佐藤敏宏  HOME  9月の日記へ 
   2019年10月の日記        

 10月30日 晴れたり曇ったり、時々陽射しさす

ツイッター板に仙台短編文学賞(河北新報)という懸賞ありのことが書いてあった。文字数は原稿用紙25〜35程度で、仙台、宮城、東北と何らかの関連のある短編を募集しているとのこと、東北の土地と人の機縁を考えてほしいとのこと。

ボケ防止に、書くことも始めてみようかと、ノート1頁を400字詰めの原稿用紙に仕立ててみた。なにかかけるかもしれない。下手でも始めないと、好い作品へ至可能性もないように想う。ボケ防止と脳トレみたいにさっくり構えて3・11後のことをかきとめることができればいい。

締め切りは 11月15日 
審査員は「鮮やかな切断面を持つ作品をよみたい」そうである。

 10月29日  にて気温低し。からっと秋晴恋し

■中山英之さんに関することをまとめておこうと思い立ち、こつこつ作業をしている。ようやく10月14日の中山英之さんの個展と講演会場のようす、そのごの親睦会のことweb記録として仕上げた。(誤字抜け字など多い)まずwebにあげFBで知らせた。肩に力を入れずこつこつと、先日の講演の内容や中山建築について書いてく。
以下、FB投稿より
中山英之建築・入門帳を始めました
 10月14日に仙台で行われた展覧会と講演会に参加させていたき、この機会に「中山さんについての記録を」まとめておこうと湧き上がってきました。その理由は分かりません。
http://www.fullchin.jp/hito/naka/01/mokuzi.html
長い記録にしようと考えています。なので途中記でやめないように、目次をつくりました。建築好きだけど、暇でしょうがない方の通勤路にチラ見していただければ。
また中山建築大好きな方なら、どこかでお会いした機会にでも、話のネタにして盛り上がり合えればいいなーと想ったりもします。...
(次回からは中山英之さんが仙台で語った内容を何度かに分けて記録したものになります)
中山さんの傑作は 完成しなかった扉プロジェクトなんだと、いまは思っています。その事も徐々に理解し合える、そんな記録へと育っていいくよ、完成させるつもりです。



10月25日 明日午前まで強雨の予報、県内にも避難勧告が出る

資料整理をする。雨の中買い物もして秋晴れ恋し。my次男この冬は薪ストーブを使いたいとのことで、薪を注文したとのこと。

■FB投稿『日本史』と『aLIFE of EXPO』並ぶ!
11年まえから各地に出向き泊めてもらい、単に聞き取つていた。そこで得た肉声を、そのまま文字にし、web記録を作り編集せず公開する。乱暴で無目的なそんなmy活動を「ことば悦覧」と名付けて今でも実践している。(俺が他者の家々を泊まり歩くを「星座型居住の実践」と名付けている)
靱公園の木々とそよ風が爽やだった事を思い出す2008年5月大阪。どこへ行ってもカンカン暑い2009年8月京都。
さきほどそれら二回の活動資料保存袋を引っ張り出して眺めてみた、
大阪の袋からは『aLIFE of EXPO』。京都の袋からは『日本史』など稀なる品々が姿をあらわした!ではないか。...
前者DVDは原田祐馬さんから、後者の『日本史』は清水久和さんの作品集で岡田栄造さんからいただいた。すつかり忘れたいたが、手に取ってた瞬間に思いだす、この物の力と懐かしさに浸ってしまう。
袋の中の皆さんも大活躍中で、知らん者は知らんだろうが、10年経つて各領域で有名な方々であり、相変わらず、よい仕事振りを続けていることは記すまでもなかろう。
◆DVDには、サンチャイルド像@福島市で、すつかりお世話になっているヤノベさんや旧知の五十嵐太郎さん、菊竹清訓氏らが「跡地が見る夢」との題で、3時間ほどワイワイしてる。そんな動画も編纂してある。
『日本史』の岡田栄造さんが記した「父なる井伊直弼、母なる髷」の巻頭文は味わい深く、「この作品を完成させてのち、体調を崩した」と清水さんが語ったような気がする、空耳だつたかもしれないが、作者の無自覚な魂のもっと深い処から生み出された「髷の貯金箱」も「井伊直弼」シルエット形の鏡も、ひとの奥深い処に入り込んでしまい、ひとの無自覚な魂を揺さぶるのだ。作者は当然の反動として、彼らから発せられた見えない波動を受け止めてしまうだろう。作品とはそういう無意識な領域に何かを伝えてしまう、人の行為の為せる物。
ヤノベさんの「サンチャイルド像」も「髷の貯金箱」同様、作者も無自覚だろうが、多数の人を、ざわつかせ続けて、ここにある問題の諸処と現在を顕在化させてしまう。よい作品とはそういう作用を社会にもたらす。その事で他者との共有、反発など対話の荒地がカオスを吐きだす。
◆中山英之さんに関する記録をまとめ資料整理していたら、サンチャイルド関係資料集め作業とも繋がりだした。10年前には思いつかないかった、過去と今の無意識の行為が繋がり始めた。この現象は俺だけにあるコンステレーション(星座)効果なんだろうか?秋深いどんよりした空を見る。何にも応えてくれない。




 10月24日  今年は曇って寒い日が多いように感じる

■この10年間渡り、中山英之さんの建築(岡田邸)に関係した人々を聞き取りしていた。14日に仙台メディアテークで2時間ほどの講演を拝聴し、中山建築の意味を俺なりに、俺の分かり方で解ったように思う。そこで10年間におきた中山建築体験をまとめて記録して置こうと思う。数か月かかるかもしれないが、暇さえあればコツコツまとめていきたい。なにか指標がないとダラダラ尻すぼみになるように思ので。そうそう、まず目次、というか章立てを作ってみた。(この記録完成しても、他の方に役立つとは思えなのだが、お告げが来ているのですこしこ)

一部
1)岡田栄造先生からのメール 2)岡田邸、中山建築に宿泊する 3)岡田邸な私しにとってのような建築か(建築の理想は路上である) 4)竣工直後の岡田邸の様子 5)数年後の岡田邸の様子(他者との交流の場に) 6)岡田邸を作った関係者にお会いする 7)岡田夫妻に聞く 8)岡田さんお母さんに聞く 9)満田衛資さん(構造設計者)に聞く 10)永岡さん(施工者)に聞く 11)中山さんに聞く(設計者) 12)三島さん聞く (模型製作・現場管理) 13)家人の病と私の聞き取り行為(私にとって他にコミットメントすることとは)
二部
1)講演会の構成 2)ギャラ間でのこと 3)一番町シネ間館 4)講演会の内容(2019年10月14日) 5)二冊の書を手にとり 『1/1000000000』2108年3月25日刊行 LIXIL出版 『,and then. 』2019年5月22日刊行 TOT出版
三部
1)中山建築とは 2)中山建築の可能性 3)中山建築の破壊力と暴力性 4)中山建築の設計思想とその手法 5)まとめ(中山建築の今後)

■(二部)2019年10月14日の講演内容から、記録をまとめ始めよう

 講演を拝聴し河合隼雄先生が語る三つのCにまつわる、コンプレックス、コンステレーション、コミットメントを思い出した。理由はまだわかないので、記録をまとめ続けると分かるような気がしている。関連して京都に暮らす牧野研造さんいいただいた本『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』を思い出したので開いてみた。中山建築に関することをまとめる過程で、ふと湧きだした直感の理由や意味が分かると嬉しいのだが。

講演内容のまとめ方を講和順にまとめようかと「仮の章立」をする
1章) 自己紹介に関して
2章)今回の展覧会について
 1)ギャラ間展 2)最近のカメラ関係 3)施主の自撮り動画 3)一番町シネマ館 4)映画館について
3章)映画と関わる
 1)浪人時代 2)ヒッチコック 3)スイスにはチョコレート 4)『北北西に進路をとれ』 5)全体像のないままつくる
4章)処女作品「2004」
 1)伊東事務所で 2)施主をみつける 3)「2004」について 4)何を考えていたか 5)敷地境界線から考え始めない 6)思いついたことは絵に描く 7)模型が出来ていた 8)SDレビューに参加 9)写真について
5章)学生時代に考えていたこと
 1)ブルーノモナリーのこと(快適さの追求) 2)洋服の着方を発明する 3)自主プロジェクト(袋に移動する穴)
6章)扉プロジェクト
 1)コンペで勝利する 2)提案内容 3)建築を脱し建築をつくる 4)北海道で思ったこと 5)毎日完成しその日に消滅する建築 
7章)月の石
 1)アポロ16号のクルー 2)大きさの感覚は存在しない
8章)紙岩
 1)石は大きさがない 2)紙石を置くと空間が不思議な場に変わる 3)石をカットし個性を見だす 4)3Dスキャンする 5)深度合成機能付きカメラ 6)売れる

9章)質問
 1)中山さんのドローイングと模型について
 2)中山氏の具体的手法と抽象的手法について
 3)中山さんは建築で何を表現したいのか



  10月23日  久しぶりに温かい

FB投稿より 印刷し並べる!
■中山英之さんのシネ間館やその後の講義など(14日東北工業大学主催)をweb頁にまとめ、俺なりの中山建築とは俺にとって何か、それらは建築においてどんな可能性を秘め、その先にはどのような暴力、あるいは建築の開拓力を内包しているのかなど。いろいろ記録しておきたくなり、印刷作業を始めた。
中山さんが設計した、京都に在るO邸の住み手である岡田夫妻(ギャラ間で氏名公開されたので名前で)、建築意匠設計者である中山さんと模型制作と現場監理をされた三島さん、構造設計者である満田さん、施工請負者であるの永岡さんなど、以前に聞き取り記録を作っていた。10年間かかってる、それらを初めて印刷してみた!。

おー?!すごい枚数だ。その、厚さはトリュフオーがヒッチコックを50時間にわたり聞き取り、書籍化した『映画術』ほどになった。厚さだけね。...
印刷したこれらの聞き取り記録を読み返してたりなどして、中山英之さんの現在に、なると思う講義録みたいなものをつくろう!なんだか楽しくなってきた。

◆中山英之さんが京都の東山の辺りに岡田栄造さんの自宅を設計し、2009年10月17と18日に内覧会がおこなわれている。(岡田先生の親しい方々にeメール告知)
 俺が岡田邸=中山建築を初宿泊体験したのは2009年12月10日から12日。その日の宿泊体験するまで、岡田先生が自邸を造っていたことも、中山英之さんの建築設計だったことも、中山英之さんの建築設計思想についても知らなかった。
その時の中山建築宿泊体験からおよそ10年経つた先日、10月14日の仙台メディアテークでの講義を拝聴し、懇親会にも参加させていただき、ワイワイしていたら「いろいろ聞き取りしてたのだから、まとめろ!」と言われたような気がした。タップりお酒を呑んでて、すつかり酔っていたので空耳だったろうが、体の奥の方にとどまっていたようだ。
じんわりと体が動き作業し始めてしまう。

 俺が岡田邸に関する人々を聞き取りした延時間は10数時間ほどだろうか。『映画術』を刊行するに当たりトリュフオー氏が聞き取りに費やした時間は50時間だと記述してある。
聞き取り者もヒッチコック氏も、体力と映画に賭ける思いは並外れていることを明かす時間の費やし方だ。その事によって世界中の映画関係者に影響を与え、映画の世界を拡張し、多くの映画愛好者を獲得した事だろう。
(映画と実建築を比べても書いても仕方ないが)





 10月21日  

明日は令和天皇の即位を祝うひとかで、休みの間のうす暗寒い一日。

『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』を読み始めた。3つのCON(ギリシャ語で共に)と意味だそうだ。蝶はギリシャ語で「こころ」を表すとか。河合隼雄の話は平明だけれど、深いところに届いて来る。臨床治療を専門になされているので、心を病んでいる人の相談を受けると、河合さん自身も、患者と同じように深い悩みを抱えてしまうのだという。
 その気分はとても分かる、my子たちの悩みを聞い来て、同じ悩みを抱えて来たからだ。解決はせずとも共に同じ悩みを抱えるようなコミットの仕方が大切なんだという。家人の病との付き合いも四半世紀を過ぎているが、妻として治療してやるという気持ちを持って対応していたときは、家人の症状が酷くなるばかりだった。しかし妻ではなく一個の人間の悩み共に生きる、妻ではないのだ。そう考えてからは病んだ家人は少しづつ、彼女の悩みから解放だれて来たように思う。
 311の地震災害や放射能災害に遭って、彼女は再び深くて重い悩みを抱えて症状を悪化させたが、治そうという意図を持っていなかったので、それ以前20年間病み悩んだ時間より少なく、一時入院させたが、彼女は6年ほどで悩みから解放されていた。日々悩み解消し生きようとすると、困難は増すばかりで、病と共に生きしてきいこうとし暮らすと気分も重くならない。そして病み悩む解消期間も短い。その事の因がこの本を読むと再び腑におちるし、なぜかも解る。

■FB投稿

『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』を開く
中山英之さんの講義録などを作っていると、なぜか??河合隼雄さんを思い出した。
思い出したキーワードは三つのCで、「コンプレックス、コンステレーション、コミットメント」。

この本は京都の牧野研造さんに頂きました。場所は京都の牧野さんの事務所を訪ね聞き取りしたおりになのか?2009年8月9日の聞き取り2017年1月27日だつたか、それとも別の日だったか思い出せない。...
河合、村上、両氏を説明する必要はないと思うが、会談した日が興味深い。
本書用の対談まえの1994年春、河合隼雄さんがプリント大学に滞在していたとき初めて河合、村上対談がおこなわれている。それは刊行された『ねじまき鳥のクロニクル』について語り合う目的だったそうだ。
およそ一年半の後、三部が刊行されたのを機に、再び1995年11月の二夜を使い、京都でお二人が会談された。その内容を書に編纂したもの。平明で深いし、今でも古びる事はない。岩波から出されたテーマを、楽しみながら語り合っているし、今でも続いている日本の人人の困難の深層をわかりやすく記されてもいるので、若い学生さんにもおすすめの一冊だ。
第二の敗戦であるバブル経済破綻後に起きた、阪神淡路大震災、オウム地下鉄サリン事件の年の瀬の話し合いなので、311大震災そして、今年の数々の水害のあとに、深く痛んでしまった「こころ」を見つめ、抱きしめ生きている方にも、良薬となる気もする。
 そんな堅い問題でもなくとま、ずーっと夫婦関係にて悩んでる老人にもおすすめ。
 中山英之さんの著書である『1/10億』(0が多過ぎるので10億と読めないのでそう書いた)を紹介するのはまたにしよう。



 10月19日 時々雨のぐずぐずした天気

■中山英之さんの『and then』に関する話をまとめだす。仙台で14日に拝聴したり、映画を観たりした内容を自分にとっての記録を作って置こうと思い作業をしただす。たくさんの言葉をメモにしたので、それをPCに打ち込んだりした。

 それらをPC文字にしていると 深層心理学者である河合隼雄先生の「コンステレーション(星座)」という言葉が、「中山さんの語り」をまとめるに当たってのキーワードにするのもいいかもしれないと思い出す。
 星座型居住のススメや、建築の理想は路上であると長年にわたり言ってきたので、どうしても、自分の考え方に引き寄せてまとめてしまうように思うのだが。それは中山さんの建築に対する疑問の解き方を建築を星座としてたとえれば、一つの方向からしか見て語っていない建築を、他の星に移動して見たら、そのような建築(星座)見えないのだから、新しい建築の見方、あるいは作り方を発明したい。という熱意溢れる建築語りになっていると、そう例えると分かり易くなるのではないの、そんな直感が沸いたのだった。

 ゼロが多くて、一瞬で『10億分の一』と分からない2018年3月に刊行された本。それをを見ても、スケール横断がなされていて、かつ最初の表紙からみ始めて最後の表紙を綴じると物語がまた始まる、そのようなエンドレスにデザインされていることもある。

中山さんの発想の源をコツコツと調べたりして、自分なりに知ることが楽しいと感じる。すこし時間はかかるだろうが、こつこつデータを基に整理して、記録をまとめてみたいのだ。

■ 『ヒッチコック 映画術/トリュフォー』を開く
中山英之さんは、14日の東北工業大学主催講演会において「この著書をボロボロになるまで読み込んだ」と伝えていただいた。なので、早速さがして眺めだした。講演内容をメモし、web頁に仕立てA4に印刷したら、32頁にもなってしまった。
これは多過ぎてまずい。バッサバッサ削って、まとめねば!そう考え映画術をながめたながらまとめ方を整理してノートにメモした。
トリュフォーが映画批評同人誌『カイエ デ シネマ』のためにヒッチコック監督を1955年冬にサンモーリス撮影所内にて、50時間インタビューした内容を、フランスでは1966年、アメリカでは1978年 にほんでは1981年晶文社より刊行。映画ファン必読の書であった。中山さんは四半世紀前に何度も読み込んでいたとのこと。語り言葉なので、読み易い。
『めまい』を2月ほどまえにmy娘DVDにて乱観していたが、中山さんの大好きな『北北西に進路を取れ』はめまいの制作聞き取りのあとに、編纂されてい、導かれ感溢れてるようなご縁を感じてしまう。

中山さんは学生時代の自主トレ作品の話もされていた。穴あるいは開口部、窓が、あるラインに沿って移動する穴と捉えて建築作品としようという意欲作である。
建築なのか?単なる穴なのか、建築の開口部としての穴ならあれあれ、東に向いた穴なら空海だ。西に向かって開く穴なら重源だ。天辺に開く穴ならパピヨンが囚われた監獄やパンティオンを連想してしまった。アメリカにネイティブな皆さんが暮らす、ナバコにあるそうな、ウィんドー ロックなど、あれこれ興味は尽きずだった。兎に角連想しまくらさせられ、快適至極であった




 10月18日 

FB投稿より
サンチャイルド関する公文書87通入手
福島市役所1階に、ボランティア受付、罹災証明受付など10.13水害対応関係対応デーブルが設けられていて、何時もの様子とは異なりました。そんななか公文書87通を受け取りペラペラめくると、いろいろ詳しく分かる!公文書だった。(たまには当たるね)
今日は新たに5通の申請書を提出。ほとんど外してるような気がしたが「無い」という通知が肝心でそるが欲しい。
無いをどう解釈するのか?それは民度との関係を表す計測器を自分で作ればよく、その事によって、多様な事が理解できる。




 10月17日  朝方冷える、昨夜羽根布団にかえたのでぐっすり眠る

■14日仙台であった中山英之さんの講義録を作り開始。たくさん執ったメモや資料を観ながら、作り始める。一端時系列にまとめてから、分類整理して後に見ても分かり易くまとめてみるつもり。今月末までにまず完成させ、時々加筆などしながまとめてみたい。
■19号台風の福島県内では阿武隈川の氾濫など、支流と合流する場所での河川氾濫などで28人の死者を出す大きな被害となった。号外もでていたので、紙面と共に保存した。


 10月16日 

近所の農協直販に行き果物を買う。まだ桃を販売したが、買わず。柿、梨、リンゴ、ブドウを買う


SNSを使って京大生との福島県の応急仮設住宅に関する記録公開を知らせる。

10月14日 ときどき小雨

仙台市内の東北工業大学一番町ロビーにて中山英之展を12時過ぎまで観る。13時からメディアテークで中山英之さんの講義を聞く。後日講義録をつくるためにコツコツメモを執りつづけた。うまくまとめたい。15時すぎに講義はおわる。
 その後16時から傍の居酒屋で中山さんを囲み学生さん、社会人の方20人弱でワイワイ呑むんで打ち上げ談話をする。 二次会は仙台駅傍に移動して呑む。
8時間ほど中山さんなどと話合い、多量の情報を得ることとなった


FBに投稿している
 中山英之さんの話しを8時間ほど聞くことができ10年こしの謎は解明。噂だけだった「仙台の秋刀魚はうまい!」を一番味の決めどこらの背脂からガブリ!ガブリ!腑に秋刀魚の鱗なし、なし、網の中でもがいてない証。焼き方も串に刺し炭火焼!正道本格!こりゃーたまらん。幻の仙台秋刀魚!くったぞー
福屋先生お世話になりました。
中山さんの小津作品 『秋刀魚の味』語りもでて、満足至極。
会場で手に入れ中山本も至極いいです!若者建築家志望者はバイブルしましょう、と伝えたいほどです。堀井さんが泣きながら講演を拝聴してた、と、の話してまして、なかなかの一日でした。東北工業大学の関係者の皆さん。展を開いてていただきありがとうございました。いいなやー!


■今年初、東北での建築系の話を拝聴できました。建築に関する話はわくわく気が踊るなやー!これこれこれだよ。その幸いをたっぷり体感しました。
今夜はここで〆なんだよ!集合写真。
中山英之先生のレクチャーは刺激的でしたが、迎える東北工業大学の福屋先生はじめ卒業生と関係者、ワイワイ尽きませんね!
〆は堀井先生の語りと中山英之先生の講演の解説、楽しい限りでありました!幸せだなやー。幸せの中身は後日書きます。そう書いて書いたためしはありません。



 10月13日  時々強い風が吹いている

 稀にみる巨大な台風19号は、都心を通過して福島沖に抜け去った。関東一円でも水害がおきているようだ。福島県内でもいわきや南相馬の河川が氾濫しているようす。福島市内を流れる、阿武隈川は須賀川、郡山、福島市内、伊達市内などの方々で堤が切れたり、水門によって支流がせき止められ、家屋や水田が水没しているようだ。詳細は分からないけど人命も奪われたようだ。ているようだ。温暖化による台風の巨大化は言われているのだが、今回の台風がそうだったのか、分からない。
■昨日の午後 FB投稿
早めに避難を!
これから上陸する台風は例をみない巨大強力とのこと。今夜の強風雨に備え、屋根の日除けを外した。
台風で崖くづれにも遭ったし、8.5水害を思い出したからだ。あのときは400ミリの降雨と思っていたら記録を見ると、300ミリ。我が家の被害は周囲の側溝が溢れ、地面から40センチほど低くした離れ仕事場の床、5センチほど浸水。
阿武隈川沿いの本宮、福島市内の南町など、ボトルネックとなっている梁川の五十沢など、氾濫し中通りも広い範囲で大水害だった。
(1986年8月4?5日に福島県県にも襲来した台風10号による)

 10月11日 

■9月9日に福島県庁を京大生と訪ね、話し合った記録をweb公開した。多くの人に検索で読んでいただけるよう、タイトルを「東日本大震災における福島県の応急仮設住宅について」と変えアップした。
 災害に遭った人々に、早く、一時的にしても安心して暮せる場を提供するのは諸所難しい点が多いのだが、災害に遭うたびに、改善され応急仮設住宅改善されているので、やがて最適解を見つけ出すことになるのかもしれない。
だが、いつどこでどんな災害が起きるかは誰も予測できないのでそれほど簡単なことではない。



 10月09日  

■米を果物を買いに、直販所にいく。玄米10kgを買いその場で精米した。新米は少し高いのだそうだが来週あたりから出回るとのこと。直販で売っている米は福島市内で生産されたものだ。

■あいちトリエンナーレは展示の一部である「表現の不自由展・その後」が3日間で展示中止となっていた。マスコミの報道によって不自由展の部分にスポットが当たり過ぎて他の作品の話題が少なくなっているのは気の毒なことだ。しかし一月ほどの間に、多くの人の対話と対策など尽力によって、昨日の午後から再開となった。詳細は検討委員会から報告が出てPDF公開されている。

■FB投稿より

「表現の自由」って、なに?
 5日に開催されたあいトレの話合いの中から「表現の自由」について憲法に関する部分を、何度も読み返せるようにメモを作ってweb保存。
http://www.fullchin.jp/aso/hyougen/20191008g.html 
 頁内容の一つは「あいちトリエンナーレ」における「表現の自由」について。
もう一つは(右の欄)大石泰彦先生による「表現の自由について」2013年著。(今・情報公開請求オヤジ化中の俺)
1)表現の自由とは何か
2)表現の自由の内容 (表現行為の自由、知る自由、知る権利)
3)表現の自由の現在 (戦争・紛争・政治弾圧がやまない国際情勢、貧富の差の拡大、大規模な原発事故の発生。それに加えて、メディアの権力批判力、および少数意見を汲み上げる力の衰弱と顕在化 といった状況下で大衆表現活動が活発化しているなか、大衆表現活動の自由全般がどのように保障され、規制されていくことになるのか)
 あいちトリエンナーレも3)の部分は討議されていると推測するが、みていない。大石泰彦が指摘されず、あいちトリエンナーレで指摘された点は、開催者と鑑賞者の間に「自立したプロ、あるいは専門家」を介在させることで、混乱を防止しようということ。
 だが現政権の手法は、菅官房長官の得意技と言われている、「人事権を一手に握り官僚を支配しする。そので忖度を誘導しすること」この手法が長期にわたって続いていることを確認しておきた。今回の助成金不交付決定に萩生田大臣は「私は指示していない」と語っている。
 自立したプロが、主催者と鑑賞者の間に介在しても、現在日本に蔓延してしまった忖度圧を跳ね返すための対策はあるのか。ここが語られ「あいち宣言」に結実するのか、そこも注目していたい。

■(背景) あいちトリエンナーレの一部の作品展示によって起きた騒動に触れ思いだした事。それは「慰安婦」関するテーマとした作品が起こした過去の出来事だった。「あーまたかー、国会議員による圧か、や組織的電凸が始まったか〜」と思った。
 2001年のNHK職員による「番組改変問題」。2007年映画『靖国YASUKUNI』公開中止問題は特に覚えている。
 前者は河野・村山談話のあと、中学歴史教科書に掲載された「慰安婦の問題を末永く記憶していく」という内容を、削除させるための「新しい教科書をつくる会」と安倍晋三官房副長官や中川昭一代議士などによる「日本の前途と歴史を考える若手議員の会」による活動によって教科書から「慰安婦」が削除された事件。
 後者は文化庁から750万円の補助を受けて日中合作されたリ・イン監督による『靖国YASUKUNI』に対して、稲田代議士が文化庁に「映画の内容を確認したい」と問い合わせたことによって上映中止となった事件。この映画は現在、YouTubeにおちていて全編を観ることができる。8月15日に靖国神社を撮影しているので時間のある方靖国問題の周辺も知ることができるので見ることをお勧めします。
 靖国神社は会津盆地でおきた戊辰戦争後に戦死者を祀るために造られた日本帝国の神社。加えて西南戦争による官軍戦死者を祀っているので鹿児島県の方々も熟知している社だと思う。
 機会をつくって靖国神社と隣に在る、「戦争に関わる品々を展示している」遊就館と体験することをすすめたい。出来たら8月15日がおすすめ。



 10月07日 

■昨夜は日が変わる24時寸前まで福島県で新しく開発した「米」の名前をweb応募し続けた。30点応募してみた。
 気分転換のため2日間集中してみた、ネーミング応募作業、やってみると色々気付きも多いし、発見もあって楽しめた。優秀賞と他5名に福島県産関連の商品など与えるとのこと。賞品目当て参加するとぐったりするだろうが、目的を変えるると、応募ものは参加したことがなかったが高齢者の社会参加としても意味があるように思った。

10月4日 
庭の秋も進み始めた



FB投稿より

公文書不存在を受け取り市役所へ
(不存在も積み重なるとそこから意味が立ち上がってくるもんなんだね)
◆ぐずついた天気のもと市役所も閑散としている。秘書課から不存在の通知を受けたので、内容についてお互いに食い違いが生まれるのは宜しくない。で、市役所に出掛けた。秘書課の担当者者と30分ほど話し合い、市役所の姿勢と現状を確認する事が出来た。苦笑するしかないのであるが俺はめまいを覚えクラクラした。
◆諸々の記録が不存在では、確かな討議など成り立たない。それは福島市と市民の相互に民主主義を維持しようと言う基本的な姿勢がユルズルなのではないか?という疑問にかわる。そう受け止めるしかない現況を、改めて再確認する機会となった。
さて、どうでもいい話だろうが、自分が何をコツコツ活動するか?それだけ。今日の曇天はやがて荒れるかも知らないがいずれ晴れる。しかし今日の知り得た様を放置したままでは、福島市における健全な民主主義の道の天空に晴れはやってこないだろう。職員数も少ないしなー。

■my長男が葛餅を手配してくれた。家人大喜び。ありがたし。家人足踏み器にのってすこし運動をし始めた。続くかどうかは不明。


 10月03日 今にも雨が落ちて来そうな 

■お金が無いので賞金稼ぎ目的に米ネーミングにダメ元で応募する。活動資金がまるでなく何もしていない今年となりそう。
■家人転倒ショックですこし元気がない、腫れは少し残っている。明日はシップよう貼薬でも買ってこよう。
■昨夜は9月の日記と書いたばかりの10月日記データと飛ばしてしまう、ぼんやりミスをした。ミスったと思うととても長い時間費やしたと思うのもので、数時間かけて復活する事ができたがぐったりしてしまい「風邪の又三郎」を聞き寝入るものの今朝の目覚めは好くなかった。
■市役所に行き公文書32通を受け取る、これはあるだろう公文書は不存在の文字で3通処理されて、すこしがっかりする。それは以下のような理由が根元にあるからだと思う。FB投稿より
・ 23通の公文書を受取る@福島市役所
時々雨がおちる曇天、駐輪場 市役所内も閑散としていた。23通の公文書を受け取り4件の申請書を提出する。(相変わらずのサンチャイルド関係)
職員数少なさ過ぎるのではないか?わずか1年まえの出来事なのに全体を語れる職員が1人もいない状況なんだなーと感じる。
311災害の記憶の継承などと唱えるわけだが、専門職員いないのでは?だらから共有すべき記憶を保全継承するための、職員要るよと提案したいものだ。(後々要望しよう) 世界標準で千人当たり日本は30数名だそうでアメリカよりさらに少ない、西欧の半分以下なんだそうだ。



 10月02日  気温上昇し30弱か

 午後、2ケ月に一度の家人通院付き添い日。病院へは家を出て西に向かって進む。そこは目では分からないほど緩い上り勾配が続く1.6km先に在る。足下がおぼつかない家人は吾妻おろしが吹くと、ほとんど前に進めないほど足の筋力が衰えているので、今日は2度休憩しながら進んだ。普段なら折り畳み椅子を持っていくのだが「今日は要らない」と言うので従った。10月なのに真夏並みの暑さと緩い上り道は家人いには堪えたようで、1km過ぎたあたりからへたり具合が甚だしくなっていたので300m進むことに基礎に座り休んだ。残り30mほどの交差点には仕上げが悪い、その隅切り部の凸凹に足をとられ顔から先に着地してしまったように見えた。
 俺も衰えていて反応が鈍くなっているようだ、よろよろしかかった咄嗟に後ろから抑えることが出来なかった。口、顎、頬、指のあたりを擦りむいたり、少し内出血したりした。傷より転んで顔を打ったことに大変ショックを受けたようなので、体を抱え慰めたりショックを和らげるようにあれこれ眺めたり、止まったり、宥めながら病院の玄関に辿り着いた。今日は天気がよいので家人はスイスイ歩くだろうとの予想は外れた。暑さで体力奪われてしまったのかも知れない。油断していたかもしれない。

 待合室に行き、冷たいお茶を買って飲ませてみたが、右手がショックで震えていてうまく呑み込めない様子だったので、左手に持ち換えさせた。看護婦さんたちが寄って来て、いろいろ声かけてくれ、徐々に落ち着いた様子の表情に変わった。
 名前を呼ばれ、診療室へ入って、先生にも転んだ事を話したようで、診察室からでてくると「散歩するようにと言われた、先生は家を出て徒歩で遠回り道を選んで通院しているんだ、帰り道も遠回りだって」と言った。足腰鍛えねばと思たようだ。しかしまずは落ち着かせることが肝心だと思い、しばらく待合室に佇んでいた。TVでは関西電力の社長などが福井県高浜町の元助役さんから3億円還流金を得たことに関して記者会見内容だった。小判をお菓子箱の下に仕込んで、と。テレビドラマのような話をしていたような気がした。

 帰り道はタクシーを呼ぼうかと思ったが、「大丈夫」と、いつも騙されてしまうのだが、少し元気になっていたので、歩いてみた。途中にある農協の直販所で今年最後の桃を11個入り一箱1100円で買う。ついでに外のベンチに座り、冷たいヨーグルトを食べながら、あれこれ話合う。

 
 無事に家に戻り、車椅子の値段を調べてみた、数万円で買えそうだ。だが体力をさらに弱めてしまうのではないか、と思い直した。
 「明日から松川の堤まで往復する」という。が、まだ足がおぼつかないように想うので、車に引かれてしまうかもしれない、多くの人にも迷惑を掛けてしまうだろう。そんなことをあれこれ考えた。家人が苦にならず足の筋肉を鍛える方法は何かないか?「そうだmy長女が置いていった足踏み器だ
 思い出した、倉庫から出してみた。組み立て方が分からなかった。あれこれ組み立てを試してみて10分後に正しい組み立てを見つけた。
 載ってみたが踏み心地もよいし、想った以上に足腰に負担が加わるようだ。
「明日からCDでも聞きながら、これに載って足踏みして」と伝えた。「試してみる」と足踏み器を眺めながら言う。
 試しに載ってもらった、 壁など控えが無いと家人は踏み続けられないようだ。「まずは家の中で控え壁に頼らず踏み続けられるようになるまで続けてみよう」
 二ケ月後通院日にはシャンシャン歩けるようになるといいのだが。せかさず見守ろう。
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