佐藤敏宏    HOME  

2025年9月の日記      2025年8月の日記へ  FBへ  




























 9月30日  

■明日、妻の精神科の受診をしようと、午後2時過ぎの予約していた。今日の快晴をみていると信じがたいことだが明日は朝から雨だという予報。歩くと1時間以上かかるだろうから、雨合羽を買ってきた。Mサイズを手に入れたのだが、厚着の冬はパンパンになってしまい使えそうになかった。Lサイズがよかったかな・・。冬用と冬以外ようの二着あっても悪くはないだろう。

■ひさいしぶりに、花田達朗先生の投稿記事を作成する。感想が聞こえてこないという内容だ。本の売りかたを知らないので勝手なことを書く。web検索しても何もでてこないので、出版社も販促してしなかったようだ。

2010前後から本の宣伝はユーチューブでの対談と手売り講演会の併設に変わっているが・・・出版社は殿様商売なのかもしれない。本を売る、感想を届けることを勝手に求めても反応しないだろう。書店のみをターゲットにした旧来の売りからでは、web全盛の現在にあっては劣勢だ。全国の図書館や学校に納入できれば多少さばけるし、若い読者にも届くのかもしれない。


■FB投稿

家族それぞれの個人史づくり再開(自家製ラジオドラマ)
https://www.youtube.com/watch?v=NXc0upyG6PQ

今日は1983年のマンション暮らしの時子供たちと4人で作ったラジオドラマ「三匹の子豚」を再度聞いてしまった(笑。カセットテープの音をデジタルに変換してYouTubeにアップしたものが1本だけ残っている。動機は、貧乏をごまかすためにラジオドラマを子供たちと作ったように思うのだが、この1本しか残っていない。今思えばたくさん音を残しておけばよかった反省。(音は俺が即興ハモニカ)

人生の〆はかぞくそれぞれのweb版個人史を作り。終活というやつだ。この作業は2025年後半から始めた。懐かしい絵柄や原稿などたくさん出てきて、懐かしんでいるので数年はかかるだろう。くたばらないようにと手ごわい作業をすることにした。




















9月29日 のち一時雨

■午前中は『アンダーグランドの』最終章を「目印のない悪夢」を読む。毎日すこしずつ読み727頁すべて読んだ。646から俄然引き込まれてしまう内容だった。人が生きているということ、事故に遭ってなくなる事の奇跡を考えさせられた。日々生きていることを実感しつつ、大切に生活し事故に遭遇して亡くなっても悔いを残さない生にしたいものだ。

■土曜日に初めてお会いした関村啓太さんとチャットをして聞き取りを始めることにした。タイトルはまだ決めていない、中身は雑談になったとしてもお題が雑談はよくないので、何か考えよう。

■FB投稿

村上春樹『アンダーグランド』 727頁62人の証言を読み終える。
62人の証言と村上さんのまとめた本は日々少しずつ読むことが適していると考え、家の狭い場所や半地下で読んでいた。今朝、読み終えた。

1995年3月20日都心でおきた地下鉄サリン事件に遇った被害者たち62人を聞き取りした内容で、2年後に刊行された本。加害者であるオーム真理教信者たちの聞き取り内容は含まれていないし、政府の危機管理担当にも聞いてはいない。マスコミが注目した─多くの人々も同様だろう─加害者に投光せず、サリン被害にって命をとりもどした一部被災者の声を(亡くなった人にはきけない)まとめた内容。
今世紀に入ってから暇さえあれば、他者の声を聞き、記録しつづけている佐藤には興味深い読むべき本だった。

地下鉄サリン事件後の2011年3月11日に東日本大震災が起き、4日後の3月15日は降雪とともにF1の2号炉から放射能が 噴き出してしまい(原子炉が割れた)東日本各地にそれが沈着した。大地震と放射能毒がほぼ同時に大地と大空からやってきて、日本各地の心身を覆いつくすことになった。だがその後も起きるだろう原発事故への教訓と対策は芳しいものを誰もしていない。持ってもいない。

復興の声にかき消されのが原因だ。歴史的大事故の原因追及が甘い今、まともな対策を手に入れることがなく今日までだらだらと廃炉作業は続いている。次は首都直下型の巨大地震なども起きると言われている。現在、人々はどのような不安物語をえがき、どのような対策をたてながら、日々暮らしているのだろうか、そういう話も聞き取ってみたくなる、そんな一冊だった。

















 9月28日  少し風がでてきたので天気はくだりざかかもしれない。

■午前中、洗濯する。
■午後 あそびに出かけてみた。

■FB投稿 

会合のお題は『有名建築事典』について語り合う。
2ショットした方々とお名前。呆け老人は忘れてしまうので記念の画像を作っておく。種田元晴れさん以外はすべて初対面だった。いわゆる建築家系の集まりではないのでいい感じで会は進行し話も快調で大変良かった。
俺の発信しているFULLCHIN、あの変な記録読んでいる、よと言われたが、気の毒なことです・・と応じておいた。
若いひとほど悩んでいるが見て読んでしまう動機になっているので、初対面でも読んでいる、そう語る建築若者は昔から多かった。で変わらず、の反応。若い時分に読んでいたのだろう。

会場から老人が建築家コンプレックスを持っているとの発言があって、先生がたがいろいろ応じていた、(中身省略)建築家などと付き合うから要らんコンプレックス植えつかられちゃうのじゃないか、自由に建築つくってみたことないのだろうか。
建築家信仰を持たない俺は筆者たちが語る、例のアカデミしゃん達から観た変でない、記録はつくれない。


991年に上海で買ったシャツ いまだ着ている(笑

お上りさん」の翌日は洗濯物が数倍増えるもんだね。朝から洗濯。今日は素晴らしい秋晴れで暑いかもの陽射しのもと直ぐ乾きそう。絹のシャツなので洗濯機に投げ入れられないので手洗い。絹の生地なので真夏は暑くってきていられないのが欠点。
1983年、福島市内で手に入れた半そでシャツは女物だけど、こちらも相変わらず着ている、生地がいいのでヘタレ無。しっかりしたモノづくりの世は遠い遠い昔になって、今は大手メーカーだけになってしまった感あり。だから買わずに、my子たちのおさがりをってもらって身に付けている。古着の方が体になじみやすい。
古いスーツ、数着あるのでそれを着てネクタイしめてお出かけしてもいいかもね。











 9月27日 
■午前中は資料せり理したり買い出しに行ったりする。

■午後は予約していた井之頭公園そばの住宅内で行われるイベント(本の販促か?)に参加する。種田先生以外は参加者全員初対面。予想通りに多様で多義的で面白かった。
全共闘世代の後に生まれたおれは彼らが開催するイベントには参加したくない。時は過ぎ現在の40代の人々の建築系催し物の一部だけは気に入ることが多い。

■FB投稿

「おもしろそうなイベントじゃん!」と思い参加して帰宅

「面白いってなに」は省略。東京圏で開催される他者主催の建築系イベントに3・11以降は参加してないはず?なので大震災後初飯炊き爺さんお上りさん聴衆となる。予想はど真ん中の大当たりであったよ。なにがど真ん中だったかも省略。

●一月前の大阪日帰りもしてみたが東京日帰りだと午後家をでても余裕で帰宅できる。

●東京直下型大震災が起きないか?・・・だけが不安(駅に避難所マッぷ表示してない。起きたら帰宅難民多数発生し餓死するよ、福島市は表示していあるのぜひ都内の駅には避難所マップ掲載を義務付けよ)






 9月26日  気温上昇し夏日だったかも

■午前中画像処理しつづけた。
■午後は買い出しと病院予約など雑事を行う。

■FB投稿

18才8ヶ月で社会人になり15年後「夢を叶えた」
(古い写真発掘中)夢=鉄筋で住宅を建て家族を養うこと。
中学生でRC建築に関わり(バイト)だした少年は33才3ケ月で夢を実現できた。想っていたより早かったのは、地域の人々や建築業界の人々の支援のおかげであった。
家ができると朝日新聞の記者が取材に来て記事にしてくれた。1984年11月に掲載された。その記事を見たひとから数軒コンクリート住宅を依頼され他者の住宅やビルを造る切っ掛けを得た。人生は他者とのご縁、行動の奇跡塊のような気がする。自邸には41年間暮らしている。











9月25日 晴れたり曇ったり

今日も1日中画像処理をする。
■my次男とメシ食いながら駄弁る。このごろ夕飯時は必ずワイワイするようになった。

■FB投稿

めも)地方の一部消滅は想ってるよりかなり早そう
人口減は敗戦時をかるくすぎ明治維新当時まで減るのかな、知っている人は誰もいないだろうが。なら地方から資本家は引き上げるのは彼らには理の当然。
福島県の人口は原発事故で一気に200万人を割り、172万人になっているようだ。各地・地方の人口減は加速しそう。高齢化率34%とあるから、高齢者58万人みたいだ。

「小学校へ入学親子連れ」は幻想の中にしか存在しない・・・
少子化がさらに進むと、春先のこういう風景もほとんど見ることができなくなるんだね
我が家の周りは高齢単身者世帯が8割で40代の人も見ることができない高齢地帯。





 9月24日 

■1日中画像処理しつづけていた。だいぶはかどった。

■FB投稿

31才8ヶ月は髭パパだった(珍しい絵発掘)
30代に入ると何かと忙しい時期、ひ髭を生やしてたんだ?!(笑)挿絵の依頼を受け、自宅の設計をし見積合わせをし発注し、事業計画受注したり、子供を担いで学校へいったり、大忙しい。睡眠減らして稼ぎまくり、家族を養う。合間に呑んだくれ遊んでとにかく忙しい時期だった。振り返ると人生は奇跡の塊だと分かるもんだ。遊んでくれた方々、仕事を依頼していただいた発注者のみなさん、工事を請け負っていただいた建築業者の方々など、あの当時、お世話になった皆さんありがとうございました!私は来年は後期高齢者です、昔のように仕事したい気分モリモリです。









9月23日 

■午前中画像処理、午後買い出しに行く。他は画像処理する1日。

■FB投稿

日よけ葡萄 甘くておいしいけど種ありで人気なし。
今年の最後の3房の葡萄をとる。種あって食べるのが面倒とのことで、俺だけ食べる。甘くって一気には食ってしまえないので少しずつ味わっている。

〇子供が送ってきた老人のための栄養(カロリー)と栄養素のバランスを学ぶ初心者のための教科書。読みたくなかったけどちらちら見てたらすこしずつコツがわかってきた気がする。どうしても飯を食い過ぎる、昭和生まれの老人なかなか100gをキープするのが難しいので、パン食にも挑む。パンは不味いがローカロリーなので我慢しよう。

●東京都内を逍遥してて直下型地震に遇ってしまい、飯食えなくなる、と想定して栄養学教科書を観てるとグーっと身に付く速度が違う。どれだけ餓死するのか分からないけど3日間は自力で水と飯を栄養を確保してないと、死ぬこと確実。なるほどいろいろ対策あるものだ・・と感心するも。福島に戻る足はまったく無いし、県民を助けるための仕組みっての県でも市でも対策なしが現実だ。

首都直下型大震災は30年以内に起きる確率80%みたいなので、いつ起きてもいいように対策して出かけろ、ということだろう。東京都内に居れば福島県民は帰宅困難者になる。311の時、福島県外から仕事に来ていた人々はどういう方法で自宅に戻ったのだろう?調べていなかったと、気づいた。











 9月22日  よい秋晴れ爽やかな日

■27日東京へ行くため、福島駅に行き、大人の休日?楽部割引で指定席を往復買う。
帰り道、スーパーに寄り、栗が目に入ったのでもち米と共に買う。もちろん栗蒸かしをするため。

2時過ぎにもどったので、鬼皮をむき、渋皮をとるため少し茹でて身と渋を分離する作業をする、煮すぎないよう山勘で茹で時間を調整し水に浸し渋皮をむく。綺麗に剥けた。
その間もち米を水に浸して3時間じゃく待たねばならない。画像処理などしながら待つ。

蒸かしてみたがいい感じで美味い!栗蒸かしも手際がよくなっている飯炊き爺さん。

■FB投稿

栗のお蒸かし 
飯炊き爺さん今夜は「栗のお蒸かし」を蒸す。秋ですコオロギの音をききながら「栗蒸かし」を食べる。9月下旬はほんにいい季節です。もち米うまいす。

ナイスバラシイ・レポート 
大ぜいの人に読んでただけるよう祈念!ヨメヨメ光線〜〜
見習うことにしよう!内容は「住み方発見!! Home Life Diaries in Japan」展の、準備検討段階からの詳細なレポート」です。

●展覧会を開催するだけでは「無能」呼ばわりされるようになったことを確認できました。21世紀はこうでなくちゃね・・展示計画段階のこと、展覧会開催時のこと、終わってレポートを書く(記録を残す)ことでようやく建築を伝えることが完成するんだ、と建築関係者が再確認することになりました。(井上さんの記憶に残るレポートです)

●思わず手が伸びる
スーパーにも秋きたる。「栗」みつけたので「もち米」と共に買う。
飯炊き爺さん1年ぶりに栗のお蒸かし、蒸す蒸す。そのまえに鬼皮と渋皮むかないと。ながく続いた気がする今年もの猛暑日。もう35℃超えはないだろう。薪ストーブの準備もしないと冬を迎えられないね。









 9月20日  秋雨前線さったようで曇りのち

昨夜妻が真夜中に掃除を始めてしまい注意して変な時間に寝てしまい、寝坊してしまう。
画像処理する1日 

■FB投稿

1982年6月23日 東北新幹線開業記念 盛岡まで延長
記念入場券
現在は福島から大阪へ5時間仕事して1日往復可能になっちゃった。さらに新型コロナ後、オンラインでワイワイするので移動距離は地球上に無関係な選択縁の世が現れ。



















9月20日  一時雨

■業務用ガス台の炎がまだらになってきたので、朝からゴトクを掃除する。油などついていて、力仕事でもある。ガスの炎の目詰まりからまだら炎はすべて解決、綺麗な炎になってガス代も節約できたり、火のムラがなくなり調理師ややすくなったかも。

■午後はmy子たちの個人史用の画像処理をコツコツこなす、1981年はほぼ終えたかな・・。3人分並列状に作業しているので、さほど進まないのだが、毎日少しずつでも思ったよりいい感じになってきている。


FB投稿
●飯炊きじいさんゴトクを掃除する。

台所になくてはならない、ゴトク(業務用ガス台使用)。煮こぼれなどでガスの噴き出す穴がふさがったりし、まだら火になっていたので、金ブラシで汚れを落とし、キリをもんでガス開通口をあける。重いゴトクなのでご婦人にはゴトク掃除は無理かもしれない。
変え替えようか?と思ったが掃除したら、まあまあの燃え具合、数年はこれで飯炊き爺さんの火は問題ない。懐ぐあいが冷え切っているので食材の確保は火加減より問題ある我が家。
非常時ようの火は薪ストーブの薪があるのだが、非常時のための専用の食料を確保保管しておかねば・・と、最近思う。単なる山勘ってやつだが、そろそろ煮炊きに困る災害が起きるのかもしれない。米がたかすぎるので、乾麺や牛乳ぶっかけて喰う、軽くて持ち運びも楽そうな食い物、潰してある乾燥麦でも確保しようか・・。

●生成AIと朝遊び。
「・・生成AIを心の支えとして利用している人が急拡大している・・」そうだ。飯炊け!爺さんも乗り遅れまいと、myサイトの改善を聞いてみたことがある。当たり障りのないことをアウトプットするAIだった。
今朝は先月23日に大阪で開かれた、渡辺豊和さんのお別れ会体験記について聞いてみた。
http://fullchin.jp/etu25/20250823w0/ts/Twatanabe-0t.html
拝見しました。とても丁寧に書かれていて、建築家への敬意と、会の雰囲気がよく伝わってきますね。以下に、内容をさらに深めるための改善ポイントをいくつか挙げます」

・ 構成面のアドバイス・・・
・ 表現面のアドバイス・・・
・もしよければ、文章の一部をこちらに貼っていただければ、より具体的な添削もできますよ・・・。」などと数秒後に応えてくる、けれど読み込みが表層的でしかないので、相談相手間違えたな・・との感想を持った。
AIと恋愛関係になり自殺する者まで現れ訴訟になっているとも聞く。生身のパートナーや相談相手をみつけてワイワイするほうが人間らしくっていいように思った、今朝のAI遊び。暇つぶしにはいいかも。






9月19日 爽やかな秋日和 

朝からこつこつ画像処理をする1日 

■FB投稿

1981年東北本線、福島駅から上野駅まで

所要時間は4時間ぐらいだったような記憶がある。(県立図書館に時刻表あるかな?)1982年夏休み前に東北新幹線は大宮から盛岡まで開業した。現在はストロー効果と言われる現象にて、駅弁売り子も消え、福島駅も上野駅も寂れてしまった。急行津軽にはたびたび乗った、復活するような風聞あり。一極集中に栄えているかに見える東京駅の混み方は異常かも。























9月18日 断続的に  

早朝雷がなりだし、強い雨も降り目が覚めてしまった。さほど降り続かなかったので安心した。この地で大水害に遇っているので、強い雨音は気分が良くないものだ。

ちかごろ進化していると噂の「AI」にmyサイトの改善を聞いてみよう打ち込んでみた。応答は芳しい内容ではななかった。当たり障りのない内容の羅列だと思った。

午後はこつこつ画像しょりしてmy子たちのweb個人史作成をしつづけた。


■FB投稿

myサイトの改善点を「AI」に質問してみた(笑
身体も問題なさそう、自転車も修理したので、myサイトの改善点、AI、何を指摘するのか知っておこう。・・・データが多量なので時間要ったけど応じた!?「fullchin.jpは、貴重な建築・文化資料を網羅した素晴らしいアーカイブです。膨大な情報量と独自の視点は、研究者や愛好家にとって非常に価値あるものです。さらに多くの方にその魅力を届けるため・・・改善点をご提案いたします。」
●網羅なんかしてねーよ、嘘つきAIめ。
●毎日身辺雑記を更新し続けているが・・・素晴らしいとか貴重とまでいうんかAI。機械は感情を持たないはずだから、騙されないよ。(笑 改善点の主要な点は俺も何とかしようかとは思っているが、たぶん改善せずこのまま続ける・・んだろう。自分の事は分からないが・・機械にも従うことしないよ。
・AIは俺が何を考えてサイト更新しているか知らない、その点は聞いて分かった事
・本来HPは個人のweb倉庫なので、他者にとって見やすく改善することに意味があるとは思ってない俺。老人はこうして孤立していくのを自分自身をHP介し眺めつづけるものいいのではないかな。

●劣化したネガをスキャンし補修しているが日付不明で難儀してる。
家族写真は一眼レフで撮っていたので、日つけあり、馬鹿チョンカメラのような機能が付が入ってないので─兄弟三人のデジタル個人史を、隙間時間に作成している─、誕生日や慶事などの特別な行事以外は付日が分からない。なんとなく4歳ぐらいねってな感じでとりあえず並べる。後々日付つけたり入れ替えたりするしか今は手が無い。並べちゃうと何かわかりそうな勘あり。
・民族学でフィールドワークしていた折に、梅棹忠夫さんは膨大な数の写真記録の整理に困り、フィルム会社に相談したそうだ。例の、紙焼きに日付あり写真をつくった。
・2000年以降、デジカメデータに切り替えて日付が入っているんだけど、データ移動するたびに日付変更になっている。で、絵に直接日付焼き付く方が後々活かしやすい、と今ごろきづく。(日付を消すのはさほど難しくない画像修正で済む)スマフォ画像は日付分かるんだけど、データ量がデカすぎて困る。紙焼きしないweb版のみの設定にできるのかもしれない・・調べてみよう





















 9月17日  2日つづけて晴れ、猛暑にはならずも、30℃越したかも

■ my長女のおさがり自転車をひっぱりだして、近所の自転車屋に転がしていく。前後のタイヤとチューブを交換してもらった。16000円超え。2000円で機械油も買う。鍵は古いのが使える。夜のライトはついているのだが、代用品を付けるよてい。

■午後、近所の胃腸科に行き、市民検査の結果などを聞く、問題ないとのこと、今後は年一回の市民検査を受けよう。大腸内視鏡検査は3年後でいいのではないかな・・頻繁に肛門に突っ込み検査すると締まりが悪くなる。肛門筋の鍛え方を勉強しよう。動画が落ちているかもしれないな・・・。年はとりたくないけど仕方ない。

■FB投稿

朝立ち爺さん復活(笑 前立腺癌になっても朝立ち来るよ

「10年間は生きられるでしょう。」と担当の医師の宣告から2年が経った。残り8年は生きられるみたい、ピンピン朝立ちも戻り元気になった。無料の市民検査をあれこれ受けて結果を今日、聞いたら、コレステロールなどすべて正常値内だった、血液もピンピン回復・・粗食つづけて4ヶ月だったか1年だったか忘れてしまった・・血液ピンピンでよろしいのだ。

●それならと・・・今日、娘のおさがり自転車を引っ張りだし、タイヤとチューブを新調。8年間はこれ一台で持つだろう。これが人生最後の自転車となる予定なので、時々掃除したり油をさしたりし手入れし、快適な自転車ライフを楽しむよ。飯炊き爺さんから解放されてないので、秋の風景をめでる、遠出サイクリングできないので残念。

●運転免許は先月失効させたばかりだ。公共交通と自転車と徒歩の暮らしに移行した。老人ドライバーに曳き殺されないように対向車など紅葉マークを見過ごさないようにしよう。紅葉が来たら道路わきに退避がいいかもだ。明日から乗るので、自分でお祓いしよう。う。

●古い自転車は15年乗ったので粗大ごみに出そう。ありがとう自転車!



















 9月16日  

■午前中は映画の感想を書いてFBに投稿。午後は子供の個人史web版作成作業をする。
外国暮らしのmy長女からメッセージがあり、いろいろ気を配ってもらって嬉しいけれどもうしわけない。夜勤明けだそうだ。

■FB投稿

4kリマスター版『リンダリンダリンダ』を観る。
タイトルはブルーハーツの歌う「リンダリンダリンダ」のまま。歌の出だしは「ドブネズミみたいに美しくなりたい、写真には写らない美しさがあるから・・」だ。女子高生がドブネズミみたいに美しくなりたい、と歌うのだから、どんな異常事態が起きていたのだろう?と、思った。20年前にあったその原因を想像してみたかった。
筋は4人の女子高生が、高等学校の学園祭のステージに登って「リンダリンダリンダ」を歌うため三日間の練習から、本番当日に至るまでの時間に起きるトラブルを描ききる映画。
持ち歌は3曲だったが、彼女たちの不注意で2曲しか歌えなかった、ことでお仕舞となる。その筋は、青春は不完全でも目標に向かって─、日々高校生活のなかで起きる、互いの問題やできごとを抱えながらも─、共に同じ目標を目指して歩むことこそ、生きる喜びである、と伝えていた。
人は成長するほどに、社会がつくりあげた若者にとっては不要なイメージ、「大人像」にガンジガラメにされ、生きることに大切な自由と責任と義務を一体に考えられなく、なるのかもしれない。自由を諦め責任と義務だけを処理する社会的機械に成り下がる若者を多く観てきた気がする。社畜や社会的奴隷とは気づくことなく人生を浪費してしまう人も多いかもしれない。
描かれていた4人の女性たちはどのような社会人になりたいのか、映画で語り合われるシーンはなかった。だが「自己をドブネズミのように美しいいきものなんだ!」と声を張り上げ、見えない壁を突き抜けていく。そこには若さの疾走にも無自覚で生き抜いてしまう清々しさが描かれていて、気持ちがいい。
マウント獲り合う輩の情報が氾濫している現在、ドブより汚い情報を浴びてい生きると、鑑賞者の一部には、「学園祭でヘタクソな演奏で歌うだけで、つまらない映画・・・。」と感じる者もいそうだ。美しい人生は一見、つまらなくみえる事態なのだし、人生でそのことこそ貴重な時だと捉え、日々感じながら生き続ける人は、希である。それも再確認できる映画だった。
「ドブネズミみたいに美しくなりたい、写真には写らない美しさがあるから・・。」あの女子高生たちには、写真には写らない美しさを生きる、そんな日々を暮らす人々であってほしいな・・・と願ってしまうのだった。
タイトルの歌は1987年にリリースされ、映画は2005年に劇場公開された。28年後に、4kで再上映された。検索すると、動画が出てきて4人の女優たちは、それぞれ、専門の道を生き続けている様子も分かる。今世紀にはり、デジタル封建社会を生き続ける者に、未来はなく過去と今の分厚い集積のなかで丁寧にいきる豊さを知りながら、生き続けること。それが若者にも肝心な暮らしのように思える。
(深堀りし、続きを書くか思案中)








9月13日 

■1日中 ネガデータを修正し子供たちの個人史に貼り付ける作業をする。


■FB投稿

1975年撮影の劣化したネガをスキャンしデーターにする。
次にギンプを開いて、手でこつこつ傷を修正る、と右のようなぼんやりした絵になる
まずまず家族ようなので使えそう。自分の姿すねーよ。撮る人していたので数はさほどない。お正月だね、着物の皺を間違えて修正しちゃってらー・・よしとしよう(笑 頭髪はパーマかけていた・・んだろう。髪の毛多すぎた。自毛でカツラつくれるほど多かった。(笑 1975年当時は現場監督と発注者の板挟み状態で、かつ利益を確保しなければ、設計施工はどやされるので、苦労していたので痩せているな・・当時を思い出す。24歳の俺は超頑張ったぜ!で、ボーナス二人分もらった。「異例だ黙ってろ」と設計部長からお達しあり。以来俺は金儲けが上手いと社内で評されて、やりたいように仕事ができた。でも入社したとき石の上にも10年と決めていたので辞めて福島に戻った。■人生で一番お金をかけたことは「自邸・造りではなく子供の教育」だった。(博士論文書けば子育てはお仕舞)












 9月12日  一時雨

■画像処理したデータを子供たちの年譜に貼り付けて1970年代はこんな感じかな・・。明日から1980年代をまとめていきたい。2,3年かけて完成予定なので、無理せず気長に作成しよう。

■FB投稿 

子供たちの1970年代、並んだならんだ画像!
各自の画像を整理し並べた。よど号ハイジャック事件で社会人スタート、ニクソンショックに、二度のオイルショック、ロッキード事件などもあるが、1ドル360円が240円になり大騒ぎとなり、2025年のドル安誘導でも大騒ぎなのでまたかって感じだ。プラザ合意後1ドル85円もあったので、円安誘導したい、ドル安誘導したい日米相互の気分はわかる。
1970年代より貧しくなっている俺・・それも確認できた。食い物は今より危機感なかったよ!トイレットペーパー買いあさったおばさんはいたけど。今回は、米不足にはじまり、すでに穀物はすべて輸入にたよるしかなくなっているので、飢え死にしないようにしたものだが。戦争おっぱじめると「餓死するな」。経済活動に参加していないので、貧しくなったのは自業自得と言い換えるべきなのかな・・まあどっちでもいいや。世界を代表する穀倉地帯で戦争長引いているし、食い物の奪い合いもうじきはじまりそう。。


 9月12日 朝方雨 1日ぐずついた空模様
■子供たちのweb版個人史作成しつづける。主に画像処理していた。















 9月11日 早朝まで雨だったが  

■子供たちのweb版個人史をコツコツ作成している。my長男分小学校入学までなんとなく揃えた。知らないこと多し。ネガフィルムや紙焼き無くなって片方だけも多い。

■FB投稿

それぞれの「自分史」1970年代の8割了かも。
隙間時間にこつこつ5人分の「自分史web版作成中」。1970年代は8割できたかも。
5人は奇跡的に家族になった。これはたいへんい不思議で奇跡の出会いで家族になった・・としかいいようがない。そこでいろいろ時々の意見の違い記憶の違いなどを解明しようと思い、5人分の自分史を勝手に作成しはじめた。
子たちは自身で「10歳までの自分史」を制作していた。なるほど、強くのこっている記憶はそういうことか、と今頃、理解する。
●家族は分かり合えないのか、理解し合うための対話が不足しているのか、わかり合うための手法がないのか・・・生きていた時空は各自異なるので、分かり合えないのは当たり前だな、と。それぞれを家族という共感の生まれる場や時空を再確認してみよう。など隙間時間を活用中。
●家族のことも理解しないで他人は理解できないもしかすると、他者は一生理解し合えない、という前提が肝心のようだ。スマフォ社会はさらに孤独化は進んでいる。精神疾患者、おおくなってるようなきがするが違っているならいいけれど・・。

●アートの面白い点は作家が自身を無意識、あるいは意識し探求しているように見え、それが直接制作品となり他者と共有しやすくなるてんだから面白くてしょうがない。制作作品を介して作者の個人史が透けてみえる、と愛さずにはいられない。










 9月10日  夕方から崩れよる雨となる

■my次男の年譜作成するためweb頁用の画像整理をする1日。

■FB投稿

〆「デザイン・イースト 2025」は9月19〜21日始まる。
開催場所:大阪市住之江区北加賀屋4-1-55。
バブル経済の破綻、阪神淡路大震災、加えて東京一極集中が加速し2000年に入ると、「大阪に暮らす知り合いたちは、一気に元気がなくなった・・・ように感じた。」洋書店を営み若者を励まし続ける、自主勉協会を開いていた友達の大島哲三さんが亡くなったことの影響も大きかった。大島さんの弟子ともいえたデザイナーの柳原照弘さんは見込みがあったので、我が家に呼んでレクチャーしていただいたり、翌年は彼の尻を叩きに大阪にでかけた。そのときは柳原さんに紹介していただき大阪若者の言葉を聞き取り記録を公開した(大阪ことば悦覧)。柳原さんが推薦した若者たちの事務所を一緒に回った。柳原さんのハートに火が付いたようで、気に入った仲間とともに「デザイン・イースト00」派手に開催した大盛会だった。「古い体質の古参たちは一掃され、大阪のデザイン界は一気に若返りってしまった!、革命的だった。」と九大に移った岡田栄造先生は後に語っている。
■9年ぶりに」第10回のデザインイーストが開催されお仕舞・・。」のようだ。(数年前に柳原さんに催促にいったら彼はそう語っていた。やはり元気な大阪若者は消えてしまうのだろうか?(柳原、家成さんなどにつづく後継者を知らないのは俺だけなのかもしれないが・・」スマフォ画面を捨てよ、リアルの場で出会いはじめよ)















 9月9日  少しすごしやすくなってきた。
■今日も一日画像データ整理をする。

■ FB投稿

俺が高等学校で建築についての講演をしたことがある
この絵は2001年・進学校の「福島高等学校」で講演した時のもの。新聞に掲載されていたので、4校だったかわすれたが呼ばれた。ギャラは高いのだ。教え子の話を聞くなんて、まっぴらごめんだと言い合っていたのだろう、母校の母校である福島工業高等学校からは声がかからなかった。福島高校の先生には住宅設計をたのまれた、。(数年後完成したが雑誌に発表していない)
●見てすぐわかったので、「この中には建築家になれる人はいない」と〆た。後日とある大学で講演に呼ばれたとき、あの時の講演を聞いていた若者が「俺は絶対あんたより有名な建築家になってみせる!」と吐き捨てるように抗議しに来た、若者その勢いよし!だが、元気だけで建築家と呼ばれる者にはなれないのを知らないのだった。彼はその後雑誌にも登場しない、たんなる人になったのかもしれない、県内では歴史ある地域の若者だったので幸せに暮らしていてほしい。

●終活はじめる。デジカメデータの整理。 
2000年以降デジカメに切り替わり、面白がって撮りすぎている。で、デジカメデータをばっさばっさ捨てまくる。「デジカメが使われだしてパートナーの裸などを撮る人が激増した」、とデジタル・デザイナー(専門家)は語っていた。今もそうなのかZ世代にも聞いてみよう。都心で春画展が開かれると大勢の御婦人方が来館するとも聞いた。春画はデジカメエロ画像より美しい。抽象化が巧みだし日本の近世期の世界一位の芸術絵画だから当然だろう。歌麿のような腕をもつ現代作家がいても春画には踏み込まないような気がする。デジカメのグロさを求める者が多すぎて、商売にはならないかも。

●my写真データ量多すぎて外付け1TBのHDDからあふれた。原因を見つけた。211年東日本大震災で撮影した動画のデータ量が膨大で・・・ユーチューブにアップしてるんだけど、元データを捨てるのなんだな。後の人には無意味なデータでも終活データ処理はじめると思うようは進まない。原発事故も起きたし、歴史上の大事件があった年だから当然だろう

● 取材源の秘匿について教えられた殺害事件
取材源を秘匿できない者は取材する記者になる資格はない。
地下鉄サリン事件に遇った被害者への聞き取り記録、村上春樹著『アンダーグランド』を日々数頁、ふたたび読み続けている。坂本弁護士一家殺害事件も教団の仕業だったけど、教壇に取材源をもらしてしまった人がいて痛ましいい事件が起きてしまった、ので記憶から消えない。遺体発見から30年のニュースあり。









 9月8日  

■データ整理をし続けて1日おわる。まだまだ整理ついてないけど、大枠は見えてきたような気がする。フォルダ名の付け方がまずい、頭の悪さを痛感している。

■FB投稿

雑誌社の記者から取材されていた。いよいよ記事公開かも。

サンチャイルド像に関してはすっかり忘れてしまった人々も市民も多いだろう。数年前から時々取材を受けていた。福島市長選挙が年末あるので記事にするとのこと。現市長にとっては黒歴史なので「さわらんといて」。なのだろうけど、記者は書くようだ。福島原発事故の端緒は佐藤知事が(白黒家族写真)原発誘致をしたことに始まる。それもよもっと前に大竹知事が奥只見電源開発に成功したことに源がある。実際誘致ゴーゴーは贈収賄で捕まって知事の座を降りた木村知事だ。サンチャイルド像は原発事故と直接関係はないのだけれど、どさくさに紛れて大総騒動になった。だれがどこまで知っていて、市の財産・サンチャイルド像を福島市民は今後どうするのか問われてもいる市長選挙になれば面白い。旧県庁舎は多額の資金援助を電力各社からえて建設された、現役の庁舎だってことも知ってほしい。電力県ふくしまは、次にどうなるのか、描けているわけではない、混迷沈没過程にみえる。















 9月7日  暑さ戻った

朝から25年前の記録にリンクを張っていたけどチェックしたりwebアップして公開した。午後はのんびりすごした。渡辺豊和さんのお別れ会に参加して、一区切りついてほっとした。
ここから渡辺さんはどのように記憶継承されていくのか?人々の記憶から消えさってしまうのか、観察続けていくことにする。



■FB投稿

25年間塩漬しちゃっていたが初公開。
2000年、渡辺豊和さんと「建築あそび」講演録。
渡辺豊和さんのお別れ会に際しmy記録を作成していた。次男の菊眞さんから「あの記録読んでましたよ!」とメッセージが入って、「なんかな?そうだ16頁中4頁しか公開してなかった!講演録があった。」ときづいた。俺が先に亡く なっていたら永遠に塩漬けとなっただろう、2000年11月25日我が家で呑みながら講演していただいた記録。
このような場は大好きだいつもの三倍スライド持参したよ、と語りだして6時間ほどの自作の解説。渡辺さんが酔ったので俺が代役、入れ替わり6時間ほどの講義というかワイワイ。その後のみ駄弁り合う(その分は無い)充実の12時間だった。
ようやく読者への配慮無の全頁公開しました。ザビ付いた画像がいい味だ(当時はサーバー容量10MBの制限あったので4頁だけ公開した)菊眞さんの挨拶、建築の垂直へ無限追及という建築家の思いと実践が明確にわかる。さらに都市計画、首都機能移転が話題になっていたとき共に公報活動した「新都白河についても
http://fullchin.jp/00big/tw/twp01/twp1.htm
建築家の垂直への意思 広大な都市計画へ。テック主本主義に蝕まれていない建築家の姿は明解で人をうつだろう。リーマンショック以降、後期主本主義の世では役立たずとも言うだろう。

安藤さんが挨拶に立ち 生涯、渡辺さんは「あんたの建物はおもしろない!」と言い続けた。・・・そのことで渡辺さんには生きる力をいただいたような気がする・・・と参加たちに伝えていた。「安藤さんの建築おもろない」と本人に言っていたのは磯崎さんと渡辺さんだけだっただろう。他は俺がしらないだけか

佐藤が渡辺さんに会い泊まりに行ったのは1991年で自作の家も、たの建築もほぼ作り終えて、そろそろ建築設計とおさらばしようとしていた時期だったから、渡辺さんの影響はほとんど受けていないゼネコン設計部員あがりの、野良犬なので。渡辺さんの巨大公共建築が出来上がるのを腹を抱えて見てた観客だったかもしれない。渡辺さんはゼネコンの使い方が巧みだった。つまりゼネコンたらしの建築家とでもいうんだろうか、施工業者は魅せられちゃうわけです。あんたは巧いと思った。所員の方々は全く理解してなかった、その点も面白い方だった。ゼネコンの魅せ方なんて所員におしえないよな








 9月6日  

■朝から画像整理をしつづけた。だいぶ見通しがついてきた気がする。

■FB投稿

1997年開館の青森県三沢市にある寺山修司記念館。発掘
鴨飛んで フェンス一重の 国境
寺山修司記念館に行った日は初冬だった。その時に詠んだmy俳句。2000頃だったかな行った。青森には世界最強の米空軍基地がある、フェンス一枚の向こうは米国で、日本人は許可なく立ち入ることはできない。野鳥はすいすい無断侵入!米兵の家族が遊んでいるのが見える。三沢米軍基地を、見学に行った人は少ないような気がする。皮肉なことに、悪意さえ感じた・・・寺山修司記念館は六ケ所村と米軍基地(三沢空港)にサンドイッチされている。■今日は一日中画像整理していた、整理がヘタクソで25年もたっているのでわけわからんかったが、だいぶ見通しがついた。その時発掘したのは寺山修司記念館の絵

  













 9月5日 午前中やや強い雨 午後雨あがる
■わが家での渡辺豊和さんと建築あそびの講演記録、16頁すべてに目を通す。おもしろくって懐かしい。渡辺さんの楽しみ方がいい。こんなに喜ばれるとは思っていなかったので、会場も盛り上がった。
■渡辺菊眞さんからお別れ会の体験記読んだと連絡がある。忙しいなか申し訳ない。
■午後、福島市内の雑誌社から電話あった、サンチャイルド像の記事を書くとか・・どんな切り口になるのだろうか・・。一点だけ守っていただければ俺の名を書いてもよいと伝えた。

■FB投稿

25年間、塩漬け記録の見直し済んだ。 
酔っぱらって解説し合っている内容で面白いったらないよ。なんで塩漬けにしちゃったのか、思い出せない。2000年の「建築あそび」の講師は渡辺さん、植田実さん、山中新太郎さん八重樫直人さんの4人だった。
渡辺さん最後の公共建築。北海道の上湧別町の「資料館のポスター欲しいんですが・・・」と町に連絡したらポスターを郵送してくれた。で25年前サインをお願いした。酔っぱらった渡辺さん大胆にかかず、もっと太いマジックにすべきだった。サイン会はたぶん初めてだったんじゃないかな・・だから希な一品です。(俺しか持てないだろう)渡辺さんの晩年建築の外観はどうも、「いいかげんにせよ、問題だ」と俺が渡辺さんにさんざん言い放っていっているだが、一転、内部は天井20m平屋で高い天井から光の取り入れ方が巧みで、北方民族の魂を揺さぶるような幻影・幽玄を通り越して崇高な気持ちを抱かせるレベルに到達している。(体験してないので、想像しているだった)21世紀に踏み込む前年、近代の合理性などへの喝破という渡辺さんの建築的態度は興味深いし、大胆孤独の道の到達点に至っていて面白い。コルビュジェ越えたというのが口癖だった。アアルトとコルビュジェ建築を合体した初期計画案には至ってない。この建築の外観をアアルト建築が包んだいたら、世界で唯一の建築として評価されて賑わっただろう。












 9月4日  気温さほど上昇せずすごしやすかった

■渡辺豊和さんのお別れ会体験録を読み直しして公開した。FBに投稿し、関係者の教えたほうがいいのか、それは分からない。後々、読まれ渡辺豊和さんとは何かを語り合う機会ができれば嬉しいのだが。
■午後町にでて用事をする。遊びにいくような場所もないので戻る。30年前ならたまり場あったのだが今は何もなくなって、通過するだけの町になったんじゃないかな。散策してないので、わからないだけかな。
■戻って、25年間塩漬けにしていた、渡辺豊和さんによるわが家での講演録を見直して、いる。今日は龍神村民体育館について間違いを最小限修正した。涼しいひだったので、昼寝は気持ちよくできる。コオロギが盛んに鳴いてるので夜になると秋。日中は猛暑に迫るような気温がこのごろ多い。

■FB投稿

2025年8月23日開かれた渡辺豊和さんのお別れ会。
体験記をまとめweb頁をつくった。葬式やお別れ会に参加すると亡くなった人との在りし日の体験が起きてとめどない思い出が湧くものだ。だから感情のまま、当日の事と思い出話を併記した体裁にした。(誤字などまちがいおおい情報量も多いような気がしますのでご注意ください)
http://fullchin.jp/etu25/20250823w0/ts/Twatanabe-0t.html
投稿絵は宮城県白石市にある渡辺さん最後の作品「現代イワクラ」の内部と外部を撮り公開した動画の扉絵です。豊和さん推しの13建築は11体験していて、島根の加茂町ホールと北海道の湧別の建築2つは未体験だ。一度観に行ってみたいと思うようになった。加茂町より北海道の建築がいいように感じるが、二つ体験してみないと決められない。渡辺さんに興味のあるかたは、兵庫県西脇市にある古窯陶芸館を体験することが肝心です。




 9月3日 午前中強い雨、午後暑さ戻る

■1日中、お別れ会体験記をしあげていた。

■FB投稿

渡辺豊和さんのお別れ会体験記 読み直しすすむ
23日以降渡辺豊和さん三昧のていだ。なぜたか分からないが日本の敗戦期を通過した渡辺豊和さんと寺山修司さんの著書は感じ入り共感する点が多いのだ。
原因は解明できていない。強いていえば抑圧された者の文学・言葉のような気がする。渡辺さんは母親から愛され、寺山修司は母に捨てられても愛憎は互いに共有し合っていた。
お互い体制への、衆生への「反抗魂」は貫かれている、この点が共通する気がする。北東北三県こそ東北魂の故郷だ。現在はあの魂があるのか、ないのか知らない。















 9月2日 猛暑は続いている、暑い日だった。

■食材買い出しと銀行に行く、その他は半地下に籠りお別れ会の体験記をかいていた。記憶が薄れているので、書きすすめると思い出し資料を引っ張り出しては考えては書いている。大筋は出来た気がする。


■FB投稿

わが家で開いた建築あそび古記録を公開し始める。
http://fullchin.jp/00big/tw/twp05/twp5.htm

2000年から25年間も!塩漬けしたまま忘れていた。この絵は渡辺さん最後の住宅建築で『神殿住居地球庵』となづけられている。甲陽園駅そばの崖の上に建っている。こういう建築が作られる関西パワーは歓迎してしまうよ、東京にも福島にもない不思議な人々のパワーが投影されている。

2000年11月25日に我が家で開いた「建築あそび」で講師は渡辺豊和さん。その公演記録4頁までは公開していたが、続編は10web頁ほどあり未公開のまま25年が経った。お別れ会の記録をつくっていて、フト思い出して再読した。佐藤にはどの頁も面白いすぎた。で少しずつ公開していく予定。

画像はサーバーに制限がかかり粗いのだが、はっきり理解させないような絵ばかりで、それが時間の経過をともなって幻想のような雰囲気がうかびあがっている気分だ。(忘れる能力に感謝しする、再発見の気分を味わえる)










 9月1日 猛暑もどり暑い!

■午前中は花田達朗先生のweb頁訂正と 渡辺菊眞さんによるお別れ会での挨拶web頁を修正する。
修正の過程で2000年わが家で開いた渡辺豊和さんとの建築あそびの記録を掘り出し、リンクを張る。菊眞さんに好評とのこと。

■FB投稿

渡辺豊和さんのお別れ会 渡辺菊眞さんの挨拶全文公開
記録は佐藤が作成し菊眞さんに目を通していていただき修正した内容を公開しています。タイトルにお別れ会の「会」が表示されませんが、なぜか佐藤にはわかりません。●2000年11月25日、我が家で開いた渡辺豊和さんと「建築あそび」12時間の語り、その一部を2000年に公開していますので参考にと思い紹介しリンクを張ってます。で、人間・渡辺豊和さんを本当に知りたい方は目を通してください。全14頁記録はできていますが4頁の公開のみで、続きの公開を忘れていました。今年中には全14頁公開するよう努力してみようと思います(お待ちください)