佐藤敏宏   
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2024年8月の日記       7月の日記へ  FBへ 


   8月31日  時々日差し、またはパラつくも午後、雨は上がる予想 風あり。

午後雨も降らず、予報は大外れ。 
■長崎漫遊記の結びを書いて、通風の処方箋をもらいに整形外科に行ったら、4時間待ちと言われあきらめた。で、近所の内科医へいき採血と処方箋もらいひと段落。

■進路の変わった台風に日本列島は翻弄されている。九州、四国を縦断したらなんかして駿河湾へ抜けた。そう想ったら駿河湾から今夜から北上の予報。進路も変だが進行そくどがとんでもなく遅いので、各地に水害をばらまいている。
温暖化の影響なのか、10年前までの台風の動きという常識で予測できない。


■我が家は南の湿った風が運んできて、今夜は蒸し暑いのなんの。机に座っているだけで汗が噴き出している。

■このまま北上して東北を縦断するなんてことにならないよう祈るのみ。
 












   
8月30日 すこし風あり爽やか
近くの銀行に税金をおさめに行く、11:30〜1時間昼休みで窓口が開いていなかった。近頃銀行も昼は締めるようだ。そのほうが人員の無駄がなくなりいいように思う。サイド出直す。
その他は1日中 『新・五代友厚伝』八木孝昌著2020年刊行を読み続け、抜き書きをする。トマス・グラバーが商会を立ち上げたときのドル箱は小判を上海に運び銀と交換することで巨額の富が生まれたということだった。(3倍になる、それを往復を繰り返せば巨額の益を手に入れることができた。)なるほど、トマスは武器に手を出す前に為替差益で経営基盤を固め長崎一の外国商会になったわけだ。ただし2年弱の間だけで幕府も気が付き鋳造を変えたことで1ドルが1両の同じ価格になったという。商人はいろいろ気づくんだね。
グラバー邸の土地は上司が長崎を去るにあたりトマスにプレゼンとしたともあった。どんだけもうかったのだろう。

■FB投稿 
友厚に買い取られた(?)福島県北部、半田銀山その後
明治天皇が行幸 原石をてにとって励ましの言葉ありとある
以下メモ書き。大損していた。
・五代友厚と半田鉱山大阪商業大学比較地域研究書紀要 第三号2000年8月10日
・鉱山 半田山 主産物「銀」福島県伊達郡北半田村 明治7年7月入手
・半田山 明治9年 損失2864円 10年損失992円  1483円 11年損失1784円 12年損失127円 13年上期560円 14年損失970円
・半田金山は五代の鉱山経営の足かせになる、半田銀山に期待を持ち続けた 451〜456p
・東北巡幸のなかに半田銀山行幸がふくまれていた 日本の代表的な銀山の一つであり、五代の鉱山であったことが大きな理由だろう460P 明治9年6月21日 半田銀山行幸 半田銀山鉱長 吉田市十郎 福島県参事中条政恒
 461p 農地や河川を汚染しないように配慮 廃液用のため池をつくる。

明治初期福島県内、三島通庸、五代友厚など鹿児島県の面々うごめいていたことが分かる 薩摩藩内の郷中教育によって、優秀なやる気のある若者を秘密留学させたり島津の殿様教育熱心 大砲も鋳造していて、薩英戦争にもひるまず 西欧人に日本人のなんたるかを印象づけて、植民地計画をあきらめさせているなど インド植民地化のようにはならず

トマス・グラバー20代前半でなぜ商売を上昇さ10年で倒産させても日本に骨を埋めたのかせたのか、それも分かった。1年目にして長崎と上海の為替で濡れ手に粟状態。人間の巡り合わせの妙としか言えない。グラバーがあまたイギリス商人と異なる点 は日本愛が深く継続している点、日本人要人からも愛された、そういう人格ありえない。
 





   
8月29日  台風と秋雨前線の影響で1日曇り 気温上がらず快適

■朝から晩まで明治維新前後の薩摩藩の資料を読む。教育熱と受けての心構えが開国後の日本を変革をもたらしたといえる。島津家の当主たちは懸命だったしお金の使い方も適切だった。そういう感想を持つ。

■FB投稿

同年の故舟越桂さん展覧会、見逃すと悔いを残す予感
https://www.cinra.net/article/202408-moriheikuhi_imgwyk...
 



   
8月28日  すごしやすくなってきた。

■7月初旬に福島赤十字病院に入院していた。たぶん薬の副作用で胃壁から出血したからだろう、1週間入院していた。今日は胃壁が回復しているか内視鏡で検査した。問題なく拝復しているとのこと。
若い医師たちと中年の看護師たちが連携して4人がかりで内視鏡検査をする。所有時間は5分から10分ほどだと思う。何度も胃カメラ検査はしているので、痛さなどは感じない。空気を入れたり、水を吹きかけたりしているので、げぶげぶしならがの検査だった。

そのご診察をうけて、薬を買って戻る。この2年間は病院との縁が切れない。年老いたということだろう。それにしてもなんでも治療してしまうし、所得がないので治療費も安くって助かって、元気な爺さんになりそうな気がしている。

■FB投稿

my長男とトマス・グラバーもつながりだす。友厚、半田銀山取得。
グラバーと五代友厚とはビジネスパートナーで大阪造幣局に機械を納入。建物はグラバーの推薦でイギリスの建築技師トマス・ジェイムズ・ウォーターズが設計。それが大阪造幣局(造幣寮貨幣鋳造場)となる。1871年五代友厚は言・福島県伊達市(桑折町かな)の半田銀山を取得する。my長男は1868年までの半田銀山の経営」など銀山を管理していた安藤政昭氏の日記を端緒として30年ぐらい前に研究していた。
■my長男は江戸後期の研究をしている、同じ時間帯を研究し続けているので、グラバーさんをふくめ当時の多彩な方とは縁はある。五大は薩摩藩の藩士たちとはおりがわるく、長崎に潜伏期間もあり、トマスとビジネスパートナー(呑み友)へ、と幕末維新中新ビジネスに活路をみいだしていく。その一つが新しい貨幣鋳造だ。グローバル商圏では、金銀銅貨の品質・均質が保てないと銀貨幣が為替相場に大きな影響を与えて不安定になる。そこで貨幣鋳造ビジネスへ五代はシフトしていく。(民間人が国の貨幣づくり?いまでは考えられないことだ)そんなことで半田銀山も視界に入ってきて、五代は取得したようだ。取得後どうなったかは、今後調べよう。
 






   8月27日 遠くに渦巻いている台風のせいではないだろうが一日中、風あり

■長崎漫遊記後半を読み直し、修正する。午前、食材を買いにスーパーに行く。昨日米10kgの袋がなかったので、五キロだけ買ったが、今日も五キロ買う。10kg袋でてほしいものだ。

■午後図書館に行き五代友厚の書籍を借り、ついでに鹿児島県の明治維新についての郷土資料を借りてくる。トマスグラバーと五代友厚は商売で連携してたので、新情報がてにはいるといいんだけど。

■FB投稿

鹿児島県と明治維新(福島県立図書館に鹿児島県資料あった)
右の絵で立っているのが五代友厚で右に座っているのがトマス・グラバーか?・・そうではなくグラバー商会の社員だった。五大友厚の銅像は淀屋橋駅そばにも立っているので大阪の方々には馴染みかも。
鹿児島県刊行の資料がいろいろ県図書館に送られてきて、うれしい。超便利だが、鹿児島県が編纂した資料を見ていると鹿児島に行きたくなるよな・・。「富国強兵は地球上の道理」うまいこと言うね、会津藩負けちゃった、総合的状況になっとく。会津人が発注者で仕事請け負ってわいわいやっていたことあるけど、彼らは「戦争」といえば「戊辰戦争」のことだった。自分が隊員でもないのに抜刀隊に胸をはっていたし、加害を忘れ被害を妄想的に肥大化し継承していく、その歴史精神は興味深い一つだ。

長崎市と鹿児島県は海続きの友で、明治維新を突破していくって、オモロイことだ。皆さん芸者遊び盛んで子もたくさんつくってて、なんとも明治維新藩士たちの下半身パワーには圧倒される。イギリス商人にまけていない子づくりパワー。今のところ女好きNO.1は伊藤博文/初代総理だ。どこでどうなって草食男性になったんだろう、暇なときに調べてみよう。安定しすぎた悪影響かもな・・。

渋沢敬三ファンで常民研究所に行ったな、おじいさんと初対面
噂は聞いてたけど我が家にも表れる。キラキラしてをり女好きを裏打ちしている感じだが歓迎。(長男と不仲をしると息子を推したくなんともなお札)
 


   
9月26日  台風が九州のほうに寄れて我が家あたりを通過するのは週末あたりとか

■米を買うようにいわれ、スーパーに行くも棚には無く、驚く。もう一軒いってみたら倍の値段だのでさらに驚く。1990年代に冷夏で米不足になりインデカ米を食べた記憶が蘇る。米の流通と値段が正常にもどるのは、はたして何時になるのか。買い占めに走っている輩もいるのだろうが、あほらしい、食べ物は米だけではない、いろいろある。
5KG一袋3000円と高いがそれしかなかったから買う。

■FB投稿

消えた県産米 おれんちの周りだけか?
最後の5kgを買ったので棚は空っぽ@近所スーパー
県産米はこの一袋しかなかった、他は千葉さんの5kgもの。どれも値段倍(笑)1993年にインデカ米を食べていたあの日を思い出す。米不足になる前に輸入してほしいもんだ。ぼんくらなんだろうな大臣も総理も主権者に米を安定供給できないトホホな世。
 



   
9月25日 のち激しい雷雨、夕方あがる。

■久しぶりに強い雷雨だったので、動画を撮ってFBにあげてしまう(笑)

■長崎漫遊記 後半篇 西坂公園、出島、グラバー邸がおおかた完成したので、今日は朝から通して読みはじめ、修正を加えたり削除したりし、整える。楽しいものだよ。

時間を見ては2月ちょい資料も集めたりしながら書き出したのだが、これは面白いと気づいた。各篇だいぶん長いweb頁になったが短い文章大流行の世にあっては時代錯誤も甚だしいと思うけど、長く書くことを目標に書いている。

自分が理解するために、順序だてて書いているので、不明な点は資料を参考にし書き加えているので、長くなってしまう。web頁は容量300ギガの次男サイトに共生しているが、相当量の頁数になっているけれど、30ギガには到達してないと思う。まだまだweb頁を制作していくつもり。
しんPCとHPソフトと日本語辞書の相性が悪い。古いPCを使ってweb頁作成のほうが体に馴染んでいた。互いのソフトの癖を覚えて使い慣れるしかない。


 
 

8月24日  風はあるものの、気温ぐんぐん上昇し雷鳴もとどろく。雨はなかった

■朝から、何度も グラバー邸に関する長崎漫遊記を読み修正し、いったん完成としwebアップする。トマスグラバー氏は維新期の日本人にとってどのようなイギリス人に写ったのか、そして日本の地に骨を埋めるまで親しみを積み重ねたのか、それらを想いながら、まとめてみた。
今後も、資料を集めて、間違いなどを修正していきたい。なんだか珍しい思いがわき上がって、うれしい。
 







   8月23日  陽射しややつよく蒸し暑買ったが、夕刻風がでて爽やかなり。

■午前は街中にいき雑用をする。

■午後は長崎漫遊記後半を仕上げはじめる。長い漫遊記となる。

■FB投稿

千石船は建造費いくら?
幕末艦船がなどが輸入され鉄道網が張り巡らされるまで活躍していた千石船。1840年代一隻千両 2000年の金額でやく1億円だそうだ(商いからみた日本史P173)一航海で千両の利益をあげたので、3年で償却してしまいあとは儲けだという北前船。グラバー氏が西南諸藩に仲介した艦船は一隻100、000両だとか。千石船の百隻分の値段だね。
絵は千石船 気仙丸 webより 本の内容は宮城資料ネットでお世話になっている(理事長かも)斎藤善之の語りより
     8月22日  

終日、グラバー邸の漫遊記を書く。ほぼ出来上がったきがする。
午前中合間に、食材を買いに行く。また焼肉中心の食材を買ってしまった。米が不足しているとメディアが流しているのだろう、スーパーの米の量が少ない。
平成の冷害凶作のときはインディカ米を食べたので、日本産コメでなくっても俺はいいけど。今後注目。

■my長男、宮城県の文化財審議員についたとのこと、これまでの経験をいかして、活躍するための土壌づくりをしてもらいたいが・・。運しだいかな。

■FB投稿
トマス氏が26才で建設したグラバー邸は住宅ではない
という結論に至る。(兵器艦船をみる商業施設)
そう解釈してグラバー邸をみないとわからないし、トマス氏の人生をほとんど知ることができなくなると思う。
■絵は断面図と 完成当時のグラバー邸の庭先俯瞰図。これで住宅と言い張られても、おれは承認同意はしない。

明治維新前夜とはいえ、居宅に大砲や小銃を並べて、艦船の大砲からの防護壁も構築しない住宅って、命知らずだよね。アームストロング砲で一発で木造平は住宅こなこなでしょうから、住宅としてはバランス欠き過ぎなんで、これは大砲と銃の陳列施設であり艦船上から眺めて買ってもらうための展望場と解釈すべき・・俺の自由解釈ですが、興味のあるかた検討くださいませ。

日本人(幕府を含む西南雄藩の会計契約かかりの武士)も契約しておいて混乱にまぎれ、買受たそれらの全額支払わない、などなかなか(笑)小ずるいんじゃないかな・・。

   
 8月21日 のち曇り


1日資料を読み込んだりして あれこれ考える日

■FB投稿

クローバー型平面 長崎グラバー邸を住みついだ人々
珍しい集合写真あると知る(現物の写真を観たい!) 
グラバー商会は10年ほどで倒産。他者の手に渡らず踏ん張る奇跡もある。グラバー家は長崎にとどまった。長崎グラバー邸はその後、原爆にも遭い、米軍に接収される。三菱に返却されてのち長崎市に寄贈されるまで、波乱万丈危機一髪の道のりを経て世界初のベランダコロニアル建築が残った。(不思議でおもろい建築的物語)個人所有の住宅古建築を保存継承する力はどこから生まれるのか、少し解った。ヘリテージ・マネージャーはいなかった。が残残った。
■ヘリマネについてはいろいろ思うところあって3・11後すこし活動した。たいへんに難しいく高度で人らしい営みの一つでもある。市井に建築への意識が薄いなかでは保存の実例はうまれ難い(文化財保護法の改正もあり都道府県と市町村連携する法整備もあるのが・・機能していないようにみえる。←原因省略)

 






   
 8月20日  気温上昇し暑い日。とはいえ猛暑には至らず。夜コオロギ盛ん

■午前、図書館で、フェリーチェ・ベアトさんによる幕末の写真集をさがす。220頁ほどの『レンズがとらえたF・ベアトの幕末』があった。外国人がとらえた幕末日本TとUがあった。ついでに『幕末の写真師上野彦馬の世界』みつけたので借りてくる。

■午後写真集を眺める。グラバー邸に関する記録と写真を照らし合わせながら撮影年度と撮影者を推測する作業をする。

若いトマス・グラバーを撮影したのは誰だろう?
(たぶんにフェリーチェ・ベアトさん)県立図書館の数少ない写真集をあさる。上野彦馬さんが撮影した写真だと思い込んでいたが、『上野彦馬の世界』2012年刊行には、56才のトマスさんの肖像写真が載っいた。が、最初の最初の若い時分のモノクロ・トマスさん肖像の掲載なかった。
最初のモノクロのトマスさんは若い、上着をみるとフェリーチェ・ベアトが撮ったグラバー邸の庭先の集合写真と着ているシャツ上着が同じ、さらに髪型も同じだ。グラバー邸が完成し1年後の1864年。27才のトマスさんをとったのはフェリーチェ・ベアトさんだと仮定しておこう。
■56才のトマス・グラバーさんは人がらを表す、いい写真だ。
■写真集好きでいろいろ持っているけど、紙質と大きさが重要だと思う。
■昨日投稿した、フェリーチェ・ベアトが撮影した「出島と居留地をふくむ長崎湾景」の写真。撮影した年がよやく分かった。1864年(『外国人カメラマンの見た幕末日本U』36頁)

上野彦馬さんの貴重な4カットいい!
ようやく見つけたぞ!高島炭鉱に関する写真。佐賀藩とトマ・スグラバーさん共同開発する、初め順調に採炭できず倒産の原因となり、後を引き継いだ一人挟むんだけど、岩崎弥太郎大儲けとなる高島炭鉱。これなのか。(乳首2つ写っているとFB規定に違反のようだ白テープはって再投稿)
■3人の芸者さんと上野彦馬・セルフポートレート(1869・明治2年)上半身ヌード お酌をさせ、燗をつけさせ遊戯。彦馬さんにやけている貴重なショット。ここまで撮るスケベは現代人いなさそう)
■明治10年の長崎造船所立神第一ドック、迫力だしている構図だね。
 

















   
 8月19日  台風がとおのき一気に気温上昇し、夏もどるも、夕刻からコオロギなき秋の様を演出している。秋のトンボも見え始めた。

■グラバー邸について、こつこつ書いている。「死の商人」というレッテルをどうするか、迷いに迷って、なんども書いたり消したりして、全体が見え始めた。数日内に仕上げてみたいが・・・

■FB投稿

長崎の居留地でトマスさんが管理あるいは保有していた土地と風景
区割り図はだいぶ前に見つけていたが、その様子を写した写真がなかなかみつからなかった。我が書庫の写真集におさめられていた。出島もくっきり、居留地もくっくり。
■写真撮影はフェリーチェ・ベアトさん撮影、年代は明治12頃とある。出島周りの埋め立てがなされていない出島らしさを記録していた。

フェリーチェさんはトマスさんより6才年上で、イタリア生まれのイギリス写真家とある、19才で第一回万国博覧会を見たり撮影したりしているのだろうか・・https://ja.wikipedia.org/.../%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AA... 

 


   
 8月18日  台風がそれたので、気温上昇したが、秋の気配も感じる。

■グラバー邸について 長崎漫遊、グラバー邸について書いたり、直したりして1日過ぎる。たいへん興味深いので、いくら書いても飽きない。長ければいいので、一度書き上げて削ろう。

■FB投稿

我が家の長いお盆の連休は今夜でお仕舞い
久しぶりに、のんびりハンバーグを作る。ジューシーにできた。夏は肉を食って乗り切る、これは老若男女に効くのではないか。(肉くって元気は通年同じかも)今年の夏は安くてうまい肉の買い方を学んだ。いい食い物に会うもの偶然かも。肉は前立腺がんの源である男性ホルモン向上するので、球にはいかん食い物だから禁物だ。が、夏バテ、熱中症対策を優先であちらはかまってられん。
      8月17日  のち雨、夕方あがる
台風の影響が心配だったけど、東に進路を変えたようで、さほど気にならず。夕方から気温上がり気味。

■午前、食材を買いにスーパーに行く。夏の体力保持のため、なるべく焼肉をたべるようにしている。はたして、尿酸値に悪影響をあたえるのか・・実験中。尿酸を押さえる薬を飲み始めて2週間ほど、左足の違和感は消えている、そう感じるが、尿酸は血液検査しないと分からないので通院するしかない。月末にしよう。

■他の時間はグラバー邸について長崎漫遊を書いている。気がすむまで書く予定なので、長くなりそうだ。
     
8月16日  台風の影響でぐずついた天候、夕方から蝉なく

■長崎漫遊記録を再開しだす。グラバー邸の書き出しが決まらず、1日が過ぎてしまう。
 港区立郷土資料館にはグラバー邸の資料があるようだ。web頁がヒットした。上京したら港区の資料館を訪ねる楽しみができた。

     
8月15日  時々日差しあり 

■79回目の敗戦記念日。首相総裁選立候補せずの会見をうけて今日はにぎやか
■1日、資料読み込みする。
■家人は薬が弱いのか、台風、低気圧など気圧に過敏のようで妄想気味の語りをする。落ち着くだろうから、しばらく様子みよう。

■FB投稿

トマス・グラバーさんジェントルマンとして認められてたか?
イケイケのビクトリア朝・イギリス本国からは認められず・・だったでしょうか?(⇔資料見ているけど見つからない。で、ゴロゴロ出現した冒険商人の一人だという認識)それが後々、長崎観光の名所の一つになっている(経緯省略)グラバー邸を26才で建築しております。
■グラバー邸に大砲を設置し薩摩・長州はもちろんのこと幕府にだった、戦艦、小銃売りるなどうるうる、敵味方になんでも売る姿勢でも10年で倒産する。グラバーさんの本国は「薩英戦争後、イギリス軍のキューバー提督の言葉・・・ひじょうに恥ずべき事実ですが、数隻の軍艦が居留地民保護のために結集しているのも、その居留地民はあまりにも、無節操で自らの利益をあげるために日本人にあらゆる種類の武器や弾薬を供給し、われわれの地位を日々困難におとしいれています。すでに薩摩藩とこの種の取引は大々的におこなっている長崎の一イギリス商社(グラバー商会でしょうね)は、さいきん同藩のためにイギリスにウィットワース砲10門を注文したという報告をうけました。」とある。
■現在ならロシアとウクライナにドローン兵器を売って儲ける、死の商人という、ような者でしょうね。(写真絵:『蘇る幕末』ライデン大学写真コレクション)
■新興ブロジョアジーもパブリックスクールやオックスフォード大学やケンブリッジ大学に学んで特有の価値意識を身に着けているジェントルマンと認められないかぎり、支配階級の一員として社会的威信を発揮することはできなかった。『イギリス』より。だから外国にわたり冒険商人になり、儲ける儲けるということでしょうか?

 



   

8月14日 曇りがち

■午前午後資料読み込んで資料読み完了
■午前食材を買い出しにスーパーへ夏は焼肉がいいね。と安い肉を買って焼肉する。

■FB投稿
鎖国や開国についてグラバさんを通して読むなるほど満載
日本は鎖国していたとは言えないね。鎖国令は江戸幕府からでてにないので、「ゆわゆる鎖国」とみるのがよさそう。長崎をつうじ大航海時代西欧と海上交通で結ばれていて、エロも、酒も金も肉食も貿易もなんでもあり。歴史教科書とは違っておおいにオモロイ。ふむふ、会津藩は負けちゃうわけだよ、福島藩は話題にも上らない、それは現在と変わらなかも。大航海時代の地勢、地と政治の蚊帳の外藩は、見せしめてき標的にされちゃうわけだ。
■今日は、冒険商人・ トマスグラバーさん18歳に初パスポートが発行された日(らしい )1856年(168年前)8月14日パスポート発行。行き先「大陸」。1863年グラバー邸を建てる26才。グラバー商会絶頂期。庭から長崎港湾に向け大砲を並べ販売。帆船もうるうる。
1870年8月グラバー商会倒産 さすが冒険商だ金繰り下手じゃんじゃんかりまくって倒産。腕の立税理士が要ったね。

     

8月13日 時々雨 蒸し暑い日

午前、午後資料を読み込む1日 家人妄想コトバ多めになっている台風の影響だろうか。
資料読み込みは明日でお仕舞になるかも・こつこつ作業中。お盆があけたら聞き取りする予定。

     
 8月12日 のち夕刻に晴れ 台風の影響も少ない福島市だった。

■my長女の誕生日メッセージを発信する。
■日中は『明治維新とイギリス商人』に目をとおし主要な点を抜き書きする。
■花田先生と40分ほど『地平』掲載論を題材にweb電話で語り合う。
■鈴木先生よりお菓子の詰め合わせをいただく。(美味い。長崎の味は洗練されている)
■家人の妄想が激しいような気がするので、夕飯のカレーを指導いれてもらいながらつくる。肉はバラ肉の塊を買ってきて5ミリほど薄く切って煮た、缶詰トマトを入れると味が一段良くなる、それがカレーの秘訣かも。みな大いに食べる

 


   
8月10日  台風5号の影響かぐずついた空模様。今日から明日にかけて雨ふりとのこと。被害がなければいいが。夜、遠くに方から花火の音が聞こえている。

■皮下ホルモン注射の効果なのか、気圧の変化に老体が対応しきれないからか、だるいので、ぐだぐた本を読んですこす。昼寝もする。

■FB
鶏の唐揚げをおしえてもらう
おもったより美味い唐揚げになった。質素夕飯。次回夏はピリ辛がいいんで挑んでみよう。
鶏のから揚げで親子丼はなぜつくらないのか、これも挑戦してみたい。俺が食うだけだから明日の朝飯でつくろう。
 






   
8月9日  

■早朝花田先生依頼のサキノハカを更新する。
■食事を早めにとり、徒歩で街中に向かうも、暑いので諦めバスに乗る。銀行などで用事をすませ、バスを乗り継いで福島赤十字病院にいく。
採血をすませ検査結果が分かるまで1時間ほど待つ。数値は最低をキープしているので、今日の皮下ホルモン注射でお仕舞。2年間効かせるために半年ごとに高価な注射を4度したことになる。1本あたり4万円ほどだ、保険に加入していないと財布も辛いだろうが、幸い2割で接種してもらえる。過去の注射同様、ちょっと痛いのが数日続くように思う。

日赤からはバスと飯坂線電車を乗り継いで、帰宅。涼んで飯を食う。皮下ホルモン注射は俺にとっては大イベントなのだ。あとは半年毎日一錠ホルモン剤を飲むと治療は終わる、と伝えられた。


■FB投稿

花田達郎先生に『地平』9月号をいただく。
(サイト内記事も更新) 紙質もよくって読みやすい月間雑誌 http://fullchin.jp/00sakinohaka/0h/front2.html)
特集1「ジャーナリズムをさがせ」、特集2「核廃絶への意思」両特集きょうみぶかく拝読。特集1は朝日新聞もと記者(宮崎、木村両当事者)による、原発F1における吉田調書取り下げ事件にかする発言。木村さんとは当時飲んでだべってたので、理解しているつもりだがお笑い記事になってしまっているのはどうか? 
花田達郎先生による3回連載「第三のジャーナリズム─身体に発するコトバ」ないようの公共圏の退場に関しては電話で異論を伝えた。建築界ではまだまだ公共圏という概念は有効で、無ければ個人が好き勝手につくるだけの領域になってしまうだろう。
第二特集は女性の書き手が多くよい。


暑いなか、皮下ホルモン注射完了!
ホルモン剤は残り半年でお仕舞、だそです。この2年ほど病院通いに明け暮れているが、まだ生きているので暑い!
(今日はバスと電車と徒歩で通院)
 





   
8月8日 曇りのち午後 暑くなる。

午前中資料調べ、午後県立図書館に本を返却する。ついてに隣の美術館の展覧会を観る。すいている。斎藤隆さんの、幅5mぐらいだろうか大きいダンスと40年ぶり対面。習作の鮭の頭もあった。


■FB投稿

関根正二の牛を描いた油絵、初見(若い筆さばき・印象派ふう)
福島県立美術館開館40年記念展。美術館の設計図面も展示してます。(普段はだれが設計図書を管理者知らない)40年間のポスター並べてあってた。俺持っているポスターは写真系。常設展と共に観るぐったり疲れる。

「鈴木達治郎先生1990年代を語る」記録公開!
http://fullchin.jp/etu24/suzuki/20240724/su0724.html
(2時間の肉声を文字に記録しないようです)
MITでの日本、ロシア、アメリカなどのプルトニューム研究報告書まとめ、96年帰国されます。そこで日本の原子力にかんする提言をし国際会議などを開き続けるなか「国賊」とラベルリングされ、脅かしにも遭うなか、パグウォッシュ会議にも参加され、核廃絶の研究も始まる経過などが語られております。
多量にある日本のプルトニュームはどうすべきでしょうか、核兵器をなくすにはどうすればいいでしょうか・・など核燃サイクル・原発にも興味のある方に読んでいいただければ幸いです。感想も歓迎いたします。
     
8月7日  午後、強い夕立あり

■長崎漫遊、グラバー邸に関することを書き始める(再開)

■花田先生より『地平』9月号送付していただく。今月の特集はジャーナリズムをさがせ、と核廃絶への意思の二本。
先生の記事と、宮崎智己、木村英昭さんの記事を読む。

■FB投稿

突然きた
雷雨を口をあけて眺めておった、上がる
行きかう車は道の水を吹き飛ばしにぎやか
どこかで大水でていそうな痛い雷雨だった

人生初の文字お起こし記録・・なつかしい。
「篠原一男の世界」@中村正義の美術館(直方体の森)1995年12月2日。この記録は公開できなかったが、中村正義の美術館では閲覧可能なはず。(館長さんとはお友達で直方体の森にはなんども泊めていただいたよ)近くに粟津さん自邸(原広司・設計)があって、館長と粟津・娘さんなどが同級生だったので連れていかれ、家の主のような亀や粟津さんとご対面、奥様にお茶をふるまっていたただいた。粟津さんデザインの画集もたくさんいただいた。

花田達郎先生の論考に手をとっていただければ幸いです!
2007年から今日までの花田先生によるwebでの発信内容は、以下URL「サキノハカ」のアーカイブのとおりです。
http://fullchin.jp/00sakinohaka/0h/front2.html


 







 
 8月6日 ときおり日差し、または小雨来る

■午前中は本読む。途中、食材買い出しにスーパーに行く。品揃えと質が落ちている、そう感じるのは老人の気のせいかな。

■午後、資料整理をする

■FB投稿

トーマスグラバーその人に関する本まとめ読み完、4冊推し。
たくさんの書籍があったけど、俺はこの2冊が気に入った。右は高校の教員が著者、グラバー入門書としておすすめかも。イングランドの商人事情を背景に取材が少ない点はいなめない。左はロンドン大学の博士課程をで慶応の教授。この著は実に簡潔にして俺の知りたいことが端的に記されていて読んですっきりする、完全に目くばせがされているのだが、専門家の悪癖に陥ってないので、分かりやすい。
■グラバー邸に関する本、手持ちの本で足りる。藤森さんの講談調の文面は好き嫌いあると思うが。建築を一般のかたがたにいざなうための良書と俺は思うが、そう発言したら学者の方に鼻で笑われたことがある。で、専門業界での評はしらない。俺は、明治初期の戯洋風建築に興味ないが、大工たちの好き勝手に腕を振るう点は、高度に専門化してしまった現在の建築界の若い人には思い至らない仕業に見えるだろうか・・こんど聞いてみよう。明治金持日本人は建築に対する興味がほとんど無いように思う。表面だけまねて当時の暮らしから生まれるべき建築になっていない、そう感じる金持ち古建築多すぎるないか・・人間の生から建築は生まれるってことを知らない時代なんだろう。表面の様式ばかりまねる、あるいは素材に凝るたけで、豪華だと胸を張る。無知は最強かも・・(たくさん見てないで書いちゃったけど)

聖なる火に焙らる地球って、趣なのか?
パリ五輪の聖火台だそうだ。エスプリ効かしているんだろうか、聖火のうえで焼かれ銀球の気球のようみえちゃう。自己批判する聖火初登場。
(死ぬ気で金メダルとれって選手に激をとばす監督を、現代にあった監督に転換させる教育しなおした方がいいよ、そういう国、精神論で解決しようとする人々に未来や、次世代は無いんじゃない。フランスに負けるよ)
     
8月5日 午前中 ときどき日差し、午後一時雷雨、夕刻にあがる

■パリでオリンピックを観戦しちているmy長女より写真が時々送られてくるので、身近なオリンピックのような気がしてきた。TVないので観戦しないけど、雰囲気が伝わってきて、面白い。 競技場の最前列とも言える席がとれたようだ。ブルーのトラックが美しいね。

■午前、町に出て雑事を済ませる、駅によってカツサンドを買い昼食にする。
■午後、『トーマスグラバーと倉場富三郎』を読みながらメモする。

■FB投稿
陸上競技場からレポートあり
満員、チケット最前列にちかい席とれたとか(ネット活用上手のかも)レンガ色のトラックを脱してブルートラックいいかも。男子110mハードル予選みたい。天井のカメラが選手を追うのかな。

 





   
 8月4日   たいへんい暑い1日

■近所の農協直販店から桃を発送する。ついでに家庭用桃と枝豆、みょうがを買う。暑いので昼寝ばかりしていた休日。

■FB投稿
枝豆と桃@福島市産。ようやく夏だな!福島の夏来た、と思える5日間ぐらいかな。で、近くの農協直販店いき、枝豆と家庭用桃を買う。豆は家で4%の塩水でゆでたら、うまい。桃は柔らかいけどうまし。(通風がでて尿酸値増進するビールは禁止の夏)
鈴木達治郎先生、1990年代を語るから
web頁見直しほぼできたので、一つ紹介。戦争をする国へ、ばく進中の日本政府。そいう状況下なので「科学者平和誓約運動(Peace Pledge, Japan)」鈴木先生が開始しました、ぜひ科学者にかぎらず、文系技術系の人々も、他国の人人と殺し合いしないために誓約されることをお勧めします。運動に対する反応など様々がありるはずですが、90年代末は1999年の朝日新聞記事のようだったでしょうか、確認することもできます。バブル経済が崩壊し失われた10年あたりで、湾岸戦争後、イラク戦争前の日本の世を反映しているよう・・・ですかね

my長女 柔道団体戦応援にパリ。チケットとれたからとか観戦。その 内と外のようす。
決勝戦 選手の皆さん、対戦相手の皆さんパリも暑そうですね。よい柔道ありがとうございます(感想)

 


   
8月03日 

■午前中、県立図書館に行き、新聞記事を探す。
■午後、web頁の仕上げ作業する、暑いね。ほぼできた。
■my長女、パリに行き、柔道団体戦を応援しているとか。写真が送られてくる。

■FB投稿

1990年代の「鈴木達治郎」先生に関する記事採取@県立図書館
(「鈴木達治郎先生、1990年代を語る」文字化済)
■今日から絵や記事データ、あったら動画埋め込みもしたい。メディアミックスweb頁が俺好み。
■で、県立図書館で作業。司書の方々2000年代いこう親切になりすぎて、らくちん爺さん。新聞記事を探すのは目的以外の他の情報に囲まれているので、それも見たりするのが好きで、あ、そうういう時代状況だったか、と思い出せる、それも楽しみの一つ。
例えば、鈴木先生がMITでプルトニューム研究に関する論文を発表し続けた1990年代は、野茂英雄がドジャースで活躍した米国だったなんて、目的外の情報を得る、おおいにわき目をふってふって、楽しむ。


 



   
8月02日  夏らしい天候になってきた。時々ミンミン蝉もないている。

■午前中設備屋さんがやってきて、湯沸かし器を交換する工事を行う。2人で12前に終わった。手早くって助かる。
■1日中鈴木先生の90年代語りのweb頁をコツコツ絵などつけて仕上げ始めた。

■FB投稿

湯沸かし器交換工事完了(左新型 右:故障)
90年ごろ交換した貯湯式湯沸かし器、30年経ったので、タンクが錆穴があいたかも、で漏水さかん。で交換。(元日本製品長持ちしたよ。(my次男による資金提供)
■既存配管に継ぐので配管ぎこちなし、まいいか。10年間保証とあるから、俺が生きている間は故障なしかも(笑)

 







   
 8月1日  時々晴れ

新しいホームページソフトを購入し新PCに入れて使い始めているのだが、どうも古いそれらの方が使い勝手がいいと感じる。俺の使い方が悪いのだろうか、高価なソフトだったわりには期待はずれであった。使いこなせるようにしたいが、どうもであるよ。

■午前中鈴木先生による1990年代語りをを見直し、校正いらいをする。
■午後新ソフトを使い込むための練習する。

■FB投稿

袖なしのレース編みの夏衣装
家人が1.5ヶ月、糸代1万円弱で、自分のために手編みした夏着が先ほど完成、さっそく着て昼寝もよう。
■心臓に負担がかかりすぎていると思っていたので、担当医師にお願いし、薬の量を1/2にした。(さらに1/2までいければいいが)症状悪化のもとで荷造紐で編んでいた。が、いまは高価なレース糸で編み始めた。
■情報量が大きい他者との交流は難しい。今後、以前の交流の場を我が家で持つことはできない、そんな気がする。人の心も病気の症状も変化し続けるので、状況に応じた暮らし、活動をすればよいので、なんも問題もない。