佐藤敏宏    HOME  

2025年8月の日記      2025年7月の日記へ  FBへ   












8月10日  断続的に雨

■家族史、my長男篇の個人史web版を作り始める。おもったより手法が定まっていないので思ったよ行錯誤しながら画像を貼り付けてみた。

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web版「家族の個人史・my長男篇」作成開始
ネガデータ発掘したのでweb版個人史、長男篇を作成しはじめる。聞き取りしてどのようにweb版をまとめればいいのか、思案しているより、具体的に作ってみたらいい。そう思いいろいろデータ整理して「妻篇、高卒まで篇」は作成した。
■家族のアルバムを全部通して見る機会がなかったので、観たら発見多い。で相対化もしやすい。web版の形式も編み出せる。
■なぜ福島市出身の俺と妻は結婚を選択したのか・・その理由も彼女のアルバム=成長の記録を見て、「なるほどそういうことか」と腑に落ちた。のちに更年期障害発による心の病に陥る・・とは本人も俺もまったく予想はしてないのは当然だが、個人史は後知恵でしか成せないことも分かった。
■22才半で初めて我が子を育てる義務を負った。昭和・東京の妻家族の暖かい団結と世話好きな兄や姉たちによって、東京人の子育て手法の影響を大きく受け、3人の子供を育てることができた。福島昭和の子育て文化との違いも明確に意識できて、単なる個人史作成なのだが、人間が成長し生き続けるというのはなんと不思議なことだろうか・・と思うことになった。
■あのような家族のつながりは今、周囲にも見ることができなくなって、個人はばらばらと心が離れ砂状になった社会の中で暮らしていると言われることが多くなった。人は生まれた時代以降の影響下に育つ、努力ではどうにも越えられないことも多い。




















 8月09日 

10年前にネガをスキャンしたデータの保存PCが分からず。一台ずつ動かしてみる。予想外にタワー型のヒューレットパッカード社のwin7のPCに綺麗に保存してあった。24時間かかってようやく発掘できた。だいぶ家族それぞれの個人史作成作業は軌道にのりそう。
データをどう修正加工して使うかは、個人史を作りながら適材適所で対応していこう。

古いPCとソフトの方が老人の俺には使いやすい、何でもwebから得るのは好きになれないほど、俺は老人なのだ。PC使っているだけよしとしておきたい。


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練習 51年前のネガデータの傷を修正してみる。
暇なら即「それぞれ各人の家族史」web版作成予定なので、10年前採取したネガデータを修正してみる。デジタルデータは劣化しないので一度作ってしまえば使いまわせるので便利(ホルダ管理は予想より煩雑─日頃いい加減だからだ)
●ネガの傷は、顔のみ修正するだけでいいかも。
●色はAI使えばいいのだろうが変色は味としてままがよさそう。
●何にどのぐらいの大きい画面、ピクセル数で使うのか、によって修正手間は格段に違うのを確認。
●顔の傷のみ修正し、モノクロで使うのもいいよさそう。

24時間かかって発掘(10年前に古いネガリスト+データ)作成していた。
●PC内のホルダ名とデータ28GBほど。暇をみつけてはコツコツ、ネガをデータ化していた、そのデータ。リストだけあってデータはPC内と書き込みだけある。「どのPCなの?・・不明で探し出すのに24時間かかった。古いPCありすぎ一発で発掘できない。古いタワー型ヒューレットパッカー win7に保存してい。そんな古いwinを使っている訳はネガ・スキャナーが古く最新のPCでは動かないからだ。
●PCソフトを更新しつづけるけど性能が良くなっても、老人には使い勝手が悪くなり不便になることも多いニューソフト。老人は新しいソフトを使いこなさないとい・・・。古いPCはアプリをCDで読み込む、物のような良さもある。最近のアプリはwebからダウンロードして期限付きで再度入力できなくなる。で、何度でもお金を巻き上げられることになってしまう。とほほ老人なんだな。
●AIが進化し続けても個人の50年〜70年前の脳内のネガをスキャンし提示してくれるようには成らない。人は忘れる特技を持っている、そのことに気づいたほうがいいんじゃないかな。大歩危のすすめ。



●8月9日だ 原子爆弾よる最後の被爆地へ 長崎
原子力事故による最後の被爆地へ 福島
(福島は一致団結し事故の記憶を継承する姿勢は弱弱し過ぎる)





 8月8日 曇り一時陽射しあり すこしやすい30℃ぐらいだったかも

■1日中ネガを並べて整理していた。ちっとも作業できず。













 8月7日 ほぼ 一時陽射しあるも32℃ぐらいで夜28℃で快適

■web家族史を作成しているけど、今日からmy長男の写真など整理しはじめる。ネガやアルバムの保管が下手で変色や傷あり紙焼き写真多い。デジタルの世になるとは想像してなかったので、しかたがない。

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『家族史』作成と家族+自我・写真あるといいので・・。
●写真があると記憶を掘り起すには便利だ。俺が好きな明治維新前後のプロカメラマンは長崎にくらした上野彦馬だ。彼は何でも撮っている。近所、家族、友達、芸者さん、偉人も風景も。家族や仲間の写真は当時の暮らし着物に食い物に男女関係などが分かって面白い。『写真の歴史』p43によると、1827年書斎から風景写真を最初に撮ったのはJ.N.ニエブスだという(単なるぼんやりした屋根。
●時代は下って AIによると「 戦後の日本でカメラブームが起きたのは、主に19500年代のことです。終戦後の復興ムードの中で、人々の生活に余裕が生まれ、写真を楽しむ人が増えたことが背景にあります・・・。」確かに1951年生まれの俺の家にも上からパカンと蓋を開け覗く二眼レフのカメラがあり親父が撮影しては写真館に走っていたことを思い出す。
my妻は兄弟がカメラ好き、アルバムづくり好きの影響下にあり、姉からオリンパス一眼(?)レフカメラをプレゼントされ、中学時分から撮影しアルバムづくりをしている。結婚後もアルバムづくりは続き、デジカメが現れるまで続いた。紙にプリントされた写真と文章は相性がいいように思う、アルバムにちょっとしたコメントを書き残すと記憶が起動する仕掛けになる。俺が最初に買ったカメラは結婚した時でミノルタ一眼レフだから、写真もアルバムも少なすぎるんだ。
●デジカメ時代になって25年ほどだけれど、たくさん撮り過ぎてどうも扱いに困る。今はAIが加工してくれて、フェーク写真データも自在につくることができる。人なら好きな記憶ってやつはとことん痛めつけられる価値の無きような扱いの世になった。そんなことで写真を整理して物としての写真とアルバムと文章でなる『家族史』を作り保存する、タイミングだと思う。紙写真とデジカメのどちらの良さも知っているから作る気になるのだが・・。
俺が子供たちに一眼レフカメラを買ったのは彼らが大学生になってからだった、遅すぎたかもしれない。生まれてから大学入学までは母親がジャガスカ撮っていたのでそうでもないかな・・。




 8月6日 曇り、広島原爆投下80年の日。31℃ほどで助かる。

■妻の高校卒業までのweb記録に聞き取りした文字を加える作業をする。家の住所が変わっていてweb地図で探せず添付しないことにした。転売してしまったのかもしれないが・・。
渡辺豊和さんの家を訪ねた日の動画記録などを発掘しつづけて、ようやく見つけた。

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渡辺豊和さんとのラスト2ショット(2013・5月17日)発掘

呑みへろへろに酔いながら10分の動画聞き取りした、デターも発掘、吉本隆明の評論の面白さや秋田体育館についても語っている。若い時分の怒りはきえ、晩年は世俗を超越して、穏やかに暮らしていて興味深い。(最後に語り合ったのは2019年12月3日渡辺菊眞展@高知市)













 8月5日 曇ったり晴れたり 猛暑にはならなかった福島市

■町に用事があって出かける、紫外線が強いだろうか、目が熱いきがする 冷やすと気持ちいい。網膜焼けているのかもしれない。暑い日は俺のような老人は外に出ないのがよさそう。
■帰りに県美術館に立ち寄り、ジブリ展を通る。たくさんの親子連れで大賑わいだった。

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町に出た首タオル爺さん 帰路「ジブリ展」に迷い込んでみた!
夏休みとあって大混雑だ。予約し来館しないと入れないそうだが、俺は美術館おすみつきの優待者なので予約なしで入れる特権者だ。(何度でも入れるけどジブリ好きじゃないので行かない)来館者に聞いてみると仙台などの近県からと市内の子供より周囲の市町村からの親子連れ多し。安近短で夏休みの思い出づくりには、館内も涼しいのでよいだろう。車椅子の老女は大変感激したそうだ・・・目が泳いでいたので、「どういう点に感動したか?」は聞かず。

〇フィクション発のテーマパーク行って、稼いだ金を思い切って豪遊した気分になるのが2025年資本主義への貢献する若者世代は大流行なのだ。受付の方によると今日は(福島市開催だからだろうか)、平日だからだろうか、入りは少ない、と目を輝かせて伝えてくれた。こんだけ人が入れば受付嬢だって感激するだろう。土日は超満員らしい(小さな子供は!パパ抱っこしてあげないと何も見えないだろう。)
〇10代仕舞の方はコスプレして行くと思い出はさらに分厚くなっちゃうので推し!

〇めも)伊勢崎参議院議員とうとう質問に立った日
日米地位協定が改正され 日本の米軍基地から他国へ攻撃機が日本政府が拒否すれば できなくなる(自由なき駐留)日が早く来るように願っている。

〇今年度から天婦羅に挑戦している飯炊き爺さん
近所の天婦羅屋から持ち帰って眺める。色がいまいちなのは油が古いのかな・・分からんけど。
爽やかに揚げたい爺さん 衣はこんな感じで付けばいいのか?福島市内に天婦羅屋専門店は蒸発しちゃったも・・・探して食いに行ってみたい。














 8月4日  夜19ごろから雷雨

■家族の年譜づくりの準備作業をしている。今日は文集のありかと内容を調べる。大量にあるのでmy子の文章を探すのは何年組を知らないので、コツコツ探しすしかない。

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my子たちが1980年代から90年代初めに制作した文集掘り起す。
校正待ちの間に、今日も猛暑だから半地下に籠って文集や子供たちの資料を読む。子供を持てばどこの家庭にも有るはずの小学校や中学校の文集と原稿用紙に書いたおりおりの文章の数々。さらに絵の数々。それを並べてmy年譜づくりのための予備知識をえようと発掘作業中。世の景気を反映するかのように製本が豪華になっていく。見た目はよいのだけれど、手作りの文章の味にはとうてい敵わない。世の景気を反映している製本のさま。子供たちの文集の変化する様もおもしろいもんだね。(全部読んでないだけどmy長男が10才、小学4年生のときに書いた体験談は、抜群の臨場感と飾らない文面で単刀直入だけど内容と書き方が合っていて、説得力を持ち、古くならない!時を越えて伝わっていくと思う。素直に自分を語るのは大人でも難しいはずだからだ・・。)

二度目の備蓄米 買ってみる。
税別2000円 前回は焚き方工夫したので不味くはなかった。今回の備蓄米はどうか、炊き込み飯にすれば問題ないだろうと飯炊き爺さんは思うのだが、はたしてどうか今週末試してみよう。
(金融資本主義誘導日本の現状ではインフレ加速させたい政府や財務省なのだろうが、一気に米の倍値はやりすぎでしょう。年2%ずつあげるのは理解できるけど。)




















 8月3日  陽射し強くも猛暑日にならず助かる

■今日から自分の18才までの年譜作りにとりかかる、資料を見ていつだけで1日が終わる。


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18才までのmyワイフ(非公開)年譜できた。(最初の絵)
人には過ぎ去った時間と今しかない。次の自分を知り得る人は存在しない。だから今を知るためには年譜など過去の記録を手に入れないと今においても何も語れない。長年聞き取りしていて四半世紀分のweb記録ができた。それらは全て「過去の今」が文字になっている。それらに目を通しながら個々人の年譜などを作成しようと思いはじめている。出来上がると今世紀に出会った人々の、my彼ら評伝のような内容になり、web記録化しはじめている。まだ、まとまった記録はなにもない。

〇ひな型や年譜づくりの困難を知るために、初めに家族5人分の年譜を作成してみよう。で、始めた。今後も暇があれば加えつづける。記録の内容は「聞き取り文字」に「アルバムの写真」を合成しweb記録の体裁。で、家族それぞれは何歳で亡くなるのか分からないけど、それまで、あるいは俺が死ぬまで作業は継続し年譜を作り続ける予定。

〇年譜をつくり始めたのは、昨年長崎の長崎の旅で「トーマス・グラバーの人生」を調べて旅行記のようなものを作った。(2番目の絵)だがトーマスには自筆の原稿や記録が無い、後に評論家のような方々の記録はあり、それが積み重なって幻のようなトーマス像になってしまっている。
いろいろ本に目を通したけれど、俺は「自然人トーマス像」に迫れてない、との決論に至った。さて自然人としての年譜をどうしたら作成したり手に入れることができるのだろうか?
3年ほど前から過去に出会った人に、お願いしその方の「人生を語っていただき」記録をつくりはじめた。人生を語ることは本人だって至極困難なことだ。メディアが作りあげる彼らの情報は作られた手垢のついた物語であり、自然人の彼の生=今と過去ではない。だから論破好きな者は既存媒体のネタを読みふけってクッチャべり知った気になればよいだろう。本人だってメディアの手法に沿って語っている場合は多いから自然人の彼に近づく方法はできていない。
そんなことで現在から語り過去と今の自分=自然人を知る方法は一つしかないように思う。彼の肉声、つまり呼吸を記録することだろう(加えれば自筆の文章と写真)。

〇TI革命によって30年、マスコミを信じる人はほとんどいない。先の衆議院の18〜30代の政党別投票割合をみると、IT革命下の彼らの心の栄養が何であったかわかる。本や机上の空論や同様親の教えなど蒸発してないも、今だけにぶら下がる動物になっている(。ゼロ年代から指摘されていたことだが・・)

(〇)夏休みの旅に「長崎市観光」推します。原爆資料館も推しです。
2024年にはじめて行きました。見応えありすぎたので、web記録をつくり公開しました。
三菱の城下町の長崎でもあるが、空港について最初に手に取ったマップにはトマスグラバーの絵??なんでだろうか・・調べながら記録にしたもものです。スペインやポルトガルの植民地にならずの日本のことも探ってみた。現在は軍事から見てもアメリカの属国以下といわれる(地位協定)状況にあるので、明治維新に遭遇した日本人々と外交人の商交流に学ぶべき点は腐っていない。(2025年現在の排外主義者たちに反対しますです!)
http://fullchin.jp/202405naga/02-3/nkikou-10.html

(〇)生きていれば100才の父よりの手紙 1970年4月9日。
何通も発掘したので目を通す。最初の手紙は父親らしいやさしさと人格を読み取りかのうだ。菜園や花や果樹を楽しでいたが発病した。(精神疾患は優しい人が患い易いのだろうか?)

〇父は三島由紀夫と同年で20歳で終戦となり二等兵への夢はかなわなかった一人。先人には後ろめたく生き続けたのだが、割腹自殺はせず、激変した敗戦後の世を生きた。俺が社会人になって直後、・・・原因は不明・・・この手紙を発送し半年もしないうちに「心配することはない」と手紙に書いた後、45歳で「躁鬱病」を患う。23年間、服用した抗鬱剤による薬害で68才で心臓が止まり亡くなった。発病した当時も亡くなった当時も、強い抗うつ剤は1種類しかなかった。現在のように細かな量が分類されて患者に配られることはなかったよだ。で、自律神経系に素晴らしく効いてしまうのだ。精神疾患が社会の中で暮らす世になればいいと思う者の一人です。










 
8月2日 台風の影響で曇り、雨 晴れ間曇り強い陽射しが断続的に入り乱れた日

高等学校文化祭の記録集をweb頁に変換していた。途中で古い手紙も出てきて、読んだり、この手紙たちをどう記録化するのがいいのか、考えてみた。まずはデータにしてしまえば、web加工はどのようにもなるので迷わずデータにしてみよう。といっても空いた時間があればだが。

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古い手紙を発掘。今日の天気は雨、晴れ、強雨が入り乱れて通過中。
1971年前後は渋谷区恵比寿の駅前に住んでいたこともあり、まだ縁が途絶えていない両親や友人、よく遊んでもらった福島大学の友達などとの手紙が昨日着信したかのように読めてたのしい。福大の彼は宮城県築館で教員になったと伝えきいた。工業高等学校時代の友達の手紙もあるが、彼とは今音信不通。

〇my家族は何かあればショートメッセージを出し合うので、いろいろ残っている。独立系建築士になったときの文面もかなり効いたね。数年後子供たちからこんな内容もあった。「ぱぱ、がんばってね はやくおうちをたててね」なんて・・・持ち家制度が残っていた1982年後の、幼稚園生だろう、子の文面。32歳で設計していたから思ったより早く家を建て5人で住みはじめた(予想外だったな・・)。

〇my長女は1990年に首都圏の高校に入学し、一人暮らしを始めたので、たくさんの手紙が残っている。簡潔でわかりやすく明解な文面。英語の手紙は兄への宛てたものだろうが同封されている。
デジタル間近の往復書簡。今はライン、メッセージだ。手紙の交換はしなくなっている。手紙でもラインでも要は内容が明解であればいいのではないか。デジタルは誰かが見ているという前提は家族では共有している。手紙では書いたが他者に分かっては困る内容はラインやメッセージには書かない。その分味が薄まるもんだね。











 8月1日 台風の影響で 活動しやすい日 昼寝もぐっすり。

昭和38年前後の高等学校の行事をweb化する。残り少しでお仕舞になりそう。現在の高校生はどんな暮らしをしているのか、データ化していると、今どきの学園祭があれば見学に行ってみようと思う。

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1960代のキャンプと運動会の記録

男女共学の高等学校での行事の記録をweb化している。キャンプ場では飯づくりは女性と性差による役割分担がある点は興味深い。夜は男はテント外で焚火で夜通し。育メンは当り前世になるまで半世紀かかったような気がする。男女が集まるとフォークダンスしている。今はいつ男女が手をつないで踊る機会が設定されるのだろうか、「フォークダンス史」を調べてみよう。

運動会は女子はなぜかズボンではなく、キャベツ型のブルマ姿。いつからなのかは記憶にないが、近頃の校庭は盗撮防止のためフェンス越に見えないように工夫しているだろう。
〇小学生によるマイムマイム動画おちていたのでメモ投稿しておこう。