりの豊かさを継承しようとしなかったのは残念です。これからでも実践してほしいです。磯崎新さんのように、若手に仕事の場を与える役割をされてされてませんね。 話をど田舎話にもどします。事業計画を請け負う仕事をしますと、身の回りの人々が変わっていくことを体験できると思います。発注者が現れて建築が完成したら、皆で使う「建築あそび」はかならず、友人知人を集めて呑んだりくったりします。私の活動を、伝え聞いた仙台の阿部仁史さんは「まねさしてもらいます」と言って、自分の事務所を一時休んで、若者たちに一時解放し「ハウス・レクチャー」を実施してました。私も何度か参加して酒のみました。 私は竣工引き渡しの後でも、私の活動目的にためにも使わせてもらいましたし、所有者の日頃の活動のためにも支援しました。巨大なイベントではないんですが、身の回り小さなイベントの支援です。竣工直後の活用は発注者が怒ることもあります。その時は、「この建築はあなたの物かもしれないけど、現在の社会全体の力でで出来たものだから、なるべく地域の人を招いて一緒に共有すべきだ」と。「そうして建築の楽しさを共有した方がいい、後々生活が豊かになるよ」と。そうして普通の人びとでも日常的に開くことができる、建築の共有手法を広めるために「建築あそび」を続けました。コミュニティー崩壊社会にあっての悪あがきだったかも知れません。 第一回「建築あそび」は1984年秋で、出来たばかりの我が家でした。ゲストは毛綱モン太さん。毛綱さんは胡散臭い人で、知り合いのエージェントにお金を渡して呼んだら、妖しいんですね。私の周りの人はそう感じてしまった。妖しい中身は言いません。福島には合わないので第一回の建築あそびは不評でした。あの失敗経験から学び、自分さがし交通費だけ支払ってゲストを呼ぶことにしました。2000年11月25日のゲストは渡辺豊和さんでした。東北人にとっては非常に好い人なんです。生活も質素ですし、福島の人にも愛されちゃうんですね。訛りが効果的なのかなー、何度も仲間と会い呑みましたし、奈良の家にも仲間と共に泊めてもらいました。で、私は渡辺さんの暮らしぶりは建築家の鑑だと思いました。世の評判と、大きな作品と、口は悪いんですがね。初期の建築はすごく好いですよ。ということで、渡辺さんは有名キャピタリズムからは外れている建築家です。欠けている点は事業計画というか資本を集めて社会を動かしてい行く能力ですかね。仕事を座して待つという古い建築家の姿から脱せず「俺が最初のポストモダンかたったんだ」と語った点は今風ではないかもしれません。 事業計画料、設計料、ゼネコンに請負わせて株主配当を受け取る。そうするしか田舎では方法が無いと思います。そうしますと、ゼネコンは私の言うことは聞くので「裏金」もたくさん作り貯められました。20代のゼネコン設計部でも施工会社の「裏金」つくを上手に覚えてしました。裏金は、現在の政府の官房機密費みたいなお金の性格ですね。独立設計士になてからは、それらの経験を存分に発揮させることができました。設計士はゼネコンンの株主になって経営陣をコントロールする。そして自分のつくりたい建築を自由につくる。それが一番無駄な事が起きないと思います。社会に文句を言う必要がない、実力が無いと分るだけです。ストレス無いですよ。 建築家は「パトロンいなかったら仕事できねぇー」みたいことを言う人がいますけれど、現代はそんな考え方は通用しません。資金管理など人の活動全体をマネージメントできるような環境をつくってしまえと言い返されるだけでしょう。しかし残念ながら日本の身の回りの経営者というのは、お金の有効な使いを知らないかったです。事業計画通り進めて儲ける。けれども、計画通りに儲かると会社の内部崩壊が始まるんですね。お金儲け過ぎるとろくなことを始めません。バブル時代の社会経営者を思い出していただくと分ると、詳細は語りませんが放漫経営に至って破綻に至。日本のバブル経済とそっくりな結末になるんですね。有名キャピタリズムに乗りる有名建築家になって「何したいんですか?」そのお話をお聞きしたいです。以上です。 |
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布野:有名の方はちょっと遠慮します。佐藤さんが言っているのは、建築士制度の問題があって、設計と施工を分離するというのが前提でね。一方でアーキテクト理念、ヨーロッパで出来た「アーキテクト」というのは、綺麗に言えば、医者、聖職者、教師、みたいな神にコンフェスをプロフェッションみたいなのをでっち上げてね。聞こえは悪いですけど。「リバーのロイヤルチャーター」と言います。英国建築家協会というのは基本的には一種のサロンだったわけです。業務独占なんですよ。そういう側面もあって、施工業者と自分たち、設計デザインのコンストラクションを分離し有利にする仕組み。自分は社会とクライアントとの間にあって、社会の利益も両方担保する。そういう職能理念をつくたんですよ。 それが日本に入って来て、今でも会計法うんぬで縛られている。今、佐藤さんが言ったのは、小規模な例です。住宅スケールと考えればいい。どう考えてもデザインだけでは食べれない。その実態は今でもそうです。確認の計画概要書を提出し、確認申請料が一件当たり20万円。何件確認申請すれば喰えるんだ〜、と。そういう実態がある。それだったら、設計施工、少なくっても小規模なレベルでは、デザインビルドです。それを「アーキテクトビルダー論」でずーっと展開してきました。 名前が出ていた例で言うと大谷幸夫先生は「工務店と連帯せよ」と言ってた。その問題。今はスーパーゼネコン・レベルが、デザイン・ビルドを主張して、90年代に国交省も認める告示を出した。だから設計施工の事業コンペティションが日本でも普通に行われるようになった。佐藤さんが言ったのはスーパーゼネコンがやっていることです。いみじくもおっしゃったように、「裏金は貯まる」。東日本大震災の東北のスーパーゼネコンで裏金を自分で持って行っちゃった。で、捕まる。だから理念として佐藤さんが言っているのは、(2才しか違わないのだがここで若手にされる)僕らの若い頃からそう言っていたんです。『裸の建築家』とはそういう意味なんです。理念ばっかり言って、亀谷さんの言葉でいうと、仕事のとりかたを全然教えてない!と。建築家たちは社会に信用される行動をとってこなかった。そういう事だと思います。有名か有名じゃないかは僕は分らないです。たぶん有名化するというのは、いろんなジャンルでも、そういうメカニズムが働くんだと思います。 |
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亀谷:内井昭三さんが、皇居の新しい吹上御所を設計して竣工しました。その後、内井さんには、お金は幾らでも出すから、あれよりいい物を造ってくれ、というクライアントが現れたんだそうです。そういう仕事の取り方もこの業界ではあるんです。そういう縁がない人は、自邸を造って世に名を問うと。菊竹さんのスカイハウス。東さんの塔の家。そういう仕事の取り方もあります。仕事の取り方は幾らでもある。 佐藤さんの話だと住友不動産などが大々的にやっているのを自分の身の回りでやっているだけなんだなと、お話を聞いて思いました。もっと有名な世界的な建築家たちは、自分なりに小さなアパートを造って、そこで自分の事務所経営のお金は全部確保して。その上でコンペなとで打って出る。そのようなやり方をされている建築家もいます。いかにして自分の仕事を取るか。その仕組みを、きちんと考えておかないと、この業界はうまく作動しないんしゃないか。ともすると理念だ倒れに終っちゃうんじゃないか。というような気がしてます。 |
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佐藤:田舎的前線は微小、プチ住友不動産型だと。不動産屋だったんだね俺。どなたか発言ありませんか。自分で仕事を取って喰っていかなければいけない。それはどこの業界、世界も同じです。昔からある話だからいまさら語って意味があるとは思えないですね。 亀谷:伊藤貞二先生が建築家として大切なことは、何か仕事ありませんかと手も揉みしなががら行っても、自分の考えているような建築なんか造れっこないよ、と言った。その一言が私には強烈に印象に残ています。さらい言えば、クライアントとすれ違った時に相手が首と胴が離れていることに気付かないように、信頼を持ってもらうようでなければ、しょうがないだろう、というのが建築家の仕事だと言ってました。 佐藤:なるほど。建築家ってのは恐ろしく怖い人種ですね。建築士なら誰でも知っているんだと思います。分かり易く言い直せば、みなさん森ビルにな〜れ!田舎者めが!そんなことも知らんのか。それが、編集者から見た建築家なですかね、ありがとうございます。で、私は20年来、建築設計の仕事をやってないので、さらに最も哀れな者の一人であったと、そう自覚できました。 そうそう森ビルでの最初の都市点の展に参加したことを思い出して懐かしい気分に浸ることができました。毛綱モン太さんは「建築家ってのは幇間のような商売だ」と言ってたのも思いだしました。私の追悼会としてもっともふさわし内容のお言葉頂戴しました。面白いもんですね。頭のいい人たちが幾ら議論しても建築家はゼネコンや不動産などの資本家に飼われて自立するのは困難なんだと。ウィトルーウィウスの世、大昔から変わらないようです。布野さんそろそろ退屈になって来てないですか、まだ語り合ってますか。 3:20:29 中村:一応予定は 布野:今日はそろそろ〆ていただいたらいい。今日はいろんなキーワードを一杯いただいた。 佐藤:今日の語り合いは、文字にしてそのままweb頁をつくり、アップ公開します。暇な方は見てください。私の批判もまだ受けたいので、時間がある人は「居残りタイム」を設けてますので残ってください。このZOOMワイワイを活かし、さらに何か企画して話合っていきたいものアドバイスもお聞きしたいんです。また、こんな事もやって欲しい、など要望がありましたらお聞かせください。よろしくお願いします。若い人にたくさん話てもらう、つもりだったんですが、予想通り参加者が少なくって。 中村:そもそも若い人が居ない 佐藤:俺たち年寄りのノスタルジーで語り合っているのだね。若い人からは見限られていると自覚できて好かったです。 布野:そんな声かけてないんじゃないの。 佐藤:ばれましたか。声掛けしてないです。私のイベントは昔から「声掛けしない」んです。こじんまり語り合うこと。で、今日は予定外で大勢でした。それはさておき、記録の問題、記録作らないと記憶が保全継承できない。で、何を開催しても、ただちにweb記録を作り公開してしまいます。記録はネットか?紙媒体じゃないとダメだか?、その不毛な語り合いに興味が無いです。web頁を作って公開して、やがて編集して紙にしたい人がいれば本にし刊行すればいい。私はネット記録だけでやり続けます。私のweb記録は編集はしない事にしています。「このようなイベントを10回ぐらいやったら、それをまとめて編集すれいい」とも思います。一回ごとの記録を編集するのはしません。そんなことで、あとは時間がある人は居残りタイムで語り合い、予定がある人は30分ぐらい予定時間まで、話つづけていただければと思います。3:22:51 |
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佐藤:花田さんありがとうございました。 花田:どういたしまして。貴重な機会を 佐藤:またZOOMテーマを変えて開きますので。暇つぶしと「喉の健康のために」参加してください。今は引き籠っているしか、しょうがないので。 井口:はい、イタリアで引き籠っています、佐藤さんの企画だから参加しました。佐藤さんのインタビューで、原稿を作っていく、という。あのインタビューが僕は凄く刺激的でしてね「これはいいなー」と思って、2010年に聞き取りしてもらった、あの記録と動画ね。それでね、今回出した本に入っているんです。あのやり方を見習っているんです。 佐藤:そうでしたか!。 井口:今日、話を聞いていると、「編集者は挑発的でなければいけない」と花田先生からありましたね。それね、(佐藤さんにインタビュイーされた)インタビューの記録を読むと言えるですよ。インタビューする側が挑発して言葉を引き出している。だから「素晴らしいなー」と思っていて。それから、今日の話にあまり出て来なかったけど。建築はユーザー抜きには語れない。建築ジャーナリズムでは、ユーザーの立場からの、レポートが非常に薄いんですね。インタビューしていけば豊かにしていけるんですよ。インタビューで、そこを挑発していけると。インタビューイ・イコール・ユーザーみたいな立場もいけるし。クリエーター、創造者としての建築家の仕事の読み方もいける。建築ジャーナリズムにおけるインタビューとしてのレポート。凄く将来性あるんじゃないかと気づかされました。是非、継続してやってほしいなー、と思いました。これは佐藤さんに教えられたんです。 佐藤:井口さんありがとうございます。ZOOM時代到来でもインタビュ〜はジャンじゃん、老後の楽しみなので続けます。井口さんお家に長期滞在させていたdき、奥さまにも聞き取りさせていただきました、ありがとうございました。インタビューして、その方の家に泊めてもらうのが私の活動の基本のスタイルなんですよ。日本人はどういう所に住んで、どういう暮らしをしているのか、住経験をさせていただく機会にもしているんです。元・朝日新聞の渡辺さんの名古屋の家にも長期滞在させてもらいましたし、花田先生の家にも泊めて頂きました。 建築を設計してる者としては、いろんな住居、住み方を経験したいですね。一作年でしたが京大の柳沢究先生が『住経験インタビューのすすね』」という本を出して、実践活動を普及さえてるんです。かれらは自分たちの家族が聞き取り対象です。私は訪ねた家の住宅経験しながら、井口さんの人生を聞いてしまったりしているんです。井口さんは敗戦後の母子家庭で育てられて大変苦労なさってたり、戦死したお父さんとお母さんのいろんな事をお話してます。内容は昭和史そのもの、戦後そのものだ。その事が分る、と同時に、井口さん自身の建築家としての人生と活動をぜんぶ知ることが出来ます。その全体を記録することが面白いと思うんです。他者所有の家を体験し所有者の人生も体験できるような、インタビュー活動は面白いですよ。 ですから、インタビューが面白いのは勿論ですけども、住居を所有している井口さんの人生を知ることの方が圧倒的に面白いです。私は戦後を経験してない、井口さんは敗戦した当時のことは覚えてないでしょうけど。で、ぼくより10才年上なので、僕の知らない日本を知っているんですよ。知らない日本の歴史をそのまま生きて来た人に話を聞くと、染み入りますね。また、私より20才は若い人の家にも泊めてもらい続けているんです。そうすると男子学生の目も当てられないぐらい汚い部屋だったり。あるいは派遣社員や、非正規暮らしだとか、そういう人たちの暮らしぶりも体験しできまして、自身のことのように分るんですね。で、インタビューするということは、日本の戦後から現在の人の暮らし方、全て見本で体験したかのような気分になるんです。 「建築あそび」というのは、私の家に来ていただいて、我が家を体験してもらって、講義していただきweb記録をつくり公開し記録を保存する活動です。続けていて私の家の周りで何が起こるのか実験・観察していたんです。が、身の回りはまったく何も起きないし何も変わりませんでした。ただ311と放射能沈着したことによって、井口さんが仰られる「パラダイム転換しなければいけない」という事は明かです。けれども、だれもそれをどうやって変えたらいいか分らない。また、そのための議論する場所も無い。政府がつくった復興計画はたくさん落ちて来きます。が、あれを見たり聞いたりしていると「お金ですべて解決できる」という発想なんです。コミュニケーションを使い地力を活かして解決するという発想では少ないんですね。被災民は金が欲しいと勝手に決めつけている。あれは、お金をまいて、以前の被災地域の暮らしを消してしまうような、あらっぽい手法ですね。被災住民の人権を愚弄する手法ですね。お金を与えなくっても長い時間かけて支援いただえれば自分たちでやれる。立ち上がれる、コミュニケーションを盛り上げる方法もある。それは「建築あそび」、自分の家に他者を招いて、語り合い呑んで雑魚寝してたことで、そのこことを知りました。さらにインタビューに出かけて、一対一で聞き取る。井口さんの家に行って井口さんの活動を知ってしまうと、日本の各地に暮らす人々は、まだまだいやれると感じます。 建築専門の人たちの議論は閉じていますよね。井口さんと同じ感想です。建築専門家の人たちの人生には、私にはさほと関係ないです。もっと言うと、私の人生にはほとんど役にたってないかも知れません。専門の世界人たちだけで、競争を楽しんでいるんでしょうね。 20年前に花田先生に会ってから「対話でなせる、空間の構築について」考えるようなりました。今では活動した来たことを概念で裏付けし言葉で人に伝えながら実空間で行ったことで、空間概念と自分の暮らし方がつながりました。そういう体験を得ています。社会にも活かせる個人の活動、行為をどう自分の暮らしに重ね合わせて過ごすか。それを実践している暮らしが楽しいですよ。それは建築設計と無縁で成せるので、設計への興味は酷く薄くなってしまいました。 新コロナが現れて、ZOOM時代が到来しましても、話し合いはできます。けれども会ったこと無い人が参加されている。だからその方の家で暮らしを観察しながら語り合う、泊めてもらうことは出来ない。で、頭でっかち、口先・老人になって危険です。本来の動物的は行為じゃない。動物体験の危機、動物暮らし終焉とも言えるかもしれませんね。ZOOMは動物の力を保つために、よくない機能・道具なのか、実験中です。本来の生身の人間どうしの対話は成り立たないのか?です。新コロナ以降の私の暮らしの課題です。有名性、無名性のことは興味は少ないんだけど、「そんな事を考える人が居た」と知って面白いかったですね。井口さんに褒められちゃったので調子に乗って話してしまいました。もっと褒めてくれる人いますかねー。花田先生どうですか、最近は一緒に酒のみできなくて、残念ですよね、今日のZOOMの感想はどうですか |
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花田:今日は大変楽しかったです。 佐藤:またZOOMやりますから、暇つぶし参加してください。新コロナは僕の予想だと10年間はこんな感じで続くと思っているです。結核は100年ほど掛かってますから。10年だと私は死んでしまうかもしれない。ZOOMは問題はあるけれど、誰に頼まれることもないけど、度々やっていきます。一人で聞き取りZOOMは今年はすでに5回、5人ほどやってます。次回は若い23,24才ぐらいの女性をゲストに聞き取る予定です。それから元・県庁マンの聞き取りはZOOMでは公開できないんで、密かに活動してます。公開することもあるんで、その時に参加していただければ。 花田先生と共同でZOOM企画しても楽しそうですね。声を出すと健康も効くので、そちらも考えて置いてください。投稿原稿の解説を語るでもいいですので。よろしくお願いします。ここに片山さんという人がいるですけど何も話てないけど、何か語ってください。 |
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中村:片山さんは内藤廣さんのところ修行された方で、今はご自身で設計をされてる方です 佐藤:建築家を目指しているですか。何か俺はこうやって生きてるぞーと喋っていただかないと。聞いているだけなんて馬鹿らしいじゃないですか。ZOOMに居ないんかもしんないね。これの機会自分の行動が変わっていく、さらに保守的になるなど、変わるといいですね、居ないのかな |
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片山:いますよ、はいどうもこんにちは片山と申します。今私は52才で、布野さんとか、佐藤さんの世代の、内藤廣さんは布野さんより3,4才ぐらい下なんだけど。みなさんの話を伺いながら「学生時代の時に先生方こういうことを言っていたなー」みたいな感じの、4時間ぐらいずーっと聞いてると走馬灯の様に浮かんできます。大変面白かったです。 で、正直な話、居なくなっちゃったんだけども、元東大・新聞研の花田先生が仰っていた「建築の無名性」テーゼで仰っていたんだけど。これ、現実にすると、新しいセットに行って、「私はここの、凄い目立つ場所に行ったよ」みたいな感じ。実際には建築家というよりも、建物そのものの有名さ、景色の有名さ。というのが、建築家より遥かに凌駕する時代がきちゃっていて。多分ね、佐藤さんわりとTwitter(FB)でけっこうコミュニケーションとられていて「70越えてるのに若けーなー」といつも拝見しているんです。 佐藤:FBでは日々のメモ見せてるので、先に謝っておきます。 片山:最高です。で、それはね、SNSっていうのは割と物凄く相対化するので。案外、俺はねー、佐藤さんや布野さんが学生時代、石投げていた時代に、夢みてた「セントラルな権威の喪失」というのは実は起きちゃって、起きた後の世界を我々は生きているので。今、何か佐藤さんや布野さんが石投げたいような、セントラルな権威っていうのはね、もう少なくっても日本の建築や文化を巡る状況にはもはや無いんですよ。そこから始めた方が、リアリティー持つと思いますよ。 佐藤:私は石投げた事も無い、投げたいとも思ってないんです。権威は喪失していると思ってます。どうも爺さん臭いのはしかたない。高齢者も過ぎてますので、年相応ですかね |
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井口:ちょっといいですか、今の話に繋ぐんですけれど「風景を今の若い人はどう見ているのか?」っていう事なんですけどね。僕らが見ている風景、今の若い人は風景をどう見ているか、布野さんが「東京風景戦争」ですね、あれ僕も同感するところが多いし、凄くいい。「今の若い人たちがどう読むのだろうなー」と凄く思う。今の話を聞いててもそうなんです。SNSより風景の見方はドローンの影響の方が大きいと思います。ドローンが見せる世界は全く別世界になっているでしょう、人間の見る風景と実は違うんですよね。いかにも人間が見ている風景みたいに受け取ってしまう、処もあるし、そうじゃない処で喜んでいる処もあるし。そうすると今度は「風景、これからどうなっていくんだろうなー」と思うんですよ。布野さんの、風景戦争をまずは手掛かりにして、さらにその先を若い人がどう読むのか。それを一回出来たらおもしろいだろうなーと。 佐藤:それもZOOMで企画するのも良さそうですね「風景戦争」を語る。風景について語り合うもいい。 布野:片山さんね、知らないと思うけど「東京風景戦争」というのは大島渚が撮った映画でもあるんだよ。内藤さんと僕はほぼ同じ歳だよ。僕は49年生まれで彼は50年だけど、へたすると学年は同じかもしれないよ。 片山:内藤さんは2浪しているから、学年は布野先生の方がけっう上なんだ。 布野:ア、そういう事か、どうでもいいです 片山:僕は、東京に出て来たのが1989年なんですね。その頃はね、東京の町を歩くと「これが噂に聞いてた、これかー」みたいな。要は雑誌で「東京ではこういう盛り場が在る」それを見に行った。要はテキストが有って、マガジンがあって、実際に土地があって、みたいな感じ。メディアが盛り場を、オーソライズしてくれたり、する部分があた。今はそういう意味で、都市で遊ぶための遊び場、みたいなことをメィデアで作ってくれる、洒落たメディアは無いです。 今の若いやつらは、町にお金を落とさなくなって、雑誌屋が滅びていくと。この負のスパイラルを、この30年、間、東京は巡っております。なので布野先生も佐藤先生も、50年前に石投げていたような豊かな日本の権力は、もはや無い。むしろ「権威を俺らが打破してやるだ」その権威は無い。「権威を打破するために石を投げるメディアは違うんだ」と思うんです。そうじゃなくって「こういう処がまだ面白いよ」みたいな、楽しい場所を紹介するメディア。佐藤さんは「福島でも、こういう楽し場所はまだ在るよ」みたいな事を、福島の人なら言ったりさ〜。井口先生は「イタリアはこうやって貧乏国になった」と言われているけど、こんなに豊かな処がある、みたいな事をイタリア中の人は言い続けている、そんなイタリアはいいのかなと。 |
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布野:井口先生はそういう事をもう言ってるじゃん。石投げるってる積りよりもない。例えばさっきの花田先生の話ではいけど、お前がやっている事は面白いよ。とかね、いいよとか、言えるじゃない。そう思うんだけどね。それは逆にすると「お前は詰まらないことやっているんだ」という話になる。出来るだけ「貴方がやっているのは凄い面白いよ」と言うメディアが必要なんじゃないかのって。文句ばかり言っているんじゃなくって。「それはいいよ」と。若い頃僕らはこういうふうに考えたけど、これで失敗したと。そういう話じゃないかなと想ったりする。それはダメですか。 僕はいまだに大学院で喋っている、週一回、年間。思ったほど喋っているよ。煙たがられるかも知れないけど、反応は悪くないよ。片山さんだって20年経ったら同じような事を言っているかも知れない。 片山:僕は布野さんからちょうど20才下なんだけども、まだ、布野さんとか「老いに対して抗っている」と思います。「未来に対して何か残せるような事を言わなきゃいけないじゃねーかなー」と思ってらっしゃるんだなーと。 布野:それは佐藤さんはあまり無いんじゃないの 佐藤:私に未来という言葉は無いですね。 |
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布野:僕も基本的には無いですよ。さっき中村さんがおっしゃったけど、平良さんの最後「お前一人でもやれ」と。で、考えたりしたことは記録に残して死のうと思っているだけ。ここで喋ったことは狂人(強靭)的に活字してくれるから、こういうのは喋りまくって死のうと。 佐藤:佐藤を文字起こしさせて老いぼれるさせる〜・・・で、喋りまくってくれれば、いいよ。 布野:そんなことしたら悪いけど 佐藤:布野さんへの香典代わりに文字起こしやろうと。始めたら香典、多量ですね〜毎回。話していると楽しんだよね。 布野:前回は酔っぱらって申し訳ございませんでした。 佐藤:酔っぱらった人の文字起こしは初めてだった。「しょうがねー酒のみ親父たちだなー」と思うんだけど、ぐだぐだになっても本質が出ちゃう、酔っているからこそ出る、貴重なんです。シナリオに書き直して3人芝居の演劇に仕立てたら面白いよ。可哀そうだなと思うのは「自分で読むと、苦痛だろうなー」と思います。 片山:思っているのはね、布野先生がね、まだプー太郎だった頃。 佐藤:ちょっといいですか、私は権威に石投げるなんてことは全くしてなくって、最近は県庁の建築課の人たちの10年間の活動を聞き取り始めたんですよ。話を聞いていると涙物語ですよ。ああいう人たちに石なげたり、罵倒したりする気になりません。住宅局長も来て、みんなで対応してる姿は涙物語ですよ。家に帰れず庁舎の床に寝ながら。 布野:県庁の職員は権力者じゃないじゃない。 片山:下僕ですよ 佐藤:ちょと違うよ。彼らに罵詈雑言を言い続ける主権者という市民がたくさんいますよ。住民の敵は県庁マン。被災者と県庁の人たちの橋渡しは、誰もしてないよ。日本の国は行政マン叩き好き過ぎてる。互いに当たりで、いい関係の構築もできない、狂っているなと思います。彼らの活躍を一人で褒めてるだけです。 片山:オリンピックの調整とか、たぶん総務省とか国交省とかの相当・優秀な奴らが集まってやっているのだろうに。もう無茶苦茶になっていたり、今の日本の国の役所の連中というのはね、本当に可哀そうな事になっていてね。冗談抜きで。今の状況というのはね、書き残されるべき。そんな状況が日本中転がっているんだろうと思いますよ。不条理が多すぎますもの。
布野:こせ先生もそうだけど、内藤さんもそうだけど、世代の責任だとは思いますよ。今の日本の仕組み全体の歪みはね。ただし、こないだ何処だつけ、給付金をがめた官僚が居たじゃないですか。経産省か。 片山:居たいた。 布野:あれは何歳だ、30位。だとすると、その親父は50〜60代じゃないの。あれの親父の世代、石投げていた世代の後にバブルになって、ジュリアナで踊っていた世代が問題じゃないの。とかさ。世代で責任とるけど。菅首相が僕と同じ歳ぐらいだから。 片山:布野さんも本当に石投げてた世代よりは下でしょう。 布野:一番・最後ですよ。僕は大学に入った次の年が、東大入試無かったから。僕は石投げてませんよ。ノンポリの代表というよりも、地方から出て来て「授業受ける権利が有る」と言って「仲間破り」って言われたぐらいだから。こせ先生はちょっと上だったから、どうしか知らないんだけど。 こせ:私がその1年上だから。 布野:だからもろ被ったのは、こせ先生の世代ですよ。 こせ:卒業がね、3ヶ月遅れた。 布野:僕は1月遅れですから。だから通常じゃない大学生活を送っている。それなりに考えた事はあるんですよ。今の新コロナのね緊急事態なんかに、どうやって対応すべきかっていうのはね、少なくっても真面目に考えている奴は対応できるんだと。想ったりする。 片山:石投げてた学年、鈴木博之先生とかも、亡くなられて。 布野:博之さんは先輩だ。こせさんより先輩だけど。あの人は安田講堂に入るかどうか、入らないと日和ったんです。だからそれをずーっとコンプレックスに思って、いろいろ書くものが、そういう処があるのよ。 片山:あの人は、そこの逡巡する側の人間。「歴史に名前を残してない逡巡する人間を書きたい」という衝動が博之さんってあるじゃないですか。やっぱりそこなんですね。 布野:そうかな。僕は博之さんと物凄い仲悪かった。悪いというか向こうから攻撃されてたから。 |
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佐藤:布野さんに俺質問していいかなー 布野:どうぞ、僕は孫が来ているのでもうしき抜けるんだけど 佐藤:一個だけ、布野さんとは対極にある撲のような人間、一体どんな風に見えるんですか。変な奴はいいんですけど。 布野:僕は対極と思ってなくって、冒頭に喋ったけど。10年ぐらい前に改めて知って「面白い人が生き残っているなー」と思って。そういう感じです。 佐藤:もっと面白くなるように楽しくやっていきましょう。 布野:今日、来てた若い人達と、彼らが「新しいメディアやりましょう」なんか言って来たから、貴方の名前を真っ先に思い浮かべて、声かけた。 佐藤:はっきり言うけど、彼らは元気がないですね。 布野:そうなんですよ。 片山:佐藤さんね、ご自身を定規にしたら、どんな人間でも元気なく見えますから、自分を定規から外しましょう。 佐藤:俺ってやっぱり変かなー、そういう自覚が無く生きていたよ。 布野:片山さんは彼らのよく知っているんですよ、種田君とか岸君とか。 佐藤:俺は、どこに行っても変人か。 布野:それは変人ですよ、佐藤さんは。 片山:佐藤さんね、今の若い人は変人と距離を持って付き合うマナーは凄くあるんですよ。ただ一定以上の変人に近づけないんですよ。今の若い人は。 佐藤:それはどういう理由ですか。 片山:こういう、おっかない先輩にちょっと近づいてみようかなんて、思う、おっちょこちょいはですね、私のような万博前位の生まれまでですよ。 佐藤:片山さんの言うことは、私の今の生活とは合ってませんね。若い友達一杯いて、若い人とも楽しくやっているんですよ。人間てもともと、それぞれ変人だたのでは。近代化してしまい均質なりすぎている。今回、布野さんに紹介していただいた人たちは、さらに例外的で、一度も会ったことが無いだけど。僕が知っている若い人たちとは全然違う。非常に保守的でファザコンふう、かな。豊かな完成形が出来てしまった家の中に暮らしていて、お父さんとお母さんが作り上げた温〜い完成形のなかで、その完成した生活を守るだけ。それは二代目経営者みたいで「新しい事やりそうもないねー」と。この20年の移行期の刺激的な時期に生きていて、なんで保守的な行動をしてるんだ、よく分らない。 布野:片山さんは事情分かってないと思うかも知れない。片山さんは種田君とか、岸君とかみんな知っているんですよ。 片山;存知あげてます。 布野:実は布野がいろいろしゃべってけど、佐藤さんを「彼らには一番恐ろしかった」というのは僕もそう思う。僕は大学の先生してるし、学生とは付き合っているから。「佐藤さんは一体何者だ」といまだに思ているんじゃない。 佐藤:変な奴がいた方がいいですよ。 布野:いていいし、一杯インタビューしてくれてるしね。 |
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片山:私は内藤廣さんは案外そんなに怖い人でもないんだ。例えば、一緒に構造をやっていっていた渡辺邦夫さんとか、いろんな奇人を見続けてですね。面白い事をする人は大抵変な人なんだというのは分ったんですよ。なので、佐藤さんのデザインした物は見た事ないんだけど、こんな変わったおっさんなので、たぶん面白い図面を描いているに違いない!と思いながら私は。 布野:そうですよ、二回特集されているくらいだから。 中村:そうです 佐藤:俺を見つけるやつがいるから困るよね。田舎で楽しくポスト・モダン・パロディー設計してたんだけど、見つからないだだろうと思ってた。 片山:本当に佐藤さんって人間のごゴツさが、画面から漏れ出しているんだよね。だから ナチュラルにオモロイ人って感じ。ナチュラルに、おかしな人だから、割といんだけど。割とね。今の若い奴って本当に埋もれるのが嫌なので、ちょっとナチュラルに変な奴の振りしようとする奴って一杯居るんだよ。ちょっと偏屈な人の振りをする子。というのに世の中は疲れていて、佐藤さんみたいな天然物の変人というのは、なかなか居ない。 佐藤:褒められてますね、井口さんの方が凄いよね、俺なんか足下にも及ばないよ、井口さんのパワー見たらびっくり。 井口:僕は滅茶苦茶まともですよ、純粋にまとも。 佐藤:俺が見るそそうは見えない。活動的で面白い人で。凄い面白いんですよ。 片山:だから井口先生の時代、井口先生って昭和何年生まれですか。 井口:僕は16年。 片山:僕は大学でご指導いただいたのが香山壽夫先生なんです。それより2,3才下でまだ日本の建築というのが、海の物とも山の物とも成らない時代に建築を学ばれてる諸先輩がいて。デザインの事にしても何しても海外の物とか、いろいろ見ながら自分で勉強した世代の人はみんな独立独歩の人ですよ。で、井口先輩が造った日本の建築のスタンダードを、いじろうとしたのが、布野さんよりちょっと上の。 布野:生年月日で切れるわけは無いんだけど。毛綱モン太、長谷川逸子だし、伊東豊雄か、六角さんもそうだったかな。1941年世代ですよ。 井口:僕と同じ歳。 布野:香山さんは36年。 片山:36年。 |
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布野:世代では切れないけど。ポストモダンの旗振り役をやったのは戦前生まれだったりするんですよ。その中で井口さんは「都住創」やられて、イタリアに行かれる。生き方として鮮明に示してるじゃない。それは、あんまり世代と関係ないような気がすますけどね。最近ZOOMでね、みなさん、たぶんお名前ご存知じゃないかと思うけど。磐田俊介先生というのがね、82,3才かな、横浜の市役所におられてアーバンデザインの先駆やられたみたいな方。国連におられたのが若い30代ぐらいの学会の委員会に出て、べらべら喋ってるんですよね。僕から見ると「フレームが固いんじゃないか」と思うことはあるけど。セルビルドで今奥さんと二人でずーと八潮、茨木県かな。 中村:筑波の方でしたっけ。 布野:筑波におられ、セルビルド。ド迫力なわけですよ「建築家なんてろくな者がいない」と言いながら、「自分の家ぐらい自分で建てろ」。 中村:結構なスケールですよね。 布野:あれは大き過ぎるかもと思うけどね。そう言いながら世界中のことを語るわけです。それは迫力ある。蓑原けい先生も80何歳だけど。水戸の六番池のあれをやったり、しながら、若い人のやっている事を評価しながら「俺はもうちょっとやることがある」と。今の制度、今日喋ったコミュニティーアーキテクト制みたいなのを後輩連中にね、80才で元気な者はいるよ。僕は、たぶんそうなんないと思うけど。少なくっても若い奴を元気づける。「片山さんもうちょっと頑張ってれば」みたいなメディアを作りたい。 片山:ガンバリたい 頑張りたい。 |
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井口:僕は今、大学の通信教育でレポートの添削をやっているんですよ。京都芸大ですけど。年間、100人以上レポートが届く。10年ちょっとやっているんです。言いたいのは、この1,2年のレポート「お!」と思うのが来る。世代が変わってきたんですよ。僕のイタリア暮らしは、さっき紹介した、メルカッテルロという町が、ああでこうでみたいな事で「日本はなかなかこうは成れないよねー、でも、一つの話として聞いてよ」みたいな事をやっている。僕に刺激を与えてくれるレポートは50代60代、通信教育だから、そういう人たちが結構居るんですよ。そういう人たちで「世代が近いと、同じような思いをするのかなー」と思いながら添削してたんです。けど、この1,2年は20代ですよ、受講生も増えたし、凄くいいレポートが出て来るようになった。何かこれは世の中ちょっと変わっているのか〜と、本当に刺激を受けるんで, 片山:逆に20代で建築に通信教育を受けてる人は、おそらく一回社会に出てから建築に目覚められて、勉強されてる人がマジョリティーやと思う。僕も大学でね、設計製図を教えているんだけども。東京電機大学やけども。JR東日本の高卒の社員さんが選ばれて「大学、就業時間中に行っていいよ」というのがあって。それの学生さんを受け入れてるのね。やっぱりね、その20代後半、30とかに成ってから大学で勉強したい「特に建築の勉強したい」という奴は、奇特ですよ、学ぶ意思が強い。 日本のね大学のこの何十年かの不幸って「大学に行かなくってもええ奴が、とりあえず大学に行ってこうか」と思って、大学に来てるが故に大学の授業って欠点を減らすような事ばっかりやっていたんだけど。今、なにゃろねー。僕ねー大学って、下手にね正門、大学出て、こんな時代が来るって、さらに博士過程に行ったやつ、それも「たいした者や」と思うんだけど。俺らが学びたかった物は、学びたかったんやろうか。建築勉強したからね。もしかしたら社会学、学びたかったやろかとか。俺は違う学びをすべきやったんだと思うような。勉強を教えてもらえれたら、本当は仕合せなの。 何かね今の大学て経営上の事とか、よう分らないけど、皆に大学に行かなあかんや、とか。変な脅迫観念ばっかり植え付けて。俺は、これは本来的な抱く学問も学びと違うものに、何か日本の大学は行きつつあるのではないかとちょっと思ったりします。 布野:井口さん、ちょっと思わなくっていいです、事実です。僕は今でも大学に厄介になっている。前は滋賀県立大学では管理職もやりました、副学長。今の安倍政権になる前位からですかた、20年ぐらい前から「アメリカ流の締め付け教育」というか「15回喋りなさい、授業評価をやりさい、パブリケーション・フォーマット出しなさい」全部アメリカ流なんですよ。僕は卒業するまでろくなのないですからね。「大学は自分で勉強する所である」と思っているから。その調子で東洋大から京都大学、ずーっと生きてきた。だから大学は好い場所なはずなんだ。けど、今は狭っ苦しく、ずーっとなっていて。というのがここ20年ですね。大学評価を始めた。 片山:あれは間違っている。 布野:そういう締め付け、基礎科学にお金を回す「選択と集中」と言って、研究費も全部締め上げてきたのが安倍内閣の文教族ですよ。今の大学の若い先生は、さっき居た岸君とか、貴方が知ってる、種田君は、ようやっと常勤の職が30幾つでなったけど。岸君はまだ非常勤を二つも2つも三つもやりながら、学位を持って、頑張ってる諸君なんですよ。そういう人たちが「新しいメディアをやる」と言うけど、自発的に動ける時間的余裕がない。これは本当に可哀そうなぐらいですよ。今、日大の生産工学部も、といかく、ほとんど時間が無い。研究する暇も無い。 |
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片山:日大の生産工学部って宮脇檀さんが居たところですか。 布野:そう、宮脇さんが居て、居住構想作ったところ。それが潰れそうになっていますけど。山内ひろし先生とか、東大だと神谷先生、丹下先生、それこそコーポラティブ、コープ推進協をやてられた神谷こういち先生とか、おられた所。 片山:大番頭されていた神谷さんですよね 布野:そういうの見てますけど。とてもじゃない、ZOOMでやらなければいけない。それは片山さんだって対面で出来ているんですか授業。 片山:去年は設計製図を全部zoomでやった。全部、口でした。 布野:設計教育なんて出来ないじゃじゃないですか。初期教育は 片山:初期教育難しい。 布野:ZOOMで出来るわけないじゃない。 片山:それをやった、けっこう頑張った。俺はねー、あの頑張りをね、いつの日かね、何か語りたい。でもみんな頑張ったからね。でも俺ね何がムカつくかでZOOMで学校の教育水準を何となく保って。その1年めちゃ頑張ったのに、何か政治家がZOOMだから「リモートの授業やってる大学が怠けてる」みたいな言い方、あんなん無茶苦茶やね。 中村:そんな事になっているですか。 片山:なんやろ、自民党文教族というのはまさに、あれやん、家の板橋区のあいつ(下村か)。 布野:彼は酷いよ。 片山:家の駅でね塾やっているんです。 布野:三代前ぐらい前の文科大臣。 片山:下村、、、博文、あれは酷い。ああいう奴は、全部ベネッセとかつるでね、大学の金を減らして、仕事を増やす。ということをね。 布野:英文のは断念したでしょう。萩、生田も、文教族も酷い。前川さん、事務次官までやって辞た。彼は唯一常識人だった。だけど、弾かれてんだ。大学は酷いですよ今。 片山:あいつらねー下村とか・・してるくせに、へんなトイックよりセンター試験の方がましや。そういう事すら分ってへんもん。受験自体意味が無いってするもの、あれなんやけど。変なトイツクとか受けさせるよりは、まだセンター試験の方がましや。 布野:トイックよりも、ベネッセに丸投げして採点させようとしたら「それ下請けに出来るのか」と、破産したじゃない。断念したじゃない。 片山:酷いですね。 布野:大学にいたらね、試験問題作って、それを管理する。物凄い時間が掛かるんですよ。ダブルチェック、それで過去問を使っていいと。例えばそうしたわけですよ。そうすると、それを予備校が「一科目700万円ですよ」と言ったりする。とんでもない教育産業だから。
片山:布野先生ね「建設業が儲かってるんじゃないかー」っていう観念をね、儲かってないね。ゼネコンでね、中国とかにTOBされた会社は一社も無いじゃない。儲からない。本当に儲かる産業なら外国にTOBされるんですよ。 布野:建築業というのは地のものだ。投資みたいに売り買いされるものではない。僕いま原稿書いてる。次、載るんです。このコロナ禍で、丸の内のことを書いた。日本一の超高層ビルが出来る。東京トーチと言うらしい。 片山:変なやつやろ。 布野:東京オリンピックが成功してたら馬鹿みたいだ。390mのを建てる。と、ぶち上げた。三菱地所の会長がね。馬鹿じゃないの。ソーシャル・ディスタンスとか「集中がおかしい」と言っている時に。東京駅近辺に建てるって、間違っているんじゃなか。常盤橋タワーがオープンしたんだ4月に、代わりに壊さされるのが前川國男の東京海上ビル、なわけ。前川國男事務所の人たちは、署名集めや反対の声明文を出して。連絡来たけんで行って見た。結論だけ先に言うとね、東京海上の店子全部、常盤橋タワーに移るわけ。こないだNHKのニュース見ていたら、このコロナ禍でオフィス需要が無くって、空き室が続出している。それなのに常盤橋タワーは90%は埋まってるそうです。ここ潰して、こっち移すって話だ。取材してそういう関係を分かった。 あそこは三菱地所村で、そこに行った、確かに、この先に村野藤吾のビルが在ったはずだぞ。 井口:日本生命。 布野:日本生命に変わったかな。前は日本興業銀行って言って、中見せてもらったことがあった。その通り歩いてたら無いんですよ、建て替わっていた。なんで??村野の時に騒がなくって、前川の時に騒ぐの。それは今「丸の内テラス」と言って、カフェが並ぶような、既に変わっているの。建築家は何やっていたの?と。その時は滋賀にいたけど、調べたら、新国立競技場で大もめしてた時なんで、どさくさに紛れて建て替えている。中村さん知っていた。 中村:壊される事が決まったというくらいの時に知りました 布野:日本興業銀行が、東京海上ビルもね、建て替わる。理由が、東京海上は折角総合設計制度で足下は空けたと。だけど市民に利用されなてない。行ったけど、確かに広場だけなんです。そこへいくと「丸の内カフェ」は、カフェがあって賑わっていた。前川事務所が「そういう風に変えたい」とチームから言われたらしいの。民有ですが、仁義としては元の設計事務所に頼む、ことはあってもいいかも知んない。三菱地所がやっているらしい。それは決まってない「本当に埋まるの?」という問題があるんだ。 公共空地をやるのは、東京駅でいうと、突端ぐらい、上野寄りの所にやって。そこに390m建てる。トップのデザインは藤本壮介、低層部は永山裕子。よく知っているでしょう、片山さん。造園が、だれだったか。そこだけは名前の有名どころを使いながら、目いっぱい容積率のビル建てる。都市計画審議会が決めたのが去年の11月。知らないでしょう。僕は滋賀県から帰って来て初めて東京の、世界ワールドビルだっけ、新橋の、あれも壊されます。それも取材して、見て写真撮ってきてる。超高層が再開発で建て替えられる時代になっている。 片山:前川さんのね東京海上ね、あのビルに対してはさ、あの建物は31mの軒ラインを31mの丸の内の軒ラインから、突き出て、皇居を見下ろすからね、建ったことがスキャンダルじゃん、みたいな事を言われたり。割と最初の、まさに、前川さんはあれを造ったときに「日本の景観の始まり」みたなのがあった感じ、何となく記憶しながら。 布野:霞が関ビルができるんですけどね。丸の内の100尺規制を取っ払って。前川さんはもう5階ぐらい高くしたかったわけ。それをリノベートする時に、それを突っぱねて、もっとちゃんと規制しろと、話だったら。丸の内の景観は違ったはずなんだ。前川さんの理屈は「高いの建てるけど、足下は空けるよ」と。後の総合設計制度、やたわけ。 総合設計制度ってのは、普通の町並みに持って来ると、町がガタガタになるんですよ。僕が宇治の都市計画審議会にいたから「これは困る」と言って阻止した。それは売物だったわけ。だけど東京駅周辺はみんなそれでやって、高いのがニョキニョキ建って。東京駅だけ頑張って残した。だけどその上の容積分を売っている、JRはね。三菱地所、それで隣の中央郵便局の上のキテーなんとか、だから。要するに三菱地所としては「容積積めば積むほど、同じ設計で儲かるから」というので。あの三菱だからね、やっている。あまり知らなかったでしょう。原稿書いたけど、一般の人はたぶん知らない。大手町から有楽町までに、日本のトップ企業が全部入っているんですよ。しかもそれが全部、テレワークしてんるですよ。3割以上。それでもまた建てるというんですよ、390mそれを、誰が批判するの。 片山:布野さんさんね、いろんな次元があってさ。建築基準法の、特にボリュームを決定するような論理って、ハブとマングースの闘いみたいなもんで。設計屋というのは、クライアントからお金をもらった時点で景観よりボリュームをたくさん入れるのを提案する化け物なんですね。 布野:設計者はそれをダウンサイズするインセンティブは働かない。それより上のレベルの話じゃない。 片山:都市計画法、建築基準法を作る奴が、今だって建築学科の優秀な奴が国交省の住宅局なんかに就職する事はまず無いの。この30年、まったく無い。 布野:それは東大・建築科はそうなっている、都市工学は行っている。 片山:都市工学は全体はやるけれど。住宅局が作るから、優秀な奴がおらへんもん。だからそんなんねん。計画者にハッキングされないような、ちゃんとして計画法を作れるほどの頭脳を持ってる職場やなくなてんのよ。 布野:僕は、東大で二年助手しました。僕の頃で会った若い官僚は、布野先生にエスキス見てもらって、ぼろ糞に言われたから、建設省に決めました。絵は描けないけど、構造計算と法律ぐらいは読めそうなので、って。堂々と言った奴は凄い出世してます。 片山:多分ねそれで言うと。 布野:佐藤さん居なくなっちゃったけど、こんな話してていいのかね。後は僕は呑み会だと思ってたから。片山さんが顔を出さないから悪いんです。 |
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佐藤:居残りタイムも盛り上がりますね。片山さんは大学の先生ですか。 片山:非常勤です、設計屋さん。週に一回くらい設計製図を教えることによって、真人間戻れる。 佐藤:教育現場に立つと真人間。今日は「天然不良」という称号をもらいました。明日から天然不良老人と名乗ろうかな。 片山:天然佐藤でいい、古希を迎えますます天然、72ですか。 佐藤:70才になったばかりです。今日は色んな話が出て面白かった。世代論になったり、世代的に断絶があるかのようである、と言うのは片山さんの話を聞いて知りました。僕は若い人とかなり親しくやって交流しているつもりだけど。今回ちょっと考え直したかもしれない。や、なおさないかな。いい教育受けてないから天然が分ってない。俺はそんなに恐ろしいかな。 片山:私はね、渡辺邦夫とか見てるから、全然佐藤さんは普通。 佐藤:そうですよね。渡辺邦夫って誰。 布野:渡辺邦夫さんて撲、知っている構造家ですよ。その人が基準ですか。 片山:渡辺邦夫は奇人でしたよ。 佐藤:暴力するということ、口が悪い。 片山:暴力というより、割と無茶苦茶。天才だけど無茶苦茶。 佐藤:無茶苦茶って分らないな、おかまとかでないんでしょう。 片山:設計する物は凄い、ゲイとかではない。何ていうのかな、日本の施行者の技術レベルを上げ続けた構造家。彼の無茶な図面を見て、こんな図面でやるの〜、日本中のゼネコンの技術レベルが上がっていった 佐藤:まともな人じゃないですか。 中村:スパルタですか 4:30:02 居残りタイム2へ続く |
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